パン職人の修造 江川と修造シリーズ Emergence of butterfly
東南駅の西にある東南商店街で一際賑わうパン屋のパンロンドでは、親方、藤岡、杉本が『修造と江川の世界大会一位おめでとうパーティー』を計画していた。
「ここでやりますか?」「座れるとこがいいかな」「近くの店でいいところある?」「いつもの居酒屋は?」「パーティーと言うより飲み会だな」などなど
社長の柚木(通称親方)は早速駅近の宴会場がある居酒屋に電話して予約していた。
「よし!明日は江川と修造が来るし、仕事が終わったらそのまま直行だ」
それを聞いてパン職人の藤岡恭介は「俺明日休みなんでそこに直接行って良いですか?」と聞いてきた。
「勿論いいよ、じゃあその時間に待ってるからな」
「はい」
それを聞いていた後輩の杉本龍樹は質問した。
「ねぇ、藤岡さん」
「なんだよ杉本」
「いつも休日は何やってんですかあ?」
「パン屋さん巡りかな?パン屋の数は凄い多いから中々巡り切れるもんじゃない」
「新しい店もどんどん増えてますもんね」
「そう」
「お土産買ってきて下さいね」
「厚かましいなお前」
ーーーー
次の日、藤岡は朝9時頃パン屋巡りに出かけた。
行ったことのないエリアを攻めようと東南駅から快速列車に乗り、途中乗り換えて普通電車で40分程の比較的田舎の長閑な駅に降り立った。
駅からパン屋までの動画を歩きながら撮って店の前まで来たらちょっとパン屋の外観について説明。店内の動画は撮らず買ったパンを近くの公園で紹介する。
それを帰ってぼちぼち編集してアップする。
それが藤岡の休日の過ごし方だった。
「ちょっと買いすぎちゃったな。あまったから杉本にやろう」1人そう言ってパンをバックパックの上の方に入れた、
動画を撮り終えて公園から出る。
しばらく歩くと大きめの川が流れていて、橋を渡って右に曲がると駅だ。
「おや」
藤岡は橋の真ん中で髙欄に手を掛け、じっと立って川を眺めている女の子を見つけた。
女の子と言っても高校生か大学生かと言った感じ。
あの感じは飛び込む感じなのかなあ。
藤岡は川の水量を見た。
結構深そうだしまあまあな流れがある。
おいおい。
手すりに手をかけるな。
覗くな川を。
そう思って歩いていると、とうとう女の子の後ろに来てしまったので「あのさ」と声をかけた。
「ひょっとしてだけど飛び込む気?川は冷たいし溺れたら苦しいよ?息ができないんだからさ」
その女子はギクッとして手摺から手を離し、泣き腫らした顔をこちらに向けた。
このまま自分が立ち去ったせいで、気を取り直してもう一度川を覗かれたら困るな。
「ま、どこかで落ち着いて話そうか」と言って一緒に橋を渡りきろうとする。
失恋でもしたのか、2人で歩いてるところを誰かが見たら自分が泣かせたと思うのか。そんな事が頭に浮かんだ。
とりあえずどこか落ち着けるところを探さないとだけど俺土地勘ないしなあ。
「カフェでも入る?」と言ったら、女の子は急に立ち止まりまた泣き出した。
え?カフェが地雷?
仕方ない。
藤岡はこのまま見知らぬ人物の人生相談をするかどうか迷った。
「君高校生?家族とか親身になって相談できる人はいないの ? 」
「お父さんやお母さんに言ったら心配かけるから」
「そんなに深刻な事なの?俺さあこの町の人間じゃないから言いやすいかも。言ったら楽になるんじゃない?」
失恋の痛手も時間が経てば忘れるのかなと思いながら藤岡は川からはちょっと離れた土手の方に誘導して眺めの良い斜面に座るように促した。
「俺は東南駅にあるパンロンドって店のパン職人藤岡恭介。君は?」
「私は、、、花嶋由梨と言います。高校を4月に卒業してカフェで働いていたんです。でも今日辞めてきました」
「なんだろう?労務問題?」職場のいじめか何かと思い藤岡は聞いた。
「私には小さな頃から黒い噂が付き纏っていて、この町にそれが蔓延した事があるんです」
「噂?どんな?」
「私の実家は花装(はなそう)と言う着物屋なんです。父と母が着物関係の物を販売しています。近所にある福咏(ふくえい)と言う着物屋がうちを目の敵にしていて。小さい頃からその店の前を通るといつも罵声みたいな言葉が聞こえてくるんです」
「うん」
てっきり恋愛のもつれかと思ったら全然違うのかと思い藤岡はじっと聞いていた。
「罵声の内容は泥棒とかこの道を歩くなとかでした」
「えっ ? その店の人間が君に向かって?」
「私その道が嫌で他の道から通るようになって、そしたら私が通る所の人達に何か噂をしていて、こちらを見て何か言ってるか聞き耳を立てたらやはり手癖が悪いとか泥棒って言ってたんです」
「え?何それ。失礼だけど別に泥棒じゃないんでしょう?」
「私そんな人間じゃありません」と言ってまた泣き出してしまった。
「ごめん、今の質問は悪かったね。謝るよ」
「通りすがりの人に何度も同じ話を執拗にし続けていたので、段々みんなが私の事をそんな目で見るようになりました。子供だった私にはそんな大人達をどうする事も出来なくて。それに何もしてないって言っても誰も信じてくれないわ」
「実際の被害者がいないのにそんな噂が広まるなんて酷いね。お父さんやお母さんはなんて言ってたの」
「父と母は何も知りません。福咏以外は直接私に行って来る人はいません。噂や陰口なので両親には中々伝わらないし、私、そんな事で両親に心配かけたくない」
まだ小さい頃から大人の嫌がらせを受けてたなんて気の毒な。それに噂って一度立ってしまうと中々消せないな。
「その福咏の人ってどんな奴なの?」
「その人は福咏という着物屋の店主です。元々は父と同じ職場で働いていたらしくて、父が店を開くとその人もうちに来て働いていたらしいんです」
「ふーん」
「なのに独立してうちの近くに開店したそうなんです」
「なんでかな ? 商圏がかぶると自分も損するのに。仲が悪かったの?」
「それは分かりません」
藤岡は、この子は両親との意思の疎通が上手くいってないんだなと思って何かアドバイスをしようと考えた。「あのさ、嫌な目にあってんのに両親に言えないのは思いやりなんだろ?だけど自分がもし死んだらどのぐらい親が悲しむか考えた事ある?」
「それは、、私自分が悲しすぎてその事について考えてませんでした。福咏が噂を流してる所は私が見ただけでも色んな通行人に言っていて、一体誰がその噂を信じていてどのぐらい広まってるのかを考えると怖くて」
「子供の頃からずっと続く嫌がらせなんて卑怯だな。実際に嫌な思いした事あるの?」
「この町のどの店に行ってもすごく見張られる様になりました。何もしてないのに」
「何か盗まれると思ってるって事?確証もないのに疑うなんて酷いよね。その福咏って言う着物屋卑劣な奴だな」
噂なんて払拭できないのかな。不特定多数過ぎて太刀打ちできないのか。
「それでカフェはどうしたの?」
「カフェで働く私を見て噂を知ってたお客さんの何人かが軽蔑の眼差しで見てきました。そのあと店長に何か言ってたんです。福咏が流した噂が4人のお客さんの会話の中で繋がってやっぱり私はよくない存在だって、もうその噂は真実として店長に伝えられたんです」
「ネタ元は福咏だろ?」
「はい」
「で、店長はなんて?」
「はい、『そのお客さん達は皆それぞれ君の噂を知っていて、カフェで1人が私の噂話をした時、他の人達も私も知ってる私も知ってると繋がって、その人達の中で確固たる真実の様に決定した、みたいに言われたよ。君何を盗んでそんなに噂になってるの?捕まった事あるの?』って言われたんです。自分は何もしていないって言いましたが、『じゃあなんでみんながその事を知ってるの?』って聞いてきました。それでもうここにはいられないって思って辞めますと言いました」
「それでさっき橋のところに立ってたんだね?」
「はい」
「ネタ元が一緒ならちょっと考えりゃ分りそうな事なのに。バカだなそいつら。きっと人を追い込むのが楽しいんだろうよ」
ここら辺は結構古くからある住宅街みたいで、地域の密着もありそうだからこんなつまらない嘘も染み付いて行くんだろう。みんな暇なのか?snsの書き込みならともかくなんてアナログなんだ!
藤岡はそう思うと段々腹が立ってきた。由梨に纏いつく呪いが見えたような気がした。
「あのさ、この町にいるから辛いんじゃない?俺ならここを離れて心機一転、新しい生活や人間関係の中で生きていくけどな」
「私、父と母が大好きで、一緒に暮らしてたかったけど藤岡さんの言う通りだわ。でも私がいなくなったら残された父と母はどうなるんだろう」
「由梨がこの世からいなくなるのと引っ越しとは違うでしょ。何か他の土地に行くと不都合な事があるの?」
「今度はうちの家族が福咏にターゲットにされるんじゃないかと心配で。着物離れが進んでいく中でおかしな噂のせいで売り上げが落ちたら気の毒です」
「噂の元を断とう」
「えっ?」
「どんな風に嫌がらせして来るのか実際確かめよう」
「そんな事ができるんですか?」
「やってみなきゃわからないけど」
ーーーー
由梨の生家が営んでいる着物屋『花装』は質素な店構えで、古びた店が何軒かある元商店街の様な所にある。過去には賑わっていたのかもしれないが今は閉店した建物が多い。そしてその筋から15メートルほど離れた向かいの筋に『福咏』がある。
福咏の店は派手な店構えで、手前にキラキラしたリーズナブルな帯がぶら下げられている。
藤岡は由梨と2人でその店の前に来た。
そして「店の前をゆっくり歩いて」と由梨に指示した。
由梨は言われた通りにその前をゆっくり歩いてみた、
すると暇なのか椅子に座って外をぼーっと眺めている福咏が由梨に気がついた。
店内に客はいないからなのか店の中から「おい、どうしたトボトボ歩いて、何か盗んできたのか?」と言ってきた。
由梨はそれを聞いて足速に立ち去った。藤岡はゆっくりその後を歩いていた。
本当に言ってた!しかも結構はっきりと、藤岡は驚いた。
「何故あんな事言わせとくの?」
「だって怖くて」由梨は下を向いて言った。
「あれって言葉の暴力じゃん。黙って殴らせておくなんて良くないよ」
確かに由梨は大人しそうで自主性に乏しく受け身そうに見える。憂さ晴らしに虐める相手にはもってこいだ。何年も続けているうちに確証なき噂が定着したんだ。噂と噂は繋がった時に真実として語られる。それをまた言いふらされるんだ。
「こりゃ良くないな」
由梨には悪いが、藤岡はもう一度ゆっくり福咏の前を歩かせた。
すると福咏はまた由梨を見つけて店内から声を張り上げた。
「なんだ?また何か万引きに行くのか?泥棒めが」と言ってきた。
藤岡は不思議だった。
色々な噂の種類があるだろうに何故泥棒にしたのか?
2人でさっき座ってた川縁に戻りながら考えた。
証拠があまりなくて、商店が被害にあいやすく、犯人が探しづらく噂になりやすい、そして不特定多数の万引き犯を皆恨んでいる。ターゲットが明確だと余計に噂になる。
「だからか、、」
兎に角元を断ち切らないといけない。由梨が逆らわないからと言ってこのままでは辛くなってまた川に飛び込もうとするだろう。
「由梨、逃げるのは良くないじゃん。立ち向かおう!反撃するんだ」
その瞬間まで由梨は自分の人生がつまらないものだと思っていた。生きていても良いことはなく、いなくなったらその噂がひとつ消えるだけの事だと。それをこんな風に言ってくれる人がいるなんて夢にも思っていなかった。
「立ち向かう、、、」
「そう、俺もそれに付き合うよ」
さっきの川縁に戻って座る。
藤岡はパン屋で買ってリュックの上にフワッと入れて置いたパンを出した。
「良かった、潰れてないよ」と言ってパンを半分に割って渡した。
「腹ごしらえしとこう。元気が出るよ」
「ありがとうございます。これ、ベッカライウンタービルクのですよね?母がよく買って来ています」
由梨は半分に割ったヘルンヒェンを美味しそうに食べた。
昼前は落ち込んでいたけど、美味しいパンは人を幸せにするな。表情も少し明るくなってるし。と、藤岡は由梨を観察していた。
「何故藤岡さんはこの町に来たんですか?パン屋さんに来るため?」
「そう、色んなパン屋さんを巡って動画に撮ってネットに上げてるんだ。ここに来たのはたまたまだよ」
藤岡は偶然だと思っていたが、由梨にはこうして一緒にパンを食べている藤岡との出会いが運命の様に思えた。
藤岡はもう一つパンを取り出した。
「これ、豚の耳って意味のパンなんだけど俺の店にもあるよ」藤岡はハート型のパイ※Schweinsohr(シュヴァンスオアー)を出して二つに割って、由梨に渡した。
「俺の働いてる店にはドイツで修行してきた先輩がいて、俺も今その人にパンを教えて貰ってるんだ。ドイツでは豚は新年に幸福を運んでくれるって言われていてクリスマスが終わると豚のグッズを見かけるようになるらしいよ。それが幸運の豚 『Gluecksschwein(グリュックスシュバイン)』って言うんだってさ」
「幸運の」と言って由梨は藤岡を見た。
藤岡を幸運の豚と言うのは当てはまらないが、今自分は充分に元気を貰っている。
今日の昼前は暗い気持ちで川の水面を見つめていたのに、今はどうだろう。
由梨の中に何か熱い気持ちが芽生えていた。
「パンって良いですね、人の気持ちを明るくしてくれるのかも。藤岡さんの勤めてるパンロンドはどんなお店なんですか?」
「東南駅の商店街にある明るいパン屋だよ。そこには優しくてでかい店主がいて、面白い後輩や、いつもパンに熱い先輩がいてるんだ。俺はそこがすごく気に入ってる」
そんな藤岡の表情は光り輝いてる様に見えで、由梨はその顔をじっと見つめていた。
「じゃ、打ち合わせをするか」
「はい」
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日中を過ぎた頃の商店街
夕飯の食材を求める買い物客がそろそろ増えて来る時間。
藤岡は福咏に入った。
「男物の足袋を見たいんですがサイズを見て貰えますか?」
すると福咏は店の奥に向かって「おい、足袋を出して」と言った。「はーい」店の奥の暖簾の間から女性が出てきてレジの後ろの棚から足袋をいくつか出してきた。
「足のサイズは何センチですか?」
「28です」
「それならこれなんて如何ですか?」
「どれがいいかな」藤岡はゆっくりと足袋を見ていた。
「これにします」と言って足袋を一つ選んで買いながら
「あなたはここの奥さん?」と聞いた。
「はい、そうですよ」
そこに由梨が入ってきた。
福咏は入り口近くの和柄のガーゼタオルを補充していたが、由梨が入ってきたのを見て心底驚いていた。福咏は慌てて客前にも関わらず
「おや、珍しいやつが来たぞ」と奥さんに言った。
そして由梨に向かって語気を強くした。まるで追い払いたいかの様だった。
「何しに来たんだ。うちに何か盗みに来たのか」
「私は泥棒でも万引き犯でもありません」
「そんな証拠どこにある!お前が怪しいのはみんなが知ってるぞ」
「それは福咏さんが言いふらしたからでしょう!私が泥棒って言うんなら証拠を見せて下さい」
「この町の有名な噂だからな!誰でも知ってる事だろ」
「今日カフェの店長に言われました。みんなが知ってるって、それは福咏さんが流した嘘が繋がったんじゃないですか!」震える声でそう言いながら自分にこんなはっきり言う力があったのかと驚いていた。それは他ならぬ藤岡の後押しによるものだと由梨は自覚していた。
福咏は青筋が立ってきた、今迄と違う態度に困っている様に見えた。「うるさい!泥棒!泥棒!お前は泥棒だ!親はどんな躾をしてるんだ!花装は終わってる!もっと言いふらしてやる。あの店はもう終わりだな」
無茶苦茶なやり取りに藤岡は呆れた。よくこんな奴が商売をしていて成り立ってるな。
「いや、なり立ってないよね。この店こそ終わりだよ」と福咏に向かって言った。
「なに!あんたなんなんだ」
「俺はこの店の客で、ただの第三者だよ。この店で買った足袋を撮ったら偶然あんたが映り込んでいたんだ」
「それがどうした」
「証拠もないのにこの人を侮辱した。ありもしない噂を広めて店の評判を落とした。名誉毀損、侮辱罪、信用毀損罪だ!裁判になったら証拠として提出する、そして俺は証人として出廷するからな!」
「俺が噂を広めたって証拠はどこにある!」
「店長に聞いてお客さんが誰かわかれば済む事だわ。きっと弁護士さんが聞いたら正直に答えてくれると思います」と由梨が言った。さっきの言葉も含め、由梨がこんなにはっきりと言ったのは生まれて初めての事だった。
「ほらな!そう言う費用も含めて慰謝料を用意しておけよ」藤岡はそう言って店から出る様に由梨に目で合図した。
由梨が小走りに店を出る時に振り向くと膝をついてガッカリしている福咏と、それを仁王立ちになって睨みつける奥さんが見えた。
「まだやる事がある」
「えっ」
藤岡は花装の店の前で由梨に言った。
「お父さんとお母さんに今までの事を全て正直に言うんだ」
「でも」
「さっき福咏にあんなに強く言ったんだからもう大丈夫。自分が辛かった事や今の自分の気持ちもちゃんと言えるよ」
由梨は藤岡の目を見てその気持ちをまた自分の中に取り込んだ。心の中に宿った炎が大きくなって燃えている。
由梨は花裝の店の中にいた父親と母親の前に立った。
「由梨おかえり」
「お父さん、お母さん、話があるの」
「動画を見て貰おう。昼間撮ったものもあるから」藤岡は店の前を往復した時にも動画を撮っていた。
「はい」
「あの方はどなたなの?」
「藤岡さんよ」
由梨はそう言って店の奥で2人に今迄の事、今日由梨に起こった出来事を詳しく話して動画を見せた。
「実は今日娘さんが川の水面を見ながら深刻な顔をしてたので気になって声をかけたんです」
父親と母親は娘があっていたいじめにショックを受けた様だった。
「そうだったんですね、由梨ごめんね今まで知らなくて」母親は泣きながら由梨の手を握った。
「由梨までそんな事になっていたなんて」
「えっ?」
父親が藤岡に言った。
「私達もなんです」
「私達?」
2人は交互に自分達の名刺を藤岡に渡してきた。花装の花嶋祥雄と花嶋香織が由梨の両親の名前だ。
2人はこれまでの経緯を話した。
「福咏からの嫌がらせはあの店ができる前からありました。私達と福咏は元同僚で、20年前私が開業した時福咏も一緒に働かせてくれと言ってきたので、その時は私を慕って付いてきてくれたんだと思っていました。でもそれは勘違いで、福咏はうちの嫁さんに想いを寄せていたのが分かって」
「私は福咏さんの事はなんとも思っていないってはっきり言いました。それにお腹に由梨もいましたので」
「その後の福咏は変わっていきました。態度が悪くなってついにうちを辞めて当て付けにうちのすぐ近くて店を出して、うちの商品は質が悪いとか欠陥品を売ってるとかマイナスイメージになる事ばかり言ってるんです」
「拗らせてるな」
「その後結婚したのでもう済んだ事だと思ってましたが、嫌がらせは延々と続いていたわ」
「由梨も同じ目にあってたなんて」と香織はすまなそうにいい、由梨の肩を抱いた。
「大変だったね由梨」祥雄も由梨の手を握った。
お互いに心配をかけるから言えなかったんだな、優しい親子だ。
「あの、偉そうな事言いますけど、自分の人生は自分で守らなきゃ。自分で力強く生きていかなきゃいけない。そんな状態を何年もほっといたなんて良くないですよ。もし訴えるんならこの動画を証拠として提出します」
「そうだったんですね」
藤岡が振り向くと福咏の嫁が立っていた。
「主人が花装の奥さんに、、」
と言って香織を見たので祥雄が「初めはそうだったと思いますが昔のことなんですよ。ご主人には憎しみだけが残ってるのかも知れませんが」
「情けない。そんな事だったなんて。何故いつも由梨ちゃんに辛く当たるのか不思議だったんです。商売敵の子だからだと思っていましたが、ちゃんと注意しなかった私が悪いんです」
「お前」
慌てて追いかけて福咏も入って来た。
こいつまで入ってくるなんてカオスだなと思って福咏を見ていると、福咏の嫁は冷たく「もう顔も見たく無いわ」と言って触れた手を振り払って出ていった。
それを追いかけようとする福咏の行く先に藤岡は立った。
「あんた何か言うことがあるだろ ? あんたのせいで奥さんとも揉めるんなら自業自得だよ。だけどな、ここまで入って来てこのまま出ていくのはどうなんだ」
そう言われて福咏は振り向いて花嶋の3人を見た。
「花嶋さん、すまなかった。俺は自分を途中で止める事が出来なかった。あんたが憎かったのに花装に入って香織さんに近づいたんだ。諦めようとしたんだが憎しみがどんどんエスカレートしてきて、あんたら親子にも嫁にもすまない事をした」
福咏は謝った事で全てが開けた気持ちになり手をついて「許してくれ」と詫びた。
藤岡は「まだ花嶋の奥さんに想いを寄せてんの?」と聞いた。聞きにくい事だが、福咏の夫婦関係に関わる。
「その気持ちはもうありません。自分には憎しみしか無かった」
「それはこの一件で今後どうなるの?」
「こんなに綺麗に露呈して全て現れた形になっています。今は償いの気持ちしかありません」
「あのさ、散々名誉毀損したんだからこれから自分は嘘をついてたって事を知らしめて花装の信頼の復元に努めなきゃだめなんだよね。これで終わりじゃ無いよ。信用回復に努めなきゃ」
不特定多数の人間に言いふらした事を回収できるのか?それは全員が疑問な事だった。
「福咏、私達夫婦はお前の長い嫌がらせに疲れてここを売り払って花装を移転しようと考えていたんだ。もう私達の事は忘れて、今から嫁に謝って許して貰いなさい」
「祥雄さん」
福咏は頭をガックリと下げた。
「すみませんでした。関係ない由梨ちゃんにもすまない事をした」
「花嶋さん、本当に移転するんですか?」
「そうですね藤岡さん。まだ計画中なのですが、どこかいい場所があったら」
「花嶋さん、福咏が、私達が移転します。この町の人達には謝罪広告を出します」
そこに由梨が口を開いた「お父さん、お母さん、私達がこの町から出ましょう。藤岡さんも言ってくれたわ。この町にいるから辛いんだって、俺ならここを離れて心機一転、新しい生活や人間関係の中で生きていくって」
「由梨」
「大人しかった由梨が自分の意志を示すなんて」祥雄は藤岡の力が強いと思った。
昨日の由梨と今日はまるで違う性格のようだった。
「藤岡さんのおかげなのね」
「俺は何もしてませんよ。元々のこの子の力でしょう。それと俺、もう行かなきゃ」
夕方パンロンドの集まりがあるのにちょっと忘れてた、そう思っていると祥雄が言った。「本当にありがとうございました。縁あって助けて貰った。今後の事は親子で話し合います」
「わかりました。じゃあ」と言って由梨に会釈した。
「え?」
さっきまで強く心が繋がってる気がしたのにこれで立ち去って終わりになってしまうの。
由梨の心はもやもやと不安に覆われた。
「ちゃんとしといてくれよ」と福咏に言ってから、みんなに挨拶して出て行く後ろ姿を由梨は見ていた。
芳雄は福咏に「由梨は今朝まで深刻な状態だったんだ。あの若者に助けられたんだ」と藤岡の背中に感謝の視線を投げかけた。
「本当に謝罪広告を出します。嫁に謝って来て良いですか?」
「そうしてやれ」と言い放って福咏を店から出した。
「由梨、すまなかったね。本当に無事で良かった」
祥雄と香織は黙って立っている由梨にそう言った。
「私」
「え?」
「行かなきゃ」
そう言って由梨は走っていった。
体育の時よりずっと速く今までで1番速く。
橋を渡って道なりに行くと駅。
藤岡は駅にたどり着いて電車に乗り、空いてる席を見つけて座った。
ま
良かったのかな?
今日は
いい方向に行ってくれると良いけど。
自分の人生は自分で守らなきゃ。自分で力強く生きていかなきゃね。
辺りはもう暗くホームの向こうの家々の明かりを見ながら「色んな家庭があるよな」と呟いた。
発射の合図のプルプルプルプルという音が流れる。
由梨はギリギリで電車に飛び乗って後ろ髪をドアに挟まれた。ドアはもう一度開いたのでそのスキに電車の中に転げこんで床に手をついた。
藤岡は百合を見て「電車にあんな乗り方したら危ないな」と笑って言った。
走って来たのでハアハア息が切れて恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら目は藤岡を見ている。
「あ、あの」
「どうしたの?そんなに息を切らして、俺忘れ物でもした?」
「私、今日気がついたんです。自分の人生も運命も自分で決めます!私をパンロンドで働かせて下さい」
しばらくポカーンと由梨を見て「まあ座りなよ。あのさ、パンロンドで働けるかどうかは親方が決めるんだ。俺じゃないよ」
「親方、、相撲部屋の」
藤岡はそう言われて親方が横綱の格好をしてるところを想像して笑った「ピッタリだな」
「え?」
「いや、折角電車に乗っちゃったから会う?親方に。めちゃくちゃ力持ちなんだよその人。相撲取りに見えるけどパン屋の店主なんだ」
「わかりました。会って見たいです」
「じゃあ心配してるだろうから家の人に連絡しておいて」
「はい」
由梨は不思議な気持ちで祥雄と香織にメールしていた。
告白が就活宣言になり、走って来た目的と違う方向に話が行ったが、今はもうとても前向きな自分がいて、藤岡の横に座りこの時がずっと続けば良いと思っていた。
「私頑張れそうです」
「そりゃ良いね。只今従業員募集中だからね」
東南駅に着くまで藤岡はパンロンドの人達の性格や人間関係について話した。
駅前の居酒屋に入ると丁度江川が世界大会でどう活躍したのかを初めから順に説明していて、それを微笑ましそうに聞きながら修造が黙ってビールを飲んでいる。一際大きいのが親方、その横には奥さん。そして明るくて面白そうな杉本とその彼女の風香。
由梨は藤岡の話の通りだと思って微笑んだ。
藤岡の後ろにいる由梨にみんなが気が付いた。
「ちょっと!藤岡さーん。遅かったじゃないですか〜!その人誰ですかあ?」
「あ、ごめんごめん杉本。親方!面接したいって人を連れて来ました」
その時すでに酔っ払っていた親方は大声で「合格!採用!明日から来て」と言ってみんなを驚かせたが「ありがとうございます」と由梨だけは大真面目で応えた。
「ごめんなさいね、うちのが酔っ払ってて、また時間のある時に話しに来てね。2人ともここに座りなさいよ」と奥さんが話しかけてきた。
イエ〜イ!カンパーイ
みんな由梨に乾杯してニコニコしている。
また江川が大声でみんなに説明の続きを始めた。親方は「よーし!いいぞ!その調子だ」とか変なタイミングで返事している。
みんなの輪の中に座ってわいわいと楽しい話を聞いていると、ずっとこの輪の中にいたような、いたいような気持ちになる。
「ねえ、藤岡さーん。お土産は?」
「まだ言ってんのか杉本」
「たまには俺にもパンを買ってきて下さいよー」
「食べちゃったな。そうだこれやるよ、ほらお土産」
と言って杉本に渡した。
「やった!」
杉本は白い紙の袋から出して驚いて叫んだ
「足袋⁉︎」
おわり
Emergence of butterfly 蝶の羽化
由梨はこれから自由に羽ばたいていけるでしょうか。
※ハート型のパイ Schweinsohr(シュヴァンスオアー) ドイツのパン屋さんでよく売られているハート形のパイ生地のお菓子で、豚の耳という意味。幸運のシンボル。フランスではパルミエと言う。藤岡はこれを真っ二つにしたが意外と無神経。とはいえ他の向きで半分にちぎるのは難しい。