2023年01月02日(月)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some future

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some future

 

 

「修造パンロンドのみんなはどう?」

 

早番で早く帰ってきた修造に妻の律子が話しかけた。

 

「花嶋由梨って新入社員が入って来たんだ。丁度探そうとしてた所だったんでタイミングよかったんだよ」

「そうなの」

「今みんなで仕事を教えてるよ。今日は江川と一緒に生地の手ゴネをしてた」

「どんな人?」

「えーと藤岡の紹介で入ってきたんだよ。今度お店に来たら紹介するね」

と言いながら修造は、6ヶ月児の大地とうつ伏せになって向かい合った。

「大地これどうぞ〜」と言ってオモチャを渡そうとする。

「ほら、こっちだよ」大地はオモチャを取ろうとニコニコしながらハイハイでやってくる

すると修造は一周して大地に追いつきちょんちょんとつつくと大地が振り向いて大喜びして座ってパチパチして笑う。

追いかけて来るとわかっていて振り向きながらニコニコと急いでハイハイするのだ。大地はこの遊びが大のお気に入りで、2人の楽しいひと時だ。

そのあと、大地は座って修造が足の間にポンと投げたボールを可愛い手で掴んで「ダ〜」と言って投げ返してくる「大地上手上手」これが今修造の最も嬉しい瞬間だ。

「大地可愛い可愛い〜」と目を細めて大地に話しかけた。

「律子ホラ見て!歯が生えてきたよ」

律子も「大地歯が生えてきたね」と言って大地の顔をのぞいて笑った。

本当は律子は知っていたが、修造を嬉しい第一発見者にしてあげる為に黙っていた。

「ふふふ。可愛い」

 

「ただいま〜」

「あ!おかえり緑」

夕方は学校から帰ってきた長女の緑と3人で東南スーパーに買い物に行く

「今日空手道場の日だね、お母さんと大地も見に来てくれるかなあ」

「一緒に行きたいね」

「うん」

緑は修造と繋いだ手をゆらゆら揺らしながら「ねえ、お父さん、私達って仲良しよね」と言った。

「勿論だよ。超仲良し」

夕焼けの光に照らされて子供達の成長とこれからの未来に想いを馳せる修造だった。

 

ーーーー

 

次の日

修造は藤岡とハート型の※レープクーヘンを作っていた。

オブラートに生地を乗せて焼くとスパイスの香りが辺りに立ち込める。

チョコを塗りながら「乾いたらこれにアイシングしてみよう。すごく日持ちがして、袋に入れて紐で吊るして並べると可愛いんだよ」

「楽しみです」

「藤岡は吸収率が高いから教えがいがあるよ」

「ありがとうございます。もっと色々教えて下さいね」

「うん」

とそこへ、律子が大地と緑を連れて来た。

律子の実家から野菜が送られて来たから奥さんに持って来たのだ。

「修ちゃん、律子さん達が来たわよ〜」奥さんがお店から修造を呼んだ。

「あ!律子!」

修造は作業中の顔つきとはガラリと変わって嬉しそうに飛んで行った。

 

 

「凄いハッピーファミリーなんですね」

それを見た由梨が驚いて風花に言った。

「そうなのよ。普段強面なのに律子さんの前に行くとニコニコね」

 

由梨が見ていると奥さんが手招きしたのでそちらに行く

由梨ちゃん、この人が修造さんの奥さんよ。そして緑ちゃんと大地くん」

「初めまして花嶋由梨です」

「律子です。お仕事頑張ってね」

「はい、ありがとうございます」

 

3人が帰るのを見送った後由梨は結婚という言葉についてイメージしてみた。

自分もいつか結婚したり子供ができたりするのかしら。そして目の前のハッピーファミリーの様な暮らしをするのかしら。

ちょっとだけ藤岡を見てみた。

そしてこの間聞いた前の職場の先輩の事を思い出した。

「あ」

そうだった。全然遠い道のりだったんだった。

すぐそこにいるのに遠い。

 

ーーーー

 

次の日

由梨は仕事が休みの日なので東南駅の横の巨大ショッピングモールで服屋巡りをしているとペビーカーで大地を連れた律子に会った。

「こんにちは。お買い物ですか」

「あ、由梨ちゃん。こんにちは、そうなの。パンロンドはどう?とても働きやすい所でしょう?」

「はい、本当に。皆さんに優しくして頂いています」

「私も以前パンロンドで働いてたのよ。5年間工場にいたの」

「そうなんですね、、あの」

「なあに?」

「修造さんとはどうやって知り合ったんですか?」

「私は始めは販売員として働いていたのよ」

「えっそうなんですか?」

「そう初日にね、工場の奥のミキサーの所に修造がいてね、私が挨拶したの」

律子は当時の事を思い出して話しだした。

それはこんな風だった。

 

働き始めた初日。

奥さんが案内してくれて、奥からお店に向かって歩いて行って順番に挨拶していったの。工場の奥のミキサーの所に修造がいてね、私が挨拶したの

その時初めて目があって私を見て修造が思った事が私にはわかったの。

ドキッとして顔が真っ赤になったから私もドキッとしちゃった。

 

 

その後ね、何度も何度も目が合うのに全然話しかけてこなくてね。

もう多分話すことはないんだわって思ってた。

そんな時に事件が起こったわ。

突然ナイフを持った痩せた男が入って来て、奥に入って行こうとして私を突き飛ばした。後で聞いたんだけど、その人はお店とトラブルになった人らしくてね、大きい声を出してたし、めちゃくちゃ怖かった。そしたら修造が血相変えて飛んできてオーブンの前まで来ていた男の腕を掴んで脇腹を蹴って倒した。

揉み合ってるうちにナイフを掴んでしまって床が修造の血で一杯になってこっちが卒倒しそうだった。

その時ね、私この人から離れないって思ったの。

それから病院に一緒に行って

毎日手当に行ったのよ。フフフ。

そしてすぐに一緒に住みだしたの。

今も修造の手にはその時の跡が残ってる。

でもね

私は修造が大好きだったのに、、、

結婚して緑が生まれて間もなくして急にドイツに行くって言い出したわ。

 

「パンの修行の為に」由梨が合いの手を入れた。

 

「そう!凄く反対したわ。緑も小さかったし。

でも目の奥に覚悟が段々できてきて、絶対行くんだわって悟った。

5年間ずっと修造が帰ってくるのを待ってたの。

パンロンドで働きながら長女の緑を保育園に預けて

仕事が終わったら2人で帰ってまた次の朝が来る。

修造が大好きで会いたくて、でも意地を張ってメールの返信もしなかった。

ずっと後悔してるのよ。

追いかけていけば良かった

一緒にドイツで暮らせばよかった。

だからこれからずーっと一緒にいようと思ってるの」

由梨は律子が力を込めて言ったずーっとに何か意味があるのかと思って見ていた。

「はい」

「私達ね、山の上でパン屋さんをするの。修造がパンを作って私が販売して修造を支えるの。修造がパンを作ってる所がお客様にも見えるようにしようかな」

「素敵」

由梨は自分と藤岡の未来をちょっと夢見てみた。

「結婚って良いですね」

「ホント毎日が楽しいわ」

その姿は堂々としていて自信に満ち溢れ輝いてるように見えた。

子供達から必要とされる存在で、夫から絶対的に愛されている証拠のようにも見えた。

 

ーーーー

 

次の週

 

修造一家は法事で山の上の実家に帰っていた。

 

修造の家がある山の上半分は母方の先祖代々のものだ。

今は誰もすんでいないので、結構埃が溜まっている。

掃除しながら「やっぱすんでこその家だ。とはいえ元々ボロ屋だからな」と見渡した。

 

 

修造の実家は山の上にある平屋で、玄関の前は平らで広場の様になっている。

入り口の入って直ぐの所は6畳ぐらいの土間になっていて、左には部屋が2つぐらいの大きさの板張りの部屋がある。入り口の奥は台所とその奥に風呂トイレ洗面台。建物の右手には部屋が3つ

母親の法事中、無骨で無口な修造に比べてしっかり者の律子に皆感心した「あんなできた嫁ばよく見つかったもんたいね」と山の中腹に住む母親の妹夫婦が囁き合った。

皆帰った後、家族4人だけになった。緑は珍しい板張りの広い部屋をゴロゴロ転がって、大地はそれをハイハイで追いかけている。

「ねぇ修造。ここにオーブンを置きましょうよ」と左の部屋で両手を広げて言った。「ここに工房」そして入口の土間を指差して「ここがショーケース」こっちに棚を置いてこっちに台を置いて。と律子は張り切って言った。

「裏に畑を作って野菜を作るわ、修造はそれを使ってパンを作ってね」信州の実家が農家の律子は自慢げに言った。

「素晴らしいなあ。いい考えだよ律子」

今は昼間は別々だけどここなら昼夜なく同じ空間で一緒に過ごす事ができる。

俺の俺だけの工房で俺のパン作りをして、最愛の律子と毎日パン作りをここで。

二人は出会った頃の様に見つめ合った。

ここにいて2人で同じものを見て同じ様に感じて毎日を過ごして2人で歳をとろう。

ここら辺の湧き水は潤沢な硬水よりの水でパン作りに適してる。遠くに見える山の周りは牧場と農家が沢山あって良い材料が手に入る。

山を降りた所にある小麦農家と話して粉を卸して貰おう。

修造の夢はギラギラと膨らみ胸いっぱいになった。

外に出れば目の前は林の続く斜面でその下には広大な景色が広がり、その向こうはまた山が見える。その向こうは空だ。夕焼けが真っ赤になり何もかも赤く染まる。

「綺麗だわ」

律子はこの夕焼けを見ていつも感動している。

入り口は南向きだが工房を作る予定の居間は西に向いていて夕方は西日がきつそうだ。なので庭にベランダを作って長めの庇(ひさし)を作ることにしよう。ここに薪窯を作って外に薪の置くところを作って。など随分具体的になってきた。

初めて律子をここに連れて来た時に、美しい眺めに感動した律子はこの場所が気に入り、ここでパン屋さんをしようとどちらも言い出した。それ以来、いつかはここでと言う話は度々出ていたのだ。

修造は納屋に伐採用の鉈(なた)を取りに行った、すると便利な折込式のこぎりと充電式の電動ノコが見つかる、母親が使っていたのだろうか?にしては大型で結構新しい。不思議に思いながらそれを持って裏庭から斜面になって続く林に入り、枝を切り落として来た。

不思議な事に長い間ほったらかしていたのに周りの雑草や蔦はそこそこ手入れされている。さっきの親戚のおじさんが見かねてやったのだろうか。

誰が手入れしてくれてるんだろう」そう独り言を言いながら鉈で細長く切っていく。2年後に使う薪窯様の薪を準備して工房ができるであろう場所に大量に積み上げた

「これだけあれば開店当初の分はいけるだろう」

よく乾燥させないと木の芯に水分が残って燃えづらい。切って断面を空気に晒し、長く乾燥させた方がいい。

「2年間大人しくしといてくれよ」

 

ーーーー

 

パンロンドに戻った修造は神妙な面持ちで親方の前に立って話しかけた。

「親方!俺、、」

うわ、ついに来たこの時が。

 

 

親方は修造の表情を見て悟った。

「修造、俺はお前に感謝しかしてないよ。お別れは寂しいけどお前ならどこででもなんでもやれる。応援してるからな」

「ありがとうございます」

「それとさ、あいつきっとついていくんだろ?」親方は由梨と一緒に楽しそうに分割をしている江川を見た。

「親方、その事なんですが。俺と江川は店作りをするつもりです。でも俺、その後田舎に帰って一人で工房に籠るつもりです。それで江川には今までの感謝を込めて俺からのプレゼントを徐々に持たせようと思うんです」

「なるほどね。お前は本当にギブアンドテイクの男だよ。お前の思う通りにやってみろよ」

「はい」

「しばらくはまだ準備ができるまではうちにいるんだろ?」

「はい、すみません、勝手ばかりで。よろしくお願いします」

親方との話し合いで休みの日を平日に週2日にして貰った。手続きに動くなら平日の方が良いからだ。

家に帰って律子に親方との話を説明して、「あと2年待って欲しい。必ずその期間に開店資金を作ってみせるから」と頼んだ。

修造は律子に2度目の土下座をした。

「そんな格好やめてよ修造ったら、わかったわ。ダメって言ったらまたどこかに行っちゃうんでしょう?」

「そんな訳ないよ。山の上に行ったら律子と2人の時を増やす様に誓うよ」

 

その夜布団の中で修造は色々な計算が止まらなかった。

場所、開店資金、機械の購入などパン屋の開店は他の店の開店より結構かかるなんだろうなあ。

基嶋機械の営業の後藤さんにも聞いてみようかな。あの人なら何でも知っていそうだし。

あとは立地だな。。駅前の不動産屋さんに相談してみよう。

「どんな場所が良いかなあ」

 

ーーーー

 

次の日

先輩の佐久山と広巻、後輩の杉本が声を掛けてきた。

 

 

「修造、とうとう行っちまうんだって?寂しくなるよ。元気で頑張ってな」

「俺達は親方と一緒にまだまだ頑張るよ」

「勝手ばかりしてすみませんでした。パンロンドをよろしくお願いします」

「離れてても俺と修造さんとは兄弟っすよ!」

「わかったよ杉本。ありがとうな、がんばって次の技術士の試験も受けてくれよな」

「わっかりました~」

「江川、元気でな」

「はい、僕修造さんに付いて行っちゃいますけど僕がいないとみんな寂しくなっちゃいますよね」

「自分で言うなよ」

アハハと笑うみんなの会話を聞きながら藤岡は近くにいた由梨に言うともなしに呟いた。

「俺は修造さんの去った後もパンロンドを守り続けたい。その時はいつも修造さんの背中を思い出すだろう」

「はい」

修造を見ながらそう言った藤岡に

修造さんって朝焼けに輝く山の様な存在みたいなものなんですね」と、多分藤岡が思い描いている修造のイメージを言ってみた。

「そうなんだ。赤々と燃えている」藤岡は由梨の詩的でピッタリな言い方にちょっと感動して微笑んだ。

由梨は藤岡が例の『前職の先輩』の事もそんな風に思ってたのか気になる。

パン屋さん巡りをしていって、いつかその人が見つかったらどうするのかしら。藤岡さんはまだその時の気持ちのままなのかしら。

 

ーーーー

 

由梨の両親は東南商店街で無事着物屋『花装』を新装開店し、今は近所の賃貸マンションで3人で暮らしている。

パンロンドから戻った由梨は自室に籠りパソコンで藤岡の動画を探した。

 

 

確かパン屋への行き道を説明して、パンを買ったあと公園で紹介をするんだったわ。

結構色んな人がパン屋さんを巡ってる動画を出してるけどどれなんだろう?

パン屋さん巡りの動画は沢山あって見つからない。

そうだ、ウンタービルクを紹介してるのを探せば良いんだわ。

由梨は以前住んでいた町のパン屋ベッカライウンタービルクの動画を探していった。

その店のお知らせも見てみる。

「あ」

お店がホームページに貼り付けていた映像にテロップと曲だけの動画を見つけた。

「これかも」

各駅電車を降りた所からウンタービルク迄の道のりを動画とテロップで説明していて、2人が出会った川が映っている。

映っているパンの中にはあのヘルンヒェンとSchweinsohr(シュヴァンスオアー)もあった!

「間違いない。これなんだわ」

動画の名前は『各駅停車 パン屋探し』電車好きとパン好きが見るのか登録者数は多い。

一見普通の名前そうだが、何故こんな名前なのか由梨だけが知っている。

『各駅停車 パン屋探し』は、他にも沢山の店の動画があった。由梨はその動画を観ながら「これ、藤岡さんが撮ったんだ」と藤岡の表情や仕草を思い出して言った。

駅に着いて、歩いてパン屋さんの工場を覗いて、先輩がいるのか確かめたんだわ。

そう思うとなんだか切ない。

 

もし先輩が見つかったらどうするんだろうか。

何か声をかけるのか。

 

『あ、藤岡君久しぶり、元気にしてた?』

そう言われたら理想的な言葉をかけるのかしら「お久しぶりです。またお会いできて良かった」

それとも

「探しました、なんで俺を置いて行ったんですか。もう離れないで下さい」

とか

 

返事は分からない。

会ってみないと分からないんだわ。

だから探してる。

 

 

その夜

由梨は夢を見た

始めはとても嫌な夢だった

夢の中の由梨は随分歳をとっていて1人で料理屋に入る。1番奥のカウンターの席に座って食事をしていた。会計を済ませようと席を立つと自分が通った所の人は全員由梨に悪意のある目を向けた。

全員が見張っている。そして由梨にひどい言葉をぶつけた。由梨は逃げ出そうとすると手を引いて一緒に歩いてくれる人がいた。「もう大丈夫心配ないよ」とても優しい声でそう言ったので顔を見ると藤岡だった。

 

 

そこで目が覚めて

藤岡から離れたくないと

強く思う

もし出会えなかったら

私はあの夢の通りの生活を送る事になってたわ。

それとも本当に河に飛び込んでいたかもしれない。

 

藤岡さん

 

ーーーー

 

由梨と藤岡は二人でベルリーナという揚げ菓子にジャムを詰めていた。

由梨はそれを手早くトレーに並べながら思い切って言ってみた。

 

「あの、今度私もパン屋さん巡りについて行っても良いですか?」

 

「え」

 

「いいけど」

 

「助手って事かな?」

「あ!はい!そうです助手として」

 

藤岡は何か考えている様だった。

 

作業中沈黙が続き

 

でも最後にはこう言った。

 

「俺は今度の休みに動画を撮りに行こうと思ってる、由梨の行ってみたいパン屋さんはある?」

「はい、他の動画で美味しそうなパン屋さんがありました。勿論パンロンド程じゃないですけど。それといつか修造さんのお店にも行ってみたいです」

 

「そりゃいいね。じゃあお店ができたら行ってみよう」

「はい!」

 

 

みんながみんな

思いおもいに

少し先の未来を

想像して

また明日が

やってくる

 

 

おわり

 

※レープクーヘン はちみつ、砂糖漬けのフルーツ、スパイス、アーモンドなどのナッツの入ったお菓子。オブラートの上にのせて焼く。丸形、ハート型など大きさも様々。通常ヘクセンハウスもこの生地で作られる。デコレーションを施し紐を付けてクリスマスの飾りに使われる。

 

 

 


2022年12月07日(水)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ dough is alive

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   dough is alive

 

 

フランスから帰ってきて何日か経った。

 

パンロンドの奥さんは手回しよく『世界大会優勝!田所修造・江川卓也』ののぼりを店先に付けていた。

修造と江川はパンロンドの出窓のところに世界大会で作ったパンデコレを飾っている最中だった。

「やっぱこの選考会の時のパンデコレは退けるよ。太陽の反射が当たってたし劣化してる。付け根がグラグラしてるし」

「ですね、崩れてきそう、僕のは小さいからまだいけそうですけど」

そんな会話を横で聞きながら、新入社員の花嶋由梨は2人のお手伝いをしていた。

「ねぇ由梨ちゃん、ここに冷却スプレーをかけてよ」

江川は溶かした水飴を接着面に付けながら指差した。

「はい」

 

由梨は藤岡を追いかけてパンロンドに来た。

動機は不純だが、世界大会の優勝者の修造のそばで早速勉強できるなんて凄い事だと思って2人の作業を見ていた。

これからみんなに色々教わってパン作りと言う新しい世界に飛び込んでいきたい。

 

とそこへ

「あのさ、修造く〜ん」

さっきまで電話していた親方が話しかけてきた。

「なんですか親方」

修造は嫌な予感がした。

「NNテレビのディレクターの四角志蔵さんから電話があって、修造と江川をテレビ局に呼んで取材したいんだってさ」

「えー俺テレビとか苦手なんで」と言いかけたらそれより大きい声で「はい!出ます!絶対出ます」と江川が大喜びで右手を上げ、ピョンと跳ねながら返事した。

「よしっ!じゃあ決まりだな」と言って親方がまた電話し始めた。

「江川、お前だけ出たら?」

「えー?助手の僕だけ出るなんて変じゃないですかぁ。僕出たがりだと思われちゃいますよぅ」それを聞いて修造はそうだろうが!と言いかけた。

 

 

「じゃあ修造!次の火曜日にNNテレビに江川と2人で行ってくれよ。ユニフォーム持ってきてくれってさ」

「はいわかりましたぁ」

「あの、、」

江川の元気な声に修造の声はかき消される。

「江川さん凄ーいテレビに出るんですね!家族と一緒に見ますね」

「うん花嶋さん。家族ってお店ごと今度東南商店街に引っ越してくるんでしょ?運良く空き店舗があって良かったね」

「はい、しばらくはバタバタしますが、早くこちらで落ち着きたいです」

 

ーーーー

 

次の火曜日

 

2人はNNテレビに来た。

「久しぶりに来ましたね修造さん」

「えー?うーん」

なんとも気のない返事をして、待っていた四角のところに行く。

「どうも、これ、言われてたパンです」修造は店で作ってきたパンの入った箱を渡した。

「ありがとうございます。シェフ、お疲れ様でした。相変わらずご活躍ですね。楽屋へ案内しますので時間までお待ちください」

2人は6畳の部屋に通された。

台本を渡されてしばらくそれを見ていたが「こんな、人の考えた言葉を言わなくちゃいけないのかよ」と修造は文句を言った。

「そう言うものじゃないですか?」

「そうかなあ」

自分で話すのも億劫なのにさらに覚えるなんてできるのか、、?

こんなもの無視して答えてやろう。そう思って修造は台本を裏返して置き、ゴロンと畳の上に横になった。

そこに女優の桐谷美月が挨拶に来た。

「わあ!桐谷さんだあ。ご無沙汰してまーす」

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」桐谷が嬉しそうにしている江川に笑顔を向けた。

修造も起き上がり「どうも」と言う。

それをじっと見つめていた桐谷は「シェフ、この度はおめでとうございます。またお会いできてとっても嬉しいわ」と手入れの行き届いた細い指の柔らかな手で修造の無骨なゴツゴツした手を上と下から包んだ。

 

 

「ではまた後で」

 

立ち去った桐谷を見送った江川は「桐谷さんに手を握られてましたね!律子さんに言ってやろ」と小学生みたいな事を言ってからかってきた。

「うわー!それだけはやめてくれ」修造はズザーっ!と滑り込んで江川の足を掴んで懇願した。

「じゃあ収録で本気出して下さいね、笑顔を忘れないでくださいよぅ」

「はいはいわかりました」

修造はそのまま顔を伏せて言った。

 

ーーーー

 

修造と江川はユニフォームに着替え、スタッフに連れられてスタジオに入った。

台本は読んでないが江川に言われた通り真面目な気持ちで行くつもりだ

美月は優雅な感じで椅子に座ってディレクターの話を聞いていたがユニフォームに着替えた修造が入ってきた瞬間に釘付けになっていた。

 

 

ウフフ

修造シェフ

やっぱり素敵

世界一の男だわ

 

 

修造達はマイクをつけて言われたところに座った。

収録が始まり、司会のアナウンサー埴原亮介(はにはらりょうすけ)が挨拶した。

 

 

「こんばんは、司会の埴原亮介です。そして女優の桐谷美月さん、パン好き代表の小手川パン粉さん、アクション俳優のジェイソン牧さんです」と修造と江川の座っている前の3人を指した。

「さて、テレビをご覧の皆さんはパンの世界大会があるのをご存知でしょうか」

小手川が「知ってますぅ〜フランスで開催されたんですよね、各国の強豪達がパンでしのぎを削るんです」

すると埴原が「そう、実は今日のお客様はその大会に出られたお二人なんです!パン職人の田所修造さんと江川卓也さんです」と手のひらをさっと2人に向けた。

テレビではそこで世界大会の場面が流れ、修造達の作品が映し出される。

見ている方は「へぇー!パンの世界大会ってのがあるんだねぇ」なんて言ってる人もいるかもしれない。

「田所シェフ、助手の江川さん、優勝おめでとうございます」

「どうも」

お二人はパンロンドって言うパン屋さんで働いてるそうなんですが、そこで練習しながら大会をめざされたんですか?」

自分達はパンロンドの店主とベッカライホルツの大木コーチの所を行き来して大会のパンについて教わりました。本当にありがたかったです。随分と良くして頂きました」

「そうなんですね、その時は江川さんもご一緒に練習に行かれたのですか?」

「はい、僕始めは何も出来なかったけど、コーチと修造さんに教えてもらって選考会でも助手に選んでもらえて大会に出る事が出来ました」

「田所シェフは大会に向けてさぞ努力をされたんでしょうね」と桐谷がコメントした。

「入社当時は右も左もわからなかったんですが、途中からパン作りに夢中になって、ドイツに5年間修行に行きました。そのあとは大会に向けてまた夢中になっちゃって」

「それだけ打ち込んだから今のシェフがあるんですね」

「俺、すぐ意地になっちゃうんです」

それが追い求めることになって結果的にトップを目指すんでしょうね」埴原がまとめた。

次に小手川が江川に聞いた。

「江川さんはどうしてこの業界に入ったんですかあ?」

「僕は修造さんを雑誌で見て、なんだか前から知ってる気がして、気になってパンロンドにきました。そして修造さんに面接して貰ったんです」

そのあと江川は修造のやった段ボールを使って3種類の温度帯を見抜く風変わりな面接の事を面白おかしく話した。

「段ボールを何も知らされずに3分で仕分けるんですね?変わった面接ですねえ」

「はい焦りましたぁ〜。始め何も分からなかったけど持って運んでるうちにあ!これだ!ってわかったんです。最後の10秒なんて大急ぎでしたあ〜」

皆アハハと笑って盛り上がった所で試食タイムに入る。

「これは?なんてキラキラしたパンなんでしょう」

これはチェリーのシロップ煮を使ったバイカラークロワッサンです生地を細長く切り半分に折って真ん中に切り込みを細かく入れていく。それを花のように巻いて先を菊の花弁のようにカットするんです。それとは別に、赤い生地でステンシルを施した小箱を作り花を中に入れて焼く。花弁の先が焦げないように上に途中から厚紙をのせて気をつけて焼いて、焼成後江川がキルシュワッサー使用のシロップを塗ったものです」

「まあ、このパンだけでもそんなに手数が多いんですね。8時間で全て作るなんて凄いわ」と桐谷が感嘆の声をあげた。

 

 

「さて、では3人に食べて貰いましょう」三人の前にパンが並べられた。

「見た事ないわあ。色味が綺麗ですね」

「菊のイメージが強く出ていますね、シェフ」

「はい、自国のイメージを出す為に菊の花びらの形を考えるのに苦労しましたが、なるべく細かくカットする事で実現できました」

「テクニックなんですね」

「パリパリだぁ〜」

「チェリーの風味がしますね。初めて食べたなあ。美味しいです」

「ありがとうございます」

「それともう一種類パンを作ってきて下さいました」修造はみんなに人型の大きめのパンを配った。

「シェフ、これはどの様なパンですか?人の形のパンですね?パイプを持ってますね」ジェイソンが珍しそうに抱えて言った。

 

 

「これってヴェックマンですよね?ドイツ近辺で作られてる冬のパン」とパン好きの小手川が大喜びで言った。

「こちらは自分がドイツにいた時の店で11月頃になると並ぶパンでヴェックマンと言います。Weckenヴェッケンが小麦粉を使った白いパンなんかの事で、Mannはそのまま人とか男とかって意味です」

「どこから食べたら良いか迷いますね」桐谷が困った様に言った。

「人の形だから確かにそうですね、甘めの菓子パンみたいな味なので気軽に食べて貰ったら大丈夫ですよ」

みんな急に現れた人型のパンに盛り上がった。

試食中に埴原が質問した。

「シェフの世界大会での思いと、これからの展望をお聞かせ下さい」

自分はずっと自分のイメージした通りのパン作りをできるようにしてきたし、それを追い求めてきました。自分はパン作りに対してすごく我儘だと思っています。出来るだけ全力を出したい。今回もそれが実現したのは助手である江川のお陰です。微に入り細に入り手助けしてくれました。これからも自分と、自分の周りの人達のために1日1日を大切にパンを作って行きたい」

それを聞いた江川の顔がパッと赤らんで涙が溢れた。

カメラが江川の瞳を大映しにする。

 

 

「僕実家からパンロンドに来て良かったです。あの頃と今の僕とは全然違うぐらいパンの事を教えて貰ったし、僕も大切にパン作りをしていきたいです。修造さんと僕とは何度となく自分で最後の最後に自分のパン作りを見てみたいって言ってきました。これがこれからずっと先の展望だと思っています」

「お二人は肝胆相照らす仲なんですね」

埴原も桐谷も目から涙が溢れた。

「このお二人なら最後まで極めて行って下さると思います」

「さて、シェフは何か得意な事がありますか?」という埴原の問いかけに

得意というのもなんですが小さな頃から高校卒業までずっと空手をやっていました。今は小学校でやってる道場に子供と一緒に通っています」

「そうなんですね、それでは修造シェフに自慢の空手を対決方式で見せて頂きましょう

「えっ?」

「シェフとジェイソンさんこちらへ」

ジェイソン牧が立ち上がって真ん中に立った。えっと驚く修造に「台本に書いてありましたよ?読んでなかったんでしょう!」とこっそり江川が言った。

 

ーーーー

 

その頃パンロンドでは

由梨は藤岡にパンの作り方について説明して貰っていた。

 

 

「パンは粉、水、塩、イーストが有ればできる」

「はい」由梨はメモしながら聞いていた。

「見てて」

藤岡はミキサーのボールに※小麦粉と水とモルトを入れた「モルトは発酵を促したり、生地のうまみを引き出してくれる」

低速でミキサーを5分ほど回して止める。

「こうすると水と小麦粉の中のタンパク質が結びついて※グルテンが形成される」

「グルテン、、」由梨はグルテンとメモに書いてから藤岡の顔を見た。

「そう、これをこうしてしばらく置いておくとだんだん緩んで伸びる様になる。20分置いておこう」

「はい」

「今由梨が見てるのはautolyse自己融解って言うんだよ。autoは自動、lyseは溶解。つまり自分で溶けてくって意味なんだ。小麦粉は水と出逢った瞬間に自己融解を始める」

「オートリーズ、、」

「オートリーズは小麦の持つ自分の酵素で糖を分解させて、そしてグルテンを形成して伸びる様になる、本捏ねの前準備の事なんだ」

「粉と水が出逢ったら(混ぜたら)グルテンができる」

「そう」

「不思議ですね、私、今までそんな事考えた事も無かったです。こうやってパンを作ってるんですね」

「俺なんて子供の頃うどんは『うどん粉』ってのがあって、それで作ってると思ってたよ。中力粉の事だって知らなかったんだ」藤岡はニッコリ笑った。

「ウフフ」

もしハッピーに音がするとしたらそれはどんな音だろう。

由梨からキュンという音が聞こえたらそれかも知れない。

 

 

20分ほど経って藤岡が生地の状態を見せた。

「ほら、生地が緩んだ感じになってるだろ?」

「はい、本当だ」さっき迄粉と水という別々の物だったのに今はちゃんと生地っぽくなり、その先はパンになっていくのが不思議だった。

藤岡は「塩とイーストも忘れずに」と言って低速でミキサーを回した。

 

ーーーー

 

一方NNテレビのスタジオでは

修造とジェイソン牧が並んで立っていた。

修造はユニフォームを脱いだ。

筋を伸ばし、ピョンピョンと飛んで首をコキコキいわせながらジェイソンを観察した。

それにしてもでかいな。体格もいい。流石アクション俳優。まさか戦うとか言わないだろうな。

すると2人の前に木の板を乗せた台が運ばれて来た。

「板割りか、、」

道着の人たちが来て、板を持って立った。

それでは順に割って頂きましょう!1枚目!まずはジェイソン牧さんから」

ジェイソンは突きでパン!といい音をさせて板を割った。そして修造を見た。

え?何今の視線。。と思いながら修造も板を割った。

何のことはない、修造もチラッとジェイソンを見た。なんだよ?向こうも見ている。

次に2人の空手着の男の人達がそれぞれ1枚ずつの板を持って立った。

「さあ連続割、今度は2枚の板を割って頂きましょう、さあどうぞ」

ジェイソンが腕と足で軽く割った。そのままならいいがまた修造を見た。

なんだ?できるのか?って感じか?

訳もないぞ!

修造も正拳突きをして、回し蹴りで板を割る。

「修造シェフ!カッコいいですね、どうですか?まだ出来ますか?」埴原の質問に2人とも当然だと言わんばかりに頷く。

3人の道着の男が少し離れた位置で一枚ずつ持って立った。ジェイソンは動きを大きくして1枚目を突きで、2枚目を蹴りで3枚目は修造より早く回し蹴りで割る。

 

 

修造も負けていられない!持ってる板を高い位置で持つ様に調節して突き、裏回し蹴り、踵落としで割った。

拍手喝采である。横に立って2人ともお互いをバチバチに見ている

「いやお二人共カッコいいですね、まだまだいけそうなので今度は5枚で」なんて埴原が言い出した。

江川はそばに置かれていた水を飲んで、座っている回転椅子をくるっくるっと左右に回しながら、空手対決をしている2人を見て、意地になってなにやってるんだろうと呆れていた。

もうすっかり飽きて、スタジオのセットを観察していた江川が再び修造を見た時は、両足で同時に割って反動でそのままくるっと一回転してシュタっと立ってる所だった。

「もう帰りましょうよ」

江川が小声で呟いた。

 

ーーーー

 

一方パンロンドでは由梨の幸せな時間はまだ続いていた。

「パン作りに大切なのは時間と温度なんだ」

「はい」

「さっきみたいに温度に気をつけて、時間をとってやったらパンは勝手に発酵していく」

捏ね上がった生地をケースに入れて、蓋をした。

「乾燥しない様に気をつけて」

由梨は注意深く作業を見ていた。

わざわざ教えてくれてるんだから忘れないようにしなくちゃ。

他にも生地の種類や種によってやり方が違うからおいおい教えていくよ」

「はい」

おいおいとは順を追って次々に

まだまだこの先があるんだわ。

なんだか毎回宝箱を開ける様な期待が由梨の中に煌めきだした。

 

ーーーー

 

収録後

修造はクタクタになって楽屋へ戻って行った。

「江川さん」

「あ!桐谷さん」

「お疲れ様。とても良い収録だったわね。私感動しちゃったわ」

「僕もです」

「ねぇ、今度何かあったら連絡くれない?」

桐谷は自分の連絡先を書いたメモを江川に渡した。

何かとは修造の収録が再びあった時とか?

「あ!そうだ!今度修造さんがお店を開いたらその時は来て下さいね」

「わかったわ。間近になったら教えてね」

「はい。新人の由梨ちゃんも入ってきたし、藤岡さんにもう少しライ麦パンの作り方を教えたらって修造さんは言ってました。もう間近まで迫っています」

「そうなの。楽しみにしてるわね」

「はい!」

 

「江川さーん」

次に食パンマンじゃなかった。。小手川パン粉が声をかけて来た。

「ねぇ、可愛いねその食パン。僕も被ってみていい?」

「勿論ですぅ〜」小手川は手に持っていた食パンの被り物を渡した」

「ねぇ、どう?似合う?どこで買えるの?これ。ぼくも欲しいなぁ」

 

 

「あ!ひとつあげましょうか?それ、私が作ったんですよ。家にまだあるんです」

「本当?嬉しい。ねぇパン粉ちゃんってパン屋さんをいっぱい巡ってるんでしょう?またうちにも来てよね」

「パンロンドなら何回も行ってますぅ〜記事を書いた事もあるんですよ」

「えっそうなの?また見てみるね。そうだ!今度修造さんがお店を開いたら来てよね。招待するね」

「えー!嬉しい。絶対声をかけて下さいね」

「うん」

 

ーーーー

 

後日

修造は生地をどんどん練って藤岡と杉本にどんどん分割して布をかけてラックに差していった。それが終わったらまた次の生地をという風に生地を渡して、2人は連続で分割して、そのあと順に成形して型の中に入れていった。大型の成形が終わってホイロという発酵の機械の中に入れたら、次は小物パンの分割、成形。

「ねえ、まだあるんですかあ?疲れるなあ」

「杉本、今日は早さに慣れて貰う練習をしてるから。生産性をあげるんだ。はい、これ丸めて真ん中に切り込みを入れて。ブロッチェンの成形が終わったら次は※ブレッツエルの成形だから」修造は量と速さに慣れる為に次々生地を練った。

勿論細かい計算済みで、表を見ながら綿密に仕込んでいく。

「あのな、杉本。今度から2人だけでやらなきゃいけない日もあるんだよ」藤岡に言われて杉本は奇声を上げた。

「ヒェ〜」

お店の方にいて、パンを包装していた風花と由梨に杉本の奇声が聞こえてきた「また馬鹿な声出してるわ」風花はグーを見せて杉本をじろっと睨んだ。

由梨はその様子を見て、風花さんって杉本さんに厳しいけど本当は凄く仲良いのよね、と思っていた。

「あのー、風花さん。。藤岡さんって彼女とかいるんですか?」

「えっ?」実は藤岡は私生活の事は何も話さないし、誰も何も知らない。「えーとお。バレンタインの時はここにくる時に沢山チョコを貰ってたわよ。昼間はお客さんに、帰りも待ち伏せした女子高生とかにね。歩いてるだけでチョコ貰えるなんて良いわね。もう誰が誰のチョコかわからないから龍樹も何個かおこぼれを貰ってたわ。プライドとかないのかしら」風花はちょっとだけ馬鹿にして笑った。

「藤岡さんね、攫(さら)われそうになった事もあったのよ」

えっ攫われる?」

「そう、配達先の人に気に入られてね。無事帰って来れて良かったわ」急に由梨は藤岡とグーンと距離が開いた気がした。

そういえばね、奥さんが藤岡さんは最近引っ越したって言ってたわよ」

その時お客さんがレジに並び出したので風花は店に行ってしまった

由梨はチラッと藤岡を見た。ブリーツェンの成形をしている。正直カッコいい。由梨は小さなため息をついた。

 

ーーーー

 

仕事終わり。

風花と杉本は一緒に帰っていた。

「ねぇ、藤岡さんって引っ越したんでしょう?奥さんに聞いたら1人暮らしって言ってたわ」

「そうなの?知らなかった」

毎日一緒に仕事してるのになんでよ」

だって向こうも何も言わないし、誰も何も聞かないし」

プライベートに首を突っ込まないって事なのかしら?」

そうかなー」

「あっ!あれ見て!」急に風花は小声で杉本に言った。本屋から出てきた藤岡が前を歩いている。

「ねえ、ついて行きましょうよ」

「え?なんで探偵ごっこ?」

だって声をかけてもはぐらかされるかもしれないじゃない」

そうかな〜」

 

 

2人は角を曲がって3丁目の方へ行く藤岡にこっそりついて行った

 

5回程角を曲がった時「あっ」藤岡は高級そうなマンションに入って行った。

公園と役所のある広い通りに面したエントランスはエレベーターホールまで距離があり、豪華で広い。警備員室もある。

「タ、タワマン」杉本も口をあんぐり開けて上を向き、何階建てか数え出した。だが下から見上げて数えると、何回数えても途中で何階まで数えたかわからなくなる。

「どの階なのかしら?」

「わかんない」

マンションの名前は東南エクスペリエンスグランデ「名前もいかついな」

 

次の日

杉本は一緒に組んで仕事してる藤岡の顔をじーっと見た。

なんだよ杉本」

「藤岡さんってお金持ちなんですね。タワマンに住んでるんでしょ?」

「え!なんで知ってんの?」

だって昨日歩いてたじゃないですかぁ」

「歩いてた、、なんだそれ。この事はここの奥さんしか知らないんだ。警備の厳しそうなところに引っ越したんだ。誰にも言うなよ」

それは無理です!」

「なんで」

「風花も一緒だったしぃ。由梨ちゃんにも言ってると思うしぃ」

藤岡は風花と由梨に向かって人差し指を口に当てて「しぃ〜」と言うジェスチャーをした。

それを見た風花もしーっというジェスチャーをして見せた。

「やっぱり攫われそうになったから警戒してるのね。イケメンって大変ね」

「はい、大変そうです」

 

夕方

 

早番だった職人達が帰った後、由梨と藤岡は工場の掃除をしていた。親方は店側の台の上で明日の仕込みの計算をしていた。

「あの」

工場の奥の機械を拭きながら由梨は藤岡に話しかけた。「何?由梨」

藤岡さんはあの時どうしてベッカライウンタービルクに来ていたんですか?」

藤岡が由梨に出会ったのは由梨の実家の着物屋花装の近くのパン屋に立ち寄った帰り道だったが、そこから東南駅は随分離れている。

「由梨、俺は誰かの答えて欲しいように答えたり、理想の答えを探して言う様にいつもしてしまうんだ。人によっては俺の事を出来過ぎくんと揶揄する者もいる」

「え?」どう言う意味なのかしら。由梨は注意深く聞いていた。

その時親方が振り向いて「もう時間だから片付けて帰りなよ」と声をかけた。

「わかりました親方」

藤岡はしばらく考えて「ま、後で移動して話そうか」と言った。

 

その後

2人は駅前のオムライスの美味しい店に来ていた。

茶色が基調の店内のテーブルには赤と白のチェックのテーブルクロスが敷かれていて、小瓶に花が一輪さしてある。

シンプルでタマゴはパリッとしたタイプで、赤いソースのかかったオムライスの端をスプーンで掬いながら藤岡が言った。

「美味いんだよここのオムライス」

「本当、美味しいです」

バターの香りが一口毎にふわっと立ち込める。

途中まで食べかけて、藤岡は話しだした。

「今こう言うべきだという場面で理想の答えを言っちまうんだ。でも言っちゃいけない時もあったんだなと後悔する事もある」

急に始まったさっきの話の続きを聞きながら、藤岡の顔をじっと見ていた。

「高校を出てすぐ調理師学校に入ったんだ。その後レストランに就職した。6人ぐらい従業員がいて、3つ歳上の人について仕事を教えて貰った」

「はい」

と言いながらその先輩が女性なのかどうか気になる。

 

 

「優しくてしっかり者でね、なんでも教えて貰っていて、俺も持ち前の当たり障りのない受け答えで上手くやっていたんだ」

由梨は目を見てうんうんとうなづいた。丁度今の由梨より少し年上の頃の藤岡の話だ。

飲食は離職率の多い業界だから同僚もちょこちょこ変わって安定感は無かった。その日その日仕事をこなすのに精一杯でね。あの頃と比べるとパンロンドの親方や修造さん、他の先輩達は仕事もできるし頼りになるよ。でもそのレストランはそんな環境じゃなくてね」

「大変だったんですね。頼れるのはその先輩だけだったんですか?

「そう」

藤岡は言葉を詰まらせた。

「そうなんだ、お互いに力を合わせて必死で、でもある日その人は心が折れてしまったんだ」

 

『藤岡君、私転職するの。パン屋さんで職人を探してるところがあるから』

 

そう言われて

その場で怒ってもよかった。

俺はどうなるんですか

あなたがいないなんて

相談も無しに勝手に他所に行くんですか。

そう言えば良かった。

でも俺の口から出たのは

元気で

頑張って下さい

活躍を祈っています。

そんなどうでもいい

当たり障りのない言葉だった

あの人は俺に

ごめんね

と言っていた。

心の疲れたあの人に

行かないで下さい

と言えば良かったのかどうか

パン職人になると言って誰にも行き先を告げずに辞めてしまった。その後あちこちのパン屋を探して回った。その時始めたんだ。動画を撮ってそれをアップするのを。お陰で登録者数も増えて広告のお陰で良いところに住めるようになったよ」

自虐的に笑う藤岡の話をただ黙って聞くことしかできない。

「俺、初めて人に言ったよこの事を。なんだかずっと辛かったけど、気が楽になったかも」

藤岡さんも初めて会った時私の話を聞いてくれた。そして一緒に解決して貰ったわ。できれば私も手助けしたい。

「あの時俺が言ったんだったね。話せば楽になれるんじゃない?って」

時間がゆっくり溶かしてくれる事もある。

こういうのを自己融解って言うのかな。

そう思いながら残りのオムライスを黙って食べた。

「ほら、由梨」藤岡はほっぺをトントンと指さした。

由梨はほっぺに少しトマトソースがついていた。

「あ」

顔を赤らめて由梨はソースを拭き取ったのを見て藤岡はニッコリ笑った。

食後コーヒーを飲みながら、黙っていた由梨が「あの、私藤岡さんと出会ったのはとても意味があるんじゃないかと思って、、私達縁があると思ったんです。それで電車まで追いかけて走って来ました」

「あの時」

「はい」

俺はちゃんと気がついている。

何故由梨が追いかけて来たのかを。

ただこういうのって人の言って欲しい事を言うわけにいかない場合もあるんだって今はちゃんとわかってる。

 

 

藤岡はマンションに帰って薄暗い部屋で1人考えていた。

まだ消化しきれてないんだ。

ずっと胃もたれを起こしてて

俺にはもう少し時間が必要なんだ。

 

ーーーー

 

次の日の夕方頃

お店はいつも以上に大忙しだった。

修造達は特訓の為に大量にパンを作ったがそれももう無くなりそうだった。

由梨は江川にあまり生地で丸めの説明をして貰っていた。「ほら、こうして手を猫さんの形にしてね。クルクルって丸めてね」

 

 

 

それを聞いていた藤岡が「幼稚園児か」と突っ込んでいた。

「だってわかりやすいと思って」テヘヘと笑いながら江川がそれに返事していた。

「そうだ由梨ちゃん、昨日僕達の映ってたテレビ見た?9時からやってたでしょ?」

「はい、見ました。途中すごく感動する所がありましたね。司会の人とかみんな泣いてて、私も泣いちゃいました」

「あの後ね、空手の板割りってのがあったんだけどね、全部カットになっててね」江川は2人共あんなに真剣にやってたのにと思うと笑いが込み上げた。

「それで最後の方ユニフォームも脱いでたんですね」

「そうそう、ウフフ」

それを遠くで聞きながら修造は「あんなにムキになってて恥ずかしいよ。カットになって良かった。だいたいパンと関係ないんだし」

「見たかったですよ。修造さんの蹴りや突きを」と藤岡に言われて修造は顔を赤らめながら言った「さ!台を片付けて、みんなでヴェックマンを作るよ。そのあとシュトレンとヘクセンハウスな!」

「はーい」

去年は親方と2人でつくったヘクセンハウスだったが、今年はみんなで作れるようにしていた。パーツを作って組み立てるお菓子の家だ。

パンロンドでの楽しいひと時も後わずか。

 

おわり

 

※オートリーズの時にイーストと塩を入れる店もあれば、塩は後で入れる(後塩法)店もある。

※グルテン パンに粘り気と弾力を与える。アミノ酸からなるタンパク質。水と小麦が出会ってグリアジンとグルテニンが結びついてパンができる。不思議。今回この結びつきと恋をかけてみました。

※ Brezelnブリーツェン=プレッツェルの事。腕を組んだ様な形をしていて、塩味、バター味、チーズ味など愛されドイツパンの事。ラヴゲン液をかけて焼くので独特の食感になる。めちゃうま。

※ヴェックマン Weckmann 地域によって呼び方も形も様々。11月中旬からクリスマスまで見かける。

 

 

桐谷美月との出会いはこちら 進め!パン王座決定戦!

https://note.com/gloire/n/n394ace24aa33 

 

江川君のはじめての面接はこちら 初めての面接

https://note.com/gloire/n/n313e7bee5f33?magazine_key=m0eff88870636

 

由梨と藤岡の出会いはこちら Emergence of butterfly

http://www.gloire.biz/all/5498


2022年11月05日(土)

パンの小説の一覧を作りました。

 

パンの小説の一覧を作りました。

 

ブログの表示が5つのお話までしか掲示されないので一覧をこちらに作りました。

よろしければ下にある一覧から好きな話を探して見てくださいね。

このお話はフイクションです。

江川と修造シリーズは修造が修行先のドイツから帰ってきて江川をパンロンドで面接したところから始まります。
引きこもりで不登校だった江川は修造の弟子っこになり、やがて世界大会の助手を経てナイスなパン職人になっていきます。

イラスト付きでわかりやすく、電車の中ですぐ読める感じになっていますのでぜひお楽しみ下さい。
どんどん更新していくのでたまに覗いて見てくださいね。

note始めました。3部の途中の江川君がパンロンドに面接に来た所から始まります。少しずつ読みたい方はこちら

パン職人の修造 noteマガジン1話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/m0eff88870636

パン職人の修造 noteマガジン56話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/m7dbc331f59d6

パン職人の修造 noteマガジン101話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/mc296482c0c46

お話の最後にあるハートマークを押して頂くと励みになります。

 

イラストだけ見る方はこちら

https://www.instagram.com/panyanosyousetu/

 

 

このブログでの新作↓

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーベンアンドブロートができるまではこちら

http://www.gloire.biz/all/5664

開店準備は楽じゃない修造、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some futureはこちら

http://www.gloire.biz/all/5619

独立の準備を始めた修造は、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   dough is alive

テレビに出た修造と江川でしたが、、、

http://gloire.biz/all/5565

 

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

Emergence of butterfly はこちら

http://www.gloire.biz/all/5498

休日にパン屋めぐりをしていた藤岡君が出会った由梨は、、、

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

Awards ceremonyはこちら 

http://www.gloire.biz/all/5465

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

stairway to gloryはこちら

http://www.gloire.biz/all/5403

世界大会に出場する江川と修造は、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

surprise giftはこちら

http://www.gloire.biz/all/5330

フランスに到着。江川が思いがげず受け取った贈り物とは、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

江川 Preparation for departureはこちら

http://www.gloire.biz/all/5273

とうとうフランスに旅立つ時が来た!
準備に忙しい江川と修造の前にやり手の営業マンが現れた。。

 

 

パンの職人の修造 江川と修造シリーズ

Annoying People はこちら

http://www.gloire.biz/all/5211

修造!藤岡君がおこってるよ?

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

One after another 江川はこちら

gloire.biz/all/5158

新たに練習を始める江川だったが、、

 

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

A fulfilling day 修造はこちら

gloire.biz/all/5105

大地が生まれた!毎日ハッピーな修造

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 後編はこちら

http://www.gloire.biz/all/5034

杉本に試験を受けさせようとする風花だったが、、、

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 前編はこちら

http://www.gloire.biz/all/5018

いつもぼーっとしているタイプの杉本の特技を発見したパンロンドの職人達は

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ バゲットジャンキーはこちら

http://www.gloire.biz/all/4967

あのメモを渡してきた男の正体は?

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ broken knittingはこちら

http://www.gloire.biz/all/4872

とうとう若手コンテストに挑んだ江川と鷲羽でしたが、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Mountain Viewはこちら

http://www.gloire.biz/all/4845

江川と修造は2人で荷物を積んで選考会に出発しました。

そこには、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ honeycomb structureはこちら

http://www.gloire.biz/all/4802

ホルツにてとうとう飾りパンの練習が始まりましたが、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Prepared for the roseはこちら
http://www.gloire.biz/all/4774

鷲羽はパンロンドに勉強の為に行きます。そこでつい、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   イーグルフェザーはこちら

http://www.gloire.biz/all/4720

鷲羽と江川はベークウエルのヘルプに行きますがそこでは、、、

 

パンロンドの職人さんのバレンタイン Happy Valentineはこちら

http://www.gloire.biz/all/4753

パンロンドの職人さん達のバレンタインはどんなのでしょうか?

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ スケアリーキングはこちら

http://www.gloire.biz/all/4675

いつも自信満々な修造が唯一怖いもの、それは、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Sourdough Scoring 江川はこちら

http://www.gloire.biz/all/4634

選考会への修業を重ねる江川と修造。江川にまたしても試練が訪れる。

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ ジャストクリスマスはこちら

http://www.gloire.biz/all/4588

クリスマスはパンロンドに優しい風を吹かせました。

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ お父さんはパン職人 はこちら

http://www.gloire.biz/all/4548

修造と緑はとっても仲良し。だけど近所の人はお父さんの事を、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ  六本の紐  braided practice 江川はこちら

http://www.gloire.biz/all/4477

修造と一緒にホルツで修業を始めた江川を待ち受けていた者とは、、、

 

 

江川と修造シリーズ フォーチュンクッキーラブ 杉本Heart thiefはこちら

gloire.biz/all/4415

やっと職場に慣れてきた杉本。一緒に仕事している店員の風花に危険が迫る!その時杉本は、、、

 

 

江川と修造シリーズ 背の高い挑戦者 江川 Flapping to the futureはこちら

gloire.biz/all/4365

修造と江川の務めるパン屋パンロンドにNNテレビがやって来た!

みんな頑張って!その時修造は、、、

 

 

ハートフル短編小説 アルバイトの咲希ちゃんはこちら

gloire.biz/all/3705

東南駅と学校の間にあるパン屋のパンロンドでアルバイトをはじめた高校2年の咲希ちゃんでしたが、、、

 

 

江川と修造シリーズ催事だよ!全員集合!江川Small progressはこちら

gloire.biz/all/4249

このお話は進め!パン王座決定戦!の続きです。催事を通じて少しずつ成長する若手の職人達のお話です。パンロンドにイケメンの仲間がやってきましたが実は、、、

 

 

江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!後編はこちら

gloire.biz/all/4129

パン王座決定戦!前編の続きです。 修造はNNテレビのパン王座決定戦で強敵のシェフと戦う事になりましたが。。

 

 

江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!前編はこちら

gloire.biz/all/4009

新人の杉本君の続きのお話です。親方が修造をパン王座決定戦に出てくれと言ってきました。その時修造は、、

 

 

江川と修造シリーズ 新人の杉本君Baker’s fightはこちら

gloire.biz/all/4056

江川To be smartの続きのお話です。パンロンドに新人の杉本君が入ってきましたが、、、

 

 

江川と修造シリーズ 江川To be smart はこちら

gloire.biz/all/3940

江川が15年前パンロンドの面接で修造と出会った時のお話です。

修造は一風変わった面接をします。。

 

 

製パンアンドロイドのリューべm3はこちら

gloire.biz/all/3877

30年後の未来、アンドロイドはとうとうパンも作ってくれる様になりました。
利佳はアンドロイドと仕事をする決心をします、その理由とは。

 

 

パン職人の修造第1部 青春編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3032

パンロンドに就職した空手少年の修造は運命の人に出逢います。そして、、

 

 

パン職人の修造第2部 ドイツ編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3063

修造はパンの技術を得るためにドイツに向かいますが、、、

 

 

パン職人の修造第3部 世界大会編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3065

江川と出会った修造は2人で世界大会を目指します。

 

 

パン職人の修造第4部 山の上のパン屋編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3073

律子と2人で念願のパン屋を開きますが、、

 

 

パン職人の修造第5部 コーチ編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3088

江川の為に世界大会のコーチを引き受けますが、、

 

 

パン職人の修造第6部 再び世界大会編前半はこちら

http://www.gloire.biz/all/3100

世界大会の為にコーチとして江川や緑と色々と作戦を練りますが、、

 

 

サイドストーリー江川と修造シリーズ ペンショングロゼイユはこちら

http://www.gloire.biz/all/3748

世界大会前編の始めに東北のお祭りに行った後のサイドストーリーです。

世界大会のアイデアを練る為に江川と東北に行った帰り道、泊まったペンションで修造が会った夫婦は、、、

こちら

 

パン職人の修造第6部 再び世界大会編後編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3596

世界大会が終わった後修造は、、

この後もまだまだお話は続きます。

このお話を書いたきっかけ。

昔々グロワールの近所にパンマイスターのお店があって、うちの先代が「マイスターのお店があるから行ってみ。」と言いました。
私はその時はマイスターって聞いたことあるけど何なのか知りませんでした。

お店に入るとご夫婦がお二人で経営されていて、ショーケースがありました。
当時(今も)無知だった私はどれがドイツパンかもわかりませんでしたが、記憶では日本の菓子パンもあった様に思います。

入り口の横に燦然と輝くマイスターの証が飾ってありました。
今はもうぼやけた思い出ですが、今にして思えばなんて勿体無い事をしたのでしょう。
もっと行っとけば良かった!
お店はいつのまにか無くなっていました。

推測ですが戦時中にドイツに渡り紆余曲折あってマイスターの資格を取り日本に戻ってこられたのではないかと。
そして日本にドイツのパンを広めるはずだったのに、当時はやはり菓子パンや食パンが主流で、しかも「白くてフワフワ」というワードがもっとも信頼されていた頃です。

推測ですが、色々悩まれたのではないかと思っています。
あぁ〜今やったらパン好きの人達に紹介して記事を書いて貰うのに。
そしてそれを読ませて貰うのに!

当時はSNSも無かったし、私も価値が分からずにいたと思うと口惜しいです

????

そんな気持ちがくすぶっていてマイスターについて色々調べ、今では価値のある存在って十分わかっております。

修行は長く、様々なお辛い事、そして楽しいこともあったと思います。

パン職人の修造第2部ドイツ編にはそんな思いが込められています。

世界大会については、審査、選考会、世界大会の順に勝ち進んでいくのですが、調べていくにつれ、色んな選手の方が色々な事を調べて作ってらっしゃるのがよくわかります。
時間内にタルティーヌやクロワッサン、バゲット、スペシャリテ、芸術作品などをを作らなければいけません。
とても技術を要し、過酷なものと推測します。

大会で修造が作ったパンは調べあげた末、誰とも被らないようなものを作ったつもりですがもしもモチーフが被った場合はご容赦下さい。
その他の一般でも販売可能なパンに関してはこんなに沢山の種類やパンがあるんだとわかって貰えるようになるべく色んなパンを紹介することもあるかもしれません。

世界大会には選手と助手(コミ)の2人が出ます。
そして会場ではブースの外からコーチが色々指導したりします。
素晴らしいコーチと助手と選手の熱い思いが燦然と輝くのです。

今後も修造の話は続きます。

応援お願いします。

ここに出てくるお話はフィクションです。

実在する人物、団体とは一切関係ありません。

パンと愛の小説

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2022年11月03日(木)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Emergence of butterfly

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Emergence of butterfly 

 

東南駅の西にある東南商店街で一際賑わうパン屋のパンロンドでは、親方、藤岡、杉本が『修造と江川の世界大会一位おめでとうパーティー』を計画していた。

 

 

「ここでやりますか?」「座れるとこがいいかな」「近くの店でいいところある?」「いつもの居酒屋は?」「パーティーと言うより飲み会だな」などなど

社長の柚木(通称親方)は早速駅近の宴会場がある居酒屋に電話して予約していた。

「よし!明日は江川と修造が来るし、仕事が終わったらそのまま直行だ」

それを聞いてパン職人の藤岡恭介は「俺明日休みなんでそこに直接行って良いですか?」と聞いてきた。

「勿論いいよ、じゃあその時間に待ってるからな」

「はい」

それを聞いていた後輩の杉本龍樹は質問した。

「ねぇ、藤岡さん」

「なんだよ杉本」

「いつも休日は何やってんですかあ?」

「パン屋さん巡りかな?パン屋の数は凄い多いから中々巡り切れるもんじゃない」

「新しい店もどんどん増えてますもんね」

「そう」

「お土産買ってきて下さいね」

「厚かましいなお前」

 

ーーーー

 

次の日、藤岡は朝9時頃パン屋巡りに出かけた。

行ったことのないエリアを攻めようと東南駅から快速列車に乗り、途中乗り換えて普通電車で40分程の比較的田舎の長閑な駅に降り立った。

駅からパン屋までの動画を歩きながら撮って店の前まで来たらちょっとパン屋の外観について説明。店内の動画は撮らず買ったパンを近くの公園で紹介する。

それを帰ってぼちぼち編集してアップする。

それが藤岡の休日の過ごし方だった。

「ちょっと買いすぎちゃったな。あまったから杉本にやろう」1そう言ってパンをバックパックの上の方に入れた、

動画を撮り終えて公園から出る。

しばらく歩くと大きめの川が流れていて、橋を渡って右に曲がると駅だ。

「おや」

 

 

藤岡は橋の真ん中で髙欄に手を掛け、じっと立って川を眺めている女の子を見つけた

女の子と言っても高校生か大学生かと言った感じ。

あの感じは飛び込む感じなのかなあ。

藤岡は川の水量を見た。

結構深そうだしまあまあな流れがある。

おいおい。

手すりに手をかけるな。

覗くな川を。

そう思って歩いていると、とうとう女の子の後ろに来てしまったので「あのさ」と声をかけた。

「ひょっとしてだけど飛び込む気?川は冷たいし溺れたら苦しいよ?息ができないんだからさ」

その女子はギクッとして手摺から手を離し、泣き腫らした顔をこちらに向けた。

このまま自分が立ち去ったせいで、気を取り直してもう一度川を覗かれたら困るな。

「ま、どこかで落ち着いて話そうか」と言って一緒に橋を渡りきろうとする。

失恋でもしたのか、2人で歩いてるところを誰かが見たら自分が泣かせたと思うのか。そんな事が頭に浮かんだ。

とりあえずどこか落ち着けるところを探さないとだけど俺土地勘ないしなあ。

「カフェでも入る?」と言ったら、女の子は急に立ち止まりまた泣き出した。

え?カフェが地雷?

仕方ない。

藤岡はこのまま見知らぬ人物の人生相談をするかどうか迷った。

「君高校生?家族とか親身になって相談できる人はいないの ?

「お父さんやお母さんに言ったら心配かけるから」

「そんなに深刻な事なの?俺さあこの町の人間じゃないから言いやすいかも。言ったら楽になるんじゃない?」

失恋の痛手も時間が経てば忘れるのかなと思いながら藤岡は川からはちょっと離れた土手の方に誘導して眺めの良い斜面に座るように促した。

 

 

「俺は東南駅にあるパンロンドって店のパン職人藤岡恭介。君は?」

「私は、、、花嶋由梨と言います。高校を4月に卒業してカフェで働いていたんです。でも今日辞めてきました」

「なんだろう?労務問題?」職場のいじめか何かと思い藤岡は聞いた。

「私には小さな頃から黒い噂が付き纏っていて、この町にそれが蔓延した事があるんです」

「噂?どんな?」

「私の実家は花装(はなそう)と言う着物屋なんです。父と母が着物関係の物を販売しています。近所にある福咏(ふくえい)と言う着物屋がうちを目の敵にしていて。小さい頃からその店の前を通るといつも罵声みたいな言葉が聞こえてくるんです」

「うん」

てっきり恋愛のもつれかと思ったら全然違うのかと思い藤岡はじっと聞いていた。

「罵声の内容は泥棒とかこの道を歩くなとかでした」

「えっ ? その店の人間が君に向かって?」

「私その道が嫌で他の道から通るようになって、そしたら私が通る所の人達に何か噂をしていて、こちらを見て何か言ってるか聞き耳を立てたらやはり手癖が悪いとか泥棒って言ってたんです」

「え?何それ。失礼だけど別に泥棒じゃないんでしょう?」

「私そんな人間じゃありません」と言ってまた泣き出してしまった。

「ごめん、今の質問は悪かったね。謝るよ」

「通りすがりの人に何度も同じ話を執拗にし続けていたので、段々みんなが私の事をそんな目で見るようになりました。子供だった私にはそんな大人達をどうする事も出来なくて。それに何もしてないって言っても誰も信じてくれないわ」

 

 

「実際の被害者がいないのにそんな噂が広まるなんて酷いね。お父さんやお母さんはなんて言ってたの」

「父と母は何も知りません。福咏以外は直接私に行って来る人はいません。噂や陰口なので両親には中々伝わらないし、私、そんな事で両親に心配かけたくない」

まだ小さい頃から大人の嫌がらせを受けてたなんて気の毒な。それに噂って一度立ってしまうと中々消せないな。

「その福咏の人ってどんな奴なの?」

「その人は福咏という着物屋の店主です。元々は父と同じ職場で働いていたらしくて、父が店を開くとその人もうちに来て働いていたらしいんです」

「ふーん」

なのに独立してうちの近くに開店したそうなんです」

「なんでかな ? 商圏がかぶると自分も損するのに。仲が悪かったの?」

それは分かりません」

藤岡は、この子は両親との意思の疎通が上手くいってないんだなと思って何かアドバイスをしようと考えた。「あのさ、嫌な目にあってんのに両親に言えないのは思いやりなんだろ?だけど自分がもし死んだらどのぐらい親が悲しむか考えた事ある?

「それは、、私自分が悲しすぎてその事について考えてませんでした。福咏が噂を流してる所は私が見ただけでも色んな通行人に言っていて、一体誰がその噂を信じていてどのぐらい広まってるのかを考えると怖くて」

「子供の頃からずっと続く嫌がらせなんて卑怯だな。実際に嫌な思いした事あるの?

「この町のどの店に行ってもすごく見張られる様になりました。何もしてないのに」

「何か盗まれると思ってるって事?確証もないのに疑うなんて酷いよね。その福咏って言う着物屋卑劣な奴だな」

噂なんて払拭できないのかな。不特定多数過ぎて太刀打ちできないのか。

それでカフェはどうしたの?」

カフェで働く私を見て噂を知ってたお客さんの何人かが軽蔑の眼差しで見てきました。そのあと店長に何か言ってたんです。福咏が流した噂が4人のお客さんの会話の中で繋がってやっぱり私はよくない存在だって、もうその噂は真実として店長に伝えられたんです」

 

 

「ネタ元は福咏だろ?」

「はい」

「で、店長はなんて?」

「はい、『そのお客さん達は皆それぞれ君の噂を知っていて、カフェで1人が私の噂話をした時、他の人達も私も知ってる私も知ってると繋がって、その人達の中で確固たる真実の様に決定した、みたいに言われたよ。君何を盗んでそんなに噂になってるの?捕まった事あるの?』って言われたんです。自分は何もしていないって言いましたが、『じゃあなんでみんながその事を知ってるの?』って聞いてきました。それでもうここにはいられないって思って辞めますと言いました」

「それでさっき橋のところに立ってたんだね?」

「はい」

「ネタ元が一緒ならちょっと考えりゃ分りそうな事なのに。バカだなそいつら。きっと人を追い込むのが楽しいんだろうよ」

ここら辺は結構古くからある住宅街みたいで、地域の密着もありそうだからこんなつまらない嘘も染み付いて行くんだろう。みんな暇なのか?snsの書き込みならともかくなんてアナログなんだ!

藤岡はそう思うと段々腹が立ってきた。由梨に纏いつく呪いが見えたような気がした。

「あのさ、この町にいるから辛いんじゃない?俺ならここを離れて心機一転、新しい生活や人間関係の中で生きていくけどな」

「私、父と母が大好きで、一緒に暮らしてたかったけど藤岡さんの言う通りだわ。でも私がいなくなったら残された父と母はどうなるんだろう」

「由梨がこの世からいなくなるのと引っ越しとは違うでしょ。何か他の土地に行くと不都合な事があるの?」

今度はうちの家族が福咏にターゲットにされるんじゃないかと心配で。着物離れが進んでいく中でおかしな噂のせいで売り上げが落ちたら気の毒です」

 

「噂の元を断とう」

「えっ?」

「どんな風に嫌がらせして来るのか実際確かめよう」

「そんな事ができるんですか?

「やってみなきゃわからないけど」

 

ーーーー

 

由梨の生家が営んでいる着物屋『花装』は質素な店構えで、古びた店が何軒かある元商店街の様な所にある。過去には賑わっていたのかもしれないが今は閉店した建物が多い。そしてその筋から15メートルほど離れた向かいの筋に『福咏』がある。

福咏の店は派手な店構えで、手前にキラキラしたリーズナブルな帯がぶら下げられている。

藤岡は由梨と2人でその店の前に来た。

そして「店の前をゆっくり歩いて」と由梨に指示した。

由梨は言われた通りにその前をゆっくり歩いてみた、

すると暇なのか椅子に座って外をぼーっと眺めている福咏が由梨に気がついた。

店内に客はいないからなのか店の中から「おい、どうしたトボトボ歩いて、何か盗んできたのか?」と言ってきた。

由梨はそれを聞いて足速に立ち去った。藤岡はゆっくりその後を歩いていた。

本当に言ってた!しかも結構はっきりと、藤岡は驚いた。

「何故あんな事言わせとくの?」

「だって怖くて」由梨は下を向いて言った。

「あれって言葉の暴力じゃん。黙って殴らせておくなんて良くないよ」

確かに由梨は大人しそうで自主性に乏しく受け身そうに見える。憂さ晴らしに虐める相手にはもってこいだ。何年も続けているうちに確証なき噂が定着したんだ。噂と噂は繋がった時に真実として語られる。それをまた言いふらされるんだ。

「こりゃ良くないな」

由梨には悪いが、藤岡はもう一度ゆっくり福咏の前を歩かせた。

すると福咏はまた由梨を見つけて店内から声を張り上げた。

「なんだ?また何か万引きに行くのか?泥棒めが」と言ってきた。

藤岡は不思議だった。

色々な噂の種類があるだろうに何故泥棒にしたのか?

 

2人でさっき座ってた川縁に戻りながら考えた。

 

証拠があまりなくて、商店が被害にあいやすく、犯人が探しづらく噂になりやすい、そして不特定多数の万引き犯を皆恨んでいる。ターゲットが明確だと余計に噂になる。

「だからか、、」

兎に角元を断ち切らないといけない。由梨が逆らわないからと言ってこのままでは辛くなってまた川に飛び込もうとするだろう。

「由梨、逃げるのは良くないじゃん。立ち向かおう!反撃するんだ」

その瞬間まで由梨は自分の人生がつまらないものだと思っていた。生きていても良いことはなく、いなくなったらその噂がひとつ消えるだけの事だと。それをこんな風に言ってくれる人がいるなんて夢にも思っていなかった。

「立ち向かう、、、」

「そう、俺もそれに付き合うよ」

 

さっきの川縁に戻って座る。

藤岡はパン屋で買ってリュックの上にフワッと入れて置いたパンを出した。

「良かった、潰れてないよ」と言ってパンを半分に割って渡した。

「腹ごしらえしとこう。元気が出るよ」

「ありがとうございます。これ、ベッカライウンタービルクのですよね?母がよく買って来ています」

由梨は半分に割ったヘルンヒェンを美味しそうに食べた。

昼前は落ち込んでいたけど、美味しいパンは人を幸せにするな。表情も少し明るくなってるし。と、藤岡は由梨を観察していた。

「何故藤岡さんはこの町に来たんですか?パン屋さんに来るため?

「そう、色んなパン屋さんを巡って動画に撮ってネットに上げてるんだ。ここに来たのはたまたまだよ」

藤岡は偶然だと思っていたが、由梨にはこうして一緒にパンを食べている藤岡との出会いが運命の様に思えた。

藤岡はもう一つパンを取り出した。

「これ、豚の耳って意味のパンなんだけど俺の店にもあるよ」藤岡はハート型のパイ※Schweinsohrシュヴァンスオアー)を出して二つに割って、由梨に渡した。

「俺の働いてる店にはドイツで修行してきた先輩がいて、俺も今その人にパンを教えて貰ってるんだ。ドイツでは豚は新年に幸福を運んでくれるって言われていてクリスマスが終わると豚のグッズを見かけるようになるらしいよ。それが幸運の豚 Gluecksschweinグリュックスシュバイン)』って言うんだってさ」

「幸運の」と言って由梨は藤岡を見た。

 

 

藤岡を幸運の豚と言うのは当てはまらないが、今自分は充分に元気を貰っている。

今日の昼前は暗い気持ちで川の水面を見つめていたのに、今はどうだろう。

由梨の中に何か熱い気持ちが芽生えていた。

「パンって良いですね、人の気持ちを明るくしてくれるのかも。藤岡さんの勤めてるパンロンドはどんなお店なんですか?

「東南駅の商店街にある明るいパン屋だよ。そこには優しくてでかい店主がいて、面白い後輩や、いつもパンに熱い先輩がいてるんだ。俺はそこがすごく気に入ってる」

そんな藤岡の表情は光り輝いてる様に見えで、由梨はその顔をじっと見つめていた。

「じゃ、打ち合わせをするか」

「はい」

 

ーーーー

 

日中を過ぎた頃の商店街

夕飯の食材を求める買い物客がそろそろ増えて来る時間。

藤岡は福咏に入った。

「男物の足袋を見たいんですがサイズを見て貰えますか?」

すると福咏は店の奥に向かって「おい、足袋を出して」と言った。「はーい」店の奥の暖簾の間から女性が出てきてレジの後ろの棚から足袋をいくつか出してきた

「足のサイズは何センチですか?

28です」

「それならこれなんて如何ですか?」

「どれがいいかな」藤岡はゆっくりと足袋を見ていた。

「これにします」と言って足袋を一つ選んで買いながら

「あなたはここの奥さん?」と聞いた。

「はい、そうですよ」

そこに由梨が入ってきた。

 

 

福咏は入り口近くの和柄のガーゼタオルを補充していたが、由梨が入ってきたのを見て心底驚いていた。福咏は慌てて客前にも関わらず

「おや、珍しいやつが来たぞ」と奥さんに言った。

そして由梨に向かって語気を強くした。まるで追い払いたいかの様だった。

「何しに来たんだ。うちに何か盗みに来たのか」

「私は泥棒でも万引き犯でもありません」

「そんな証拠どこにある!お前が怪しいのはみんなが知ってるぞ」

「それは福咏さんが言いふらしたからでしょう!私が泥棒って言うんなら証拠を見せて下さい」

「この町の有名な噂だからな!誰でも知ってる事だろ」

「今日カフェの店長に言われました。みんなが知ってるって、それは福咏さんが流した嘘が繋がったんじゃないですか!」震える声でそう言いながら自分にこんなはっきり言う力があったのかと驚いていた。それは他ならぬ藤岡の後押しによるものだと由梨は自覚していた。

福咏は青筋が立ってきた、今迄と違う態度に困っている様に見えた。「うるさい!泥棒!泥棒!お前は泥棒だ!親はどんな躾をしてるんだ!花装は終わってる!もっと言いふらしてやる。あの店はもう終わりだな」

無茶苦茶なやり取りに藤岡は呆れた。よくこんな奴が商売をしていて成り立ってるな。

「いや、なり立ってないよね。この店こそ終わりだよ」と福咏に向かって言った。

「なに!あんたなんなんだ」

「俺はこの店の客で、ただの第三者だよ。この店で買った足袋を撮ったら偶然あんたが映り込んでいたんだ」

「それがどうした」

「証拠もないのにこの人を侮辱した。ありもしない噂を広めて店の評判を落とした。名誉毀損、侮辱罪、信用毀損罪だ!裁判になったら証拠として提出する、そして俺は証人として出廷するからな!」

「俺が噂を広めたって証拠はどこにある!」

「店長に聞いてお客さんが誰かわかれば済む事だわ。きっと弁護士さんが聞いたら正直に答えてくれると思います」と由梨が言った。さっきの言葉も含め、由梨がこんなにはっきりと言ったのは生まれて初めての事だった。

「ほらな!そう言う費用も含めて慰謝料を用意しておけよ」藤岡はそう言って店から出る様に由梨に目で合図した。

由梨が小走りに店を出る時に振り向くと膝をついてガッカリしている福咏と、それを仁王立ちになって睨みつける奥さんが見えた。

 

「まだやる事がある」

「えっ」

藤岡は花装の店の前で由梨に言った。

「お父さんとお母さんに今までの事を全て正直に言うんだ」

「でも」

「さっき福咏にあんなに強く言ったんだからもう大丈夫。自分が辛かった事や今の自分の気持ちもちゃんと言えるよ」

 

 

由梨は藤岡の目を見てその気持ちをまた自分の中に取り込んだ。心の中に宿った炎が大きくなって燃えている。

 

由梨は花裝の店の中にいた父親と母親の前に立った。

「由梨おかえり」

 

 

「お父さん、お母さん、話があるの」

「動画を見て貰おう。昼間撮ったものもあるから」藤岡は店の前を往復した時にも動画を撮っていた。

「はい」

「あの方はどなたなの?」

「藤岡さんよ」

由梨はそう言って店の奥で2人に今迄の事、今日由梨に起こった出来事を詳しく話して動画を見せた。

実は今日娘さんが川の水面を見ながら深刻な顔をしてたので気になって声をかけたんです」

父親と母親は娘があっていたいじめにショックを受けた様だった。

「そうだったんですね、由梨ごめんね今まで知らなくて」母親は泣きながら由梨の手を握った。

「由梨までそんな事になっていたなんて」

「えっ?」

父親が藤岡に言った。

「私達もなんです」

「私達?」

2人は交互に自分達の名刺を藤岡に渡してきた。花装の花嶋祥雄と花嶋香織が由梨の両親の名前だ。

2人はこれまでの経緯を話した。

「福咏からの嫌がらせはあの店ができる前からありました。私達と福咏は元同僚で、20年前私が開業した時福咏も一緒に働かせてくれと言ってきたので、その時は私を慕って付いてきてくれたんだと思っていました。でもそれは勘違いで、福咏はうちの嫁さんに想いを寄せていたのが分かって」

私は福咏さんの事はなんとも思っていないってはっきり言いました。それにお腹に由梨もいましたので」

「その後の福咏は変わっていきました。態度が悪くなってついにうちを辞めて当て付けにうちのすぐ近くて店を出して、うちの商品は質が悪いとか欠陥品を売ってるとかマイナスイメージになる事ばかり言ってるんです」

「拗らせてるな」

「その後結婚したのでもう済んだ事だと思ってましたが、嫌がらせは延々と続いていたわ」

「由梨も同じ目にあってたなんて」と香織はすまなそうにいい、由梨の肩を抱いた。

「大変だったね由梨」祥雄も由梨の手を握った。

お互いに心配をかけるから言えなかったんだな、優しい親子だ。

「あの、偉そうな事言いますけど、自分の人生は自分で守らなきゃ。自分で力強く生きていかなきゃいけない。そんな状態を何年もほっといたなんて良くないですよ。もし訴えるんならこの動画を証拠として提出します」

「そうだったんですね」

藤岡が振り向くと福咏の嫁が立っていた。

「主人が花装の奥さんに、、」

と言って香織を見たので祥雄が「初めはそうだったと思いますが昔のことなんですよ。ご主人には憎しみだけが残ってるのかも知れませんが」

「情けない。そんな事だったなんて。何故いつも由梨ちゃんに辛く当たるのか不思議だったんです。商売敵の子だからだと思っていましたが、ちゃんと注意しなかった私が悪いんです」

「お前」

慌てて追いかけて福咏も入って来た。

こいつまで入ってくるなんてカオスだなと思って福咏を見ていると、福咏の嫁は冷たく「もう顔も見たく無いわ」と言って触れた手を振り払って出ていった。

それを追いかけようとする福咏の行く先に藤岡は立った。

「あんた何か言うことがあるだろ ? あんたのせいで奥さんとも揉めるんなら自業自得だよ。だけどな、ここまで入って来てこのまま出ていくのはどうなんだ」

そう言われて福咏は振り向いて花嶋の3人を見た。

「花嶋さん、すまなかった。俺は自分を途中で止める事が出来なかった。あんたが憎かったのに花装に入って香織さんに近づいたんだ。諦めようとしたんだが憎しみがどんどんエスカレートしてきて、あんたら親子にも嫁にもすまない事をした」

福咏は謝った事で全てが開けた気持ちになり手をついて「許してくれ」と詫びた。

藤岡は「まだ花嶋の奥さんに想いを寄せてんの?」と聞いた。聞きにくい事だが、福咏の夫婦関係に関わる。

「その気持ちはもうありません。自分には憎しみしか無かった」

「それはこの一件で今後どうなるの?

「こんなに綺麗に露呈して全て現れた形になっています。今は償いの気持ちしかありません」

「あのさ、散々名誉毀損したんだからこれから自分は嘘をついてたって事を知らしめて花装の信頼の復元に努めなきゃだめなんだよね。これで終わりじゃ無いよ。信用回復に努めなきゃ」

不特定多数の人間に言いふらした事を回収できるのか?それは全員が疑問な事だった。

「福咏、私達夫婦はお前の長い嫌がらせに疲れてここを売り払って花装を移転しようと考えていたんだ。もう私達の事は忘れて、今から嫁に謝って許して貰いなさい」

「祥雄さん」

福咏は頭をガックリと下げた。

「すみませんでした。関係ない由梨ちゃんにもすまない事をした」

「花嶋さん、本当に移転するんですか?

「そうですね藤岡さん。まだ計画中なのですが、どこかいい場所があったら」

「花嶋さん、福咏が、私達が移転します。この町の人達には謝罪広告を出します」

そこに由梨が口を開いた「お父さん、お母さん、私達がこの町から出ましょう。藤岡さんも言ってくれたわ。この町にいるから辛いんだって、俺ならここを離れて心機一転、新しい生活や人間関係の中で生きていくって」

 

 

「由梨」

大人しかった由梨が自分の意志を示すなんて」祥雄は藤岡の力が強いと思った。

昨日の由梨と今日はまるで違う性格のようだった。

「藤岡さんのおかげなのね」

「俺は何もしてませんよ。元々のこの子の力でしょう。それと俺、もう行かなきゃ」

夕方パンロンドの集まりがあるのにちょっと忘れてた、そう思っていると祥雄が言った。「本当にありがとうございました。縁あって助けて貰った。今後の事は親子で話し合います」

「わかりました。じゃあ」と言って由梨に会釈した。

「え?」

さっきまで強く心が繋がってる気がしたのにこれで立ち去って終わりになってしまうの。

由梨の心はもやもやと不安に覆われた。

「ちゃんとしといてくれよ」と福咏に言ってから、みんなに挨拶して出て行く後ろ姿を由梨は見ていた。

芳雄は福咏に「由梨は今朝まで深刻な状態だったんだ。あの若者に助けられたんだ」と藤岡の背中に感謝の視線を投げかけた。

「本当に謝罪広告を出します。嫁に謝って来て良いですか?」

「そうしてやれ」と言い放って福咏を店から出した。

「由梨、すまなかったね。本当に無事で良かった」

祥雄と香織は黙って立っている由梨にそう言った。

「私」

「え?」

「行かなきゃ」

そう言って由梨は走っていった。

体育の時よりずっと速く今までで1番速く。

橋を渡って道なりに行くと駅。

藤岡は駅にたどり着いて電車に乗り、空いてる席を見つけて座った。

良かったのかな?

今日は

いい方向に行ってくれると良いけど。

 

自分の人生は自分で守らなきゃ。自分で力強く生きていかなきゃね。

辺りはもう暗くホームの向こうの家々の明かりを見ながら「色んな家庭があるよな」と呟いた。

発射の合図のプルプルプルプルという音が流れる。

由梨はギリギリで電車に飛び乗って後ろ髪をドアに挟まれた。ドアはもう一度開いたのでそのスキに電車の中に転げこんで床に手をついた。

藤岡は百合を見て「電車にあんな乗り方したら危ないな」と笑って言った。

走って来たのでハアハア息が切れて恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら目は藤岡を見ている。

「あ、あの」

「どうしたの?そんなに息を切らして、俺忘れ物でもした?」

「私、今日気がついたんです。自分の人生も運命も自分で決めます!私をパンロンドで働かせて下さい」

しばらくポカーンと由梨を見て「まあ座りなよ。あのさ、パンロンドで働けるかどうかは親方が決めるんだ。俺じゃないよ」

「親方、、相撲部屋の」

藤岡はそう言われて親方が横綱の格好をしてるところを想像して笑った「ピッタリだな」

「え?」

「いや、折角電車に乗っちゃったから会う?親方に。めちゃくちゃ力持ちなんだよその人。相撲取りに見えるけどパン屋の店主なんだ」

「わかりました。会って見たいです」

「じゃあ心配してるだろうから家の人に連絡しておいて」

「はい」

由梨は不思議な気持ちで祥雄と香織にメールしていた。

告白が就活宣言になり、走って来た目的と違う方向に話が行ったが、今はもうとても前向きな自分がいて、藤岡の横に座りこの時がずっと続けば良いと思っていた。

 

 

「私頑張れそうです」

「そりゃ良いね。只今従業員募集中だからね」 

東南駅に着くまで藤岡はパンロンドの人達の性格や人間関係について話した。

駅前の居酒屋に入ると丁度江川が世界大会でどう活躍したのかを初めから順に説明していて、それを微笑ましそうに聞きながら修造が黙ってビールを飲んでいる。一際大きいのが親方、その横には奥さん。そして明るくて面白そうな杉本とその彼女の風香。

由梨は藤岡の話の通りだと思って微笑んだ。

藤岡の後ろにいる由梨にみんなが気が付いた。

「ちょっと!藤岡さーん。遅かったじゃないですか〜!その人誰ですかあ?」

「あ、ごめんごめん杉本。親方!面接したいって人を連れて来ました」

その時すでに酔っ払っていた親方は大声で「合格!採用!明日から来て」と言ってみんなを驚かせたが「ありがとうございます」と由梨だけは大真面目で応えた。

「ごめんなさいね、うちのが酔っ払ってて、また時間のある時に話しに来てね。2人ともここに座りなさいよ」と奥さんが話しかけてきた。

 

 

イエ〜イ!カンパーイ

みんな由梨に乾杯してニコニコしている。

また江川が大声でみんなに説明の続きを始めた。親方は「よーし!いいぞ!その調子だ」とか変なタイミングで返事している。

みんなの輪の中に座ってわいわいと楽しい話を聞いていると、ずっとこの輪の中にいたような、いたいような気持ちになる。

 

 

「ねえ、藤岡さーん。お土産は?」

「まだ言ってんのか杉本」

「たまには俺にもパンを買ってきて下さいよー」

「食べちゃったな。そうだこれやるよ、ほらお土産」

と言って杉本に渡した。

「やった!」

杉本は白い紙の袋から出して驚いて叫んだ

 

「足袋⁉︎

 

 

おわり

 

Emergence of butterfly  蝶の羽化

由梨はこれから自由に羽ばたいていけるでしょうか。

 

※ハート型のパイ Schweinsohrシュヴァンスオアー) ドイツのパン屋さんでよく売られているハート形のパイ生地のお菓子で、豚の耳という意味。幸運のシンボル。フランスではパルミエと言う。藤岡はこれを真っ二つにしたが意外と無神経。とはいえ他の向きで半分にちぎるのは難しい。

 

 

 

 


2022年08月10日(水)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ江川 Preparation for departure

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 江川 Preparation for departure

 

 

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「もうすぐフランスだ」

 

夜の12時。

東南マンションの3階の自室で

江川は窓際のベッドに横になりながら

暗がりのカレンダーを見て呟いた。

 

 

そう、もうすぐ世界大会だ。

空手のじゃない。

パンの世界大会だ。

「色々あったなこれまで」

修造と出会ってからのあんな事やこんな事。

緊張でギラギラする。

でもまた倒れたらいけないから早く寝なくちゃ。

もうパンロンドはしばらくお休みして修造と2人で明日からホルツで特訓だ。

修造さんは凄いな。

全てを理解していてあんなに早く動けて。。

 

あ、早く寝なくちゃ。

 

修造さんも寝る前に音楽を聴くと良いって言ってたな。

リラックス音楽を選んでイヤホンで聴いていた。

でもまた考えてしまう。

他の国の人達はどんなパンを作るのかしら。

きっと凄いんだろうな。

そしてまたカレンダーを見た。

「もうすぐフランスだ」

 

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朝、修造と待ち合わせして電車に乗った。

もう何度となくこの電車に乗ってパンの修行に行き、そして帰る。

毎回困難な課題にぶち当たり、解決してまた一段階段を登る。

そうやって随分登った気がする。なのにまた次の段がある。

「今日は一から通しでやってみよう」

「はい」

「まあ理解を深めるって感じで」

修造はプレッシャーを与えないように軽そうに言った。

江川の目の下にクマができているからだ。

これから二人三脚でと言いたいところだが、シェフ側から見たら助手は同じ力では決して無い。

アルチザン(職人)

ブーランジェ(パン職人)

そしてその下で働く者はコミ(助手)と呼ばれる。

ちなみに「職人の・職人的な」はアルチザナルだ。

ブーランジェとコミは力のあり方が違う、だが心を合わせて頂上を目指すのだから同じ方を向いて力を合わせなければならない。

 

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ベッカライホルツの別室で作業中

「江川、もうパスポートはとった?」

「はい、持ってます」

「当日忘れ物が無いようにしないとな〜取りに帰れないし」

「めちゃくちゃチェックします」

「1日目は鷲羽達のとこに泊まるから」

「えっ?」

「今園部と鷲羽は学校の近くに2人で住んでるんだ。そこで受け取った※種をリフレッシュしなきゃ。それと向こうで仕入れもして当日鷲羽に届けてもらうんだ」

「もうそんな話ができてるんですね」

「うん」

「2泊目は大会の会場の近くに泊まる。会場でパンデコレの土台とかパーツを作らなくちゃ」

大会の後半、パンを作り終えたらすぐにパンデコレの組み立てが始まる。それまでにパーツは完璧に揃えないといけない。

そこで上手く行くかどうかまだわからない。初めて行くところで場所も設備も想像もつかない。

2人ともそこが心配だった。

「ま、条件は皆同じなんだし」

不安を打ち消すには練習しかない。

修造はパンデコレの各パーツの生地を自分の思った通りに平らに凹凸のないように焼成するよう調節した。

例えば葉っぱのパーツ一つにしても本体に添わせたいならそんな風に、立てたいならそんな風に作らなければならない。

本体に生地をくっ付けるのって凄く難しい。

やはり前回のように※相欠きのパーツ同士を継ぎ手を作ってお互いの凹凸を嵌め込むやり方と、本達に仕掛けを作って※ほぞ継ぎのパーツを刺していくやり方を組み合わせた方法がいいだろう。

 

 

大木と相談しながら時間の許す限り何度も練習した。

「縦のものに縦のものを挿すのだから継ぎ手はいるな」

「ですね」

江川は色とりどりの生地を手早く順番を間違えないようにする練習をしていた。

そして数日後

2人は動きを合わせ、やがてピッタリと欠き継ぎの様に息が合い、完成度が高まってきたと思う瞬間が増えた。

 

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翌日ホルツに来た2人に、大木が「紹介するよ」と言って何人かを連れて来た。

「修造シェフ!ご無沙汰しています.いや~またお会いできて嬉しいです」紺色のスーツを着た男が白い歯を見せて声をかけてきた。

「あ」見覚えがある。

「基嶋機械の後藤です。今日は社長の基嶋義信を紹介させて頂きます」

「確か、後藤さんとは選考会の会場でお会いしましたよね」

「覚えていて頂けましたか!社長!こちらが田所修造シェフです」

「田所シェフ、初めまして基嶋です」

「どうも」

「修造、基嶋機械さんは今回の大会の後押しをして下さるからな」大木が基嶋機械がスポンサーになっていることを伝えた。

「ありがとうございます」

「担当は後藤ですので困った事があったらお伝え下さい」基嶋は後藤を前に出した。

「シェフ、これからよろしくお願い致します」

「はい」

そして次のブラウンのスーツ姿の男が名刺を出してきた。

「私、興善フーズの営業主任の青木 康裕と申します。担当の五十嵐良子です」

といってもう一人の女性社員を手で指した。

「五十嵐です。ライ麦の試食をして頂いた者です」

「その節はどうも」

修造は知らないが、青木は選考会で修造が壊したパネルの後始末をしてくれた男だった。

「必要なものは五十嵐にお知らせ下さい」

「私が食材を手配致します」

「ありがとうございます」修造は頭をちょっと下げた。

他にも何社かの営業の者が挨拶に来ていた。

「そしてこれ」大木が大会のユニフオームを修造と江川に渡してきた。

「フランスから送られてきたんだよ」

 

 

江川は早速ユニフオームを広げて大喜びだった。

「わあ〜!かっこいい」

「さあ、では行きましょうか」後藤が白い歯を見せて張り切って言った。

「え?どこへ?」

「写真撮影です」

いくつかの企業がスポンサーとなることで資金面で選手も助かるし、企業側も認知の拡大、自社の製品の知名度の向上やイメージアップができる。企業共有の写真を撮りに行く事になった。

実際勤め人の選手には資金面の心配までしていては集中力が削げる。

 

「私がお連れします」と言って、後藤は修造と江川、大木を車に乗せてスタジオに向かっていた。

私が大会が終わってもお付き合いしますのでなんでも相談して下さいね」

「だってさ、修造!大船に乗った気でいろよ」と大木が言った。

急接近してきた後藤になんだか背中がこそばゆいが、やはり助かる。世間知らずの修造は直球を投げた「見返りに何かするんですか?」

大木が「ほら、あるだろ?スポーツ選手の肩や腕のところに企業名が付けてあるだろ?あんな感じだよ」と、また振り向いて言った。

「あぁ!はい!あれ!」

カタログや業界新聞のうちのスペースにシェフとうちの機械を載せるんです」何も知らないのでこちらのペースに乗せやすいかもしれない。

「それと、次の展示会ではうちのブースでデモンストレーションをして下さいね」

「あのオーブンやらが沢山並んでる所で?」

「はい、実際に基嶋のミキサーやドウコンを使ってパン作りをして頂きます

「後藤君、そういうのは大会が終わってからにしてね」と大木に釘を刺されたので笑って誤魔化した。

「凄い、僕達の知らない別世界」と、後部座席で黙って聞いていた江川が大人の世界を垣間見てちょっと心躍った。

スタジオに着くと早速さっきの大会指定のユニフォームに着替え、3人で並んだ。

「色んなポーズするんですか?こう?」

などと江川が張り切っているが修造は内心嫌がっていた。

本当は写真撮影は苦手だが仕方ない。。

黙って突っ立っている修造にカメラマンが穏やかに声をかけた。

「右の後ろの方、もう少し隣の方に寄って下さい。はい!笑って下さーい」

笑ってと言われてどんな笑い方をすれば良いんだろう?

何度も撮り直すので大木が振り向いて修造の顔を見た。

「おい、笑えって言われてるだろ?」

「はあ」

口角を上げてみた。

 

 

ぎこちな過ぎる。

「修造さん、こうですよ」

江川がにっこりとして見せた。

「えーと」

強い目力に更に力が入り、口の両端を上げた。

こわ

カメラマンが困っていたので江川が「そうだ!大地ちゃんを思い出したら?」とアドバイスしてきた。

あの可愛い大地を。。

修造の顔が急に綻んだのでやっと良いのが撮れた。

「江川ナイスアシスト」と大木がほっとして言った。

「次はお一人ずつ撮りますね」

「えっまだあるの?」

「良い写真が撮れないとずっと撮り直しになりますよ」

さっさと撮り終えた江川が言った。

「う、うん」

 

「修造さんもう少し笑って下さい」こういう事の苦手な修造は何度もカメラマンに言われていた。

「もう少し斜に構えてカッコいいポーズも撮りましょう」

「え」

もう言われるがままに指定の格好をするしか早くこの場から逃れるすべは無い。

「腕を組んで」

「もっと笑って」

 

色んなポーズを撮るカメラマンとなすがままの修造を見ながら後藤は考えていた。

この人優勝してもしなくても結局店を持つんだろうな。今からうちのいい中古を探しておこう。まだそんなに使ってないものを会社の者が何処かで見かけたら俺に言う様に言っておこう。どのぐらいの規模なのかな。一等地に狭い店を構えるのか、郊外に広い店を持つのか。やっぱパンロンドを拠点に考えるのかな。今ガツガツ聞くと大木シェフに叱られるな。それにしても随分この2人を可愛がってるな。息子みたいにしてる。

 

それと

江川を見た。

こちらの助手の少年もそのうち名前が知れ渡っていくだろう。デジタルタトゥーの意味合いとは逆に名誉なこともネットにあげたら中々消えないもんだ。

今月はこの2人の特集をうちの取材として業界新聞やホームページに載せる予定だし。

 

後藤はにっこり笑って「江川さん、手伝います」と声をかけ、受け取った新品のユニフォームをさっき開いた筋目の通りに畳んで袋に入れ直した。

「ありがとう。ねぇ後藤さんの仕事って何する人なの?」

「私の会社はパンやケーキ、ピザを作るのに必要な機械を作っているんです。パンロンドにも窯やホイロ、ドゥコン、ミキサー、パイローラー、※モルダーがあるでしょう?」

「はい!あります!」

私の仕事はそれらの新製品を皆さんに広めて買っていただく事なんです。今回江川さんともお知り合いになれたので、今後何かあったら基嶋機械の後藤をよろしくお願いします」

「僕がいつか自分でパンの機械を買う日がくるのかしら。。想像もできないです」

まだ貯金もないのに大それた買い物は考えも及ばない。

なので修造さんがもしもパン屋さんをやったら僕もついて行くつもりです」

「そうなんですね、私とはずっと仲良くして下さいね」後藤は笑顔を見せた。

「ところでね江川さん」

「なあに?」

「修造さんは何か趣味とかあるんですか?休みの日は何をされてるんです?」

「修造さんはパンロンドに来るまで空手をやっていたそうですよ。休みの日は家族と過ごしてるんだ、結束が固くてその時は僕は近づけないんだ」

「そんなに寂しそうに言わないで。修造さんのお店でまっさらの綺麗な設備に囲まれて仕事している所を想像してみて下さい」ちょっと新品案件も刷り込んでみる。

「それ凄くいいですね。楽しそう」なんだかアミューズメントパークみたいな感じがする。

「希望が湧いてきたでしょう」

「はい」江川の表情がぱっと明るくなった。

「これ見て下さい、うちのピカピカのオーブンです」

後藤はカタログを見せながら、江川にこれまでのパンの活動について聞いた。

 

その後

やっと修造の撮影が終わった。

着替えを手伝ってやりながら後藤は頭の中の算盤が止まらない。選考会の時、修造のパンを見てグンとテンションが上がったままなのだ

後藤は自販機の所に行き修造にカップのコーヒーを入れて控室に戻った。

「修造さん、お疲れ様でした。これどうぞ」

「あ、どうも」

これを飲みながらうろうろする者はあまりいない、座った修造の横に自分も座る。

「私は2人子供がいましてね、休みの日なんて家族サービスで大変です、でも子供達の笑顔を見ると不思議と疲れが吹っ飛びます」

「後藤さんのお子さんはまだ小さいんですか?」

「はい5歳と3歳です。良いですね子供は」

共感とシンパシー。後藤が客に対して営業で心がけている事だ。

「俺も子供がいるんです。上の女の子はとても好奇心が強い子で、下はもうすぐ4か月になります。可愛いですよね」

「ね!」

2人は顔を見合わせて笑った。

そのまま後藤はレコーダーのスイッチを押して修造にパン作りについて色々話しかけていった。

 

ーーーー

 

アパートの部屋に帰った修造は黙って入って来た。

「お帰り修造」律子が静かに小声で言った。

「ただいま」と帰って来たよのハグをした。

「子供達は?」

「寝てるわ」

「今日ごめんね遅くなって」

「なにかあったの?」

「今日撮影があって。それにインタビューめいた事もあったよ」

 

ソファに座ってふ~と息を吐く。

頭を背もたれに乗せて「スター選手の真似事は俺には向いてない。ああいうのは江川に任せておけばいいんだ」と泣き言を言った。

律子が横に座って手を握る「もうすぐフランスに行くからその準備が忙しいのね」

「何かのカタログとか新聞にに載るんだってさ」

「早く見たいわ」

「出来上がったら貰って帰ってくるよ」律子は疲れた修造の顔を覗き込んだ。

「大会が終わるまではパンの事だけ考えて。私達は大丈夫。何も心配いらないわ。そのカタログと新聞を部屋に飾っておくね。ずっと応援してるわ」

気丈夫な愛妻らしいきっぱりとした言い方に修造は愛おしさが倍増した。

 

 

「律子ありがとう」

「大好きよ修造。ずっと」

「俺、律子に出会えて良かったよ。何に感謝していいか分からないぐらい」

 

ーーーー

 

後藤は社に戻ってすでに出来ていた原稿の枠に記事と写真を載せて印刷するように指示した。

そうしてできた記事の載ったカタログと新聞は広く業界に送付された。

私達は日本チームを応援しています。とでかでかと載せた。

基嶋のホームページは新しく作り変えられた。

基嶋は本気を見せた。

私達は日本チームを応援しています。

内緒だが世界大会で優勝した時の為のものもすでに出来上がっている。

カタログなどを持ってきた後藤と五十嵐と他数名がフランスに応援に来てくれるらしい。現地で知り合いが多いのは心強い事だ。

「よろしくお願いします」修造も何度も営業の人達と話すうちにそんな挨拶が身についてきた。

 

ーーーー

 

「親方、みんな、俺たち行ってきます」

修造と江川は選考会の時の様にパンロンドの人達に挨拶した。

「修造、フランスに一緒に行けないけど、俺はずっと応援してるからな」

どんな時でも仕事の手を休めない親方らしい応援の仕方た。

「修造さん、江川さん頑張って下さいね」と藤岡が

「イェ〜ファイト〜。トロフィー見せてくださいね〜」と杉本がはじけた。

「忙しい時に休んでごめんね。僕頑張る」

「行ってきます」皆それぞれグーをトントンと突き合わせて2人を見送った。

全ての荷物を送って無事に会場に就くように祈る。·

 

 

「行こうか江川」

「はい」

 

 

成田を21時40分に出てシャルル・ド・ゴール空港に9時40分着。

19時間でフランスだ.

 

 

とうとう旅立つ時が来た。

 

おわり

 

種をリフレッシュ  ライ麦のサワー種は固い生地で低温で長期間保存すると酢酸が多く生成される。今回はそれを防ぐ為に種継ぎ(リフレッシュ)する。旅先だが、あまり酸味を強くせず、乳酸を増やす操作をしようと修造は考えていた。

相欠き(あいがき)は木材の継手の一種で、下の上の図のように板物や角材の継ぎ方をいう。角材などを互いに半分ずつ欠きとって、切り取った部分を繋ぐ方法。おおむね材の厚さ分の長さを、互いに重ねることが多い。

ほぞ組みとは、脚物家具(椅子やソファなど脚付きの家具)に使われる木材の接合方法のひとつ。

※モルダー  製パン用の機械のひとつ。丸めた生地をモルダーに入れると伸ばして生地のガスを抜き、機械の中でコロコロ転がってロール状(コッペパンみたいな細長い形)になって出てくる。プラス板の間隔の調節で食パンなどの大物から小さなロールパンまで対応できる。

 


2022年08月01日(月)

パンの職人の修造 江川と修造シリーズ  Annoying People

 

パンの職人の修造 江川と修造シリーズ   Annoying People 

 

 

 

今日もまたグーググーグーグーっていう喉の奥から響く音が聞こえる。

 

江川は杉本と一緒にパンロンドの工場の奥で生地の分割と丸めをしていて修造に背を向けていたが、例のハミングが聞こえてきたので修造の方を振り向いて確認したかった。

でも珍しいものをみる様な目で見たら失礼だし、、

江川はちょっとだけ振り向いてまたパッと元に戻った。

凄い嬉しそうな顔してる。

 

夏が終わり、修造の家族の律子、緑、大地が実家から帰ってきたのだ。

久しぶりに会えて嬉しい限りだった。なので例の謎の鼻歌も止まらない。

 

江川がちらちら修造を見ていると、向かいに立っていた杉本も江川の顔をじーっと見てきた。

「何?杉本君」

「江川さん、顔と首にに赤いブツブツがいっぱいありますよ?

「半月前、滝にマイナスイオンを浴びに行ったら虫に刺されちゃったんだ。それが全然治らなくて、、これでも随分マシになったんだ」

滝壺に飛び込んだからびしょ濡れになっちゃって、着替えてる間も蚊に襲われて。

思い出しただけでも泣けてくる。

おまけに大会の為のスケジュール表を暗記したいが複雑で完全に覚えるのはなかなか、、

 

「杉本君みたいに書いて覚える特技があったらなあ。僕スケジュールが覚えられないんだ」

「なかなか俺みたいな天才にはなれませんよね」

なんだかすごく腹の立つマウントの取り方をされて頭にくる。

「なにそれ!」

だが杉本は藤岡と2人して製パン技術士3級の試験に受かって、しかも彼女に指輪をプレゼントして幸せそうだ。

呑気で悩みのない感じの杉本をみてちょっと羨ましい。

「グ〜」っと江川も喉の奥から変な声を出した。藤岡がいたら冷静に杉本に何か言ってくれたかもしれないが今日は休みだし。。。

 

目を三角にしながら分割した生地の乗ったバットを持ってきた江川を見て親方が心配した。

「おい大丈夫か?疲れが溜まってんのか?無理すんなよ江川」

疲れてる時に優しい言葉をかけられると泣けてくる。

「親方、僕工程が複雑で覚えられなくて」ちょっと涙が浮かぶ。

「うーん。修造の助手は正直大変と思うけど、折角鷲羽に勝って得た座なんだしな〜」

と親方も応援するしかないなあと思っていたら。

「江川君、私が良い方法を教えてあげる!」

「えっ?」

2人の会話を聞いていた親方の奥さんが得意げに言い放った。

「良い方法があるんですか?

「そう!暗記方があるのよ」

「へえ」

「漢字の暗記法なんだけどね、まず覚えたい言葉を見ながら膝に書いてその後眼を瞑って同じように3回ぐらい書いてみるの。どんどん書いていったら良いんじゃない?」

「やってみます」

奥さんは「覚えられなかったらごめんね〜」と言って店に戻って行った。

 

 

江川は早速家に帰ってやってみた。

えーとまず目を開けて膝に書いてそのあと目を瞑って膝に書く、、と」

それをびっしり書いてある工程表の上から下へと何回かやってみた

一行目から二行目へそして三行目へ、、

 

ーーーー

 

一方田所家では

「大地はまた重くなったな。首もグラグラしなくなったね」と修造は大地に話しかけていた。

 

 

「あー」

「うー」

とお話の量も増えて、お返事してくれる。

「可愛いなあ」とほっぺをぷにぷにした。

 

さて、夕方になり、東南マートのセールの時間が近づいてきた。

「さ、緑、出かけよう!」

「うん」

2人はスーパーへの道のりでいつも色んな話をしていた。

「夏休みは楽しかった?

「うん、おじいちゃんとサンマリーンに行ったりラーラに行ったりしたのよ

サンマリーンながのとラーラ松本は流れるプールやらでっかい滑り台やらある楽しい施設らしい。

「ラーラ松本は結構おじいちゃんの家から遠くない?」

「朝早くから車で行ったのよ」

「それは、、」

修造はそんなに若くない巌が朝早くから夜遅くまで面倒見てくれてたのを想像して「疲れただろうなあ」と申し訳なく思った。

「それとね、花火とかスイカ割りとかもしたよ。楽しかった」

「おじいちゃんも楽しそうだった?

「うん、ニコニコしてたよ。みっちゃんとおじいちゃんは仲良しだもん」

「そうなんだ」

ひと夏自分の修行の為に家族の面倒を見てくれた巌の気持ちに応える為にも「俺、頑張らないとな」

夕陽が眩しい坂道を降りながら修造は決意を新たにした。

 

 

スーパーでチラシを見ながら特売品を探していると「修造シェフ」

と声をかけてきた40ぐらいの年齢でグレーのスーツ姿の男がいた。

「はい?」

「初めまして、私株式会社石田・メリットストーンの有田悠と申します」

名刺を受け取り有田の顔を見た。

メリットストーンって中堅の製パン会社で関東の各駅に一軒あるだろう有名店だ。

職場以外のところで中々お会いできないのでここまで来ちゃいました」

有田は人懐こい笑顔を見せた。

ほうれい線と目尻に深い笑い皺がある。

「シェフ、業界のシェフへの期待感は凄いですよ。勿論我々メリットストーンもです。シェフが世界大会で優勝されると皆信じています」

なんだか嘘くさい大袈裟な言い方の様に修造には感じた。

「ここには俺を探して来たんですか?」

「シェフ。そうなんです。是非シェフにお伝えしないといけない事があって、居ても立っても居られなくて来ました」

「ご用件は?」

シェフの様な素晴らしい方がうちの会社で私達を導いて下さったら我々ももっとパン業界にお返しが出来ると思うんです」

え?

なんの話だこれ。

「大会が終わったら是非弊社においで下さい」

え?引き抜き?

修造は思いもよらない声掛けに驚いた。

 

有田はホルツやパンロンドと離れている瞬間を狙ってスカウトしに来ていた。

 

「俺、パンロンドで働いてるんです」

「存じております。ですが〜シェフの可能性を拡げる為にもですね、是非弊社で辣腕を奮って頂けたらと思っています」

「すみません、俺、そのうち独立する事は社長にも言ってあるので」

有田は修造の表情が固くなって来たのを見た。

「わかりました。今日はご挨拶に来ただけです。またそのうちに、こちら御目通しを」

と茶色の封筒を渡して頭を下げて立ち去った。

 

修造はその中の紙を見て「えっ」と有田の会社が提示した給料の額を見て声を上げた

 

「統括主任、、80万!ボーナスはその3倍!」

さっき夕陽に誓いを立てたのにもう金の話なんて気が散るなあ。

もらった紙を丸めてポケットに入れ「緑ごめんね、お待たせ」と言って

お菓子売り場の食玩コーナーをウロウロしていた緑と買い物を済ませて帰った。

 

ーーーー

 

後日、修造と江川はホルツに来ていた。

修造は有田の話を大木にした。

「メリットストーンはお前の目指すパン作りとは違うだろう」

「会社と俺のパン作りを摺り寄せようとしてるんですかね?」

「ま、お前のステイタスが欲しいんだろうよ」

「俺の?

「独立するとそういう話は無くなるよ」

修造は花を付ける予定の編笠の土台を作りながら「そうですね、どっちにしろ行かないので」と言った。 

そしてパンデコレのあれこれを考えを巡らせながら作っていった。

 

それはこんな風だった。

 

編笠とそれに付ける花を窯に入れてタイマーをセットした。そして留木板金から届いた蝶の抜き型を台の上に伸ばした生地にあてた。留木は応援の意味も込めて生地に付く全ての面を尖らせてスパッと抜ける様に施していた。

「留木さん、良い仕事するな」と呟いた。

蝶の色は青に紫に濃い茶色。「よし、良いのができそうだ」修造はしたり顔をした。

修造が作っている大会のパンデコレは和装の女性だ。

 

 

1番難しいのは流れる帯の模様の土台の生地に、色違いの生地をピッタリ嵌め込むところ。上手く行くかどうか。

出来るだけ滑らかな曲線を大切にしたい。

修造は大工の様に、嵌め込む生地の膨らみを計算して設計図を作り台紙をその通りにカットした。それを元に生地をカットして焼成後また引っ付けると2色の帯の出来上がりだ。地味だけど案外難しい。

次に土台作り。平らで安定感が大切だし、本体をセットしてぐらつかないようにしないと。

本体と土台はフランスには空港便で送れるのかな?全部の用具も送るのを忘れないようにしないと。他の部品は現地で製作だ。

フランスには食べ物の持ち込みは禁止だ。荷作りの箱を空港で検閲犬にクンクンされて見つかったらはねられてしまうかも。

そんなことを考えながら窯に入れた時江川が話しかけてきた。

「ねぇ修造さん、僕、柚木奥さんに暗記法を教わって随分工程が頭に入ってきました。イメトレもできます」

「そう?じゃ今度から通しでやってみよう。特訓だな」

「はい」

出来るだけ練習しないと頭で覚えただけでは動きが染み付かない。あとはもうギリギリまで何度もやってみることだ。バドミントン選手の様に与えられた場所で2人で入れ替わり立ち替わり自分の作業をして、お互い邪魔にならない様にしなくてはならない。

機械の置き場を大木に教わって動けるように考えた。

 

「江川、虫刺されのあと、治ってきた?あの時は悪かったな。俺集中しちゃってて気が付かなかったんだ」立ち回りを決める時に修造が江川に話しかけた。

「修造さんが精神統一をしに行ってたって途中で気が付きました」

「まあ心と身体を鍛えに行ってたんだよ。集中力は大事だしな」

「僕なら何をやったら良いですか? 座禅?」

「寝る前に呼吸を整えるとか、音楽聞くとか?」滝行を江川にやらせて首がどうかなったら困るのですこぶる優しい方法を薦めた。

 

ーーーー

 

次の日

修造は工場の奥でいつもの様に仕込みをしていた。出来上がった生地をどんどんケースに入れていく。そして計量、ミキサーへそしてケースへ。

その時奥さんがお店から大声をだして「誰か〜配達に行ける人いる?」と聞いてきた。

丁度仕込みの手が空き、次の作業まで時間がある。その間ロールインとか他の者の作業を一緒にする予定だった。

「俺行きますよ。すぐ戻れると思うんで」

「じゃお願いね」

「はい」

修造は奥さんに届け先の住所を聞いてメモした。

「ここって最近毎日注文が入るのよ。昨日は親方、その前は藤岡君が行ってくれたの」

「はい」修造はパンの入った2段のケースを受け取り配達用の軽バン『パンロンド号』に運んだ。

カーナビに住所を入力して出発する。

その時青色の軽自動車が少し離れてこっそり跡をつけていったのを修造は全然気がつかなかった。

 

現場に到着。

閑静な民家の間に配達先の建物がある。

4メートル程の道幅の道路に車を止めて荷物を運んだ。

「ここでいいのか?」

建物の中には誰もいない様だった。

窓の中を見ると、中は何かの調理場の様だが電気も消えてて人はいない。

 

 

修造はドアに貼ってあるメモを見つけた。

『パン屋さんへ この建物の裏に回ってください。

5軒のうち真ん中の建物の赤い入り口を開けて入ってください』

と書いてあるので修造はその通りに行った。

空き家っぽい家が並んでいる。

メモの通り真ん中の廃屋の様な家の赤い入り口の横開きのドアを開けて入った。

「あの〜すみませーん」

返事もない。

ここでいいのか?誰もいないのか?と思って23入ったその時、ケースを持って両手が塞がっている修造の背後から何者かが袋みたいな物を頭に被せた。

「うわ!モガガ!」こんな時でもパン箱を落とすのは嫌だ。地面に置いた時足を掬われ、両手を後ろに縛られて奥の部屋に放り込まれた。

「なんだー

 

ーーーー

 

一方その頃パンロンドでは、江川が工場の奥から店の方をチラチラ見ていた。

「ねぇ藤岡君、修造さん遅いと思わない?藤岡君と親方が行った時なんて20分もかからずに戻ってきたよね?」

「あ、ほんとだ。出発してから40分以上経ってますよね」

「でしょう?親方、修造さん遅いと思いませんか?」

「何かあったのかな?江川、ちょっと電話かけてみて」

「はい」

江川は何度もしつこくコールしてみたが出ない。

「出ませんよ!何かあったのかな?」

「事故ったとか?」

「どうしよう!修造さん!」

江川が色々想像してパニくりだしたので「落ち着いて江川さん。大丈夫、俺が見てきますよ」と藤岡が言った。

「俺、道を覚えてるから自転車で現場まで行きます。また連絡しますね」と江川を宥めて出発した。

 

ーーーー

 

藤岡が配達先に着いたがパンロンドの車は無い。

「おかしいな」

自転車を停めて中を覗いたが電気が消えてて建物は閉まっている。

「あの〜すみません!誰かいますか?

ベルを鳴らしたが誰も出てこない。

一昨日は人が何人かいて調理中の様だった。建物の中にテーブルが置いてあって、取り仕切ってるっぽい女性が出てきて「ここにお願いします」と言うから挨拶してパンを置いて代金を貰った。

「誰もいないのか、どう言うことなんだ」

藤岡がキョロキョロしていると、道の脇に青い軽自動車が停めてある。

中を覗いたらパンフレットらしいものや封筒が後部座席に置いてある。封筒やらに書いてある文字を見た。

メリットストーン?聞いたことあるな、、

そうだ!パン屋の名前だ。一体なぜこんな所に?

建物の周りを一周しようと裏に回ったら40代ぐらいのスーツ姿の男が少し離れた民家の前でウロウロしている。

こいつがメリットストーンのやつかな?

動きが怪しい。

藤岡はちょっとその男を観察した。

一軒ずつ背伸びしたりかがんだりして中を覗こうとしている。

「何やってるんだ?」藤岡はその男の背後に行って「おい」と声をかけた。

「ヒェッ」男は心底驚いた様で腰を抜かしたが、藤岡のコックコートを見て「パン屋さん?」と聞いてきた。

 

 

「そうだよ。俺はパンロンドの藤岡だ。何でここでウロウロしてるの?」

「怪しいものじゃ無いんです。修造さんに話があってパンロンドの車を追いかけてきたらこっちに向かって修造さんが移動するのが見えて。。いつまで経っても戻ってこないんです」

「それでどこに入ったのか覗いてたの?」

「そうですそうです」

倉庫の裏には建物が4.5軒あってどれに向かって入ったのかは分からない。

「どれかな?

「おい」

一軒ずつ見ていこうとする男に藤岡が詰め寄った。

「それも早く見つけなきゃだけど、お前は何で修造さんに着いて来たんだよ」

「えっ」

 

ーーーー

 

一方その頃

修造は

椅子に縛られていた。

「おい!誰だ!お前らなんなんだ!モガモガ」

何者かが修造に被せた布を取った。

「あ?」

「え?!」

2人の社員風の男が修造の顔を覗き込んだ。

1人はロン毛でもう1人は短髪、2人ともカッターシャツでネクタイ姿だ。

一体何故こんな奴らが?

「こんなむさ苦しい感じでしたか?

「いやもっと綺麗だろ、、、」

「ひょっとして間違えた?」

2人は顔を見合わせてまた修造を見た。

「なんだむさ苦しいって!」

失礼だし、どうやら間違って捕まった様だし。

「どうする?こいつ」

「こんなの連れてったらダメだろ」

はあ?

あ、そうだそろそろ生地の※パンチの時間だ。

江川に言わなくちゃ。

修造は縛られていた紐を手首をグニグニして紐を緩めて思い切り広げた。

「うおりゃあ〜っ!」

そして引きちぎって1人目の男の肩を掴んだ。

 

ーーーー

 

その廃屋の前の路端では

藤岡に問い詰められて男は白状していた。

「私はメリットストーン・株式会社石井の営業部主任の有田と言います。実はこの数日、、修造シェフについて回ってまして」

「怪しいなあ。何故?」

修造シェフに大会が終わったらうちに転職して頂こうと思っていたんです」

「転職、、しないでしょう?修造さんは」

「はい、断られましたが。周りからの圧があって再びお願いしようと思いまして。そしたらシェフが消えてしまったんです。それでどうしようかと」

有田は一軒一軒覗きながら言った。

どうやら悪いやつじゃなさそうなので今のところは信用するか。。と藤岡は思った。

「パンロンドの車は知らないですか?」

「えっ?車?」有田は少し戻って車がないのを見た。

「誰か隠した奴がいるのかな?さっきまでありましたよ」

「あ、この家から何か聞こえませんか?」

空き家っぽい家の方からドン!と言う音が聞こえる。

藤岡は耳を澄ませた。

 

ーーーー

 

修造は手首を摩った後、1人目の左脇腹を右足で回し蹴りでふっ飛ばした。

一撃必殺。

こんな所師範に見つかったら叱られるな。と思ってかなり手加減した。

 

 

1人目は「うがっ」と脇腹を押さえながらよろよろ立ち上がり、椅子で殴りかかってきたので、後ろ回し蹴りで椅子を壊して振り向き様に踵落としを決めた。

「グフォ」っとアニメの様な声を出して立てなくなった様なので、もう1人の所にツカツカと歩み寄った。

「ひいい〜」っとびびる男の肩を掴んで「おい!電話を返せ!」と言った。

慌てて修造のスマートフォンを渡して警察を呼ばれると思っていたら「もしもし江川?あ、ごめんごめんちょっと手間取っちゃって。そろそろパンチの時間だから頼むよ。うん、うん、大丈夫。そう。じゃあすぐ帰るから。え?藤岡が?わかった」と言った。

拍子抜けして修造を見ていたらもう一度肩を掴まれて「何故俺を捕まえた?誰と間違えたか言え!」と詰め寄った時、ドンドン!とドアを叩く音がした。

修造が2人目の男の首根っこを掴んだまま玄関のドアを開けると藤岡と有田が飛び込んできた。

「修造さん大丈夫なんですか?

「ああ!今からこいつが白状するから聞いてみよう」

2人目の男は藤岡を見て「こっちが正解だったんだよ」と言った。

 

ーーーー

 

5人は壊した椅子を片付けて部屋の真ん中に突っ立って話をし出した。

 

「私たちは鴨似田フードって言う会社の中途採用で入ったばかりの社員です。私は歩田、こちらは兵山と申します」とショートヘアーの方の男が話しだした。「3日前、会社が仕切っているレセプションパーティーがありまして、材料を料理教室で作って私達が会場に運ぶ予定だったんです。それでこっちのイケメンがパンを配達に来た時に奥さんが一目惚れしまして、、次の日はもうパーティーが終わってんのにまたパンを頼んだらその日はものすごい大男が来て、次の日にもう一度頼んでこのイケメンが来たら連れてくる様に言われてたんです」

「それで俺を捕まえたのか」

「はい、すみませんでした。実はここの何軒かの空き家は鴨似田が買い取ってマンションにする予定で、その一軒を使ったんです」

「連れてくるなんて簡単に言われたけど凄く難しい様に思えて、それで捕まえて連れていくことにしたんです」

「俺を連れて帰ってどうするつもりだったんだよ」と藤岡が冷静な口調で言った。

「お金でなんとかできると思ったんじゃないでしょうか?

「そんな訳ないだろう!車もお前達がやったのか?」

「あれは私が裏口から回ってこの建物の裏に隠してあります」ロン毛のほうの男が答えた。

「ちょっと調べればすぐ足がつくだろう!」

「だな、そろそろ警察を呼ぼう」修造も呆れて言った。

 

修造が電話をしかけた時、なぜか有田が遮った。

 

「え?」

 

「あの〜そのレセプションパーティー、私も出ておりまして」

「そうなんですか?」

「はい、うちと取引があるんです。奥さんの鴨似田湘子さんは存じていますがそんな悪い方ではないと思います。警察沙汰になって鴨似田フードに何かあって納品が滞るとうちの会社も他の会社も困るんです。それに大会前にシェフの名前がこんな所で上がるのはどうかと思いますし」

なんと有田は手を合わせて隠蔽を頼んできた。

「仕方ないな、その奥さんを呼べよ。俺が説教してやる!」

「え〜」っと修造以外の全員が言った。

「踵落としは勘弁してくださいよ」

「ガツンと言ってやる!」修造が力強く言った。

 

ーーーー

 

鴨似田フードの鴨似田幸代を怒鳴りつけてやると息巻いていた修造だったが、案外だらしないもんだと藤岡は修造を冷たい目で見た。

「あのー奥さん、困りますよこういうの。俺が攫われそうになっちゃうし、仕事にも支障をきたしてますし」

 

「この度は私の勝手な思い込みによりご迷惑をお掛け致しました」

 

 

高級菓子折りを渡されて修造は頭をかきながらつい受け取ってしまった。

「色々誤解があった様で申し訳ございません」幸代はややくねりながら頭を下げた。

藤岡さんには次のパーティーに花を添えて頂ければと思ってお願いしようと考えておりましたが、この様な事になってしまい申し訳ございません」

「具体的にはどんな事を望んでらっしゃったんですか?」

「次のパーテイーでパンとサンドイッチのコーナーに立って頂ければと考えておりました」

それが本当だとするとお前らどんな受け取り方をしたらこんな事になるんだよ。修造はそんな眼差しを、歩田達に向けた。

「すみません」

2人は小さくなっていた。

「私が悪いんです。2回目と3回目の注文は関係ないのにしましたし、きっと熱が篭ってたんですわ」と言って藤岡を見つめた。

それを見て修造は考えた。

確かに藤岡はイケメンだが再びトラブルになるのは本人も周りも困るよな〜。。そうだ!

「奥さん、こいつめっちゃ頭と足が臭いし性格も悪いし客受けが悪いったらないですよ」と藤岡に指を差して幸代に向かって言った。

「な、、、!」

 

 

藤岡は悔しそうに修造を睨みつけた。毎日一緒の職場にいれば修造がこんな事を言うような人間じゃないとわかってはいるが腹が立つ!

「グ〜」藤岡も喉の奥から声を出した.

「ねっ!こんな顔をいつもしてるんです」

「はい」

 

奥さんの顔から少しずつ血の気が引いてる気がする。

「おっと!俺そろそろ分割の時間なんで帰ります」と言って振り向き「車を出してこい!」と2人を走らせた。

物凄く不機嫌な藤岡はそのまま出て行き、自転車で帰ってしまった。

車を持ってきた2人は修造に言い訳をした。

「確かに奥さんはどうやってもあのイケメンを連れてきて!って言ってたのになあ」

「本当すみませんでした」

「今回は有田さんの手前許してやったけどさぁ。藤岡には2度と迷惑かけないでくれよ」

と言って2人を後始末に戻らせた。

修造はもう一度江川に電話した「ごめん、分割しといて。もうすぐ帰るよ」

と言って有田の方を見た。

「修造シェフ、お怪我なくて良かったです」

「あのぐらい全然平気ですよ。。それより有田さん。なんで藤岡と一緒に入ってきたんですか?

「はい、実はもう一度話を聞いて頂こうとしてここまで追いかけて来ました。で、藤岡さんと修造シェフを探していました。会社へのメンツもありますが、さっきの鴨似田さん達を見ていて金や力づくでは人の心は動かないと思い直しました」

「すみません、力になれなくて」

「今日はいい勉強になりました。私も応援していますから」と言って青い軽自動車に乗って帰っていった。

ーーーー

パンロンドに戻ると江川が慌てて出てきた「修造さーん!大丈夫なんですか?」

「全部藤岡に聞いた?」

「はい、凄い怖い顔してますけど」

「えっ」

ひょっとしてまだ怒ってるのか?と江川の小さな身体の陰に隠れて藤岡を見た。

「おい修造大変だったな」と声をかけてきた親方の後ろに回り、隠れたまま親方を押して工場の奥へ進んでいく。

すると藤岡が言った「丸見えですよ、何隠れてるんですか!」

 

 

藤岡ごめん、嘘も方便だよ。」ひょっこり顔を出して修造が申し訳なさそうに言った。

「もう良いですよ、あれで事件が解決したんですから」まだまだ悔しそうだったが自分を納得させようとしてるのは分かった。

「クッ」と時どき藤岡の方から聞こえる。

「ねぇ修造さん、藤岡さんがあんなに怖い顔してるのは何故ですか?」江川が藤岡を観察しながら言った。

「えっ?さあなあ」

もう一度掘り返す勇気はない。

修造はとぼけた。

 

おわり

 

Annoying People  迷惑な人々

どんな時もパンチと分割の時間は忘れない。

※パンチ  ケースに入れた発酵中の生地をそっと持ち上げ空気をふくませるように折りたたみまた横にしてたたみ休ませ、また蓋をして発酵させる製パンの作業。パンチのやり方は様々だが、こうすることでグルテンが強くなり発酵を促します。


2022年07月06日(水)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ  A fulfilling day 修造

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ A fulfilling day 修造

 

 

「ねぇ?何か変な音が聞こえない?」

機械の故障だろうか?低い擦れる様な音がする。

グーググーグーグー

みたいな?

パンロンドの奥の工場で作業中

江川がキョロキョロしながらカスタードクリームを炊いている藤岡に言った。

「シッ。聞こえますよ本人に」

藤岡がホイッパーから手を放し、そっと指差した音の方を見て江川の大きな丸い目がもっと丸くなった。

修造の鼻歌の音だったのだ。

えっ

修造さんってあんなに歌が、、

音痴というか、この音はどこから?

喉?

肺の奥?

修造はと言えばすごく気分良さそうに謎のドイツ語の歌を歌いながら生地を分割している。

ウキウキして喜びで胸がはち切れそうだった。

修造は2人目の子供が無事産まれて

大地と名づけた。

自分の育った山から見える緑の大地のイメージだそうだ。

「なあ聞いてくれよ江川!ほんとちっちゃくて可愛いんだよ」

「はい」

今日だけでも3回くらい聞いた。

そしてビニールシートに生地を3000グラム測って包み、江川に抱っこさせた。

「産まれた時なんてこんなにちっちゃかったんだ」

「わあ軽〜い」

「それにしても生まれたての赤ちゃんってこんなに軽いんだ、おーよしよし」

杉本があやし始めた。

「生きてるって不思議、こんなに小さく生まれて、どんどん大きくなって、やがて修造さんぐらい大きく成長するんだ」江川が感動して言った。

その時店から奥さんが修造に声をかけた。

「明後日の昼に一升パンの注文が入ったからお願いね。名前は歩と書いてあゆむ君よ」

「わかりました、明後日の昼に」と言って注文書を受け取った。

「一升パンってなんですかあ?」と杉本が聞いた。

一升パンって一歳のお祝いに子供さんの背中に背負わせて一生食べ物に困らない様にとか健康であります様にと願いを込めるんだ」

「へー」

「元々は一升餅と言って、2キロの餅米をついて作るもので最近はパンでお祝いする様にもなったんだ。だからステンシルで名前とか可愛い模様を彫って生地に乗せて粉をかけて焼くんだ」

「はー」

 

 

まずパソコンで文字を書き印刷する(もちろん手描きも)、紙に良い感じに貼りつけたり絵を描く。レイアウトが完成したら文字や絵の残したい部分を切り抜く(直に発酵した生地に直接文字を貼り付けて粉をかけるやり方もあります)生地に乗せてくり抜いた所に粉を振りかける。そのあと落ちる粉に気をつけてそーっと剥がす。それを焼くと焼成後は文字がくっきり出るのです。お願いしたら近所のパン屋さんでもやって貰えるかも。

「俺も大地が一歳になったら凄いのを作るぞ!」

「はい」

拳を高く上げ決意表明をした修造にみなどうぞどうぞのジェスチャーをした。

 

ーーーー

 

日曜日の昼

若い夫婦が小さい男の子を抱っこして

パンロンドにやって来た。

「一升パンを受け取りに来ました」

親方が窯の前から「可愛いなあ」と男の子を見て言った。

修造も奥から見ていてニコニコしている。

他のものは子育てに縁のない生活をしてるが、最近の修造を見て良いもんなだなあと思っている。

「あのイカつい修造さんがあんなに笑顔で」

と杉本が言った。

誰よりも早く帰って赤ちゃんとお風呂に入るのがなによりも楽しいんだって」

「へぇ〜」

 

ーーーー

 

さて、その湯船では

修造は大きな手に大地の頭を乗せて親指と小指で耳に水が入らない様に耳たぶのところをそっと抑えて、小さなガーゼで優しく大地の顔を拭きながら「もうちょっと大きくなったらお父さんと空手に行こうな」とか話しかけていた。

 

 

「俺がお前を守るからな」

成長する迄危険のない様に、でも色んな体験をさせてやりたいなあ。

「なあ」と気持ちよさそうに身体を湯船に浮かべている大地に言った。

 

 

まだまだ睡眠のサイクルが短い大地を抱っこして寝かしつけ、そーっとベビーベッドの布団に運ぶ。

週2回休みがあるし、パン屋は朝は早いがその分帰りも早い。なるべく緑や大地と過ごすことにした。

こんな風に静かな時に修造は度々世界大会のパンの構想を練っていた。

生地の旨味を追求するのはもちろんの事、その他にも考えて実際に作ってみる為のレシピを作ったり、ステンシルの柄を考えたりしなくちゃな。

そんな風に考え

宿題をやってる緑の横で一緒になって紙に書いたりした。

 

パンデコレのデザインを考えて律子に超小声で「これどう?」と見せた。

「こないだ京都に行ってきて勉強になったんでしょう?

「そうなんだ、行って良かったよ」

とか話してるうちにパンデコレのデザインに緑が色鉛筆で色を塗り出した。

それを見ながら紫は紫芋やブルーベリー、※青はバタフライピー、赤はラズベリーとかパプリカ、黄色はカボチャやウコン、ベニバナなどと考えていた。

「和装の女性はどう?」

「着物の?」

「そう」

凄い小声で律子と話し合って色々デザインを描いてみた。

うん、だんだん形になってきたな。

「よし!みっちゃん、スーパーに行こうよ」

そろそろ夕方なので修造は晩御飯の材料を買いに行く事にした。

「うん」

緑と手を繋いでスーパーに続く坂を降りながら「お母さんはね、時々お父さんと緑と一緒にドイツに行けば良かったって言ってるのよ」

「えっほんと?」

しかし思い出してみれば、呼び寄せるどころか律子は段々メールの返信もしてくれなくなってたからなあ。

「お母さんも複雑だったんだろうな。。緑!今日お母さんの好きなおかずにしよう!」

修造はスーパーで山賊焼きの材料と生クリーム、無塩バターなどを買った。

山賊焼きは長野県松本市近辺の名物で、ニンニクの効いた醤油ベースのタレに鶏もも肉を漬け込んで丸ごと揚げる旨いやつだ。

 

 

「美味しい」

カットした鶏肉を箸で摘んで噛むと、鶏皮のカリッとした美味い食感の後にジュワッとジューシー感、その後にタレの付いた鶏肉の味が広がる。

「だろ?律子!今日デザートもあるからね」

と言ってさっき作っていた牛乳入りのふわふわのパンにミルククリームをたっぷり挟んだ。

「ほら牛乳パン!」

「あ!懐かしい」

律子は大喜びでフワフワの牛乳パンを頬張った。

牛乳パンは戦後長野県周辺に流行したご当地パンで、いわゆるバタークリームがサンドしてある。生地もバタークリームも店によって様々。パン屋によっては可愛い袋に入れて販売しているので、デザインの違いも楽しい。

今日は生クリームが多めのクリームをつくって食感を軽くした。

「美味しいねお母さん。もうちょっと大きくなったら大地ちゃんも食べれるね」

「そうね」

授乳中の律子はそこそこ食欲もあり、それが大地の為にもなる。

いつもなら「したり顔」をするのだが、そんな顔してる所を奥さんに見つかったら叱られる。修造は密かにニヤッとした。

「ねえ、今度の日曜日お父さんとお母さんが来るの」

「え」

修造はギクッとした。

律子の父親高梨巌はその字の通り案外厳しい。

 

ーーー

 

さて、日曜日

修造はその日仕事だった。

巌と容子は長野からやってきて、可愛い孫の所に直行した。

「いらっしゃい。おじいちゃん、おばあちゃん」

「みっちゃん、久しぶりだね。会いたかったよ」

早速可愛い孫の緑に巌がデレデレし出した。

「大地ちゃん、おじいちゃんとおばあちゃんがきましたよ〜」

緑は小さなお母さんの様に大地を抱っこして巌に渡した。

「わあ〜また大きくなったね」

巌は早速容子と代わる代わるで大地を抱っこした。

「あいつはどうした?今日は仕事なのか?」

「お父さん。あいつなんて呼ばないで!名前で呼んでよ」

と律子に叱られた。

「ええ?」

実は巌はまだ修造を名前で呼んだ事がない。

「おい」

とか

「こっちだ」とか

「あっちだ」とか

おおよそ会話とは言えない。

しかし一度は心が通い合ったことがある。

大地が生まれる知らせを初めて律子から聞かされたその時、2人は確かに心が通い、微笑みあったのだ。

とそこへ緑が話しかけてきた。

「お父さんはお仕事よ。ねぇ、おじいちゃん。一緒にパンロンドまでお散歩に行こうよ」

「お散歩かい?みっちゃん案内してくれる?」

可愛い孫と歩けるので喜んで出かけたが、修造の所に向かって歩いて行ってるだけなので行き先に何の興味もない。

2人で楽しく話をしながら歩いて東南商店街まで来た。

「ここら辺は変わらないなあ」そう言って和やかな昼間の商店街を歩いていると

「おや」

何故あそこだけ賑わってるのかとふと見てみた。

人が出入りを続けているお店がある。

「あのパン屋だ」

店の手前にあるガラスから見えるものは?

こりゃなんだ?

パンロンドの外から巌は店内に置いてあるものを見た。

「おじいちゃん、これ、お父さんが作ったのよ。小さいのは江川さん」

 

 

え!

これ手作りなのか?

「パン?」

パンでできてるのか?

これをあいつが?

修造のパンデコレをじっと見てると柚木の奥さんが気がついて店内から出てきた。

「いらっしゃい、緑ちゃんとおじいちゃま」

「どうもご無沙汰しております」

修造がドイツに行ってる間、律子は緑を育てながらパンロンドで職人として働いていた期間がある。その時は巌も度々パンロンドを訪れていた。

「ちょっと待っててね」奥さんが店内に入って行った。

するとすぐコックコートにコック帽姿の修造が走って出てきた。

「お、お義父さん。。こんにちは」

「お父さん、おじいちゃんと散歩してきたのよ」

「そうなんだ。どうぞ店内へ。パンを見て行って下さい」

「うん」

巌はいい香りの店内に入った。

なんか並んでるパンが変わったな。

巌が店内を見回した。

「先日改装したんですよ」と奥さんが説明した。

ここは前なかったパンが並んでる。

「この棚は修造さんのドイツパンコーナーなんです」

なんだか誇らしげに奥さんに言われる。

 

高校を卒業してすぐパンロンドで働き、その後メキメキ頭角を表した修造をとても大切にしているのがよく分かる。

 

修行に行ってこれを造ったんだな。

 

「どうもみっちゃんのおじいちゃん」

「あ、親方。その節は娘がお世話になりました」

2人は売り場の棚を見ながら話した。

「うちのパンも変わりました。なんというか修造が運んできた空気がうちをそうさせるんです。前向きにと言うか、いい方向に流れていますよ」

「へぇ」

「もうすぐ大会がある。フランスでの試合があります。誰でも出られるってもんじゃない」

巌は親方の真剣な顔つきをじっと見ていた。

「色んな事のちょっとずつがあいつの時間を奪ってる気がします。大会前は修造にはガッチリ修行に行かせるつもりです」

巌は修造のパンを沢山買って店を出た。

確かに親方の言う通りだ。

生半可な事をしていては

頂点は目指せないだろう。

山の上に立てるものも立てなくなるのか。

 

 

帰ると容子と律子が食事の用意をしていた。

「おかえりなさい」

「ただいまお母さん。パン買ってきたよ」

「沢山おまけして貰ったね、みっちゃん」

「うん」

しばらくして修造が帰って来た。

「先程は」

修造は巌にペコっと頭を下げた。

「うん」巌は一言だけ返した。

「修造おかえり。先にお風呂に入ってきて」

「うん、身体を洗ったら呼ぶから大地を連れてきて」

「はーい」

そんな会話を聞いていた巌は大地を抱っこして「お父さんとお風呂に入ってるんだな」と大地に話しかけた。

「可愛いなあ大地ちゃんは」

目を細めて大地を見つめながら「こんな可愛い子供たちなんだ。みんなで守っていかないといけないね」と言った。

その時「大地を連れてきてー」と声がしたので風呂場に連れて行く。

「わっ!お義父さん、すみません」と言って大地とお風呂に戻った筋肉質の修造を見て「あいついい男だなあ」と緑の宿題を見ている律子に言った。

「嫌だお父さんったら何言ってんの?」

「ふん」

「ふんって何よ褒めたくせに」

「フフン」

 

夕食の時、巌は白胡麻のカイザーゼンメルにハムと信州から持ってきた野菜を挟んで食べてみた。

うーん美味いなあ。

サクッと香ばしいパンだわい。

こっちの黒パンはどんな味なんだ?

うん、酸味があって滋味に溢れている。

こないだのクロワッサンも美味かったがこれもこれも美味い。

巌はパンを噛み締めた。

 

ーーーー

 

 

緑が寝る前に容子が本を読んでやっていた。

律子が風呂に入ってる間に、巌は大地を抱っこして寝かしつけている修造に話しだした。

「修造君、ワシは今日お前の造ったパンを見てきたよ」

「はい」

「親方も言っていた。フランスの大会には誰でも出られるもんじゃないってな。もうすぐ夏休みだ。ひと夏長野で私達大人が子育てをちゃんとするからお前はパンの練習をしなさい」

「えっ?」

突然の巌の申し出に驚いた。

妻子を取り上げられるのかと思ったがどうやら違う。

巌はなんだか凄そうな大会の特訓をするべきだと考えていた。

「人生にチャンスは何度もない。

一つの事に集中しなさい」

「お義父さん」

今の生活はハリがありとても楽しいが、確かに一抹の不安はある。

身体が2つあったらいいかもしれないが、、

 

「わかったな」

「はい、律子と話し合ってみます」

 

ーーーー

 

巌達が長野に帰った日、修造は律子に巌の申し出の事を話した。

「そうよね、お父さんの言う通りがも」

 

律子は父親がそんな事を考えていたのかと驚いた。

 

「私達、夏休みになったら長野に行くわ。その間ホルツで練習させて貰ってね」

「ごめんね律子」

修造

本当は一緒にいたい。

でもいつか私達パン屋さんをするんだもの。その時は毎日一日中一緒に過ごすわ。

 

「大地、緑、みんなでお父さんを応援しようね」

 

 

 

ーーーー

 

修造が家族と離れ、1人で修行を始めてまもなく

 

ベッカライボーゲルネストの鳥井シェフが修造と江川を呼び出した。

3人は鳥井の知り合いの経営するビストロムラタに来ていた。

「僕、フランス料理とか初めてです。緊張するな」

「ビストロは気楽に楽しめる所だよ。ここの料理は美味いから食べさせたいと思ってね」

鳥井は予めオススメコースを予約していた。

オードブルが運ばれてきた。

「わーオシャレ!」

江川は大きなお皿に並んだ色とりどりの前菜に感動した。

 

 

 

シックな調度の店内で少し薄暗い空間に、料理の部分だけLEDのスポットライトが当たって綺麗。

どれも手が混んでいてひとつひとつの形や味に理由がある。

「うわ〜美味しい」

 

スープとパンの後メインの鴨肉は村田シェフが運んできた。

「どうも鳥井さん」

「今日はお願いします」

江川と修造には1人2枚づつ皿がある

「これは?」

「2つとも食べ比べてみなさい」

江川はひと皿目の鴨肉をカットして口に入れた。

うわ、ちょっと油っぽいかな?

名店なのに後口に臭みが残ってる、なんか古いものを出されてるのかなって思っちゃう。

江川は修造の方を見た、口には出さないが江川と同じような顔をしている。

もうふた皿目も同じように食べてみる。

「あ、美味しい。同じ料理なのにこんなに違うなんて驚きだ」

「やわらかくて甘味もある。どうしてこんなに違うの?」

2人は顔を見合わせた。美味しい物を食べた時の顔をしている。

村田が説明した「ひと皿目は脂をいい加減にとって高温で調理しているので鉄分の匂いが残るし肉が硬くなる。ふた皿目は鴨肉の下拵えがきちんとしてあります。すばやく室温に戻してドリップをきちんと取ったり、ナイフで余分な脂を丁寧に取ったり、冷蔵庫で脂をしめたり、低温調理したりと各工程で基本がきちんとしてる方は味が整っているんです」

「そうなんだ、こんなに味が違うんですね。僕知りませんでした」

鳥井も2人に説明した「例えば肉の下拵えは前の日にやるのかやらずに始めるのかで随分違ってくる。勿論パン作りも同じだ。会場では沢山のことを忘れずにやらなきゃならん。初段階のうちにタルティーヌの具材の下拵えをしておきなさい。修造はサワードウに何が合うのか考えておきなさい」

「はい、素材の下処理一つでもそれぞれ理由があり、キチンと準備することで味が調和し美味さを整えられるんですね」

食べるのは美食家の審査員ばかりだ。工程のどの部分にも油断はならない。鳥井が言いたかったのはそこなんだろう。

デザートの前に口直しのフロマージュが運ばれてきた。

コンテチーズ、ロックフオール、カマンベール・ド・ノルマンデイーの次に

燻製のチーズを食べた時口の中にスッと風味が通り抜ける。

「美味い」

他のチーズと違う

「うちで燻製にしてるんですよ」と村田が説明した。

 

「美味いものを記憶に刻みなさい。もっと自分の可能性を高めるんだ」

鳥井はそう言って、次に食材の豊富な輸入専門店に連れて行った。

 

 

「世の中には沢山の食材がある。それらの味をなるべく沢山覚えておくんだ。自分の中に味の引き出しを沢山持て。何と何を合わせると何に合うのか、いくらでも計算出来るようになるんだ」

そう言いながら鳥井はカゴの中に商品を選らんで入れていった。

 

修造は、その様子を見ながら鳥井の言う『前日準備の重要性』について覚悟した。前の日の下拵えと種の準備、当日の段取りが勝利の8割だ。後の2割はいかに失敗なく他にない自己表現をするか。

「前の日の1時間にどれだけできるか何度も練習をしておけよ」

そう言って鳥井は袋いっぱいのおすすめ食材や香辛料を渡してきた

「応援してるぞ修造」

「ありがとうございます」

「江川もな」

「はい、今日はご馳走様でした。僕勉強になりました」

鳥井は2人に目で合図して去っていった。

「渋いなあ。かっこいい」江川は受け取った袋を両手にぶら下げ、へ〜っと首を横に傾げながら鳥井の背中を見送ってそう言った。

 

ーーーー

 

そのまま2人は修造のアパートの部屋に移動した。

鳥井に貰った物を全部開けて順番に味見してメモに書いていく。

「あのチーズの味。あれは美味かったな」

「美味しかったですね」

「うん、あれをタルテイーヌに使えなかったとしても何か他の事に使いたいな」

タルテイーヌにパテドカンパーニュを使いたい。しかしあれは完成までに3日かかるから無理だ。鳥井シェフの言うとおり、基本に忠実にしなければ上手くいかないだろうな。

そうだ!

修造は何かを閃めいてそれを紙に書いてみた。

「江川」

「はいなんですか」

 

江川は修造を観察していて何かを思い付いたのに気がついていた。

修造はニヤリと笑いながら言った。

「明日からこれを練習して貰う」

紙を受け取り「えっつ」と声を上げた。

「大会前日の1時間にやって貰う」

「僕やったことありません」

江川の顔が引き攣った。

 

 

おわり

 

A fulfilling day  充実した日々

 

修造が江川に課した大会前日にやる事とはなんなのか?

 

修造はまだまだやる事が多いようです。

 

#バタフライピーとは  マメ科の植物、チョウ豆(蝶豆)の事。ハーブ。生地に青い色を着けられる。ハーブテイーとしても楽しめる。レモンやライムを垂らすと紫に変色する。

 

 


2022年05月29日(日)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 前編

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 前編

 

東南駅の西に続く東南商店街の真ん中にあるパンロンドは火曜日が定休日だ。

杉本龍樹と森谷風花は東南公園のバラ園に来ていた。

 

 

色とりどりのバラが咲き乱れた綺麗な公園のバラのブリッジの間に立って2人で写メを撮り、ベンチに座って良い雰囲気なのに風花は思い出した事があった。

「全くもうやんなっちゃう」

「なんで怒ってんの?」

「あのね、たまにあるんだけど、男のお客さんに愛想よくするじゃない?そしたら勘違いする人がいてね」

「なに!」

「それでね、何回か来てるとそのうちに奥さんとか彼女とか連れてきて、私にすまなさそうな顔するの!」

「ん?どう言うこと?」

「つまり〜君は僕の事好きだと思うけど僕には彼女がいるんだごめんね。って事よ!」

「勘違いしたんだね」

「すまなさそうにするって何よ!失礼な!何とも思ってないのにフラれた感じになってるじゃない!」

「あはは」

杉本はホッとして笑った。

男のお客さんの何人かは風花目当てなのを知ってるからだ。

実際風花は明るい笑顔で、入ってきたお客さんの心を和ませることがあって人気がある。

「心配だなあ」

 

—-

 

次の日

その事を杉本は藤岡に話した。

「風花は目が離せません」

「あのさ、それはね。あれじゃない?」藤岡は店にいる風花の手の方を指さした。

「指輪とか?」

「あ!本当だ!ナイスアイデアですね」

「これで勘違いもなくなるね」

「サイズはどうしたら良いですかね?」

「指輪のサイズ?一緒に見に行ったら?」

「行かないって言いますよ。貴金属に興味ないって言ってますし」

「じゃあ奥さんに聞いて貰ったら?」

えっ?奥さんに?

それは、、

「あ、あの〜奥さん」

杉本は、パンロンドの売れ筋商品山の輝きという山食を大量に切っている柚木店主(親方)の奥さんの所に行って話しかけた。

「何?杉本君」

「いえ、今日忙しいですね」

と言って引き返してきた。

「頼んできたの?」

「いえ、恥ずかしくて」

「まあ、分からんでもないね」

そう言って藤岡と杉本は二人でとろとろクリームパンの成形を始めた。藤岡の伸ばした生地に杉本がクリームを包んでいく。

ふと見ると杉本の両方の手の甲にペンで色々書いてある。

「杉本っていつも手の甲にメモしてるよね」

「親方に言われた配合とか、注文の数とか、俺ここにメモると覚えてられるんですよ」

「確かに杉本ってなんでも忘れるからな、こうして書いておかないとな」

「いつも見てるドラマの主人公の名前とかもここに書いてるんですよ。一回書いたら忘れない」

「へぇ、じゃあ手の甲に今から俺が言うのを書いてよ。覚えてられるかも知れないじゃん」」

「え?何書けばいいんすか?」

杉本は藤岡の言う長い不思議な言葉を書いた。

そして次の日、藤岡が杉本に「なあ、昨日の覚えてる?」

「昨日の?なんのことですかあ?」

「全体的に忘れてるじゃん。ほら、手の甲に書いただろ?」

「あ!※スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス!」

「おっ!そう!それ!メリーポピンズに出てくる言葉だよ!」

藤岡は驚いて杉本に指をビシッと当てた。

 

 

「杉本凄いじゃん!じゃあ今日は違うやつ」

と言って今度はパン関連の長い言葉を書かせたがさっきのより短い。

 

次の日

藤岡はまた杉本に聞いた。

「なあ、昨日の覚えてる?」

「ああ、※サッカロマイセスセレビシエってヤツですね?」

「おっ!覚えてるじゅないか!それってパン酵母の事なんだよじゃあこれは?」

藤岡はまた他の、長い言葉を書かせた。

そして次の日「なあ、あの呪文の様な言葉覚えてる?」と聞いた。

「あ、※カザフスタニアエグジグアですか?」

「こりゃ本物かもしれないなあ」藤岡は小声で呟いた。

江川が興味深げに尋ねてきた「ねえ、、なあに?それ、カザフホニャララ?」

「パネトーネ種の酵母の一種ですよ」

「へぇ難しそう!」

「杉本はどうやら手の甲に書いた事は覚えられる様ですよ」

「えっ本当?もっとやってみようよ」

「江川さん俺で遊んでますよね?」

「せっかくやるんだから身になるものをやろう」

「パンの用語でもっと難しいやつ?」

そこに修造も口を挟んできた「手の甲も良いけどノートに書くのはどうなの」

「俺今までノートに何か書いた事ありません」

と言うか文字なんて自分の名前と住所ぐらいかなあ。ここに来るまではいかに勉強しないかとか学校サボる事に心血を注いできたからな。

「ねぇ杉本君、もっと難しいの書こうよ」

はしゃぐ江川の横で修造が「じゃあパネトーネ種の乳酸菌のラクトパチルスサンフランシセンシス等!」

 

 

「ラクト?」杉本は修造の言う通り書いた。

 

 

その日の帰り道

 

本は手の甲の文字の話を風花にしてみせた。

「俺ちゃんと覚えてるよ。サッカロマイセスセレビシエにカザフタニアエグジグアにラクトパチルスサンフランシセンシス等、、」

風花はそれを聞いて驚いた。

「ひょっとしてちゃんと勉強したらいい線行くんじゃない?」

「えー、俺そんな事やった事ないから」

「本屋さんに行こうよ」

風花は杉本と東南駅横のショッピングモールの大きめの本屋に来た。

 

 

「製パンの本を買うのよ!」

「はいはい」

風花が選んだ本は製パンの試験の問題集だった。

「えー?これ?いきなり難しくない?」

「ちょっとずつ書いて覚えていってよね」

「はいはい」

あまりのり気ではなかったので杉本は適当に返事をして本を買った。

 

ーーー

 

帰って部屋のベッドの上に買った本をポンと置いてゴロンと横になった。

「あ〜疲れたな」

そう言ってウトウトしていると

「龍樹。ご飯だよ」

母親の恵美子が2階にある杉本の部屋を覗いた。

「あっ!」

わか息子とはいえ、、その息子の横に本が置いてある!

製パン技術士試験の問題集!?

「どっどどどどうしたのそれ!先輩にもらったの?」

「ああ、買ったんだよ。勉強する事になったらしくてさ、、」

「べっ勉強!」

そう聞いて恵美子は父親の茂の所に走って行った。「お父さ〜ん!」そしてしばらくして二人でドタドタと階段を駆け上がり「お前勉強するのか?」と両親が血相変えて入ってきてキラキラした目で杉本と製パンの問題集を交互に見た。

 

 

「ちょ、驚きすぎてこっちがびっくりだよ。まだなんもやってねぇって」

「お母さん、龍樹をパンロンドに行かせて良かったね」

「本当だわお父さん、いつの間にか髪型も服の趣味も変わってきて」

「親方や風花ちゃんのおかげだね」

涙を浮かべてこっちを見てるので「もう良いから出てってくれ!」と杉本はキレた。

何かあって気が変わっては大変なので二人はフフフと笑いながら足取りも軽く出て行った。

「ったく。大袈裟なんだよ」ベッドに横になり右足を左足の膝の上に乗せてブラブラさせていたが、ちょっと本を見てみた。

うわ

めっちゃ字が多いじゃん。

勉強?

俺の人生に勉強の二文字はねーんだよ。

めんどくせーな、、

文字を見ると物凄く眠くなってきてそのまま寝てしまった。

 

 

次の日

江川が嬉しそうに話しかけてきた。

「ねぇ、昨日の覚えてるんでしょう?」

「覚えてますよ。ラクトパチルスサンフランシセンシス等でしょう?」

「えーと」江川の方がうろ覚えだったがそんな感じだった気がする。

「あってるよ、杉本はきっと書いて覚えるタイプなんだろう」

「見てもあんま覚えられないんですよ。そうなのかなあ」

「そんな特技があったなんて」

「伸ばさないと勿体ないね」

皆口々に言って杉本を取り囲んだ。

「また勉強とか言うんでしょう?めんどくさいですよ」

それを聞いた風花が店から杉本を睨んだ。

ちゃんとやりなさいよと言う意味だ。

 

「みんな聞いて〜」

奥さんが工場の全員に聞こえるように声を張り上げた。

「今度23日で京都に社員旅行に行くのよ」

「へぇ〜!京都!僕初めて行きます」江川がはしゃいだ。

「修学旅行みたい」

「だな、俺も初めて行くよ」

「舞妓さんとかいるのかなあ」

「自分で着物を着て歩いたら?」

皆急にウキウキし出した。

帰り道、2人で歩きながら相談した。

「風花、一緒に行こうな京都」

「何言ってんの?みんなと行くのよ?京都初めてだわ、何着て行こうかなあ〜」と足取りも軽い。

「何着ても似合うって」

「自由時間とかあるのかな?」

「清水寺行こうよ」

などと話していたが、急に風花は思い出して「ね、勉強してる?」と聞いてきた。

ギクっ

「え?し、してるよ」

「え〜本当にぃ?」

「ほ、ほんとほんと」

そう言って誤魔化したがただの1行も読んでいない。

帰ってベッドの隅の模様と化した本の表紙をめくって見た。

製パン技術士試験問題集

目次の文字数もいかつい

うわ!無理無理

そう言ってまたベッドの隅に置いた。

 

ーーー

 

京都に向かう東海道・山陽新幹線のぞみの中で江川はがっくりくる修造を慰めていた。

「緑ちゃん、学校の遠足があって来ないんですね」

「そうなんだよ江川」

「なので奥さんも来れなくて残念でしたね」

「緑が行けないって言うからさあ。。あー一緒に歩きたかったなあ京都」

「僕達パン屋さん巡りしましょうよ。京都ってめちゃくちゃパン屋さんがあってどれにするか迷いますね」と言って江川は旅行雑誌のおまけの京都パン屋マップを開いた。

パン屋さんがずらりと並んでる通りもあるし、狭い地域の中に点々とある所もあるし。

「自由時間とかあるの?だとしても数時間だろ?2.3軒しか回れそうにないなあ」

2人は何処に行くか真剣に悩んだ。

「ドイツパンの店は?」

「こことここかな?あ、ここにもあります」

「一軒一軒距離があるからどのバスに乗るかよく見ておかないとな」

行きの車内のこんな計画もまた楽しい。

 

京都着

パンロンド一行は清水寺、銀閣寺、金閣寺を巡って王道の京都観光を楽しんだ。

二条城唐門到着

 

 

みんなして二の丸御殿の鶯張りの廊下を歩いたり優美な狩野派の障壁画を見たりした。

「欄間彫刻も見事だねえ」

「ですね」

「たまにはゆっくりと観光もいいもんですね」

「豪華絢爛だなあ」

 

そのあと

杉本と風花は日本庭園を見ながらみんなと少し遅れて歩いていた。

 

 

「この池鯉とかいるのかな」

「ほらあれ大きな鯉がいるわよ」

「本当だ」

杉本は歴史の古い池の端の岩を眺めながら言った。

 

「風花今日夜どっか行こうよ」

「どこに?晩御飯はみんなと一緒でしょ?」

「旅行の記念に指輪買いに行こうよ」

「え、いいわよそんな高そうなもの」

「じゃあ見に行くだけ!お願い!」

「試験に合格したらね」

「し、試験?なんの事?」

「こないだ買った本の事」

「え?なんでそんな展開になるの」

「あの本って試験用の本だったじゃない」

「にしても急に」

「だって私、龍樹に立派なパン職人になって欲しいんだもの」

「立派じゃなくても良いじゃん」

そこに江川が走ってきた。

「ねぇ、これから近くのパン屋さんに行くって、はぐれるから早く来て」

3人は走ってみんなに追いついた。

「電動石臼で挽いた全粒粉を使ったパン屋さんに行くんだって」

「美味そう」

「その近所に歴史の古そうなパン屋さんがありますね」

「そこにも行ってみたい」

 

ーーー

 

電車の中で修造が江川と藤岡に言った。

「京都って色んな職業の職人がいて、それぞれ歴史ある仕事をしてる。その仕事の殆どが厳しい修行や時間に追われる仕事をしていて、その合間に手早く食事をするのにパンが最適なんだ、甘いものが欲しい、調理パンが欲しいなどの要望にも答えられるし、手軽に手に入る。それがパン屋さんが多い要因の一つなんだ」

「へぇー」

「みんなパンを愛してるんですね」

「だからパン屋が多いのか」

修造は自分で言って得心した。

そうか

職人が作り出す

京都の歴史、和の心

学ぶところが多いな

世界大会でのテーマでもある

「自国の文化」

きっと活かせる事が出来る。

あちこちよく見ておこう。

街を見渡したら

きっと見つかる。

 

何軒か廻って修造達はある一軒の歴史のありそうなパン屋さんに入った。

そこはおじいさんが1人でパンを焼いて販売している。

まるでおとぎ話に出てきそうなロマン溢れる店だ。

「こんにちは、おじいさんは1人で仕事してるの?大変じゃない?」江川がパンを買うときに店主に尋ねた。

「もうずっと若い頃から同じ事をしてるからこの歳になってもできるんです。急にやり出したら大変ですやろ。忘れてしまう事も増えてきますし」

「そうかぁ。そうですよね。僕もずっと自分の仕事を続けたいと思っています」

「そうですか、おきばりやす」

店主との会話はあっさりとしたものであった。

 

 

江川は店を出てからもう一度パン屋さんの中を覗いた。

優しい顔のおじいさん。

何年も前からずーっとパンを焼き続けてるんだ。僕が生まれる何十年も前から。

凄いなあ。

僕も同じ事が出来るかしら。

朝になってパンを作って焼いてまた明日の朝が来る。

それをずっと繰り返していく。

僕もそうなりたいな。

江川は以前パン催事であったあんぱん屋さんのおじさんの事を思い出していた。

毎日同じ事を何年も蹴り返すのって誰にでも出来そうで出来ない事なんだ。

長く続けた先にあるもの。

最後に自分の焼くパンを自分で見てみたい。

江川はじんわりと心に決心の様なものが固まっていった。

 

ーーー

 

みんなパン屋巡りをして店先で買ったパンを少しずつ分けて味見したので晩御飯の時には全員がお腹いっぱいだった。

「うーん苦しいもう寝る」

皆三々五々部屋に帰って寝た。

杉本と風花も其々割り当てられた部屋に戻った。

 

 

後編につづく

 

 

※スーパーカリフラジリステイックスエクスピアリドーシャス

映画メアリーポピンズの長い合言葉 ➀ Super (超越した)② Cali (美しい)③ Fragilistic (繊細な)④ Expiali (償う)⑤ Docious (洗練された)5つの単語が組み合わさって出来ているのですが、「素晴らしい、素敵な」の意味で使用されます。(元CAが教える~思わず使いたくなるワンフレーズ英会話レッスン~より引用)https://makupo.chiba.jp/article/article-4350-2/

※サッカロマイセスセレビシエ Saccharomyces cerevisiae

パン酵母の事 糖を代謝して美味しい香りのアルコール発酵を行う。

※カザフスタニアーエグジグアとラクトバチルスーサンフランシセンシス等

パネトーネ種は酵母(Kazachstania exigua カザフスタニアーエグジグア)と、数種の乳酸菌(Lactobacillus sanfranciscensis ラクトバチルスーサンフランシセンシス等)が仲良く共存し、それぞれの持つ特徴を、発酵熟成から焼成中に発揮し、パンなどの改良を行う世界的に珍しい酵母と乳酸菌類です。(株式会社パネックスより引用)http://www.panex.co.jp/panettone

会社によって扱う酵母の種類は違います。特許第4134284号、特許微生物受託番号FERM P-16896)などの特許がそれぞれあります。

※京都にパン屋が多い理由 クックドア https://www.cookdoor.jp/family-restaurant/dictionary/13665_resta_056/

 

 


2022年05月10日(火)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ バゲットジャンキー

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ バゲットジャンキー

 

 

「修造さん」

選考会が終わった後、北麦パンの佐々木が声をかけてきた。

「俺、絶対勝ちたかったんですよ」

「すみません、、あの、店を休んで特訓してたって聞きました」

「そこまでやって勝てなかったなんて悔しいな。先生にもついて貰ってたのに。ま、結局は俺の実力不足かな」

佐々木はやや自嘲気味な言い方をした。

「こんな事俺が言うことじゃないけど是非次回頑張って下さい」

2人は握手した。

 

 

「本当だね、修造さんが言うことじゃないよ」

そう言って佐々木は笑って去って行った。

 

 

「修造さん荷物を運んで帰りましょう」

「うん、江川良かったな」

「はい、修造さんもおめでとうございます」

「ありがとうな江川。いつか感謝を形に変えるよ」

「感謝なんて、テヘ。僕が勝手にやった事ですから」

そう言いながら2人は会場の裏にある駐車場に荷物を運びパンロンドの配達用の車に積み込んだ。

「控室に戻って大木シェフに挨拶して帰ろう」

「はい」

2人が駐車場から通用口に入り長い廊下を歩いている時、向かいから帰路につく沢山の会場スタッフが長い列を作って歩いてきた。

修造はぶつからない様にそれをよけて廊下の端を素早く行き過ぎた

その時江川と少し距離ができた。

 

スタッフに紛れてオレンジ色の大きなスーツケースを押した背の高い男が歩いて来る。

そのトランクには沢山の国のものと思われるシールがベタベタと不規則に貼ってあり、中には剥がれたあとや、剥がれかけのものもある。

江川はそのトランクを見て、剥がれかけたシールなんて外せばいいのにと男の顔を嫌悪感のこもった目で見た。

男は立ち止まり「おめでとう、頑張ったね」と労をねぎらった。

江川が一瞬頭を下げて行きすぎようとした時、男がメモを渡してきた。

「これ、お兄さんに渡しておいて」

江川は、話したこともないのにお兄さんなんて言い方は軽すぎると思って苛立った。

不機嫌に黙ったままメモを受け取りそのまま遠ざかった江川をしばらく見ていたがやがて駐車場を通り、外に出てタクシーを捕まえようと歩道に立った。

 

ーーー

 

江川は控え室に戻り、大木と話している修造にメモを渡した。

「通路を歩いてたら渡されました」

珍しくイライラしている江川に「どうしたんだ?疲れたのか?何かあった?」

「別に、何もありません」

「そうか」そう言ってメモに書かれた文字を見た。

 

人生は数奇なり

己の運命に流されても己は流されるなかれ

 

 

あ!この字!本に挟んであったメモと同じ文字だ!

「江川!この人どっちに行った?」

「さっきの駐車場の方に行きました。小汚いオレンジ色の大型のスーツケースを押してました」

修造の慌て様に驚いて江川が言った。

修造はもう一度長い廊下を走って通用口を出た。

駐車場は搬出のスタッフでごった返している。車の一台一台を見て回ったがオレンジ色のトランクはもう車の中なのか全然わからない。

「もう帰ったのかな」

 

仕方ない、俺とその人がどこかで繋がってるならまたいつか出会えるだろう。と、次のチャンスを待つことにした。

 

でも気になる

なんだ

流されても流されるな

って

どういう意味だ。

俺は順調だ。

愛する妻と可愛い子供

数奇な事なんて何もない

なんだ名乗りもせずに

 

速足で廊下を歩きながら

修造は頭の中で文句を言っていた。

 

—-

 

新名神高速道路に入った帰りの車の中

せっかく二人とも優勝したのに口数が少なかった。

しばらくすると江川は少し不機嫌が直ってきた。イライラがおさまってきた様だ。

「僕ホッとしました。これで二人で世界大会に出られるんですね。夢みたい」

「だな」

 

 

「僕、鷲羽君がトラブルがあって、なんて言っていいかわからなかったです」

「あんな事になるとは思わなくて園部も気の毒だったな」

「コンテストが終わるまで何も知りませんでした。僕なら泣き喚いてたな」

他の選手に知れるとみんな動揺するだろうから知らなくて良かったよ。鷲羽は自分にも非があるからって犯人はお咎めなしになったんだ」

「へぇ〜。鷲羽君って本当はいい人なのかな」

「口は悪いけど悪いやつじゃないよ」

「帰り際声をかけた時フランスに行くって張り切ってました。僕達の事応援してくれるって」

「うん、大木シェフや佐久間シェフも協力してくれるって言ってたな」

「はい」

辺りは段々暗くなり、名古屋を過ぎた辺りで修造が言い出した。

「なあ江川!俺、男の子が生まれるんだよ。こないだ律子と産婦人科に行ってお医者さんにエコーを見せて貰ったんだ!どんな名前にしょうかなあ〜ウフフ」

「えっ?」

急にガラリとソフトムードになった修造に江川は驚いた。

ウフフだって、、いつもシブイ感じなのに、、

勝負みたいな事が終わるとホッとして家族に会いたくなるんだろうな。

「楽しみですね!」

「そうなんだ!どこかに寄ってお土産を買って帰ろう」

「はい。僕もみんなにお土産買いたいです。駿河湾沼津 のサービスエリアにのっぽってパンがあるの知ってます?それも買いたいなあ」

「寄ってみる?夜でも売ってるのかな?」

「いっぱい買っちゃお!桜海老のパイや卵の形のプリンもあるんですよ!」

「お前よく知ってんな、、」

 

—-

 

夜中、パンロンドに車を返してアパートに帰り着いた修造は、荷物をいっぱい持ってみんなを起こさない様にそっと入って来た。

リビングの明かりが少しだけ差し込む寝室の、緑の可愛い寝顔を見つめて目を細めうっとりしていると、布団の中から律子が声をかけた。

「お帰り修造。おめでとう」

「律子、ただいま。大変な時に家を開けてごめんね」

そう言って急いでパジャマに着替えて布団に入り愛妻の手をそっと握った。

「私絶対勝つってわかってわ」と手を握り返した。

「どう?」と言ってお腹をさすり赤ちゃんのご機嫌を伺った。

「元気よ、すごく動いてる。ほら」修造はお腹に手を当てて手のひらに神経を集中した。

グニ

と手応えがあった気がする。

「あ!」わかったよと言う修造の嬉しそうな顔を見て律子も満足げにしていた。

修造はそのまま律子の顔を見つめながら目を瞑り寝てしまった。

修造の顔を見ながら「おかえり」と呟き、高い鼻頭をツンツンと触った。

 

—-

 

次の朝早く自転車に乗ってパンロンドについた修造は工場に入った時何かしらの異変を感じていた。

「なんだろう?何かおかしい」

すでに来ていた親方と藤岡と杉本が修造を取り囲んで「優勝おめでとう!」と口々に言ってくれた。

「ありがとうございます。あの、、店の色が変わってますよね?」

「そうなんだよ!こっち来て!」

親方は修造に店の中を見せた。

「あ!!!改装してる」

 

 

「凄いだろ?修造と江川がいない間に大急ぎでリフォームしたんだ。ずっと藤岡と一緒に計画を練って。業者に頼んだり話し合ったりしてたのさ、な!藤岡」

「はい、修造さんに内緒で動いてたんです。内装は僕も勉強してあれこれ考えました」

「全然わからなかったな、、、」

「お前を驚かそうと思ってな!それにほら見て修造」

親方は商店街の道路に面したガラスの所を指差した。そこは出窓調になっていて何も置かれていない。

「ここにお前と江川のパンデコレを飾るんだ」

「えー!優勝しなかったらどうするつもりだったんですか?」

「どうもこうもねえよ。実際優勝したろうが」

と大声で笑い、入口の横のパン棚を太い腕で指した。

「ここはお前のドイツパンのスペースだ」

修造は親方の行動力にポカーンと口を開けながら感心していた。

「さ!もうすぐ新生パンロンドの開店だ!仕事に戻るぞ!」

「はい!」

その日は修造は親方と色々話し合ってドイツパンの種類を絞り込んだ。

商店街の人にも受け入れやすいドイツのパンか、、

パンロンドには自慢の山食『山の輝き』、『とろとろクリームパン』、『カレーパンロンド』その他人気の品が沢山ある。それと被らない様に構成を考えなきゃ。

修造はドイツで働いていたお店のヘフリンガーの人気のラインナップを思い出していた。

 

 

1番上の棚は※ロッゲンブロートとか※穀類を使ったメアコンブロート、ミッシュブロート、ラントブロートなどをずらりと。

2段目辺りはプレッツェルとカイザーゼンメル各種、ヘルンヒェン、オリーブバゲットなど。

3段目は※Schweineohr(豚の耳)やベルリナー、なんかの甘ーいパン。

その下は焼き菓子を置いて、冬になったらそこは山もりのシュトレンを置くか。。

午前中店内に満タンに作ったパンも夕方にはすっかり売り切れてまた明日の朝が来る。

東南商店街の道ゆく人達はパンデコレをガラスの向こうからシゲシゲ見て、写真を撮ったりしていたが、やがてそれは噂になりまた遠くからパンロンドのパンを買い求めにくる人が日々増えていく。

親方と奥さんは、シフト表をよくよく考えて書き、佐久山と梶沢、修造と江川、藤岡、杉本でローテーションで無理なく回していった。

 

次の休みの日

修造は一人でホルツに来ていた。

オレンジ色のトランクの男が渡してきたものを大木に見せた。

この本とメモを書いた人について少しでも何かご存知なら教えて頂けませんか?」

「さあなあ」と言った後、大木はしばらく何か考えていたがやがて話しだした。

「修造、伝説の流れ職人って聞いたことあるか?」

「伝説の?いいえ」

「伝説のなんて大袈裟だし、少々盛ってると思うんだが」

「はい」

「昔山間部に住んでいて、造園を生業にしていた若者がいたんだ。そいつは客の意志を読み取るのか上手くて相手の望む通りの庭作りをする事ができた。その噂は広がって遠くまで呼ばれて庭の手入れに行ったりしていた

 

 

ある日軽井沢に呼ばれて、金持ちの別荘の庭の手入れをしていた。その素晴らしい庭作りに客が喜んでお代以外にも礼をしようとそいつを懇意にしてる近所のフレンチレストランに連れて行った。

そこは剛気な性格のフランス帰りのシェフがやっている店で、食事が2品ほど出た時、シェフがテーブルに挨拶に来た。そして焼き立てのバゲットを持って来て包丁とまな板をテーブルに乗せパンをカットしだした。

「今窯から出たばかりだよ。このルヴァン種のバゲットは俺の自慢なんだ」

客に「美味いから食べてみなさい」と勧められてその造園業の若者はカットされたバゲットを口に入れた。

 

 

途端にルヴァンの風味と小麦の旨味が、クラストの歯応えとクラムの水分を含んだ食感が、そして窯の熱気を含んだエアが口に広がった。

大袈裟だが脳内で美味さが爆発したんだ。

出会ったことのない美味さに衝撃を受けてその場でシェフに弟子入りしたいと言い出した。シェフは驚いたが、男が自分の作ったバゲットを全部食っちまって本気で感動しているのが気になって、その男を弟子にしてやったんだ。

男には家庭があったんだが、突然パン職人になると言って、造園業を廃業して長野県に行ったまま帰らなくなった夫に愛想を尽かした奥さんは、男に離婚届を送りつけて実家に帰ったんだよ」

「ええ?随分衝動的な人ですね」

「お前だって突然ドイツに行きたいって言ったんだろう?」

「え?それは、まあ、あの、はい」

大木は笑いながら「人の事は言えないなあ」と言った。

「どうしても行かなきゃならなかったんだろう」

「あの、、俺ずっと不思議だったんです。大木シェフは俺たち部外者を弟子のようにして下さって色々教えて貰ってるのは何故なんですか?その伝説のなんとかと関係あるんですか?」

「運命ってのは不思議なもんだよ」

「運命?あのメモにもそんな事が書かれていました」

 

大木は思い出していた。

 

 

 

俺が若い頃、あいつとNNホテルのパン部門で働いていた。

佐久間と鳥井も一緒だった。

毎日が発見の連続で、俺はあいつに心酔したんだ。

江川を見てるとあの頃の俺を思い出す。

こんな日が永遠に続けばいいと思っていたが、あいつは職場を去った。

最後の日に俺にこう言った「これから若いものを育ててパン業界を盛り上げるのが俺たちの使命なんだ。約束だぞ」ってな。

その後俺と鳥井はドイツへ、佐久間はフランス。あいつは世界各地を回って何年も帰って来なかった。

おい!俺は約束を守ってるぞ。

 

急に、考え込んでいる修造に向かって大木が声を張った。

「これから色々大変だぞ!他の事は気にせずに江川と息を合わせて集中して練習しろ!優勝して貰わないとこうして教えてる意味がないだろ?わかったらどんなメニューにしたいのか考えて書いてこい!」

「はい」

 

帰りの電車で結局大木にはぐらかされたんだと思った。

「そいつその後どうなったんだ、、」

でも今日少しだけ分かった。

またそのバゲットジャンキーの事を少しずつ聞き出して点と線を繋げてやる!

修造は心の中で密かに決めていた。

 

パンロンドに戻り、仕込み中の親方に「伝説の流れ職人って聞いた事ありますか?」と聞いた。

「ああ、そういえば昔そんな噂を聞いた事あるな、色んな店を渡り歩いてヘルプに入って従業員を牛耳って技術を教え込み、店の格が上がると噂になってあっちこっちで呼ばれてるとかなんとか。でもそれ、俺が修行時代の事だから15年以上前のことでさ、その後世界各地に呼ばれるようになって殆ど日本にはいないから連絡もつかないって話さ」

「へぇ〜」

「会ったことあんのか?」

「多分」

「多分?」

「その人の作るバゲットが美味いんですか?」

「そうだな、日本の色んな店で修行して回った後フランスに渡ってからは各国を回って帰ってこなくなったとか聞いたことあるよ。そこでも延々と修行したんじゃない?」

 

 

そうかオレンジ色の大きなトランクであちこち回ってるのか。

世界中を自由に。

旅の楽しさと、行った先で出会った世界のパン職人。

勿論苦労もあると思うけどずっと続けてるのは

それでも構わない程夢中になれる事があるんだろう。

うわ、ちょっと憧れちゃうなあ。

 

「その人パンの世界に没頭したんですね」

「そうだな、他のものを全て捨てても欲しいものがあったんだろな」

パンの製法も概念も時とともに変わりつつある。それを追い求めて広めたい。

修造はまた少し分かった気がした。

 


 

家に帰って本に挟んである2枚の紙を見た。

まるで俺が数奇で運命に流されるみたいじゃないか。

これが予言めいたものでないことを祈るよ。

いつかまたどこかで出会うだろう。

 

その時に聞いてみたいこの言葉の意味を

 

バゲットジャンキーに

 

 

おわり

ロッゲンブロート ライ麦90%以上配合されたパン

メアコンブロート ライ麦100%使用 ひまわりの種、オートミール、胡麻、亜麻の実などの穀物をまぶしたパン

ミッシュブロート 小麦粉とライ麦粉を同量配合したパン

ラントブロート ドイツの代表的な 食事パン ライ麦70%配合

Schweineohr(豚の耳) パルミエの事 ドイツでは豚は幸運のシンボル

 

パンの流れ職人とは  昭和の時代 戦後からバブル期に至るまで、パン屋の忙しさは熾烈を極めました。戦後甘いものに飢えた人たちがあんぱん、クリームパン、ジャムパン、デニッシュなどを買い求めていましたし、それがバブル前どんどん購買熱が加速していきました。流れ職人斡旋を生業としている人たちが、手の足りないパン屋さんに職人さんを紹介するのですが、短期の人も多く、しばらくするとまた次の職場へ行くパターンが多かったのです。

当時はスーパーもコンビニも無かったのでパン職人、特に父ちゃん母ちゃんの店は毎日が超多忙でした。バブル前、パン業界だけでは無かった事ですが、なるべく世界中の食べ物を紹介する業者や、時間短縮の為の食品を考え出す会社が増えて行きました。

バブル以降はリストラと言う言葉が横行して、その後皆さんもご存じの職業斡旋業がどんどん出てきて流れ職人もそれを斡旋する人も少なくなっていったのです。

このお話に出て来る背の高い男は、どちらかと言うとヘルプ的要素が強いですし、長くやっていくうちに先生として呼ばれて赴く感じです。世界中のパンが見てみたかったのでしょうね。

 


2022年04月29日(金)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ broken knitting 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ broken knitting

 

 

修造が各ブースを練り歩いていた時

職人選抜選考会2日目は高校生パンコンテストが開催中だった。

その会場の中には前日修造達選手が作った作品がディスプレイされていた。

江川はそれをひとつひとつ丹念に見ていって、そして最後に修造のディスプレイを見てしみじみと言った「うん、どれも凄いけど僕たちのが1番凄いな」

その後ろでは高校生達が各ブースに分かれてパン作りをしていた。

江川はとてもレベルの高い高校生達のパン作りに驚いて大きな目を皿の様にして見ていた。

「あの子達凄ーい」

すると「江川君」とお洒落な女性が声をかけてきた。

「ほんと田所さんも佐々木さんも技術が高いわね。江川君もお疲れ様だったわね」

「あっBBベーグルの田中さん、その節はありがとうございました」

「いえ、良いのよ。あの時は優勝して良かったわね」

「はい、おかげさまで」

「今日はうちのパン教室の生徒さんが出てるから応援に来たの」

 

 

 

店に料理番組にパン教室か、田中さんも手広いな。と思ったその時、父兄の団体が到着したのかその一帯が人でいっぱいになり田中とは距離が空いた。

「またね」と手を振って田中が消えたので江川もその場から立ち去って、朝は一緒に来たのにそれ以降全然会わない修造を探した。

通路を四つ辻ごとにキョロキョロ探していると鷲羽と園部が見えた。そしてその手前にひとりの青年が立っている。

年の頃なら自分ぐらいだろうか。

知り合いかな?話しかけないのかな?

「ねぇ鷲羽君、園部君、修造さん見なかった?」

「ごめんね、見なかったよ」

「自分で探せよ!」

うわ!園部君に比べて鷲羽君の言い方腹立つな。

そう思ってそれ以上近寄らず角を曲がって立ち去った。

江川も色々見て回ったが、コンテストの会場は人でいっぱいだし、どこにも修造はいないし。。

寂しくなって会場の外のベンチに座り、パンフレットで場内の地図や参加店を見出した。

へぇ、去年来たのと同じ感じだけど、懐かしいな。

ここに来て修造さんは世界大会に出る決心をしたんだ。

僕始め世界大会って空手の事だと思ってた。

江川は思い出して照れ笑いした。

 

 

「おい、何を笑ってるんだ」

「あ、大木シェフ。休憩ですか?3日間大変ですね審査とか進行とか」

「そうだな、若い力を育ててパン業界を盛り上げるのが使命みたいなもんだよ。おい、お前もそのうち手伝うんだぞ」

「はい、僕今日何もすることが無くて困ったので手伝った方が良いです」

「今日の夕方は前日準備だな!鷲羽は手強いぞ、それに他の3人もな」

「残りの3人ってどんな人ですか?さっき鷲羽君をじっと見てた人がいたけどその人かな?」

「1人は福岡のSS料理学校のパンコースの沢田茉莉花、1人は関西のT調理師養成学校のパンコース龜井戸孝志、そしてブーランジェリー檜山で働いている木綿彩葉だ」

「きっと技術が高いんでしょうね」

「そうだな、成績の良い若者ばかりだよ。江川、帰ってちょっと休め、夕方の準備をイメトレしとけよ」

「はい」

江川は言われた通りにホテルに戻りまた夕方駐車場に行き、車から自分の資材を運んだ。

ブースの前の空間で

4人が輪になって立っていて江川を見ている。

「遅かったな」

「あ、ごめん鷲羽君」

大木がやって来た。

「では各自挨拶してから前日準備を始める様に」

皆に挨拶してから江川は思った。

 

 

あ、昼間鷲羽君を見てたのはこの人たちじゃ無いんだ。

「鷲羽君、今日知り合いの人が来てたみたいだけど会えた?」

「知らなかったな」

「そうなの?わかった」

 

修造はすでに江川のブースで忘れ物がないか確認に来ていた。

「さ、始めて江川」

「はい。僕緊張して手が震えてきました」

「大丈夫だよ、リラックスして。計量は間違えない様に」

「はい」

選手の与えられたブースは4メートルに区切られていて、その中にミキサー、パイローラー、オーブン、ドゥコンなどが設置されている。

先に始める生地の材料や必要なのものからブースの中に入れて、その他の後でやるものは次々出していく計算だ。

明日は修造があれこれ手前から注意してくれたり必要なものは後ろから用意してくれるからその点は安心だ。

種を作った後、ホッとして「修造さん、明日はよろしくお願いします」と言った。

 

次の日

若手コンテストも早朝から始まった。

皆、緊張の面持ちでスタートした。

鷲羽と江川は隣同士ではなく、間に沢田茉莉花がいたのでお互いの気配は全くわからない。

緊張してなにかの工程を飛ばさない様に気をつけてスケジュール通りに慎重に。

修造は江川の体調が心配だったが、もうこの場においては頑張って貰うしかない。

 

 

江川!お前は個性的な奴だ。その個性とセンスを最大限に生かしてはじけるんだ。

祈るような気持ちで江川の進行を見守りながら修造は横にいた大木に話しかけた。

「大木シェフ、ここまでの期間色々面倒見て下さってありがとうございました。結果はどうあれ俺も江川もいい経験になりました」

「江川がお前の助手も自分のコンテストも両方やると聞いて、正直どちらも疎かになると思っていたが、どうにか乗り越えられそうだな」

「はい、江川は頑張り屋さんだな」

 

鷲羽は元々よくできる奴だったが江川のおかげで益々技術が上がったな」

「はい、ライバルって良いですね」

鷲羽はパンの専門学校に行ってた時、他を押し退けてまで技術の習得に熱心だったので、敵も多かったらしいが、今日は1人で集中して結果を出そうと必死だった。

コンテストに出た全員が粛々とパン作りを進行させていた。

江川の持ち物の中には修造に貰ったカミソリとホルダーがあった。

江川はそれをまるでお守りの様に思い、握りしめて手の震えを抑えるのに役に立った。

そのうち建物が開場になり、チラホラと人が増えて来た。

昼間になると結果発表迄に会場を回って資料集めをする人達で一杯になって来る。

今日の夕方はとうとう審査の結果がわかる。

「流石に気になるな」修造も緊張してきた。

修造は、江川のブースの後ろに周りそろそろパンデコレのものを運び込もうとした。園部も今日は鷲羽の為に色々手伝ってやっていた。

「江川これ置いとくよ」「はい」

鷲羽のパンも揃ってきた。

 

 

いい出来だ。

鷲羽は勝利を意識しだした。

その時、テーブルがバターンと倒れた様な音がした。

「なんだ」

自分のブースの後で大きな音がしたので胸騒ぎがした鷲羽はすぐに覗きに行った時、園部が急に走り出した。

「あっ!園部どこ行くの!」

走り去る園部の背中を目で追ったがそれどころでは無い!鷲羽のパンデコレの部品が乗ったテーブルが倒れている。

「うわーっ」鷲羽の叫び声が聞こえたので修造が駆けつけた。

鷲羽は膝をついて箱の中を見ながら「園部が」と修造に言った。

中を覗くとマクラメ編みが割れている。

修造は「諦めるな!まだ時間はある!修復するんだ」と言って走り出した。

 

 

園部に追いつかなければ。

修造は角を曲がって真っ直ぐ館内を走った。

「園部!待て!」

 

修造が追いかけて走っている頃、鷲羽は割れたマクラメ編みを震える手で繋げて愕然としていた。

 

園部

 

お前も俺を本当は嫌っていたのか。

あまり周りからよく思われてない俺に普通に接してくれてたのに。

俺は勝手に親友と思ってたのに。

ホルツの入社式で横にいた時からずっと一緒に行動していて、それが当たり前と思っていたんだ。

「俺が人でなしだからか」

鷲羽の瞳から涙が滲んでいたが、修造が修復するんだと言っていた言葉を頼りに動こうとはする。

鷲羽の心は割れたパンのかけらの様に砕けそうだった。

 


 

修造は長いリーチで走る園部の背中に距離を詰めて行った。

しかし何かおかしい。

園部が見えてきた、その前に誰か走っている。

角を曲がって真っ直ぐ行くと出口だ!

 

「おや」

興善フーズにいた背の高い男は、走っている3人の男に随分先から気がついた。

 

 

ブースの中から見ていると先頭を走る男が近づいてきたので、それ目掛けて2段構えの台車の下を「ポン」と蹴った。

「うわ!」

先頭の男が台車に片足をぶつけて勢いよく転けた。

「あ、ごめんね」と言って素早く隠れて見ていると、園部と修造が追いついた。

「修造さんこいつがテーブルを倒したのを見ました」

「なぜだ!何故やった?」

騒ぎを避け、修造と園部は一般の客から見えないパネルの後ろに男を連れて行った。

よく見ると園部と同じ年頃だ。その青年は修造の掴んだ腕を勢いよく振りほどいた。

「あいつが悪いんだ。専門学校にいた時、ずっと俺を見下していた。昨日見かけた時目があったのにあいつ全然俺に気がつかないで無視した。忘れてるんだと思ってすごく腹が立ったんだよ。俺があいつに前向きな人でなしってあだ名をつけてやったんだ」

「確かにあいつは無神経なところがある。だがそれと努力して作り上げたものを一緒にするな」

 

 

修造はその男の代わりに後ろのパネルを思い切り正拳突きをして「努力の結晶に敬意を払わない者はこの俺が許さない!」と一喝した。

そのあと2人は男を警備員のおじさんに引き渡した。

 

鷲羽の所に戻る道すがら園部は珍しく口を開いた「みんなは英明の事を悪く言うし、英明は口が悪いけど根性は腐っていない。あいつはいつも熱い奴です。それは俺が保証します」

「だな、園部。あいつは良い友達を持ったよ」

 

2人が立ち去ったあと、背の高い男は修造が穴を開けたパネルを「あ〜あ」と言って見ていると、興善フーズの営業が通りかかった。

「ねえ、ごめんねこれ、割っちゃったんだ」

「え、これシェフが壊しちゃったんですか?どうやったらこんな風になるんです?」と逆に聞かれて困ったが、笑ってごまかして上にポスターを貼って隠して貰った。

「これで大丈夫です。その代わりと言っちゃなんですが~、ねえ、シェフ。今度うちの講習会に出て下さいよ」

「これが終わったらブラジルに行くから無理かなあ。だからまた今度ね」

背の高い男はそう言いながら「え~」と追いかける興善フーズの営業と戻って行った。

 

その頃鷲羽は震える手で他の選手に随分遅れてパンデコレの仕上げをしていた。

一部修復は無理だったがなんとかつなぎ合わせ、大木が色々アドバイスしながら仕上げることが出来たが、完成予想とは格段に劣る。

 

 

力なく他のパンの真ん中に置いてあと片付けをしていると、園部と修造が戻ってきた。

「ごめん、俺が見てたのにこんな事になっちゃって」園部は残念そうに謝った.

「園部、疑ってごめん。園部がやったんじゃなくて本当に良かった」

鷲羽の瞳から改めて安堵の涙が溢れた。

「園部はテーブルを倒した奴を捕まえようと走って行ったんだよ」修造が説明した「お前の事を恨んでる様だったよ。あいつが鷲羽の事を前向きな人でなしって呼んだんだな」

そう言われたが、本当に全然覚えていない。俺って本当に困った奴だ。割れたかけらを見て、改めてこんな性格が引き起こした事だと思う。

 

江川の作品を見た。

 

 

案外カッコいい。

蜂の巣と菩提樹の花をモチーフにしたパンデコレ、夢に出て来た草原のサワードウ、親方の教えてくれた「ぶちかましスペシャル」とか言う編み込みパンなど工夫が凝らしてある。

「あいつの勝ちだな」そう思った。

 

全ての選手が自分のパン作りについて審査員のシェフに説明をしていったが、鷲羽の様子を見てみんな気の毒でどんな顔をしていいか分からない。

 

さて、とうとう選抜選考会の優勝者が発表される場になった。3日分の優勝者が今日発表になる。

こういう時って本当に誰が選ばれるかわからない。

鷲羽は若手コンテストの選手の中に混じって立っていた。

大木がマイクを持って司会進行の元

各選手のパンが並べられている前に立った世界大会の出場者から発表される。

 

憔悴してぼんやりと立って見ていると、修造の名前が呼ばれる。

修造は段の上に立ち、前回の優勝者からトロフィーを受け取った。

すごく眩しくてキラキラして見える。やっぱカッコいいな修造さん。

 

 

江川が両手を上げてやったーと叫んで人一倍拍手している。

大勢の人が修造の写真を撮っていた。

その向こうにそれを見ている佐々木が自分と同じ様な表情で立っている。

俺分かりますよ。あなたの気持ち。

俺、絶対優勝するはずだったんですよ。

 

その次は高校生パン教室の優勝者が選ばられた。凄い盛り上がって大騒ぎになった。父兄が集まってきて人でいっぱいだ。

その最中、若手コンテストの結果発表が始まる。

会場はザワザワしだした。

江川の名前が呼ばれて、鳥井シェフからトロフィーを受け取っている。

「おめでとう」

「ありがとうございます」

そんな事を言ってるんだろう。

次に鷲羽の名前が呼ばれた。

審査員特別賞

鷲羽はうやうやしく賞状と盾を受け取り頭を深々と下げた。

そして後ろに立って全員を見ていた。

少し涙が出てきた。

疲れてるだけだ。

鷲羽は少し離れたところに座り込んだ時、横に立った人影を見た。

「大木シェフ」

「俺、自分の性格が原因で色々とダメになってしまいました。練習を最後まで見てくれたのにすみません」

「おい、がっかりするな」

大木は座り込んだ鷲羽の二の腕を大きな手で掴んで起き上がらせた。

「お前はまだ若いんだ。一度負けたぐらいでなんだ。まだまだこれからチャンスはたんまりある。園部と切磋琢磨して修造の跡を追え。フランスに行きたいんなら先に修行に行け、帰ってきたらまたうちで練習しろ。俺が練習を見てやる」

「えっ」

「俺が目をかけてるのを忘れるな」

鷲羽はパンロンドの親方が言ったことを思い出した。

いつか大木シェフと気心が知れる様になるといいな。

今がその瞬間なんだろうか。

 

 

鷲羽の瞳から大粒の涙が溢れた。

「ありがとうございます」

「俺、フランスに行ってきます」

「そうだ!フランスの空気をたっぷり吸って来い!ルーアンに国立製菓製パン学校があって、講師の中にはM.O.F(フランス最優秀職人)のタイトルを持つ先生もいてるんだ。短期コースもあれば2年間学べるコースもある。佐久間に色々面倒見る様に頼んでやる。パスポートを用意しとけよ」

「はい」

鷲羽は天井の無数のライトを見上げて言った。

「下を向くのは俺らしくない」

 

おわり

 

broken knitting 壊れた編み目

INBP(Institut National de la Boulangerie pâtisserie)フランス国立製パン製菓学校

M.O.F(Meilleur Ouvrier de France)フランス最優秀職人


 

 


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