パン職人の修造 江川と修造シリーズ ロストポジション トゲトゲする空間
このお話は全てフィクションです。実際の人物や団体とは一切関係ありません。
主な登場人物
修造と江川は無事にリーベンアンドブロートをオープンさせた。
最寄りの笹目駅からは少し離れているが近くにバス停もあるし、車は駐車しやすい場所にある。
連日の大賑わいに修造と江川、そしてパン職人たちは皆自分のポジションで頑張っていた。
修造は2階にある事務所に注文書を取りに行く為に階段を上がろうとした時、新入社員の平城山妙湖(ならやまみょうこ)に呼び止められた。
「修造シェフ」
「平城山さん、仕事はどう?もう慣れた?」修造は振り返って穏やかに声をかけた。
「私辞めます。明日から来ません」
「えっ辞める?ちょっと待ってよ、この間はあんなに楽しそうに仕事してたじゃないか」
修造は驚いて言った「それにまだ入って8日でしょう?契約書には辞める3ヶ月前に言いますって書いてあるじゃないか。それに君はここの正社員でしょう?」
「はい」
「急に抜けたらみんなに迷惑がかかるよ?」
平城山は黙って下を向いている。
「何が原因?朝早い仕事だから?」
「いえ、そんなんじゃないです」
「家から遠いから?」
「いえ」
「人間関係で何かあったの?」
「いいえ」
なかなかはっきりと言わないが順に聞いて行くとついに言い出した。
「ここに来る前転職サイトを色々見て」
「うん?」
「候補が二つあってどちらにするか決めかねたけど世界一のシェフがいると聞いてここにしました」
「うん」修造はなんというのか全く理解できない世界を知りたい様な感じで聞いていた。
「ここは忙しすぎます。もう一軒の方がきっとここよりマシだわ」
「まだ開店したばかりだからね。皆慣れていないし、もう少ししたら落ち着いてペースを掴めると思うよ」
「面倒な仕事を押し付けられてその後延々とそれをやらされるなんてごめんだわ」
「面倒?押し付ける?確かに初めは手が掛かる事もあるかもしれないけど慣れてきたらそうは思わないんじゃないかな」
「私辞めるしもう関係ありません!しつこく聞くなんてパワハラだわ!私もう一軒の方のパン屋に行きます」
キレた感じで言われ、次の日から本当に来なかった。
修造は一旦平城山の為に出した社会保険や労働保険、住民税などの届け出を今度は異動届として出した。
「こういう時は日割り計算なんだな」給料計算をして、その後欠員補充の為に求人広告雑誌掲載の依頼を担当の人にメールしながら頭をよぎる。
きっと他のパン屋の面接を受けるんだろう。
サインをしようがハンコを押そうが知ったこっちゃないんだな。
「規則とか罰則なんて辞めたくない者の為のものなんだ」
修造は初めてその事を知った。
一方その頃
江川は工房と裏庭の間にある倉庫で納品された品物をチェックしていた。今から使う物も集めて工房に持っていく。
「これとこれと、、あれ?」
自分が思ってたよりも減りの早いものがある。
どういう事だろう?
誰かが使い過ぎてるのかな?
工房に戻ってみんなの動きをよーく見てみた。
和鍵希良梨(わかぎきらり)がクロックムッシュの上にこんもりとクリームを塗っている。
「ねぇ、そんなに塗ったら多すぎるよ。決められた量があるんだし。ねっ」
「私ちゃんとやってます」
明らかに塗りすぎなのに、和鍵は平然と言ってきた。
「えっ!でも、、」
和鍵は江川に言われた事を無かったことにしたかの様に無視してまた作業を続けた。仕方ないので江川は和鍵の作ったクロックムッシュを量りで計って見せた。
「ほらね、30gも多いよ。1個や2個と違って沢山作ってるんだから途轍もない量になっていくんだ」
和鍵はムッとして上に塗ったホワイトソースをスパチュラでこそげ取った。
「あっ」
「これで良いんでしょう?」
「何その態度」
江川はびっくりして言った。
和鍵は顔を近づけて小声で言った「偉そうに、私達とそんなに年も変わらないのに上司面して」
「そんなつもりじゃないよ」
「江川さんは良いですよね。修造さんから特別に可愛がられて」和鍵は首をクネっと曲げながら言った。遠くから見てると可愛いポーズで話してるように見える。
「特別じゃないよ。なんでそうなるの?話をすり替えないで」
「でもみんなそう思ってますよ。オーナーに言われるならともかく、江川さんにそんな事言われたくないわ」和鍵は顔を近づけて小声で言った。
「とにかくちゃんとしてよね」
声を震わせながらそう言って、江川は足早に事務所に戻ってきた。
「みんなそう思ってるのかな」ソファに座ってドアの方を見た。
工房に戻りにくい。
言いたい事を言われて情けなくて涙が出る。
郵便局に行っていた修造が帰ってきた。
「どうした江川!何かあったのか?」
座って泣いている江川に驚いて肩に手を置き顔を覗き込んだ。
「なんでもありません」
「な訳ないだろう?言えよちゃんと」
心配が先立って詰め寄る感じになった。
「実は材料の使いすぎで和鍵さんと揉めちゃって」
修造は江川を事務所に残して1階に降り、工房に入ろうとすると中から立花杏香が出てきた。
「なあ、さっき揉め事があった?」修造は小声で聞いた。
「はい実は、、」
そばで見ていた立花が和鍵の態度については教えてくれたが小声での会話まではわからないと言う。
「えーそれは傷つくなあ。悪いけど和鍵さん呼んできてくれる?」
立花に呼ばれて廊下に和鍵が出てきた。
「さっき江川に材料の量の事で注意されたんだろ?どんな話だったの?」
「はい、、すみません」
和鍵は修造には素直に謝った。
「私ちょっと塗り過ぎちゃったんです。沢山塗った方がお客様が喜ぶと思って。そしたら江川さんが計って多いって、、」
と言って泣き出した。
泣くところなのか?
「わかったよごめんごめん。江川も一生懸命なんだよ。今度からお互い気をつけようね」
工房に戻った和鍵の背中を見送り事務所に戻る。
別に江川が悪いわけじゃないと思いつつも『お互い』と言ってしまったと後悔する。
「江川、気分はどう?少し落ち着いた?」と聞いた。
「はい、すみませんでした。僕和鍵さんになんて言ったらいいのかわからなくなって。でももう大丈夫です」
確かにさっきよりは落ち着いて見える「みんな忙しくてイライラしてるのかもね。俺も工房に行くけど一緒に戻れる?」
「はい」
工房に戻って江川と作業しながら皆の様子を観察した。
江川は孤立しているのか?
立花他数名はそんな事は無いだろうが忙しくてそれどころじゃない様だし、和鍵は登野里緒、平城山と派閥みたいな物を作りつつあったが平城山はさっさと辞めてしまった。
和鍵は誰かが注意されるとすかさずそこに行き、不満などを聞いて味方になり、店や江川が悪いと吹き込んでおかしな信頼関係を築いてる様だが、ハッキリとは聞こえてこないのがやっかいだ。
修造は兎に角やる事が多くて事務所にいて長いこと用事をしている時もあるし。そんな時江川は冷たくされる様だ。
終業後
家に帰って和鍵は母親と話していた。
それは自分の言った言葉以外の見たままの内容だった。
江川さんってNo.2がいて自分には厳しく、計りを持ってきて自分の仕事をチェックした事。
オーナーが来て色々質問してきた事。
その後オーナーが江川と入ってきてジロジロ仕事の様子を観察していた事など。
「鬱陶しいわ」
「可哀想な季良梨、あんたは悪くないんでしょう?」
「うーん」
「だったら毅然とした態度をしてれば良いのよ。そんなおかしなオーナーや従業員に負けないで。また何かあったら教えてね」
「うん」
ーーーー
何日か後
修造は店内で袋入りの焼き菓子やドリップバッグが消える事が度々あるとカフェ担当の岡田克美と中谷麻友から報告を受けた。
「中谷さん、どのぐらいの頻度で無くなるの?」
「まだそれはわからないんですけど、私が担当をしていて、売れてないのに無くなってる物があるんです。気をつけて見てる様にします」
岡田が納品書を持って説明してきた「数量で言えば、例えば初日からこの商品は60個あったんです。レジを見てみるとこの商品は36個売れてる、それなのに実際の残数は24無いといけないのに18個しか無い」
「うわ」修造は驚くと共に岡田が頼りになると感動した。
「ほかの商品10種類も足りない分がこれです。袋入りだからわかりやすいですが」
「中谷さん、岡田君ありがとう。また何かあったら教えて」修造は調査表を受け取って店の様子をよく見てみた。
うーん。
レジでは客が並び安芸川と姉岡が忙しそうにしている。
修造はパン箱をもって「いらっしゃいませ」と周辺の客に挨拶してトレーに焼き立てパンの補充をしながら「こういうのは持ち去りようがないもんな」と呟いた。
そのあと工房で仕事しながら様子を見たが江川と和鍵は距離をとって仕事している。
「うーん、各方面に目配りしないとな」
ーーーー
さて
また新しいメンバーがやってきた。
「白栂雅子(しろつがまさこ)と申します。よろしくお願いします」皆に爽やかに挨拶した。
白栂は和鍵と同じ年齢ですぐに打ち解けた様だ。
上手くいってくれるといいけど。修造はまだ平城山ショックから立ち直っていなかったのでちょっと祈るような気持ちだった。
「明るそうな人で良かった」
ところが
白栂は何度も遅刻してくる。
反省はしてる様だがしばらくするとまた同じ様な遅刻。
そして修造を悩ませたのが白栂とのやり取りだった。
今日は人がいなくて「あ、いいよその仕事は、自分の仕事をしていて」と言うと、もうこれはしなくていいんだとかもう次は要らないのかなと思う様だ。こちらは全体を見て手が足りないかどうかを見てるのだが白栂は自分と自分の仕事だけを見てるからそうなるんだろう。なので次に今日は人がいてゆったりだから、これなら白栂にもできるだろうとやらせると、こないだはやらなくっていいって言ったのになんで?となる。理解できない様だ。
おまけに甘くしてるとそれが当たり前になっちゃうし、厳しく言うとパワハラになっちゃうし。
また和鍵が白栂を慰めてる。これが店の為を思ってやってるならありがたい存在なのに店が悪いという展開になって行く。
最近では和鍵と白栂は江川を無視して、2人のやりたい様にやってる様だ。
ある日
江川が板に※パンマットを乗せてそこに成形したバゲットを波板状に並べ、その板ごと持って奥のホイロに移動しようとした。
「あ」
中央のテーブルの右には最近は仲直りしてうまくやっている西森と大坂が板の上の生地を※スリップピールに並べていて通れない。左は和鍵と白栂がテーブルの前で仕事している。江川は和鍵達の後ろを通るしかなく「ちょっとごめんね」と言って通ろうとした。狭い通路なので和鍵と白栂はテーブルに寄って後ろをあけないといけない。江川が通り過ぎようとしたその瞬間白栂が後ろに下がった。
「あっ」
「いま私のお尻を触りましたよね」
「触ってないよ!ちょっと当たったかもしれないけど」
「ちょっとって何ですか?触った事に変わりないでしょう」
和鍵も白栂に加勢した「セクハラだわ」
「ぼくそんな事してないよ」
西森と大坂はその瞬間は見ていなかったが「そんなわけないだろう」「絶対触ってないと、、、思うけどな」と冷静に言っている。
立花は「その場所は狭い所なんだから今度からあなたも当たらないようにしなさいよ」と注意してきたので白栂は「セクハラ!」と捨てゼリフを江川に言ってまた作業に戻った。
江川は困って事務所にいた修造に相談した。
「僕触ってません」
「お前がそんな奴じゃないってことは俺が一番わかってるよ」
「僕、どうしましょう。居辛いです」
「俺が話してみるから戻っていいよ」
「はい」江川は首をうなだれて戻っていった。
修造は白栂を事務所に呼んだ。
階段を上り、入って来た白栂は不満そうな顔をしている。
「白栂さん、江川がそのう白栂さんのあのう、身体に触れたって事らしいけど誤解だと思うんだよ」
「私が嘘ついてるっていうんですか?」
「嘘とは言ってないよ。当たったんだろうけどセクハラめいた事ではないというか」
「ひどい!泣き寝入りしろっていうんですか?修造シェフはいつも私にばっかり注意してますよね。私の事が嫌いなんですか?」
「ばっかりって事は無いよ。仕事上のやりとりなんだし。嫌いとかそういう事じゃないよ」
「もういいです!私辞めます。和鍵さんも修造さんはえこひいきばかりするって言っていました」
「誤解を解きたいだけなのに辞めるだって?なんでそうなるんだ」
「セクハラを庇うからです」白栂はそう言いながら出て生き様思い切りバタンとドアを閉めた。
これ以上言っても無駄なのか、平城山の事を思い出して追いかけていくのは止める。
修造はガクっとソファに座って首をうなだれながら考えた。
経営って大変だな。パン作りの事だけを考えりゃ良いってもんじゃないんだ。
世界大会での燃えるような気持ちを思い出す。
あー
あの時は良かったなあ。
親方夫妻
大木シェフ
鳥井シェフ
那須田シェフ
パンの高みだけを追いかけて夢中になって
今は江川がセクハラの疑いをかけられてるなんて、しかも自分の所の従業員に。
修造はソファに座って両手で顔を擦りながら考えた。
こんな時親方ならどうするんだろう。
どっしり構えて動じずにみんなの事を見守っていくんだろうな。
なんだかんだいつも世話になってた奥さん、ちょこまかと動いてみんなを束ねてた。チャキチャキみんなを引っ張っていってたな。
懐かしい
それに
杉本はやりやすかったよなあ、殴り合っても次の瞬間には心が通じ合ってたし。
あー会いたいなあ皆に。
修造は久しぶりにパンロンドの親方の所を訪れた。
杉本が飛んできた「あっ修造さん!今日は用があって来たんですか?」
修造は杉本の肩を抱き「杉本~」と笑顔を見せて杉本を怖がらせた「ひっ」
「よう修造!どうだい新しい店は」
「親方、それがあのう。思ってたよりも人の問題が大変で」
「まあ肩の力を抜けよ修造」
親方はうーんと昔を思い出しながら言った。
「俺も始めはそんな感じだったな。遅刻ばっかしてくるやつを叱りつけて首にして、そいつが逆襲に来てお前に迷惑かけた事もあったな。 色々あったが佐久山と広巻みたいに気の合う奴と出会ってあまりでかい不満もなく続けられたよ。若い時は佐久山はギャンブルばっかりしてて、広巻はのんべぇだった。いつ飛んじまうかわからないなあと思ってたらお前が入ってきて、途中で中抜けしてドイツに行くって言った時から2人ともちょっと表情が変わったんだよ。ヨレヨレの格好してたのも治ったな。仕事の事で更に高みを目指すなんて奴はあいつらの人生で初めて出会ったんだろうよ。戻って来て世界大会に出て、、、それを見てるうちに段々仕事に前向きになって来て、飲んだり打ったりするのも減ってきた」
そしてうんうんとうなづきながら続けた「俺にもあいつらにも良い刺激になったんだよ。江川も続けてればまた気の合う奴が巡ってくるって。仕事のリズムを掴めない奴には一緒にやって褒めて様子を見てやるしかないのさ。そしたら自分で出来るようになるってもんだ。大変と思うけどな」
「はい」
修造は帰り道歩きながら考えた。
そうか
俺が親方夫妻みたいになって江川と一緒に色々とやりかたを考えてやらなきゃいけないんだ。
俺も変わらないと。
江川が育つまで俺が奥さんと親方の2人分をやらなきゃ。
修造は事務の時間を夜に回して職人達と一緒に仕事をしてやって出来るようになるまで面倒を見た。出来るようになると「そうそう!その感じ」と励ましてやる気の出る様に努力した。
疲れてソファに伸びてる修造をドアの隙間から見た立花が和鍵に言った。
「このままで良いのかな。私はここにいて少しでも修造さんの技術を学びたい。それが自分の為になるのよ」
次の日和鍵は修造の手元をよく見ていた。それを見た立花が「和鍵さん、やる気出てきたんじゃないですか?」と言った。その言葉を聞いて修造はほっとした。
「修造さん」
振り向くと岡田が立っていた。
「閉店後話があります」
こんな言い方をされた時はろくな事じゃない。
修造はそういう事を察する事が出来る様になってきた。
岡田も辞めるのかな?そう思いながら閉店後に待っていた岡田の所に行く。そこに中谷もいた。
岡田は何枚かA4の紙を渡してきた。
「以前言っていた商品がなくなる件ですが、状態は変わっていません」
「うわ、トータルすると相当な金額だな。こんなにどうするんだろう」
「それで」岡田と中谷は顔を見合わせて頷いて「どうもお客さんじゃないんじゃないのかと」と言った。「レジ閉め後に数を数えて、試しに開店前に数えたら前夜と数が違うんです」
「えっ、てことは」修造は全員の顔を順に思い出していった。
「それで、店内に防犯カメラを付けてはいかがかと」
「わかったよ、ここまで調べてくれるなんてほんとありがとうな」
修造は岡田と中谷に感謝して、江川と防犯カメラを付ける位置を考えた。
「こっそり隠すんですか?」
「いいや、堂々とでいいだろ」
「そうですね」
「じゃあ2つあそことあそこに付けよう!明日業者の人に頼んでおくよ」
「はい」
「ところで江川、白栂さんの件だけど」
そう言うと江川の表情が一変した。
「あ、違うんだ。周りのみんなはあれは誤解だって思ってるって言いたかったんだよ」
「僕、あれから本当に気をつけていて、大声で通るよって言って間を空けて貰ってから通ってます」
「うん、俺もそうするよ、なんせ工房が狭いもんな」
「はい」
ーーーー
「あ、江川職人」
「パン粉ちゃんおまたせ~」
今日は江川と小手川パン粉は駅で待ち合わせてパン屋さん巡りに行く日だ。
2人は電車に乗り一駅ずつ降りてはその駅の近くの名物パン屋を訪れた。
何軒か回った後ブーランジェリーシノミヤに入り、長く続くショーケースに並ぶパンを対面で立っている販売員に指差してトレーに乗せて貰う。
「江川職人、買いすぎじゃない?そんなに食べれるの?」パン粉は江川のトレーを見て驚いて言った。すでに買い物したパン屋の袋が3袋もあるからだ。
「だって美味しそうなパンばっかりでどれも味見したいんだもん」
「その気持ち痛いほどわかるけど」2人は笑いあってレジで今食べるパンを選んでドリンクを注文した。
席に座ると今日行ったパン屋のパンをチェックしたりトレーのパンを味見したりする。
「ここのバゲットはもち麦を使ってるんだね」
「もっちり弾力があるね」
「パン粉ちゃん、もち麦はアミロペクチンを多く含んでいてそこがうるち米と違う所なんだ。粘度が高くて消化しにくいから腹持ちがいいんだって」
「さすが江川職人ものしり~」
「修造さんの受け売りだよ」江川はちょっと顔が赤くなった。
「江川職人はパン職人になって何年になるの?」
「4年だよ。もうすぐ5年、その間色んな事があったな。僕ずっと修造さんの背中を追いかけてたんだ」
「ザ・師弟愛」
「修造さんは強いんだ、なんでも乗り越えていける。そんな時修造さんの背中が光って見えるんだ」
「うん、なんか分かる気がする。輝いてるよね修造シェフ」
「うん。僕いつかあんな風になれるかな」
「江川職人は力(リキ)あるんじゃない?パンリキ」
「パンリキ?」
「そうパンリキ!」
2人はテーブルを挟んで向かい合い顔を近づけて笑いあった。
ーーーー
次の日
パン粉とパン屋巡りに出かけてリフレッシュした江川が楽しそうにやって来た。
それを見た和鍵がイライラした。
修造にパン屋の説明をしながら楽しそうに仕込みしている江川を見ていた和鍵は『辛く当たってるのにまた復活したわ。目障りだからここからいなくなればいいのに』と思っていた。
なぜこんなに江川が嫌いなのか自分でも不思議だ。
修造は※サワードゥの種継ぎをしながら江川に話しかけた「あのさあ江川、言いにくいんだけど大木シェフからゴルフの誘いがあって今度行ってくるんだけど、いいかな」
「はい、僕もおでかけして気分転換できたんで修造さんも行ってきて下さい」
「大丈夫かな」
「はい、僕いつもより早く来ます」
修造が心配していたのは江川と和鍵の事だったんだが。
心配しつつも修造は粗目ゴルフ場に出かけた。
道具は全て大木が貸してくれる。
修造が来たので大木は嬉しそうにしていた「ルール知ってんのか?」
「いえ、あまり」
「そうか、じゃあ今日は練習ということで」
そう言って大木はティーインググラウンドに立ちドライバーを構え、力を入れずにクラブを振りぬいた。スーっと伸びたボールは打ち上げのフエァウエー中央に落ちた。
「無難だな」鳥井に言われたが「これがベテランってもんだ。さあ、次修造!俺みたいに打てよ」
「はい」よし!要するにあのグリーン目掛けて打ちゃあいいんだな!修造は思い切り素振りをした。ティーアップして出だしから怪力でドカーンと打ち飛ばし、ボールは右へスライスしてグーンと伸び隣の5番ホールへ飛んで行く。
「うわ!」
その途端キャディの声が「ファーーーーッ」と響いた。
ーーーー
一方リーベンアンドブロートの工房では修造が抜けてる分皆忙しく働いていた。
江川は修造の分も仕事しようと張り切っていて、仕込み成形仕込み成形を繰り返していた。
ふと見ると洗い物が随分溜まっている。白栂が辞めた後、和鍵は修造の前では率先して洗い物をしてたのに今日は全然やらない、気になるけど今は自分も手が回らない。
「あのさ和鍵さん、ちょっとあれ片付けてくれない?今手が空いてるでしょう?そろそろ溢れて落ちそうなんだ、ねっ」
和鍵は聞こえないふりをした。
「和鍵さん」
「、、、」
「和鍵さん!今聞こえないふりしたよね?」
「なんの事ですか?今忙しいんです」
「無視しないで、何故僕に嫌な態度を取るの?」和鍵に言った言葉を和鍵が返してきた。
「無視しないで、何故僕に嫌な態度を取るの?」
「それ僕の真似だよね?やめて」江川は苛立ちを抑えながら言ったが突然脳内で何かが切れた。
「もういいよ」
江川は和鍵にはそれ以上言わずにもっと早く仕事を終わらせて片付けにかかった。
そして誰とも話さずに黙って帰った。
夕方
ゴルフで散々だった修造ががっくりして戻って来た。
工房には江川の姿はなく、他の者が明日の準備をしていた。
「あれ?江川は?」
和鍵が答えた「江川さんなら誰にも挨拶なしで帰っちゃいました」
「えっ、そんな奴じゃないのになあ」
「そうですかね」呆れた様に言う和鍵の言葉に不安がよぎる。
廊下で何度も電話をかけた「でない」
修造は裏口の方を見ながら後悔した。
今日呑気にゴルフに行くべきじゃなかった。
江川は最近リーブロのある笹目駅の近くに引っ越してきた。
自分のマンションに向かい自転車を漕ぎながら涙が止まらない。
あの時と同じだ。
高校の時と。
僕だけみんなと違うのをみんな意識してる、中には和鍵さんみたいに僕の話し方を真似する失礼な子もいた。
僕は学校に行くのが嫌になって、パンロンドに逃げたんだ。でもパンロンドでは修造さんやみんなが僕を普通に受け入れてくれていた。自然で何も聞かない、だからって関心が無いわけじゃない。僕はやっととても自由な気持ちになれたのに。
江川はその次の日から店に来なくなった。
ーーーー
「立花さん、江川は今日も休みなの?」
「はい修造さん、体調悪いと連絡がありました」
「全く、こんなに忙しいのに何日も休まれたら困るわ」そばで作業をしていた和鍵がすかさず言った。
「俺が江川の代わりに入るからね」
「はい、お願いします。助かります」
それを聞いていた立花が、和鍵を冷静な目で見ていた「修造さんの前でも江川さんに対する態度を見せたら?」
「何言ってるの?立花さんが変な事言い出しました」
和鍵は修造に困った顔を見せた。
修造は違和感のある和鍵の態度を見て江川に本当の事を聞かなくちゃと考えていた。
その夜
雨が激しく降っていた。
修造は江川の住んでいるバンブーグラスマンションを訪ねた。
「あ、修造さん。すみません休んで」
「江川、大丈夫か?痩せたんじゃない?何かあったんだろ?俺にも教えてくれよ」
江川は全て言いたい気持ちをグッと抑えた。今まで言わなかった事を改めて修造に言うのは恥ずかしくて耐えられない。「なんでもありません」と言う言葉と裏腹に涙が止まらない。
「なあ、頼むよ、江川だけが辛いのは俺も辛いんだ」
「僕、みんなと違うんです」
「何が」
「話し方や服装とか」
「俺だって違うぞ、ダサいし話も苦手だし、それに比べて江川はオシャレで明るいだろ?」
その時初めて修造が江川の事をそんな風に思ってた事に気がついた。
「仕事がキツイのか?それとも和鍵さんが原因?」
修造は今日職場で見た事を話した。
「僕、和鍵さんに言われて、昔のことを思い出して身体が動かなくなったんです」
「昔?」
「高校の時の事です」
「不登校の事?」
「はい、また和鍵さんに会うのは怖いです。しばらく休ませて下さい」
「わかったよ江川。仕事のことは心配するな。疲れが溜まっていたせいもあるんだろう、ゆっくり休めよ」
「すみません」
帰り際、冷たい雨の中。
あんな江川初めて見たな。
いつも前向きな奴なのに。
「和鍵さんの件なんとかしなくちゃ」と呟く。
修造は大木シェフを尋ねた。
「よう、こないだは散々だったが練習したらちょっとは上手くなるって」大木は全てスライスする修造のゴルフを思い出して言った。
「俺、ゴルフは向いてなくて」
「クラブフェースが開いてるんだよ、肩の位置とグリップを直しゃいいんだよ」それは何度も言われたが治る気がしない。
「ご相談があって」
「なんだよ」
「シェフは大勢の職人を束ねていますが、どうやって軌道に乗せてるんですか」
「軌道」と言って大木はそばにあったケーキ用の回転台に試し焼きで余っていたクッキーを等間隔に乗せた。
そしてそれを太い指で素早く回すとクッキーは振り落とされて数個残った。
「早く回しすぎるとポロポロ落ちる、ま、丁度良く回す事だな」
「はあ」抽象的な事を言い出した。
「分からんでもないだろ?」
「はい、なんとなく」
「何を困ってる?やってみると大変だろ?」
図星で何とも言い難い。
「あちこちボロボロです」
「お前は全体を見なくちゃならんからな、一つのことに執心すると他が疎かになる。全体を満遍なく見るんだ」
「江川がいじめにあってる様なんです、中々俺の前ではどちらの様子もハッキリしなくて」
「お前な、いつまでも江川のおもりをするつもりか?もっとしっかりした奴だと思うぞ。あいつに自分で何とかさせるんだ。そんなことであいつを独り立ちさせようったって無理だろ」
「はい」
大木にはっきりと言われて今後の課題を言われた気がする。それは自分自身への課題でもあった。
ーーーー
さて、修造にはもう一つ困っている事があった。
レジや品出しをしている姉岡志津香は初めのうち真面目にやっていたが、最近は職場に慣れて本性が露わになって来たのか中々に反抗的だ。接客中パンの事で質問されてわからないから聞きにきたので、それなら説明しようとお客さんの所に行くと別に来なくてよかったのにとこちらを向いて煩そうにして、修造を不思議がらせた。
また、注文を受けた際には店と工場の両方に注文書を貼らないといけない。さっき注文を受ける所を見かけたのにいつまでも来ないから注文書持ってきてというとしばらくして持ってきたのは良いが何も言わずに無言で紙を貼り付けていく。
その他お店の事を仕切り始めてこちらに聞かずに勝手に行動する様になってきた。
なんなんだ姉岡さんって。
修造は工房からしばらく姉岡をマークすることにした。
一つ一つ直していかないとな。
その日の夕方
「修造さん、工事の人が来ました」岡田に呼ばれて防犯カメラを取り付けに来た業者にこことここにお願いしますと言う。「クラウド型にしたんですね」「うん、どこにいても見れるからね」
しばらくして工事が終わり業者に画面の角度を見る様に頼まれたので「もう少しこちら」とか言っていると、レジの姉岡、安芸川も画面をのぞきに来た。
「こんな風に映ってるんですね」
「結構映像がはっきりしてますね」
「うん」
「音は出ないんですか?」
「聞こえないな」
「ふーん」姉岡がそういった。
そんな時黒い噂と言うか、変なものを中谷が見せてきた。
「これ見て下さい」中谷のスマートフォンを覗いて店の評価が載ってるサイトの細かい文字列を読んだ。
「あ!」
『リーベンアンドブロートのシェフって奥さんと生まれたての子を置いて外国に行っちゃったんだって。酷いエゴイスト』
別に炎上してるわけじゃ無いけど気になるし傷つく。
「なんなんだ、これ」
「店のエゴサしたらこんなものが出てきて。酷いですね。書き方に悪意を感じます」
「本当だ、中谷さん教えてくれてありがとう。俺こういうのに疎くて」
「また何かあったら言いますね」
「うん」
家族が心配だ、また律子に迷惑をかけてしまった。
その夜
修造は久しぶりに家に帰った。
「修造おかえり」
「ごめんね中々帰ってこれなくて、子供たちは?」
「もう寝てるわ」
愛妻律子とただいまのハグをして、修造は今日の事を話した。
「律子ごめんね、迷惑かけて」
「そんなに謝ってばっかりしなくてもいいのよ修造」
律子は修造の顔を覗き込んだ。
修造、疲れてる。クタクタなんだわ。
なのに無理してる。
こんな修造見たの初めて。
修造はいつだって情熱に燃えて生きてきたのに。
律子は膝枕をしながら修造の言っていた店の評判を調べた。
これね
フン
エゴイストですって?
他人に私達の何が分かるって言うの?
バカみたい。
「私達こんなの全然平気よ、これってお店の評判を下げようとしてるのよ。そっちの方が心配だわ。気を付けてね」
ーーーー
次の日
小手川パン粉が江川に会いに店へやって来た「あれ、江川さんは休みですか?」
江川の姿が見えない。
「江川さんは一週間程来てませんよ」安芸川が返事した。
横にいた姉岡も「あんまり来ないと忘れちゃうよね」と言った。
「体調悪いとか言ってましたか?」
姉岡はそっけなく「さあ」とだけ答えた。
パン粉はすぐに買い物をして江川のマンションを訪れた。
「パン粉ちゃん」
江川はパン粉の顔を見てほっとした様だった。
「ねえ、もう何日も休んでるの?体調悪いのかと思って来たの」
「ありがとうパン粉ちゃん」
「何か作るから座ってて」
パン粉はキッチンで玉ねぎを薄切りにした。それをバターでゆっくりじっくり炒めている間にコンソメスープを作り、玉ねぎと合わせて煮込んだ後、器に入れてバゲットの輪切りとチーズをのせてオーブンに入れた。
あたりはスープのいい香りに包まれた。
チーン
出来上がったオニオンスープを江川の前に置いた「食べよう、これ食べたら元気出るよ」
「あつ」カットしたバゲットとチーズがフタの様になって冷めにくいスープをスプーンで掬ってフーフーしながら食べる。
「美味しい」江川はパン粉の顔を見た。
「でしょう」パン粉は江川の顔に沢山ついた涙のスジを見ていた。
「ありがとうパン粉ちゃん。僕の為にこんなにしてくれる人がいるなんて凄く嬉しい」
「ねえ、江川職人、何か困ってる事があるんでしょう?私にも分けてよ。でないと私も辛いよ。話してくれない?」
「うん」
江川はしばらく黙ったあと話し出した。
「僕、高校の時不登校になったんだ」
「そうなんだ」
「僕、周りの人と違うんだ同級生の誰とも違うんだ。男とも女とも」江川はパン粉に心情を打ち明けた。
「今もそうなんだ、みんなの事が大好きで仲良くはできるけど愛とか恋とかっていう気持ちがないんだ。ひょっとしたら誰も愛せないまま終わるかもしれない。だからってみんなが嫌いなんじゃないんだ。修造さんやパン粉ちゃんの事が大好きなのにそういう事とは少し違うんだ」江川は両手を握りしめた。
「僕は僕の事がよくわからない、身体は男だけど男でも女でもないんだ」
パン粉は泣いてる江川の頬を両手でそっと包んだ。
「僕にはそれをどうすることも出来ない」
「ねぇ江川職人、別に誰かを好きになったり結婚したりみんながしてる訳じゃないじゃ無い?1人の方が気楽って人もいるし、今って前よりも色々な選択肢があるのよ。男だからとか女だからとかもうどうだっていいのよ」
そう言いながら両方の親指でとめどなく流れる江川の涙を拭った。
「まだ出会ってないからなのか私にはわかんないけど。恋愛なんて言葉、それだけが人生じゃないもん。今の世の中って別に誰とも結婚しないでも良いし、ずっと1人で生きてる人も沢山いるのよ。自分だけが孤独とか1人って訳じゃないよ。自分の分類みたいな事は誰にもして欲しくない。自分の事を誰にも決められたくない。人は人よ、その人達が勝手に自分と違うとか思ってるだけ、江川職人は江川職人なのよ」
「パン粉ちゃん」
急に江川の目の前がパッと輝いた。
今までどこにもなかった道が急に見えた様な気持ちになる。
「私は江川職人と出会って良かった。この間みたいにさ、また映画に行ったりカフェに行ったりしようよ。私達友達でしょう?まだまだ見てない事や知らない事が沢山あるのに勿体ないじゃない」
「パン粉ちゃん」道が開けたのと同時に今まで探していた宝箱まで見つけた。そんな気持ち「本当にありがとう」
「私本当の名前は瀬戸川愛莉って言うの」
「そうなんだね、愛莉ちゃんって呼んでも良い?」
「うん、卓ちゃん」
「私達の未来って私達が思ってる程決まってないじゃない?これからの事は誰にも分からない、でも私達が親友って事、それだけは確かよね」
2人は手を握り合い顔を見合わせてウフフと笑った。
そうか
僕自分の事を型にはめようとしてはみ出してるのが辛かったんだ。
こんな風に思ってくれる人も居るんだ。
「僕愛莉ちゃんと居る時とても気が楽だな」
「私もよ、だって私達親友じゃない」
親友というとても素敵な言葉に江川は凄い強いアイテムを受け取ったような気がした。
心に温かい何かが芽生えた。
ーーーー
その頃
岡田と修造は事務所で話していた。
最近の岡田への信頼は著しい。
「こんなものを見つけました」と言ってマーケットプレイスの画面を見せた。
「このリボンをよく見てください、グリーンの」なんだか見覚えのあるドリップバッグをガン見する。
「あ!うちのリボンじゃないか!このまま売るなんて雑な事するなあ」
「いい様にされてますね」
「だらしなくて恥ずかしいよ全く」
2人はその後防犯カメラを見ながら怪しい人物を特定していた。
「あ、これ見てください」
なんとカメラギリギリの所から白い手が見えて5個入りのドリップバッグを2つ持っていくのが映っている。
「とうとう見つけた!でも誰かまではわからないな」
「そうですね、動画のこの部分の時刻は朝6時。完全に店の者です、しかもカメラの死角を知ってるんじゃないですか?」
「あ、カメラを付けた時に2人にカメラの範囲を見せたよ」
「その2人のうちどちらかかも知れない」
「だな」
「会話は何か撮れていませんか?」
「音は出ないんじゃない?」
「そうですか?」
岡田はアイパッドの音量を上げた。
「修造シェフ」登野が改まった感じで話しかけて来た。
「あ、じゃあ僕はこれで業務に戻るので」
「うん、岡田君ありがとう」
修造は岡田を見送ってから登野の方を向いた。
「登野さんも辞めるの?」
「えっ?いいえ」
「あ、ごめん。勘違いしちゃった。えーと何かな」
「江川さんが来なくなって気になってはいましたが、今まで黙ってた事があったんです」
「江川の事?」
登野は体育会系なのかスポーツマンらしいキリッとした態度で言った。
「はい、私、和鍵さんが白栂さんに江川さんの事を悪く言ってるのを聞いてた事があったんです」
「そうなの!」修造は初めてはっきりと和鍵のやっていたことを聞いた。
「白栂さんはそそのかされて江川さんを傷つける事をしたんですが、みんなに白い目で見られたり、修造さんに呼ばれた時に焦ってました。それで分が悪くなったので辞めたんです」
「和鍵さんの目的はなんなの?」
「それは、江川さんが気に入らないと言っていました。追い出そうとしてるんだと思います」
「なんだって?」
修造はすぐに1階へ降りて行った。
臓物の底からじわっと怒りが込み上げる。
いやいや、冷静にならないと。
深呼吸してから工房のドアを開ける。
「和鍵さん、ちょっといいかな」
「何ですか?修造シェフ」和鍵はニコニコと廊下に出てきたが、修造の怒りに耐えた表情を見て真顔に戻った。
「ここは俺と江川の店なんだ」
「でも社長は修造シェフですよね?」
「そうだけど。江川はずっと俺について仕事していた。誰よりも俺のパン作りをわかってるんだ。江川や江川の仕事を馬鹿にするのは俺のパン作りを馬鹿にしてるのと同じことなんだよ。もしそうならもう一緒には仕事できない。ここから出ていって欲しい」
和鍵は全てばれたと思い黙って聞いていた。
「俺たちは店と言う同じ船に乗ってるんだ。よく考えておいてね。今日はもう帰っていいから」
夜
いつもより早く帰って来た和鍵は、台所のテーブルで求人誌を見ていた。
それを見た母親が心配そうに声をかけた。
「希良梨どうしたのそれ?転職するの?」
「私辞めさせられるかも。私なりに一生懸命やってたのに」
「え?ねえお父さん希良梨が辞めさせられるかもしれないって」
「なんだって?どういう事なんだ。入社した時はあんなに張り切ってたのに」リビングにいた父親がやって来た。
「パワハラかなんかか?」
「ある意味そうかも。江川って人とそりが合わなくて、そしたら辞めて欲しいって」
「なんですって?私達にまかせておきなさい。学校でも塾でも何かあったらすぐに先生にねじ込んで文句いってやったら言いなりになってたんだから同じ調子でやればいいのよ」
「解雇だと?訴えてやる。弁護士の先生に電話しなさい」
「えっ」
和鍵はこんな時の親の瞬発力を何度か見てきた。
何かあったらすぐに学校に意見したり先生を泣かせたりしていた。それが和鍵が自分を守る為の嘘でも何でもだ。
「元気を出して!パワハラ裁判!勝てるわよ絶対!」
和鍵はそんな親の顔をじっと見ていた。
この人達が私を育てたんだわ。
和鍵が過去に学校で注意された事や、最近では職場で修造に言われた事を親に言う時、一部は言うが全貌を言う事は無い。常に自分を庇うように習慣付いている。自分の性格について知ってはいるが認めたくは無い。それでも両親は自分の事をまるで疑ってはいない。
立花の言葉を思い出す。
『このままで良いのかな。私はここにいて少しでも修造さんの技術を学びたい。それが自分の為になるのよ』
そう、修造を裏切りたい訳では無かったのに。
ーーーー
夜
誰もいない工房で修造は1人パンの分割をしていた。
分割した生地を丸めてどんどん箱に入れていく。
いざとなったら自分1人でも仕事できるんだ。全員がいなくなっても。でもそれだと俺は何の為にこの店を作ったんだ。
静かな工房で1人考えを巡らせる。
コンコン
裏口から人が?音の方を振り向く
「誰?」
「久しぶりだね修造君」
「那須田シェフ!」
「開店おめでとう」
「ありがとうございます」
「そろそろキテると思ってね、やってみると色々大変なことばかりだろう?」
「はい」
「誰でも通る道なのさ。今日は手伝いに来たんだよ、以前手伝って貰ったお返しにね」
「その節は勉強になりました」
修造は今の職場の状態を話しながら仕事をして、那須田は慣れた手つきでクロワッサンの成形をしていった。
「すごい!お客さんに那須田シェフの作ったクロワッサンって言いたいです」
那須田は何も言わずに微笑んだ、そんなこと良いじゃないかって感じに、そして言った「昔は結婚したら幸せになれると思ってた時代があった。今は何だろうね『転職したら幸せになれる』かな?実際幸運度の増した人も沢山いるだろうし後悔してる人も多いだろう。結局みんな人それぞれの理由があるんだよ。君のせいじゃ無い。そうだ、俺めちゃくちゃ仕事早いんだ。だから早く片付けて一杯やろううよ」
「はい」
本当に那須田はパンの仕込みを素早く済ませて片付けにかかった。
「神業だ」
「俺も君みたいに夜一人で仕事してんだよ。雑念を振り払ってね」
2人で外のベンチに座り買って来た酒やつまみを広げた。
「まあ飲めよ」
「はい、那須田シェフ、雑念を振り払うってどうやってんですか」
「そうだな、僕はいつも日本海に向かって叫んでる」
「叫んでる?」
「そう!すっきりするぞ」そう言って那須田は上を向いて叫んだ。
「うおーーーっ馬鹿やろーーーーーっ!ってな」と言って修造を促した。
修造は濃いハイボールを煽りやおら立ち上がって駐車場の向こうに通っている夜の高速道路に向かって叫んだ。
馬鹿やろーーーッ
経営者ってなんだ!
経営者ってなんだ!
俺はパン職人の修造だ!
文句あるかーっ!
ーーーー
2時
修造は事務所のソファで目が覚めた。
那須田はもう帰った様だった。
「タクシーを呼んだのかな?」
トントンと階段を上る音がする「那須田シェフ」
ドアが開いた時修造は驚いた。
「修造さん」
「あっ!江川!」
「修造さんすみませんでした。僕もう大丈夫です。それで、パン粉ちゃん、瀬戸川愛莉ちゃんがテレビや取材のない日にお店で働いてくれるって言うんですが良いですか?」
「うん、助かるよ」
修造は江川をめちゃくちゃ心配していたが、江川が自分で乗り切って表情も変わったのを見て心からほっとした。
「俺、心配で」
「すみません」
ごめんなさい修造さん。大変なのに迷惑とか心配とかかけちゃったな。自分で店をするのってこういう「人」の事は避けられないんだ。常に色んなことが起こって、人の入れ替わりも当たり前なんだ。パンロンドが安定感ありすぎてわからなかっただけなんだ。昔は当たり前だった事が全然無くなって、常識を守るっていう意識も薄くなって自由になったんだ。
数ヶ月前の僕はパンの世界のキラキラした物を修造さんと一緒に追いかけていた。
江川はトロフィーを手に取った。
ずっしりと重い。
これを受け取った時の気持ちを忘れないようにしなくちゃ。
「僕もう平気だよ」
江川は久しぶりに工房で仕事をしていた。
一人、また一人と職人がやって来る。
「おっ!江川さん。もう体調は良くなったんですか?」
「心配したんですよ」森田と大坂が声をかけた。
「みんな心配かけてごめんね。僕もう大丈夫になったんだ」
5時
江川の様子を見に1階へ降りた修造は何げなく店の方を見た。
すると
誰もいない暗い店の中で、白い手が5個入りのドリップバッグをひとつまたひとつ掴んだ。
その瞬間修造は走っていってその手を掴んで「お前だったのか」と言った。
「何するんですか修造さん、落ちかけていたから直したんじゃないですか」
「えっ」
修造はやらかしてしまったのだろうか?
そんな事は知らずに和鍵が出社してきて江川に気が付いた。
以前とは何かが違う。
和鍵は江川に近づいて行って顔を寄せて言った。
「うざあ」両手を耳の上にあげてピョンピョン跳ねる仕草をして見せた。どうせ修造に見限られて退職を余儀なくされているんだし、誰に何と思われても構わない。
「そんな風に思ってるの和鍵さんだけだよ。他の人はそんな事思ってないもんね。可愛いのが好きなのも、この性格も生き方も、これが僕の個性なんだ。人にとやかく言われることじゃないよ。僕はこれからも変わるつもりはないし、僕は僕に合う人と付き合っていくつもり。和鍵さん、自分の性格を見直した方がいいんじゃない?」
「なんですって?」
こうもはっきり言われるとなんと言って良いかわからない。
江川と和鍵は睨み合った。
「修造さんに取り入ってるだけのくせに」
「それはそっちも同じでしょう?僕より経験浅いのに偉そうに言わないで。僕前も鷲羽君と編み込みパンで勝負して勝ったんだ。なんなら今やってやるよ。和鍵さんの得意な事でいいよ」
江川は急に和鍵に勝負を挑んできた。
それを聞いていた立花が説明する。
「昇進や昇格試験の時に速さを競う所もあるのよ。包餡やドーナツとかパンの成形とか、どちらが早くて綺麗か。和鍵さん、何にする?あなたの得意な事で良いって」
こないだまで味方だった人達はもうとっくに辞めてしまっていない。和鍵の吹き込みのせいで職場の印象が悪くなったのだから。
和鍵は周りのものに助けを求めた。
「こんなの急に言われても出来っこないわよね。無茶言うわこの人達」
「和鍵さん、私達ここに来て何日か見てたけど、やっぱり人を束ねる人っていうのは悪い方より良い方に導く人だと思うよ。何か貶して自分をよく見せるのは無理があります。結局それって自分に帰ってくるもん」初めは仲の良かった登野にもそう言われた。
「何よ!やればいいんでしょう?じゃあこれ」
と言ってコルネの型を持って来た。
前の職場で何ヶ月間かいた時、コルネの成形が得意だったのを思い出した。
「これを早く綺麗に成形できた方が勝ちよ。そして負けた方はここを辞める」
「良いよ」
2人とも絶対勝ってやると心の中で言った。
「コルネならこの店でも人気のダブルコルネの成形にしましょう、2人ともそれで良いわね」
「ああ、良いよ」
立花は間を取り持ってダブルコルネにして形を競う様に決めた。片方は抹茶クリーム、もう片方はチョコクリームを絞ったパンが引っ付いていて、一つで両方楽しめる可愛くて満足感のあるパンだ。2個組なので普通のコルネより生地は小さくて、その分巻くのは難しい。
数は20個
2個組なのでコルネの生地を40個使う。
「では始めて」立花の合図で江川と和鍵は2人とも生地を伸ばし出した。
一方の端を細く、もう片方は少し太く伸ばし、形の太い方に太い方の生地を巻き始めてクルクルと巻きつけていき、最後に細い所に巻いて留める。
いくつもの数を作っていったが2人とも甲乙はつけ難い。
同じ様に作り進めて行った。
「同じスピードだ」みんな驚いて見ている。
最後に天板に並べる時に急に江川が早く並べ出した。
あっ!
和鍵がまだ並べ終わっていないうちに江川が「はい!僕できたよ」とはっきり言い放った。
その声を聞いてからやっと和鍵は全てを並び終えた。
「初めからふたつをセットで持って並べやすい様に、向きを決めて並べていけばすごく早くできるんだ」
途中から戻ってきて黙って見ていた修造が口を開いた「何度も何度もやってるうちに気がつくことが沢山ある、それが経験値なんだ。そうやって色んな経験値を積んでベテランのパン職人になっていく。普段江川が仕事が早いのは材料を戻すときに次の材料を順に重ねて持ってくるからだ、当たり前の事だけど仕事の中に工夫を重ねることが本物の『時短』だ」
それを聞き終えて、負けた方の和鍵が「いいわよ別にやめればいいんでしょ?」と江川に言った。
「違うんだ和鍵さん、僕達せっかく一緒の職場にいるんだ。僕達修造さんの為に協力してやろうよ。明日からも一緒に仕事してよね」
「えっ」それを聞いて修造は感動していた。
江川、俺は嬉しいよ。
お前の事をみくびってたよ。
お前はきっと素晴らしいパン職人になれる。
江川が勝ったその夜
修造はこの一週間分の店の防犯カメラの録画を見ていた。
今朝は、姉岡がドリップバッグを持っている所を見つけて人気のない店の外で言い争いになったのだ。
「私が持って帰ったって言うんですか?」
「以前も防犯カメラに全く同じ調子の動きが映ってたんだよ」
「私の手って証拠がどこにあるんですか?もし証明できないなら訴えますよ」
「今『手』なんて言ってなかっただろう、『動き」って言ったんだよ」
「どっちでもいいでしょう。私は映っていませんでしたよね」
「姉岡さんって証明出来たら?」
「できません絶対」
という会話があったので今こうして動画をチェックしている。
「うーん、とりあえず姉岡さんが来てる時間に集中しよう」
閉店直後、姉岡はよく安芸川に話しかけていた。
修造はもう一台のカメラを見てみた「こっちはレジ側なんだ、2人はレジ係なんだからやっぱこっちかなあ」」
あ
これは
修造はある会話に気がついた。
そして次の日に姉岡を呼び出す。
「なんの用ですか?今日弁護士の所に行きますから。裁判の準備があるので」
開き直った様にも見える姉岡に修造は言った。
「姉岡さん、防犯カメラに姉岡さんが安芸川さんと話してる会話の内容が撮れてたよ」
「会話?音なんて入ってないんだから会話なんて関係ないですよ」
「そうでもないよ」岡田に教えて貰わなければ音量の事など気にもしなかったのは我ながら恥ずかしい。
修造はちょうど姉岡と安芸川の会話の所を見せた。
『私さあ、デザインの専門学校に行ってた時奨学金を借りてて返済が結構残ってるんだよね』
『そうなんですね』
『だから店の商品を売り飛ばしてでも返済に充てなきゃ』
『そんなことしたら捕まりますよ』
『大丈夫よ、どうせわからないって』
修造は姉岡の顔を見て言った。
「まだあるよ」
と言ってその日のその時間にカーソルを合わせた。
姉岡が安芸川にスマートフォンの画面を見せている。
『これ私が書き込んだのよね、店の評判がさがったら少しは暇になるわよ』
という画面を見せて「これは安芸川さんに裏をとってあるから。俺の事を書き込んだよな」と画面を人差し指でトントンと叩いた。
「グっ」
「家に帰ったら家族に言えよ。裁判中お前がドリップバッグ持って帰ったり職場でペラペラ喋ってる所を証拠の動画で見ることになるだろうってな」
「俺を晒してちょっとは店が暇になって楽になるって?それも言わせて貰うからな」
修造は耐えきれなくなってテーブルをダン!と叩いた「俺の前から消えろ」
姉岡は黙ってドアの方に行き、出ていこうとして振り返り「訴えませんから」と言った。
当たり前だ全く!厚かましい!
修造は岡田に顛末を報告しに降りた。
「こういうのって追跡が大変なので助かります」
「ありがとうな、ほんとに」
「いいえ」
修造は一見クールで何を考えてるのかわからないのに滅茶苦茶頼りになる岡田という青年を心から信頼していた「何かお礼できないかな」
ところで
修造はみんなが働いている工房や店の様子を見ながら仕込みをするのが習慣付いてきた。
和鍵は江川に負けた後もずっと来ている。その次の日も次の日も。そして訴えると言う事は無くなったし、もう江川には以前のような事は言わなくなった。
今はなんと江川が和鍵の面倒を見てやっていて和鍵もそれに従っている。
人の心って不思議だな
それぞれの考えや環境も違う
那須田シェフの言う通りだ
結局みんな人それぞれの理由がある
ひとつひとつ解決していくしか無いんだ。
そうだ
今後の事も考えて
有無を言わさぬ立場にしちゃおう
岡田を店のリーダーにして、江川を株式会社リーベンアンドブロートの専務にするぞ
この店の為に2人で力を合わせて貰おう
修造はそれを印刷して掲示板に貼った。
早朝
「修造さん」
江川が芝生の所にいた修造の所に走って来た。
「何だよ専務」
「ぼ、僕専務ですか?」修造が貼り付けた辞令を持っている。
「そう!頑張ってくれよ専務」
「は、はい!」
江川と2人朝日を見ながら言った。
「まだまだこれからなんだから」
おわり
※サワードゥの種継ぎ 残ったサワー種にライ麦粉と水を足して継いでいくこと
※スリップピール 直焼きのパンを窯に入れる為の道具。シングル布団より小さい物からその半分の大きさの物など大きさは色々ある。パンを乗せた後、奥まで入れてオーブンの入り口の出っ張りに引っかけて引っ張ると中にパンだけが残る仕組み。
那須田シェフが出てきたお話 スケアリーキングはこちら
http://www.gloire.biz/all/4675
この作品はフィクションです。実在する人物や団体とは何ら関係ありません。