2023年06月05日(月)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ ロストポジション  トゲトゲする空間

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ ロストポジション  トゲトゲする空間

このお話は全てフィクションです。実際の人物や団体とは一切関係ありません。

 

主な登場人物

 

修造と江川は無事にリーベンアンドブロートをオープンさせた。

 

最寄りの笹目駅からは少し離れているが近くにバス停もあるし、車は駐車しやすい場所にある。

連日の大賑わいに修造と江川、そしてパン職人たちは皆自分のポジションで頑張っていた。

 

修造は2階にある事務所に注文書を取りに行く為に階段を上がろうとした時、新入社員の平城山妙湖(ならやまみょうこ)に呼び止められた。

「修造シェフ」

「平城山さん、仕事はどう?もう慣れた?」修造は振り返って穏やかに声をかけた。

「私辞めます。明日から来ません」

「えっ辞める?ちょっと待ってよ、この間はあんなに楽しそうに仕事してたじゃないか」

修造は驚いて言った「それにまだ入って8日でしょう?契約書には辞める3ヶ月前に言いますって書いてあるじゃないか。それに君はここの正社員でしょう?」

「はい」

「急に抜けたらみんなに迷惑がかかるよ?」

平城山は黙って下を向いている。

「何が原因?朝早い仕事だから?」

「いえ、そんなんじゃないです」

「家から遠いから?」

「いえ」

「人間関係で何かあったの?」

「いいえ」

なかなかはっきりと言わないが順に聞いて行くとついに言い出した

「ここに来る前転職サイトを色々見て」

「うん?」

「候補が二つあってどちらにするか決めかねたけど世界一のシェフがいると聞いてここにしました」

「うん」修造はなんというのか全く理解できない世界を知りたい様な感じで聞いていた。

「ここは忙しすぎます。もう一軒の方がきっとここよりマシだわ」

「まだ開店したばかりだからね。皆慣れていないし、もう少ししたら落ち着いてペースを掴めると思うよ」

「面倒な仕事を押し付けられてその後延々とそれをやらされるなんてごめんだわ」

「面倒?押し付ける?確かに初めは手が掛かる事もあるかもしれないけど慣れてきたらそうは思わないんじゃないかな」

「私辞めるしもう関係ありません!しつこく聞くなんてパワハラだわ!私もう一軒の方のパン屋に行きます」

 

キレた感じで言われ、次の日から本当に来なかった。

修造は一旦平城山の為に出した社会保険や労働保険、住民税などの届け出を今度は異動届として出した。

「こういう時は日割り計算なんだな」給料計算をして、その後欠員補充の為に求人広告雑誌掲載の依頼を担当の人にメールしながら頭をよぎる。

 

きっと他のパン屋の面接を受けるんだろう。

サインをしようがハンコを押そうが知ったこっちゃないんだな。

「規則とか罰則なんて辞めたくない者の為のものなんだ」

修造は初めてその事を知った。

 

一方その頃

江川は工房と裏庭の間にある倉庫で納品された品物をチェックしていた。今から使う物も集めて工房に持っていく。

「これとこれと、、あれ?」

自分が思ってたよりも減りの早いものがある。

どういう事だろう?

誰かが使い過ぎてるのかな?

 

 

工房に戻ってみんなの動きをよーく見てみた。

和鍵希良梨(わかぎきらり)がクロックムッシュの上にこんもりとクリームを塗っている。

「ねぇ、そんなに塗ったら多すぎるよ。決められた量があるんだし。ねっ」

「私ちゃんとやってます」

明らかに塗りすぎなのに、和鍵は平然と言ってきた。

「えっ!でも、、」

和鍵は江川に言われた事を無かったことにしたかの様に無視してまた作業を続けた。仕方ないので江川は和鍵の作ったクロックムッシュを量りで計って見せた。

「ほらね、30gも多いよ。1個や2個と違って沢山作ってるんだから途轍もない量になっていくんだ」

和鍵はムッとして上に塗ったホワイトソースをスパチュラでこそげ取った。

 

 

「あっ」

「これで良いんでしょう?」

「何その態度」

江川はびっくりして言った。

和鍵は顔を近づけて小声で言った「偉そうに、私達とそんなに年も変わらないのに上司面して」

「そんなつもりじゃないよ」

「江川さんは良いですよね。修造さんから特別に可愛がられて」和鍵は首をクネっと曲げながら言った。遠くから見てると可愛いポーズで話してるように見える。

「特別じゃないよ。なんでそうなるの?話をすり替えないで」

「でもみんなそう思ってますよ。オーナーに言われるならともかく、江川さんにそんな事言われたくないわ」和鍵は顔を近づけて小声で言った。

「とにかくちゃんとしてよね」

声を震わせながらそう言って、江川は足早に事務所に戻ってきた。

 

「みんなそう思ってるのかな」ソファに座ってドアの方を見た。

工房に戻りにくい。

言いたい事を言われて情けなくて涙が出る。

 

 

郵便局に行っていた修造が帰ってきた。

 

「どうした江川!何かあったのか?」
座って泣いている江川に驚いて肩に手を置き顔を覗き込んだ。

「なんでもありません」

「な訳ないだろう?言えよちゃんと」

心配が先立って詰め寄る感じになった。

実は材料の使いすぎで和鍵さんと揉めちゃって」

修造は江川を事務所に残して1階に降り、工房に入ろうとすると中から立花杏香が出てきた。

「なあ、さっき揉め事があった?」修造は小声で聞いた。

「はい実は、、」

そばで見ていた立花が和鍵の態度については教えてくれたが小声での会話まではわからないと言う。

「えーそれは傷つくなあ。悪いけど和鍵さん呼んできてくれる?」

立花に呼ばれて廊下に和鍵が出てきた。

「さっき江川に材料の量の事で注意されたんだろ?どんな話だったの?」

「はい、、すみません」

和鍵は修造には素直に謝った。

「私ちょっと塗り過ぎちゃったんです。沢山塗った方がお客様が喜ぶと思って。そしたら江川さんが計って多いって、、」

と言って泣き出した。

泣くところなのか?

「わかったよごめんごめん。江川も一生懸命なんだよ。今度からお互い気をつけようね」

工房に戻った和鍵の背中を見送り事務所に戻る。

別に江川が悪いわけじゃないと思いつつも『お互い』と言ってしまったと後悔する。

 

「江川、気分はどう?少し落ち着いた?」と聞いた。

「はい、すみませんでした。僕和鍵さんになんて言ったらいいのかわからなくなって。でももう大丈夫です」

確かにさっきよりは落ち着いて見える「みんな忙しくてイライラしてるのかもね。俺も工房に行くけど一緒に戻れる?」

「はい」

工房に戻って江川と作業しながら皆の様子を観察した。

江川は孤立しているのか?

立花他数名はそんな事は無いだろうが忙しくてそれどころじゃない様だし、和鍵は登野里緒、平城山と派閥みたいな物を作りつつあったが平城山はさっさと辞めてしまった。

和鍵は誰かが注意されるとすかさずそこに行き、不満などを聞いて味方になり、店や江川が悪いと吹き込んでおかしな信頼関係を築いてる様だが、ハッキリとは聞こえてこないのがやっかいだ。

修造は兎に角やる事が多くて事務所にいて長いこと用事をしている時もあるし。そんな時江川は冷たくされる様だ。

 

終業後

家に帰って和鍵は母親と話していた。

それは自分の言った言葉以外の見たままの内容だった。

江川さんってNo.2がいて自分には厳しく、計りを持ってきて自分の仕事をチェックした事。

オーナーが来て色々質問してきた事。

その後オーナーが江川と入ってきてジロジロ仕事の様子を観察していた事など。

「鬱陶しいわ」

「可哀想な季良梨、あんたは悪くないんでしょう?」

「うーん」

「だったら毅然とした態度をしてれば良いのよ。そんなおかしなオーナーや従業員に負けないで。また何かあったら教えてね」

「うん」

 

 

ーーーー

 

何日か後

修造は店内で袋入りの焼き菓子やドリップバッグが消える事が度々あるとカフェ担当の岡田克美と中谷麻友から報告を受けた。

「中谷さん、どのぐらいの頻度で無くなるの?」

「まだそれはわからないんですけど、私が担当をしていて、売れてないのに無くなってる物があるんです。気をつけて見てる様にします」

岡田が納品書を持って説明してきた「数量で言えば、例えば初日からこの商品は60個あったんです。レジを見てみるとこの商品は36個売れてる、それなのに実際の残数は24無いといけないのに18個しか無い」

 

 

「うわ」修造は驚くと共に岡田が頼りになると感動した。

「ほかの商品10種類も足りない分がこれです。袋入りだからわかりやすいですが」

「中谷さん、岡田君ありがとう。また何かあったら教えて」修造は調査表を受け取って店の様子をよく見てみた。

うーん。

レジでは客が並び安芸川と姉岡が忙しそうにしている。

修造はパン箱をもって「いらっしゃいませ」と周辺の客に挨拶してトレーに焼き立てパンの補充をしながら「こういうのは持ち去りようがないもんな」と呟いた。

そのあと工房で仕事しながら様子を見たが江川と和鍵は距離をとって仕事している。

「うーん、各方面に目配りしないとな」

 

ーーーー

 

さて

また新しいメンバーがやってきた。

「白栂雅子(しろつがまさこ)と申します。よろしくお願いします」皆に爽やかに挨拶した。

白栂は和鍵と同じ年齢ですぐに打ち解けた様だ。

上手くいってくれるといいけど。修造はまだ平城山ショックから立ち直っていなかったのでちょっと祈るような気持ちだった。

「明るそうな人で良かった」

 

ところが

 

 

白栂は何度も遅刻してくる。

反省はしてる様だがしばらくするとまた同じ様な遅刻。

そして修造を悩ませたのが白栂とのやり取りだった。

 

 

 

今日は人がいなくて「あ、いいよその仕事は、自分の仕事をしていて」と言うと、もうこれはしなくていいんだとかもう次は要らないのかなと思う様だ。こちらは全体を見て手が足りないかどうかを見てるのだが白栂は自分と自分の仕事だけを見てるからそうなるんだろう。なので次に今日は人がいてゆったりだから、これなら白栂にもできるだろうとやらせると、こないだはやらなくっていいって言ったのになんで?となる。理解できない様だ。

おまけに甘くしてるとそれが当たり前になっちゃうし、厳しく言うとパワハラになっちゃうし。

また和鍵が白栂を慰めてる。これが店の為を思ってやってるならありがたい存在なのに店が悪いという展開になって行く。

最近では和鍵と白栂は江川を無視して、2人のやりたい様にやってる様だ。

ある日

江川が板に※パンマットを乗せてそこに成形したバゲットを波板状に並べ、その板ごと持って奥のホイロに移動しようとした。

「あ」

中央のテーブルの右には最近は仲直りしてうまくやっている西森と大坂が板の上の生地を※スリップピールに並べていて通れない。左は和鍵と白栂がテーブルの前で仕事している。江川は和鍵達の後ろを通るしかなく「ちょっとごめんね」と言って通ろうとした。狭い通路なので和鍵と白栂はテーブルに寄って後ろをあけないといけない。江川が通り過ぎようとしたその瞬間白栂が後ろに下がった。

「あっ」

「いま私のお尻を触りましたよね」

「触ってないよ!ちょっと当たったかもしれないけど」

「ちょっとって何ですか?触った事に変わりないでしょう」

和鍵も白栂に加勢した「セクハラだわ」

「ぼくそんな事してないよ」

西森と大坂はその瞬間は見ていなかったが「そんなわけないだろう」「絶対触ってないと、、、思うけどな」と冷静に言っている。

立花は「その場所は狭い所なんだから今度からあなたも当たらないようにしなさいよ」と注意してきたので白栂は「セクハラ!」と捨てゼリフを江川に言ってまた作業に戻った。

 

 

江川は困って事務所にいた修造に相談した。

「僕触ってません」

「お前がそんな奴じゃないってことは俺が一番わかってるよ」

「僕、どうしましょう。居辛いです」

「俺が話してみるから戻っていいよ」

「はい」江川は首をうなだれて戻っていった。

 

修造は白栂を事務所に呼んだ。

階段を上り、入って来た白栂は不満そうな顔をしている。

「白栂さん、江川がそのう白栂さんのあのう、身体に触れたって事らしいけど誤解だと思うんだよ」

「私が嘘ついてるっていうんですか?」

「嘘とは言ってないよ。当たったんだろうけどセクハラめいた事ではないというか」

「ひどい!泣き寝入りしろっていうんですか?修造シェフはいつも私にばっかり注意してますよね。私の事が嫌いなんですか?」

「ばっかりって事は無いよ。仕事上のやりとりなんだし。嫌いとかそういう事じゃないよ」

「もういいです!私辞めます。和鍵さんも修造さんはえこひいきばかりするって言っていました」

「誤解を解きたいだけなのに辞めるだって?なんでそうなるんだ」

「セクハラを庇うからです」白栂はそう言いながら出て生き様思い切りバタンとドアを閉めた。

これ以上言っても無駄なのか、平城山の事を思い出して追いかけていくのは止める。

 

修造はガクっとソファに座って首をうなだれながら考えた。

 

経営って大変だな。パン作りの事だけを考えりゃ良いってもんじゃないんだ。

 

世界大会での燃えるような気持ちを思い出す。

あー

あの時は良かったなあ。

親方夫妻

大木シェフ

鳥井シェフ

那須田シェフ

パンの高みだけを追いかけて夢中になって

今は江川がセクハラの疑いをかけられてるなんて、しかも自分の所の従業員に。

修造はソファに座って両手で顔を擦りながら考えた。

こんな時親方ならどうするんだろう。

どっしり構えて動じずにみんなの事を見守っていくんだろうな。

なんだかんだいつも世話になってた奥さん、ちょこまかと動いてみんなを束ねてた。チャキチャキみんなを引っ張っていってたな。

懐かしい

それに

杉本はやりやすかったよなあ、殴り合っても次の瞬間には心が通じ合ってたし。

あー会いたいなあ皆に。

 

 

修造は久しぶりにパンロンドの親方の所を訪れた。

杉本が飛んできた「あっ修造さん!今日は用があって来たんですか?」

修造は杉本の肩を抱き「杉本~」と笑顔を見せて杉本を怖がらせた「ひっ」

「よう修造!どうだい新しい店は」

「親方、それがあのう。思ってたよりも人の問題が大変で」

「まあ肩の力を抜けよ修造」

親方はうーんと昔を思い出しながら言った。

 

 

「俺も始めはそんな感じだったな。遅刻ばっかしてくるやつを叱りつけて首にして、そいつが逆襲に来てお前に迷惑かけた事もあったな。 色々あったが佐久山と広巻みたいに気の合う奴と出会ってあまりでかい不満もなく続けられたよ。若い時は佐久山はギャンブルばっかりしてて、広巻はのんべぇだった。いつ飛んじまうかわからないなあと思ってたらお前が入ってきて、途中で中抜けしてドイツに行くって言った時から2人ともちょっと表情が変わったんだよ。ヨレヨレの格好してたのも治ったな。仕事の事で更に高みを目指すなんて奴はあいつらの人生で初めて出会ったんだろうよ。戻って来て世界大会に出て、、、それを見てるうちに段々仕事に前向きになって来て、飲んだり打ったりするのも減ってきた」

そしてうんうんとうなづきながら続けた「俺にもあいつらにも良い刺激になったんだよ。江川も続けてればまた気の合う奴が巡ってくるって。仕事のリズムを掴めない奴には一緒にやって褒めて様子を見てやるしかないのさ。そしたら自分で出来るようになるってもんだ。大変と思うけどな」

「はい」

修造は帰り道歩きながら考えた。

そうか

俺が親方夫妻みたいになって江川と一緒に色々とやりかたを考えてやらなきゃいけないんだ。

俺も変わらないと。

江川が育つまで俺が奥さんと親方の2人分をやらなきゃ。

修造は事務の時間を夜に回して職人達と一緒に仕事をしてやって出来るようになるまで面倒を見た。出来るようになると「そうそう!その感じ」と励ましてやる気の出る様に努力した。

疲れてソファに伸びてる修造をドアの隙間から見た立花が和鍵に言った。

「このままで良いのかな。私はここにいて少しでも修造さんの技術を学びたい。それが自分の為になるのよ」

次の日和鍵は修造の手元をよく見ていた。それを見た立花が「和鍵さん、やる気出てきたんじゃないですか?」と言った。その言葉を聞いて修造はほっとした。

 

「修造さん」

振り向くと岡田が立っていた。

「閉店後話があります」

こんな言い方をされた時はろくな事じゃない。

修造はそういう事を察する事が出来る様になってきた。

岡田も辞めるのかな?そう思いながら閉店後に待っていた岡田の所に行く。そこに中谷もいた。

岡田は何枚かA4の紙を渡してきた。

「以前言っていた商品がなくなる件ですが、状態は変わっていません」

「うわ、トータルすると相当な金額だな。こんなにどうするんだろう」

「それで」岡田と中谷は顔を見合わせて頷いて「どうもお客さんじゃないんじゃないのかと」と言った。「レジ閉め後に数を数えて、試しに開店前に数えたら前夜と数が違うんです」

「えっ、てことは」修造は全員の顔を順に思い出していった。

「それで、店内に防犯カメラを付けてはいかがかと」

「わかったよ、ここまで調べてくれるなんてほんとありがとうな」

修造は岡田と中谷に感謝して、江川と防犯カメラを付ける位置を考えた。

「こっそり隠すんですか?」

「いいや、堂々とでいいだろ」

「そうですね」

「じゃあ2つあそことあそこに付けよう!明日業者の人に頼んでおくよ」

「はい」

「ところで江川、白栂さんの件だけど」

そう言うと江川の表情が一変した。

「あ、違うんだ。周りのみんなはあれは誤解だって思ってるって言いたかったんだよ」

「僕、あれから本当に気をつけていて、大声で通るよって言って間を空けて貰ってから通ってます」

「うん、俺もそうするよ、なんせ工房が狭いもんな」

「はい」

 

ーーーー

 

 

「あ、江川職人」

「パン粉ちゃんおまたせ~」

今日は江川と小手川パン粉は駅で待ち合わせてパン屋さん巡りに行く日だ。

2人は電車に乗り一駅ずつ降りてはその駅の近くの名物パン屋を訪れた。

何軒か回った後ブーランジェリーシノミヤに入り、長く続くショーケースに並ぶパンを対面で立っている販売員に指差してトレーに乗せて貰う。

「江川職人、買いすぎじゃない?そんなに食べれるの?」パン粉は江川のトレーを見て驚いて言った。すでに買い物したパン屋の袋が3袋もあるからだ。

「だって美味しそうなパンばっかりでどれも味見したいんだもん」

「その気持ち痛いほどわかるけど」2人は笑いあってレジで今食べるパンを選んでドリンクを注文した。

 

 

席に座ると今日行ったパン屋のパンをチェックしたりトレーのパンを味見したりする。

「ここのバゲットはもち麦を使ってるんだね」

「もっちり弾力があるね」

「パン粉ちゃん、もち麦はアミロペクチンを多く含んでいてそこがうるち米と違う所なんだ。粘度が高くて消化しにくいから腹持ちがいいんだって」

「さすが江川職人ものしり~」

「修造さんの受け売りだよ」江川はちょっと顔が赤くなった。

「江川職人はパン職人になって何年になるの?」

「4年だよ。もうすぐ5年、その間色んな事があったな。僕ずっと修造さんの背中を追いかけてたんだ」

「ザ・師弟愛」

「修造さんは強いんだ、なんでも乗り越えていける。そんな時修造さんの背中が光って見えるんだ」

「うん、なんか分かる気がする。輝いてるよね修造シェフ」

「うん。僕いつかあんな風になれるかな」

「江川職人は力(リキ)あるんじゃない?パンリキ」

「パンリキ?」

「そうパンリキ!」

2人はテーブルを挟んで向かい合い顔を近づけて笑いあった。

 

ーーーー

 

次の日

パン粉とパン屋巡りに出かけてリフレッシュした江川が楽しそうにやって来た。

それを見た和鍵がイライラした。

修造にパン屋の説明をしながら楽しそうに仕込みしている江川を見ていた和鍵は『辛く当たってるのにまた復活したわ。目障りだからここからいなくなればいいのに』と思っていた。

なぜこんなに江川が嫌いなのか自分でも不思議だ。

 

修造は※サワードゥの種継ぎをしながら江川に話しかけた「あのさあ江川、言いにくいんだけど大木シェフからゴルフの誘いがあって今度行ってくるんだけど、いいかな」

「はい、僕もおでかけして気分転換できたんで修造さんも行ってきて下さい」

「大丈夫かな」

「はい、僕いつもより早く来ます」

修造が心配していたのは江川と和鍵の事だったんだが。

心配しつつも修造は粗目ゴルフ場に出かけた。

道具は全て大木が貸してくれる。

修造が来たので大木は嬉しそうにしていた「ルール知ってんのか?」

「いえ、あまり」

「そうか、じゃあ今日は練習ということで」

そう言って大木はティーインググラウンドに立ちドライバーを構え、力を入れずにクラブを振りぬいた。スーっと伸びたボールは打ち上げのフエァウエー中央に落ちた。

「無難だな」鳥井に言われたが「これがベテランってもんだ。さあ、次修造!俺みたいに打てよ」

「はい」よし!要するにあのグリーン目掛けて打ちゃあいいんだな!修造は思い切り素振りをした。ティーアップして出だしから怪力でドカーンと打ち飛ばし、ボールは右へスライスしてグーンと伸び隣の5番ホールへ飛んで行く。

 

 

「うわ!」

その途端キャディの声が「ファーーーーッ」と響いた。

 

ーーーー

 

一方リーベンアンドブロートの工房では修造が抜けてる分皆忙しく働いていた。

江川は修造の分も仕事しようと張り切っていて、仕込み成形仕込み成形を繰り返していた。

ふと見ると洗い物が随分溜まっている。白栂が辞めた後、和鍵は修造の前では率先して洗い物をしてたのに今日は全然やらない、気になるけど今は自分も手が回らない。

「あのさ和鍵さん、ちょっとあれ片付けてくれない?今手が空いてるでしょう?そろそろ溢れて落ちそうなんだ、ねっ」

和鍵は聞こえないふりをした。

「和鍵さん」

「、、、」

「和鍵さん!今聞こえないふりしたよね?」

「なんの事ですか?今忙しいんです」

「無視しないで、何故僕に嫌な態度を取るの?」和鍵に言った言葉を和鍵が返してきた。

「無視しないで、何故僕に嫌な態度を取るの?」

「それ僕の真似だよね?やめて」江川は苛立ちを抑えながら言ったが突然脳内で何かが切れた。

「もういいよ」

江川は和鍵にはそれ以上言わずにもっと早く仕事を終わらせて片付けにかかった。

 

そして誰とも話さずに黙って帰った。

 

 

夕方

ゴルフで散々だった修造ががっくりして戻って来た。

工房には江川の姿はなく、他の者が明日の準備をしていた。

「あれ?江川は?」

和鍵が答えた「江川さんなら誰にも挨拶なしで帰っちゃいました」

「えっ、そんな奴じゃないのになあ」

「そうですかね」呆れた様に言う和鍵の言葉に不安がよぎる。

廊下で何度も電話をかけた「でない」

修造は裏口の方を見ながら後悔した。

今日呑気にゴルフに行くべきじゃなかった。

 

 

江川は最近リーブロのある笹目駅の近くに引っ越してきた。

自分のマンションに向かい自転車を漕ぎながら涙が止まらない。

 

あの時と同じだ。

高校の時と。

僕だけみんなと違うのをみんな意識してる、中には和鍵さんみたいに僕の話し方を真似する失礼な子もいた。

僕は学校に行くのが嫌になって、パンロンドに逃げたんだ。でもパンロンドでは修造さんやみんなが僕を普通に受け入れてくれていた。自然で何も聞かない、だからって関心が無いわけじゃない。僕はやっととても自由な気持ちになれたのに。

 

 

江川はその次の日から店に来なくなった。

 

ーーーー

 

「立花さん、江川は今日も休みなの?」

「はい修造さん、体調悪いと連絡がありました」

「全く、こんなに忙しいのに何日も休まれたら困るわ」そばで作業をしていた和鍵がすかさず言った。

「俺が江川の代わりに入るからね」

「はい、お願いします。助かります」

それを聞いていた立花が、和鍵を冷静な目で見ていた「修造さんの前でも江川さんに対する態度を見せたら?」

「何言ってるの?立花さんが変な事言い出しました」

和鍵は修造に困った顔を見せた。

修造は違和感のある和鍵の態度を見て江川に本当の事を聞かなくちゃと考えていた

 

 

その夜

雨が激しく降っていた。

修造は江川の住んでいるバンブーグラスマンションを訪ねた。

「あ、修造さん。すみません休んで」

「江川、大丈夫か?痩せたんじゃない?何かあったんだろ?俺にも教えてくれよ」

江川は全て言いたい気持ちをグッと抑えた。今まで言わなかった事を改めて修造に言うのは恥ずかしくて耐えられない。「なんでもありません」と言う言葉と裏腹に涙が止まらない。

 

 

「なあ、頼むよ、江川だけが辛いのは俺も辛いんだ」

「僕、みんなと違うんです」

「何が」

「話し方や服装とか」

「俺だって違うぞ、ダサいし話も苦手だし、それに比べて江川はオシャレで明るいだろ?」

その時初めて修造が江川の事をそんな風に思ってた事に気がついた

「仕事がキツイのか?それとも和鍵さんが原因?」

修造は今日職場で見た事を話した。

「僕、和鍵さんに言われて、昔のことを思い出して身体が動かなくなったんです」

「昔?」

「高校の時の事です」

「不登校の事?」

「はい、また和鍵さんに会うのは怖いです。しばらく休ませて下さい」

「わかったよ江川。仕事のことは心配するな。疲れが溜まっていたせいもあるんだろう、ゆっくり休めよ」

「すみません」

帰り際、冷たい雨の中。

あんな江川初めて見たな。

いつも前向きな奴なのに。

「和鍵さんの件なんとかしなくちゃ」と呟く。

 

修造は大木シェフを尋ねた。

「よう、こないだは散々だったが練習したらちょっとは上手くなるって」大木は全てスライスする修造のゴルフを思い出して言った。

「俺、ゴルフは向いてなくて」

「クラブフェースが開いてるんだよ、肩の位置とグリップを直しゃいいんだよ」それは何度も言われたが治る気がしない。

「ご相談があって」

「なんだよ」

「シェフは大勢の職人を束ねていますが、どうやって軌道に乗せてるんですか」

「軌道」と言って大木はそばにあったケーキ用の回転台に試し焼きで余っていたクッキーを等間隔に乗せた。

そしてそれを太い指で素早く回すとクッキーは振り落とされて数個残った。

「早く回しすぎるとポロポロ落ちる、ま、丁度良く回す事だな」

「はあ」抽象的な事を言い出した。

「分からんでもないだろ?」

「はい、なんとなく」

「何を困ってる?やってみると大変だろ?」

図星で何とも言い難い。

「あちこちボロボロです」

「お前は全体を見なくちゃならんからな、一つのことに執心すると他が疎かになる。全体を満遍なく見るんだ」

「江川がいじめにあってる様なんです、中々俺の前ではどちらの様子もハッキリしなくて」

「お前な、いつまでも江川のおもりをするつもりか?もっとしっかりした奴だと思うぞ。あいつに自分で何とかさせるんだ。そんなことであいつを独り立ちさせようったって無理だろ」

「はい」

大木にはっきりと言われて今後の課題を言われた気がする。それは自分自身への課題でもあった。

 

ーーーー

 

さて、修造にはもう一つ困っている事があった。

レジや品出しをしている姉岡志津香は初めのうち真面目にやっていたが、最近は職場に慣れて本性が露わになって来たのか中々に反抗的だ。接客中パンの事で質問されてわからないから聞きにきたので、それなら説明しようとお客さんの所に行くと別に来なくてよかったのにとこちらを向いて煩そうにして、修造を不思議がらせた。

また、注文を受けた際には店と工場の両方に注文書を貼らないといけない。さっき注文を受ける所を見かけたのにいつまでも来ないから注文書持ってきてというとしばらくして持ってきたのは良いが何も言わずに無言で紙を貼り付けていく。

その他お店の事を仕切り始めてこちらに聞かずに勝手に行動する様になってきた。

なんなんだ姉岡さんって。

修造は工房からしばらく姉岡をマークすることにした。

一つ一つ直していかないとな。

 

その日の夕方

 

「修造さん、工事の人が来ました」岡田に呼ばれて防犯カメラを取り付けに来た業者にこことここにお願いしますと言う。「クラウド型にしたんですね」「うん、どこにいても見れるからね」

しばらくして工事が終わり業者に画面の角度を見る様に頼まれたので「もう少しこちら」とか言っていると、レジの姉岡、安芸川も画面をのぞきに来た。

 

 

「こんな風に映ってるんですね」

「結構映像がはっきりしてますね」

「うん」

「音は出ないんですか?」

「聞こえないな」

「ふーん」姉岡がそういった。

 

 

そんな時黒い噂と言うか、変なものを中谷が見せてきた。

 

「これ見て下さい」中谷のスマートフォンを覗いて店の評価が載ってるサイトの細かい文字列を読んだ。

「あ!」

リーベンアンドブロートのシェフって奥さんと生まれたての子を置いて外国に行っちゃったんだって。酷いエゴイスト』

別に炎上してるわけじゃ無いけど気になるし傷つく。

「なんなんだ、これ」

「店のエゴサしたらこんなものが出てきて。酷いですね。書き方に悪意を感じます」

「本当だ、中谷さん教えてくれてありがとう。俺こういうのに疎くて」

「また何かあったら言いますね」

「うん」

 

 

家族が心配だ、また律子に迷惑をかけてしまった。

 

 

その夜

修造は久しぶりに家に帰った。

「修造おかえり」

「ごめんね中々帰ってこれなくて、子供たちは?」

「もう寝てるわ」

愛妻律子とただいまのハグをして、修造は今日の事を話した。

「律子ごめんね、迷惑かけて」

「そんなに謝ってばっかりしなくてもいいのよ修造」

律子は修造の顔を覗き込んだ。

 

 

修造、疲れてる。クタクタなんだわ。

なのに無理してる。

こんな修造見たの初めて。

修造はいつだって情熱に燃えて生きてきたのに。

 

律子は膝枕をしながら修造の言っていた店の評判を調べた。

これね

フン

エゴイストですって?

他人に私達の何が分かるって言うの?

バカみたい。

 

 

「私達こんなの全然平気よ、これってお店の評判を下げようとしてるのよ。そっちの方が心配だわ。気を付けてね」

 

ーーーー

 

次の日

 

小手川パン粉が江川に会いに店へやって来た「あれ、江川さんは休みですか?」

江川の姿が見えない。

「江川さんは一週間程来てませんよ」安芸川が返事した。

横にいた姉岡も「あんまり来ないと忘れちゃうよね」と言った。

「体調悪いとか言ってましたか?」

姉岡はそっけなく「さあ」とだけ答えた。

パン粉はすぐに買い物をして江川のマンションを訪れた。

「パン粉ちゃん」

江川はパン粉の顔を見てほっとした様だった。

「ねえ、もう何日も休んでるの?体調悪いのかと思って来たの」

「ありがとうパン粉ちゃん」

「何か作るから座ってて」

パン粉はキッチンで玉ねぎを薄切りにした。それをバターでゆっくりじっくり炒めている間にコンソメスープを作り、玉ねぎと合わせて煮込んだ後、器に入れてバゲットの輪切りとチーズをのせてオーブンに入れた。

あたりはスープのいい香りに包まれた。

チーン

出来上がったオニオンスープを江川の前に置いた「食べよう、これ食べたら元気出るよ」

「あつ」カットしたバゲットとチーズがフタの様になって冷めにくいスープをスプーンで掬ってフーフーしながら食べる。

 

 

「美味しい」江川はパン粉の顔を見た。

「でしょう」パン粉は江川の顔に沢山ついた涙のスジを見ていた。

「ありがとうパン粉ちゃん。僕の為にこんなにしてくれる人がいるなんて凄く嬉しい」

「ねえ、江川職人、何か困ってる事があるんでしょう?私にも分けてよ。でないと私も辛いよ。話してくれない?」

 

「うん」

 

江川はしばらく黙ったあと話し出した。

「僕、高校の時不登校になったんだ」

「そうなんだ」

「僕、周りの人と違うんだ同級生の誰とも違うんだ。男とも女とも」江川はパン粉に心情を打ち明けた。

「今もそうなんだ、みんなの事が大好きで仲良くはできるけど愛とか恋とかっていう気持ちがないんだ。ひょっとしたら誰も愛せないまま終わるかもしれない。だからってみんなが嫌いなんじゃないんだ。修造さんやパン粉ちゃんの事が大好きなのにそういう事とは少し違うんだ」江川は両手を握りしめた。

「僕は僕の事がよくわからない、身体は男だけど男でも女でもないんだ」

パン粉は泣いてる江川の頬を両手でそっと包んだ。

「僕にはそれをどうすることも出来ない」

 

「ねぇ江川職人、別に誰かを好きになったり結婚したりみんながしてる訳じゃないじゃ無い?1人の方が気楽って人もいるし、今って前よりも色々な選択肢があるのよ。男だからとか女だからとかもうどうだっていいのよ」

 

 

そう言いながら両方の親指でとめどなく流れる江川の涙を拭った。

「まだ出会ってないからなのか私にはわかんないけど。恋愛なんて言葉、それだけが人生じゃないもん。今の世の中って別に誰とも結婚しないでも良いし、ずっと1人で生きてる人も沢山いるのよ。自分だけが孤独とか1人って訳じゃないよ。自分の分類みたいな事は誰にもして欲しくない。自分の事を誰にも決められたくない。人は人よ、その人達が勝手に自分と違うとか思ってるだけ、江川職人は江川職人なのよ」

「パン粉ちゃん」

 

急に江川の目の前がパッと輝いた。

 

今までどこにもなかった道が急に見えた様な気持ちになる。

 

「私は江川職人と出会って良かった。この間みたいにさ、また映画に行ったりカフェに行ったりしようよ。私達友達でしょう?まだまだ見てない事や知らない事が沢山あるのに勿体ないじゃない」

「パン粉ちゃん」道が開けたのと同時に今まで探していた宝箱まで見つけた。そんな気持ち「本当にありがとう」

「私本当の名前は瀬戸川愛莉って言うの」

「そうなんだね、愛莉ちゃんって呼んでも良い?」

「うん、卓ちゃん」

「私達の未来って私達が思ってる程決まってないじゃない?これからの事は誰にも分からない、でも私達が親友って事、それだけは確かよね」

2人は手を握り合い顔を見合わせてウフフと笑った。

 

そうか

 

僕自分の事を型にはめようとしてはみ出してるのが辛かったんだ。

こんな風に思ってくれる人も居るんだ。

僕愛莉ちゃんと居る時とても気が楽だな」

「私もよ、だって私達親友じゃない」

親友というとても素敵な言葉に江川は凄い強いアイテムを受け取ったような気がした。

心に温かい何かが芽生えた。

 

ーーーー

 

その頃

岡田と修造は事務所で話していた。

最近の岡田への信頼は著しい。

「こんなものを見つけました」と言ってマーケットプレイスの画面を見せた。

「このリボンをよく見てください、グリーンの」なんだか見覚えのあるドリップバッグをガン見する。

「あ!うちのリボンじゃないか!このまま売るなんて雑な事するなあ」

「いい様にされてますね」

「だらしなくて恥ずかしいよ全く」

 

2人はその後防犯カメラを見ながら怪しい人物を特定していた。

「あ、これ見てください」

なんとカメラギリギリの所から白い手が見えて5個入りのドリップバッグを2つ持っていくのが映っている。

「とうとう見つけた!でも誰かまではわからないな」

「そうですね、動画のこの部分の時刻は朝6時。完全に店の者です、しかもカメラの死角を知ってるんじゃないですか?」

「あ、カメラを付けた時に2人にカメラの範囲を見せたよ」

「その2人のうちどちらかかも知れない」

「だな」

「会話は何か撮れていませんか?」

「音は出ないんじゃない?」

「そうですか?」

岡田はアイパッドの音量を上げた。

「修造シェフ」登野が改まった感じで話しかけて来た。

「あ、じゃあ僕はこれで業務に戻るので」

「うん、岡田君ありがとう」

修造は岡田を見送ってから登野の方を向いた。

「登野さんも辞めるの?」

「えっ?いいえ」

「あ、ごめん。勘違いしちゃった。えーと何かな」

「江川さんが来なくなって気になってはいましたが、今まで黙ってた事があったんです」

「江川の事?」

登野は体育会系なのかスポーツマンらしいキリッとした態度で言った。

「はい、私、和鍵さんが白栂さんに江川さんの事を悪く言ってるのを聞いてた事があったんです」

「そうなの!」修造は初めてはっきりと和鍵のやっていたことを聞いた。

「白栂さんはそそのかされて江川さんを傷つける事をしたんですが、みんなに白い目で見られたり、修造さんに呼ばれた時に焦ってました。それで分が悪くなったので辞めたんです」

「和鍵さんの目的はなんなの?」

「それは、江川さんが気に入らないと言っていました。追い出そうとしてるんだと思います」

「なんだって?」

 

 

修造はすぐに1階へ降りて行った。

臓物の底からじわっと怒りが込み上げる。

 

いやいや、冷静にならないと。

 

深呼吸してから工房のドアを開ける。

 

「和鍵さん、ちょっといいかな」

「何ですか?修造シェフ」和鍵はニコニコと廊下に出てきたが、修造の怒りに耐えた表情を見て真顔に戻った。

「ここは俺と江川の店なんだ」

「でも社長は修造シェフですよね?」

「そうだけど。江川はずっと俺について仕事していた。誰よりも俺のパン作りをわかってるんだ。江川や江川の仕事を馬鹿にするのは俺のパン作りを馬鹿にしてるのと同じことなんだよ。もしそうならもう一緒には仕事できない。ここから出ていって欲しい」

和鍵は全てばれたと思い黙って聞いていた。

「俺たちは店と言う同じ船に乗ってるんだ。よく考えておいてね。今日はもう帰っていいから」

 

 

いつもより早く帰って来た和鍵は、台所のテーブルで求人誌を見ていた。

それを見た母親が心配そうに声をかけた。

「希良梨どうしたのそれ?転職するの?」

「私辞めさせられるかも。私なりに一生懸命やってたのに」

「え?ねえお父さん希良梨が辞めさせられるかもしれないって」

「なんだって?どういう事なんだ。入社した時はあんなに張り切ってたのに」リビングにいた父親がやって来た。

「パワハラかなんかか?」

「ある意味そうかも。江川って人とそりが合わなくて、そしたら辞めて欲しいって」

「なんですって?私達にまかせておきなさい。学校でも塾でも何かあったらすぐに先生にねじ込んで文句いってやったら言いなりになってたんだから同じ調子でやればいいのよ」

「解雇だと?訴えてやる。弁護士の先生に電話しなさい」

「えっ」

和鍵はこんな時の親の瞬発力を何度か見てきた。

何かあったらすぐに学校に意見したり先生を泣かせたりしていた。それが和鍵が自分を守る為の嘘でも何でもだ。

「元気を出して!パワハラ裁判!勝てるわよ絶対!」

和鍵はそんな親の顔をじっと見ていた。

この人達が私を育てたんだわ。

和鍵が過去に学校で注意された事や、最近では職場で修造に言われた事を親に言う時、一部は言うが全貌を言う事は無い。常に自分を庇うように習慣付いている。自分の性格について知ってはいるが認めたくは無い。それでも両親は自分の事をまるで疑ってはいない。

立花の言葉を思い出す。

 

『このままで良いのかな。私はここにいて少しでも修造さんの技術を学びたい。それが自分の為になるのよ』

そう、修造を裏切りたい訳では無かったのに。

 

ーーーー

 

誰もいない工房で修造は1人パンの分割をしていた。

分割した生地を丸めてどんどん箱に入れていく。

いざとなったら自分1人でも仕事できるんだ。全員がいなくなっても。でもそれだと俺は何の為にこの店を作ったんだ。

静かな工房で1人考えを巡らせる。

コンコン

裏口から人が?音の方を振り向く

「誰?」

「久しぶりだね修造君」

 

 

「那須田シェフ!」

「開店おめでとう」

「ありがとうございます」

「そろそろキテると思ってね、やってみると色々大変なことばかりだろう?」

「はい」

「誰でも通る道なのさ。今日は手伝いに来たんだよ、以前手伝って貰ったお返しにね」

「その節は勉強になりました」

修造は今の職場の状態を話しながら仕事をして、那須田は慣れた手つきでクロワッサンの成形をしていった。

「すごい!お客さんに那須田シェフの作ったクロワッサンって言いたいです」

那須田は何も言わずに微笑んだ、そんなこと良いじゃないかって感じに、そして言った「昔は結婚したら幸せになれると思ってた時代があった。今は何だろうね『転職したら幸せになれる』かな?実際幸運度の増した人も沢山いるだろうし後悔してる人も多いだろう。結局みんな人それぞれの理由があるんだよ。君のせいじゃ無い。そうだ、俺めちゃくちゃ仕事早いんだ。だから早く片付けて一杯やろううよ」

「はい」

本当に那須田はパンの仕込みを素早く済ませて片付けにかかった。

「神業だ」

「俺も君みたいに夜一人で仕事してんだよ。雑念を振り払ってね」

 

2人で外のベンチに座り買って来た酒やつまみを広げた。

「まあ飲めよ」

「はい、那須田シェフ、雑念を振り払うってどうやってんですか」

「そうだな、僕はいつも日本海に向かって叫んでる」

「叫んでる?」

「そう!すっきりするぞ」そう言って那須田は上を向いて叫んだ。

「うおーーーっ馬鹿やろーーーーーっ!ってな」と言って修造を促した。

修造は濃いハイボールを煽りやおら立ち上がって駐車場の向こうに通っている夜の高速道路に向かって叫んだ。

 

馬鹿やろーーーッ

 

経営者ってなんだ!

経営者ってなんだ!

俺はパン職人の修造だ!

文句あるかーっ!

 

ーーーー

 

2時

修造は事務所のソファで目が覚めた。

那須田はもう帰った様だった。

「タクシーを呼んだのかな?」

トントンと階段を上る音がする「那須田シェフ」

ドアが開いた時修造は驚いた。

「修造さん」

「あっ!江川!」

「修造さんすみませんでした。僕もう大丈夫です。それで、パン粉ちゃん、瀬戸川愛莉ちゃんがテレビや取材のない日にお店で働いてくれるって言うんですが良いですか?」

「うん、助かるよ」

修造は江川をめちゃくちゃ心配していたが、江川が自分で乗り切って表情も変わったのを見て心からほっとした。

「俺、心配で」

「すみません」

ごめんなさい修造さん。大変なのに迷惑とか心配とかかけちゃったな。自分で店をするのってこういう「人」の事は避けられないんだ。常に色んなことが起こって、人の入れ替わりも当たり前なんだ。パンロンドが安定感ありすぎてわからなかっただけなんだ。昔は当たり前だった事が全然無くなって、常識を守るっていう意識も薄くなって自由になったんだ。

数ヶ月前の僕はパンの世界のキラキラした物を修造さんと一緒に追いかけていた。

江川はトロフィーを手に取った。

ずっしりと重い。

これを受け取った時の気持ちを忘れないようにしなくちゃ。

 

 

 

「僕もう平気だよ」

 

江川は久しぶりに工房で仕事をしていた。

一人、また一人と職人がやって来る。

「おっ!江川さん。もう体調は良くなったんですか?」

「心配したんですよ」森田と大坂が声をかけた。

「みんな心配かけてごめんね。僕もう大丈夫になったんだ」

 

5時

江川の様子を見に1階へ降りた修造は何げなく店の方を見た。

すると

誰もいない暗い店の中で、白い手が5個入りのドリップバッグをひとつまたひとつ掴んだ。

その瞬間修造は走っていってその手を掴んで「お前だったのか」と言った。

「何するんですか修造さん、落ちかけていたから直したんじゃないですか」

「えっ」

修造はやらかしてしまったのだろうか?

 

そんな事は知らずに和鍵が出社してきて江川に気が付いた。

以前とは何かが違う。

和鍵は江川に近づいて行って顔を寄せて言った。

「うざあ」両手を耳の上にあげてピョンピョン跳ねる仕草をして見せた。どうせ修造に見限られて退職を余儀なくされているんだし、誰に何と思われても構わない。

「そんな風に思ってるの和鍵さんだけだよ。他の人はそんな事思ってないもんね。可愛いのが好きなのも、この性格も生き方も、これが僕の個性なんだ。人にとやかく言われることじゃないよ。僕はこれからも変わるつもりはないし、僕は僕に合う人と付き合っていくつもり。和鍵さん、自分の性格を見直した方がいいんじゃない?」

「なんですって?」

こうもはっきり言われるとなんと言って良いかわからない。

江川と和鍵は睨み合った。

「修造さんに取り入ってるだけのくせに」

「それはそっちも同じでしょう?僕より経験浅いのに偉そうに言わないで。僕前も鷲羽君と編み込みパンで勝負して勝ったんだ。なんなら今やってやるよ。和鍵さんの得意な事でいいよ」

江川は急に和鍵に勝負を挑んできた。

それを聞いていた立花が説明する。

「昇進や昇格試験の時に速さを競う所もあるのよ。包餡やドーナツとかパンの成形とか、どちらが早くて綺麗か。和鍵さん、何にする?あなたの得意な事で良いって」

こないだまで味方だった人達はもうとっくに辞めてしまっていない。和鍵の吹き込みのせいで職場の印象が悪くなったのだから。

和鍵は周りのものに助けを求めた。

「こんなの急に言われても出来っこないわよね。無茶言うわこの人達」

「和鍵さん、私達ここに来て何日か見てたけど、やっぱり人を束ねる人っていうのは悪い方より良い方に導く人だと思うよ。何か貶して自分をよく見せるのは無理があります。結局それって自分に帰ってくるもん」初めは仲の良かった登野にもそう言われた。

「何よ!やればいいんでしょう?じゃあこれ」

と言ってコルネの型を持って来た。

前の職場で何ヶ月間かいた時、コルネの成形が得意だったのを思い出した。

「これを早く綺麗に成形できた方が勝ちよ。そして負けた方はここを辞める」

「良いよ」

2人とも絶対勝ってやると心の中で言った。

「コルネならこの店でも人気のダブルコルネの成形にしましょう、2人ともそれで良いわね」

「ああ、良いよ」

立花は間を取り持ってダブルコルネにして形を競う様に決めた。片方は抹茶クリーム、もう片方はチョコクリームを絞ったパンが引っ付いていて、一つで両方楽しめる可愛くて満足感のあるパンだ。2個組なので普通のコルネより生地は小さくて、その分巻くのは難しい。

 

 

数は20個

2個組なのでコルネの生地を40個使う。

「では始めて」立花の合図で江川と和鍵は2人とも生地を伸ばし出した。

一方の端を細く、もう片方は少し太く伸ばし、形の太い方に太い方の生地を巻き始めてクルクルと巻きつけていき、最後に細い所に巻いて留める。

いくつもの数を作っていったが2人とも甲乙はつけ難い。

同じ様に作り進めて行った。

「同じスピードだ」みんな驚いて見ている。

最後に天板に並べる時に急に江川が早く並べ出した。

 

あっ!

和鍵がまだ並べ終わっていないうちに江川が「はい!僕できたよ」とはっきり言い放った。

その声を聞いてからやっと和鍵は全てを並び終えた。

「初めからふたつをセットで持って並べやすい様に、向きを決めて並べていけばすごく早くできるんだ」

途中から戻ってきて黙って見ていた修造が口を開いた「何度も何度もやってるうちに気がつくことが沢山ある、それが経験値なんだ。そうやって色んな経験値を積んでベテランのパン職人になっていく。普段江川が仕事が早いのは材料を戻すときに次の材料を順に重ねて持ってくるからだ、当たり前の事だけど仕事の中に工夫を重ねることが本物の『時短』だ」

 

それを聞き終えて、負けた方の和鍵が「いいわよ別にやめればいいんでしょ?」と江川に言った。

「違うんだ和鍵さん、僕達せっかく一緒の職場にいるんだ。僕達修造さんの為に協力してやろうよ。明日からも一緒に仕事してよね」

 

「えっ」それを聞いて修造は感動していた。

 

江川、俺は嬉しいよ。

お前の事をみくびってたよ。

お前はきっと素晴らしいパン職人になれる。

 

 

江川が勝ったその夜

修造はこの一週間分の店の防犯カメラの録画を見ていた。

今朝は、姉岡がドリップバッグを持っている所を見つけて人気のない店の外で言い争いになったのだ。

「私が持って帰ったって言うんですか?」

「以前も防犯カメラに全く同じ調子の動きが映ってたんだよ」

「私の手って証拠がどこにあるんですか?もし証明できないなら訴えますよ」

「今『手』なんて言ってなかっただろう、『動き」って言ったんだよ」

「どっちでもいいでしょう。私は映っていませんでしたよね」

「姉岡さんって証明出来たら?」

「できません絶対」

という会話があったので今こうして動画をチェックしている。

「うーん、とりあえず姉岡さんが来てる時間に集中しよう」

閉店直後、姉岡はよく安芸川に話しかけていた。

修造はもう一台のカメラを見てみた「こっちはレジ側なんだ、2人はレジ係なんだからやっぱこっちかなあ」」

これは

 

修造はある会話に気がついた。

 

そして次の日に姉岡を呼び出す。

 

「なんの用ですか?今日弁護士の所に行きますから。裁判の準備があるので」

開き直った様にも見える姉岡に修造は言った。

「姉岡さん、防犯カメラに姉岡さんが安芸川さんと話してる会話の内容が撮れてたよ」

「会話?音なんて入ってないんだから会話なんて関係ないですよ」

「そうでもないよ」岡田に教えて貰わなければ音量の事など気にもしなかったのは我ながら恥ずかしい。

修造はちょうど姉岡と安芸川の会話の所を見せた。

『私さあ、デザインの専門学校に行ってた時奨学金を借りてて返済が結構残ってるんだよね』

『そうなんですね』

『だから店の商品を売り飛ばしてでも返済に充てなきゃ』

『そんなことしたら捕まりますよ』

『大丈夫よ、どうせわからないって』

修造は姉岡の顔を見て言った。

「まだあるよ」

と言ってその日のその時間にカーソルを合わせた。

姉岡が安芸川にスマートフォンの画面を見せている。

『これ私が書き込んだのよね、店の評判がさがったら少しは暇になるわよ』

という画面を見せて「これは安芸川さんに裏をとってあるから。俺の事を書き込んだよな」と画面を人差し指でトントンと叩いた。

「グっ」

「家に帰ったら家族に言えよ。裁判中お前がドリップバッグ持って帰ったり職場でペラペラ喋ってる所を証拠の動画で見ることになるだろうってな」

「俺を晒してちょっとは店が暇になって楽になるって?それも言わせて貰うからな」

 

 

修造は耐えきれなくなってテーブルをダン!と叩いた「俺の前から消えろ」

姉岡は黙ってドアの方に行き、出ていこうとして振り返り「訴えませんから」と言った。

当たり前だ全く!厚かましい!

 

修造は岡田に顛末を報告しに降りた。

「こういうのって追跡が大変なので助かります」

「ありがとうな、ほんとに」

「いいえ」

修造は一見クールで何を考えてるのかわからないのに滅茶苦茶頼りになる岡田という青年を心から信頼していた「何かお礼できないかな」

 

 

ところで

修造はみんなが働いている工房や店の様子を見ながら仕込みをするのが習慣付いてきた。

 

 

和鍵は江川に負けた後もずっと来ている。その次の日も次の日も。そして訴えると言う事は無くなったし、もう江川には以前のような事は言わなくなった。

今はなんと江川が和鍵の面倒を見てやっていて和鍵もそれに従っている。

 

人の心って不思議だな

それぞれの考えや環境も違う

那須田シェフの言う通りだ

結局みんな人それぞれの理由がある

 

ひとつひとつ解決していくしか無いんだ。

 

そうだ

今後の事も考えて

有無を言わさぬ立場にしちゃおう

岡田を店のリーダーにして、江川を株式会社リーベンアンドブロートの専務にするぞ

この店の為に2人で力を合わせて貰おう

修造はそれを印刷して掲示板に貼った。

 

早朝

 

「修造さん」

江川が芝生の所にいた修造の所に走って来た。

「何だよ専務」

「ぼ、僕専務ですか?」修造が貼り付けた辞令を持っている。

「そう!頑張ってくれよ専務」

「は、はい!」

 

江川と2人朝日を見ながら言った。

「まだまだこれからなんだから」

 

 

おわり

 

※サワードゥの種継ぎ 残ったサワー種にライ麦粉と水を足して継いでいくこと

※スリップピール  直焼きのパンを窯に入れる為の道具。シングル布団より小さい物からその半分の大きさの物など大きさは色々ある。パンを乗せた後、奥まで入れてオーブンの入り口の出っ張りに引っかけて引っ張ると中にパンだけが残る仕組み。

 

那須田シェフが出てきたお話 スケアリーキングはこちら

http://www.gloire.biz/all/4675

 

この作品はフィクションです。実在する人物や団体とは何ら関係ありません。

 

 

 

 


2023年04月15日(土)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーブロプレオープン

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーブロプレオープン

 

 

新しくお店を構える時

それが初めての時

様々なトラブルが起こる。

そしてそれは大抵お客様の目に入らない裏側で起こる。

 

 

あの古びた建物は塗り替えられ、壁紙も床も綺麗になった。棚もテーブルも椅子も、そしてレジ台も整った。

外にはまだ植えたばかりの花が咲いていてドイツ風のタイルと芝もカッコいい。

そんなパン屋

Bäckerei Leben und Brot(生活とパン)がとうとう出来上がった。

江川はリーベンアンドブロートは長いので『リーブロ』と呼んでいる。

 

ピカピカのオーブンがある工房でスタッフが集められた。

皆真ん中の台の周りに立っている。

江川がみんなに向かって手を上げた。

 

「はーいみなさん。お仕事の役割を伝えますので修造さんから順に言っていきますね」

皆に役割を伝える為だ。

「田所修造さんが統括、生地の仕込みその他、事務、店舗管理。僕、江川卓也は生地の仕込みと材料管理。立花杏香さん登野里緒さんが仕込みや成形担当。和鍵希良梨(わかぎきらり)さんと平城山妙湖(ならやまみょうこ)さんは成形と仕上げ担当。西森昌也さんと大坂芳樹さんが焼成。そして店のスタッフのレジや品出しは安芸川御世理さんと姉岡志津香さん。カフェ担当の岡田克也さんと中谷麻友さんです」

「よろしくお願いしまーす」

皆江川が面接した経験者ばかりだ。これからみんなでバリバリパン作りをして行くのだ。

今日はオープンに向けて慣れていく為に試運転。

それぞれが与えられた表を見ながら仕事していた。

それを見て修造は心からホッとしていた。

あー

苦労した甲斐があったな。

良い店ができたよ。

 

ーーーー

 

「修造さ〜ん」

和鍵と平城山が寄って来た。

「では一緒にブレッツエルにラウゲン液をつけていくから平城山さんは見ててね」

「はい、お願いしまーす」2人は明るく返事をした。

 

 

手袋をした和鍵がまずラウゲン液の入った容器に冷蔵庫から出してきたブレッツエルの生地を漬ける、やはり手袋をした修造が液に潜らせてからベーキングシートを引いた天板に並べていく。

それをどんどん作ってラックに差していく。

その後はカットして粗塩をかけたりチーズをトッピングして焼成の担当が焼いていく運びになる。

和鍵は修造にピッタリ寄って液に生地を入れていった。

平城山も修造に近過ぎる距離で見ている。

なんだか狭い「危ないからもう少し離れてね」

「だってシェフの手元をよく見ておかないと」

それはミキサーの前の江川から見ても近過ぎると思った。
「ねえ、もう少し離れないと修造さんが困ってるよ」
江川に注意されて2人からチッと声が聞こえて来そうだった。

「じゃあ平城山さん手袋をして続きをお願いね」

「はーいシェフ」

2人はちょっとだけ江川を睨んでから作業を始めた。

 

ーーーー

 

3日後にプレオープンを控えていてその件でNNテレビのディレクター四角志蔵がやって来た。

「どうも修造シェフ、想像を超えた良い店ですね、都心からは遠いですが広くて癒しの空間ができている。外のベンチに座って美味しいパンをのんびり食べてピクニック気分を味わえる」四角は店の入り口に立って周りを見渡した。

「どうも」

「早速ですがこれ」と言って四角は台本を渡して来た。

「俺こういうの苦手で」

当日は桐田美月とマウンテン山田さんが来て店の外観を案内した後シェフにお話を伺います。もし苦手なら台本は参考程度にして思いの丈を仰って下さい。当日は11時から始まるプレオープンまでに収録を終えるつもりです」

 

ーーーー

 

さて、プレオープンの日は直ぐにやって来た。

 

9時頃、江川が「修造さん、NNテレビの人達が来ました〜」というので外に出てみる。

駐車場に停まった大型車から人が何人も降りて来た。

スタッフに囲まれて芸能人オーラバリバリの美しい女性が立っている。「あの人が」と、修造と律子が同時に言った。

「桐田さんって綺麗ね」刺す様な感じで律子が言って来た。「えっ」全く身に覚えがないのに愛妻からヤキモチを焼かれる。


桐田はすぐに入り口で立っている修造をロックオンした。

 

 

前から熱い眼差し、後ろから刺す様な視線を感じて足元が冷たく感じて身震いする。

「桐田さーん」江川も出て来て出迎えて声をかけた。

「シェフ今日はよろしくお願いします」

「どうも」

「江川さん、約束通り連絡ありがとう」

「こちらこそ来てくれてありがとう」2人はニコッと笑い合った。そこに律子が「お世話になります。修造の妻です」と言って来た。

「あら修造さんって結婚なされてたのね。オホホ存じませんでしたわあ」

と言ったが後で江川に聞いた「ねぇ、なんでシェフは結婚指輪をしてないの」

「だって生地に引っ付いて抜けると困るから」

「そうなのね、全然知らなかったわ」

 

ーーーー

 

さて、撮影が始まった。

マウンテン山田と桐田が駐車場の入り口から駐車場が広いとか花が咲いてて綺麗とか説明しながら建物に近づいて来る。

スタジオではみんなが見ている画面に「パンの世界大会の覇者のお店リーベンアンドブロート」とか画面に大写しにされているのだろう。

マウンテンがやっとこっちに辿り着いた。修造と江川が入り口に立っている。

「はい!こちらが世界一の男!田所修造シェフと助手の江川卓也さんです!シェフ、いい店ですね〜」マウンテンが話しかけた。

「どうも」修造は前で手を組んで丁寧に頭を下げた。

「早速店内を見てみたいと思います」マウンテンと桐田が順にパンを見ていると「修造さん」と販売員の中谷がこっそり言ってきた「これ」

見ると自分の造作した棚の端が外れて落ちかけている。

修造は声を出さずに思い切り目を見張った。

中谷が力を込めて棚が落ちないように持っていたので慌てて自分が後ろ手で持つ。

身体をカメラの方に向けたまま立っていると、桐田とマウンテンが店内を一周してカフェの所に座った。

そこに用意したパンの乗ったトレーを修造が持っていく事になっていたらしく、スタッフが渡しに来た。仕方ない!修造は四角に目配せして棚を少しだけグラグラして見せた。

今度は四角が慌てて代わりに持ってこっそり言った「シェフ出番です」

手が離れた修造は急いでトレーを持って2人にパンの説明をしに行った。

「このお店のこだわりは何ですか?」

「この店でお勧めしたいのはドイツのパンと前にいた店のパン、大会で作ったパンなどが並んでいます、これはブレッツエル、そして自分がNNテレビさんの番組に出てる時に考えたスパイシーなカレーパン、そして」と言って振り向くと江川が黒いパンにチーズを格子状に乗せたパンとゼリー寄せを用意しているので、修造がパンを開くとさっと江川がゼリー寄せをカットして素早く間にはさんだ。

「どうぞ」と言ってテーブルの2人に出すと「おーっ」と声が出た「これは何でんのシェフ」

「珍しいパンですね?ゼリー寄せ?」

「カフェ専用のパンなのですが、これは何種類もの野菜を使ったゼリーで昆布と鰹の出汁を使ったタルティーヌです」

 

 

「あ!ほんまや!出汁の味がするわ」

「パンも美味しいです、この黒いのは何ですの?」

「こちらは竹墨を使っています、焼きたての薄いパンに急いでチェダーチーズを乗せています」

「へえ〜変わっててほんで美味しいなあ」

「本当にどれも美味しかったですわシェフ」

とそこで一旦カットになったので麺棒を持ってきてつっかえ棒にして棚を支えた「ふ〜重かった」

「すみません四角さん」自分で作った棚が外れるなんて恥ずかしい。

「いえいえ、音が立てられなかったんだから仕方ないですよ」

「後で自分で直しておきます」と麺棒の横にパン箱を差し込んで棚を支えた。

「さ、次は江川さんの番なので先に撮っていきましょう。江川さんお願いします」

江川も2人に修造の作ったパンについて詳しく説明した。受け売りでは無い自分の言葉で説明している、そんな江川を店員に紛れてお手伝いに来ていた小手川パン粉が微笑ましく見ている。

「パン粉ちゃん」江川がパン粉を呼んだ「実はパン粉ちゃんにも駅前のチラシ配りや今日のお手伝いもかって出て貰いました」

「あ!意外なところにパン粉ちゃんやん」マウンテンはさっき挨拶したのに知らなかった感じで言った。

「こんにちは〜パン粉で〜す。最近のパン粉のお気に入りはリーブロなんですが、江川職人とはテンションが合うんです」

「パン粉ちゃんから見てこのお店はどう?」

 

 

 

「頑張ってパン作って、お店作って、お客さんが喜んで、素晴らしいじゃないですかあ。特にこのお店の凄いところは修造シェフと江川さんって世界大会にでてこの店でもタッグを組んでるんです、そのパンをここに来るだけで食べられるなんてなかなか無いと思います、今日お勧めしたいのはドイツで修行してきたパンとパンロンドのパン、世界大会の3つの流れが楽しめる所なんです。それって修造さんが江川さんの為に考えて、修造さんと江川さんのパン作りの歴史を辿ったものなんです」

「へええ〜」桐田とマウンテンはパン粉のリーブロへの思い入れに対して感嘆の声を上げた。

長尺だったがパン粉が熱く語ったのをカメラでバッチリ撮っていた。

さて

撮影も終わった頃、工房の中からボールや麺棒が落ちた様な音が聞こえてきた。

ガラガラバーン!

「なんだ?」修造が見に行くとオーブンの前で西森と大坂が摑み合いの喧嘩をしている

「やめてやめて!どうしたんだ一体」

「こいつがパンを焼くタイミングが遅くて」

「お前が速いんだ!まだ発酵してないだろ!」

その理由で掴み合いの喧嘩になるのか?

「とにかく落ち着いて」

「もういいです!こいつとは仕事できません」西森が2階に上がった、きっと帰る為に荷物をとりに行ったんだろう。

「私見てきますから」立花が追いかけて行った。

修造は大坂を店のテーブルに座らせてコーヒーを飲ませた「みんな前の店のやり方があるんだな、この店のやり方とかまだ身についてないから揉めたんだよ」

「すみません、カッとなって」大坂ががっくりパワーダウンしてきた。

「俺、すぐカッとなるんです」

「うん」

「前の所でも喧嘩して」

「それで辞めたのか」

「はい、でも折角入ったリーブロ、俺辞めたく無いです」

「うん」

ところで今パンを焼く人間がオーブンの前にいない。

「撮影は江川に任せて俺がパンを焼いてくるから落ち着いたら戻ってきてね」

「はい、すみませんでした」

そこへ立花が戻ってきた「あの」

「うん」

「引き止めたけど帰ってしまいました。もう来ないかもしれません。力及ばずですみません」

「立花さんが悪いんじゃないよ。忙しい時にごめんね、後で電話してみるよ」

「はい」

「予想もしない事ばっかり起こるな」そう思いながら修造はどんどんパンを焼いていった。

 

ところでまだあの争いは起こり続けていた。

芝生のところで子供達とボールで遊んでいる律子と待機中の桐田の目が合った、お互いに会釈したが目は笑っていない。

「私、男の人は自分の事だけ見てくれなきゃと思うわあ」

横に立っていたマウンテンは桐田の言葉を聞いて、なんかバチバチになっとるで、奥さん平凡そうやけど気がキツそうやし、あの気位の高い桐田美月がこんな顔するなんてシェフも罪作りやなあ、それにしてもどこがええねん、いつも遠くばっかり見て!どこ見とんねん。

 

 

そうや前や!真っ直ぐ立って前だけを見て生きとるねん。ちょっとも他所見せえへん、そこが惹かれるんかもなあ。

「そういえばね、桐田さん。僕以前パンロンドでロケやった時に奥さんの作った料理を目隠しで当てるっちゅうやつをやった時、シェフが奥さんの為に必死で当てにいってたのを思い出しましたわ」と言った。

「え、すみません見ていなくて」

「そんな2人を見て、やっぱ今までずっと支えてきはったから絆があるんやなあと思いましたわ」

それには桐田は返事をしなかったが、十分に説得力があった様にマウンテンには見えた。

 

「さ、僕らは僕らの場所へ帰りましょか」

「そうね」

 

2人はリーベンアンドブロートから遠ざかりながら話した。

「僕の方が独身やしええ男やのに」

「バカね」

「バカやないねんアホやねん」

「フフ」

 

ーーーー

 

ロケ隊が帰った

11時からは本格的に招待客が来る。

大坂はしばらくすると窯の前に来て「すみませんでした」と言って修造と一緒にパンを焼き出した。今度は修造の焼くタイミングをよく見ていた。

「修造さん、今日遅番だった登野さんが体調悪くて来れないと連絡ありました」

「わかった、江川、登野さんのポジションに行ってくれない?」

「わかりました」江川は早速冷蔵庫からバターを折り畳んだ生地を出してきてパイローラーで伸ばしてそれを長い三角にカットして成形を始めた。時間が押している、なるべく素早くやりたい。

和鍵と平城山は同じ台の上で作業していた。2人は気が合うのかおしゃべりしながら成形している。もう2人も欠けてるのにこの呑気さはなんだろう。目の前にいてる江川には不思議な光景だった。

「あのさ、お話をしたらいけないとは言わないからもう少し早く手をうごかさないと、ね」結構優しく言ったつもりだったのに2人の表情は急に引きつってそれ以降何も話さなくなった。

 

江川は急いでデニッシュとクロワッサンの成形を済ませてホイロへ入れた後、本来の自分の持ち場に戻りミキサーで生地を捏ねだした。

あの2人は江川を見ながら何か言っていた。

 

ーーーー

 

11時になった

 

開店当日さながらにパンが並び、招待状を出した人達がやって来た。

「よう修造」

「大木シェフ、鳥井シェフ、どうも」

「良いパンが並んでるじゃないか」

「ありがとうございます」

「落ち着いたらゴルフに連れて行ってやる」

「ゴルフ、、俺やった事なくて」

「俺が教えてやるよ。道具も貸してやるからな」

「大木は修造とゴルフに行きたいらしいよ」と鳥井が大木をからかった。

「フン!また連絡するからその時は来てくれよ!他所のシェフが集まるコンペでお前を紹介するからな」

はい」

 

 

招待客が外に並んだ、

新しい店のオーナーが挨拶するのを聞いている。

まあ、話すのは修造なので「どうも、この度は、あの、ゆっくりしていって下さい」で終わりだったので、代わりに大木が皆に挨拶して、修造のプロフイールについて話していた。

修造が挨拶しに来た基嶋機械の後藤と話している間に、パンロンドの杉本や藤岡達4人を見つけた江川が走って来た「みんな久しぶり~」

「今日来れなくてごめんねって奥さんと親方が言ってたわよ」と風花が言った。
「仕方ないよ今日定休日じゃないんだし、さ、お店に入ってパンを選んで!パン粉ちゃんを紹介するね」

「え?パン粉ちゃん?」みんなの目にはパン粉は江川にとって特別な存在に見えた。江川の隣に立って時々目が合うとお互いにニッコリしている。

「とっても気が合うんですねパン粉ちゃんと」

「うん、そうなんだ藤岡君、今度の休みもパン屋さん巡りに行くんだ」

「楽しんできて下さいね」

「うん」

 

4人がパンを選んでいると修造がやって来た。

「修造さん、素晴らしいお店ですね、いいパンが並んでる」

「今日、パンの発酵の事で喧嘩が起こったり欠員があったりで江川にも忙しい思いをさせたけど頑張ってくれたおかげで助かったよ」

「発酵の事で喧嘩するなんてあるんですね」

「なまじっか経験者が多いから自分の意見を通そうとするんだろう、その内ここのやり方がお互いに定着するんだろな」

「もうすぐオープンですものね、力を合わせて頑張って貰わないと」

「俺も気を配るよ。帰った方も明日来るってさ、当分は日をずらして別々に教えていくよ」

 

ーーーー

 

昼すぎ

いい天気で時々爽やかな風が吹き抜ける。

藤岡達はそれぞれ選んだパンとコーヒーを外のテーブルに持っていって食べていた。

「美味しい~このクロワッサンパリパリだあ~」

「このタルテイーヌも最高!」

「俺さっき江川さんにゼリー寄せのパン作って貰った」

「あ、龍樹!半分こして、それ食べてみたかったやつ」

「オッケー風花」

 

仲良くパンを分けっこする杉本と風花の向かいに座って、隣の藤岡に聞いた。

「あの」

「何、由梨」

「さっきの発酵の事で喧嘩が起こったってどういう意味でしょうか」

「そうだな、パンを焼くのにも範囲があるんだ」

「範囲」

「そう、成形が終わってホイロに入れた時の状態から過発酵までの間で丁度いいところで焼く、その範囲の事だよ」

由梨はそう話す藤岡の顔をじっと見ていた。

「例えば菓子パンなんかは焼く前にパンの端を少し押してみると、丁度いい時は指の跡が少し残るんだ。まだだとすぐ戻るし、行き過ぎてると潰れたままになる。食パンなんかは型の8割まで発酵させて窯に入れるんだけど早過ぎると角が丸くなり過ぎるし過発酵だと上がり過ぎてケービング(腰折れ)してしまう」

「そんな事で喧嘩に」

「ま、多分『範囲』の基準が違ってお互い許せ無かったんだろうな。凄く微妙な事と思うけど」

「はい」

「今度焼くときに実際に見せてあげるよ、慣れてくると見たら分かる様になるから」

「はい!」由梨はにっこり笑った。

 

それを見ていた風花が「ちょっとちょっと龍樹」とパンを頬張っている杉本を引っ張ってこっそり言った。
「あ?何?風花」

「あっち行こうよ」

「え?なんでよ」

「だって由梨ちゃん達いい雰囲気じゃない?」

「そうかなあ」

 

その時丁度近づいてくる風花達を見つけて店の中から修造が手を振りかけた。

 

「あ」

その後ろの駐車場から歩いてくる3人に気がつき「鴨似田フードの奥さん!」と小声で言った。

 

以前藤岡のイケメンぶりに惚れ込んで連れ去ろうとした人だ。

鴨似田夫人はいつものお付きの2人を従えてこちらに向かって歩いてくる!

 

 

少々破天荒な人なんだ
改心したとはいえ会えばどうなるかわからない!

修造は自分に視線が来るように「鴨似田の奥さーん」と手を振りながら走っていった。

「あら、修造さん。先日は本当にご迷惑をおかけ致しました」

「いえ、あのう、開店に先駆けてご協力ありがとうございました。本当に感謝しています。さあ店内へどうぞ」とお店に案内してから藤岡に隠れろと合図した。

藤岡もそれに気がついて咄嗟に建物の裏手に隠れた。

「修造さん、今日はあの方はいらっしゃいませんの?」

「はい、いませんいません全然いません」修造は手を左右にプルプル振った。居てると言ってるようなものだ。

「お渡ししたい物があったんですのに」

「旦那さんに叱られますよ」

「大丈夫と思いますわ」

自由すぎる鴨似田夫人は例の手下2人に周辺を探させた。どちらにせよもうすでに招待客がSNSに載せていたプレオープンの挨拶に藤岡が写り込んでいたか調べてあるのだ。

裏手に回って隠れていた藤岡とそれについて来た由梨は足音に気がついた。

「藤岡さん、こっちです」そう言って掃除用具の入った小さな物置に入った。

由梨が戸の隙間から覗くと男2人が素早く通って行った。

「何故探すのでしょう?」

「以前俺のことを気に入って攫おうとしたのはあの人だよ」

「あの人が」

すると藤岡が由梨の腕を掴んできた。

えっ?藤岡さん?

ひょっとして

献身的に過ごしてきた由梨の思いがついに通じたのか?

ドキッとして由梨は振り向いた。

「怖い、無理」

「え」

藤岡は暗いのが怖くて震えている。

飛び出したい気持ちを抑えて必死の藤岡を見て由梨はキュンとした。

可愛い

「昼間だし怖くないですよ」そう言って両手を握った。

「ゆっくり息を吸って、吐いて」

藤岡は子供のように言われた通り息をゆっくり吸って吐いた。

 

 

「由梨」

少し落ち着いてきた、そう言おうと思った時扉が開いた。

「見つけましたよ、藤岡さん」

 

ーーーー

 

藤岡はベンチに座って優雅にお茶している鴨似田夫人の前に連れてこられた。

「藤岡さん、こんにちは」

藤岡は何も言わずにその場に立っていたので修造が説得した。

「奥さん、あの後反省してたってメリットストーンの有田さんに聞きましたけど」

「はいその節はすみませんでした」

「じゃあなんで」

「お渡しして」鴨似田はお付きの男に合図した。

「こちらどうぞ」

藤岡は箱を持たされた。

「これは?」

「はい、それで洗うとどんな足の匂いもスッキリ爽快になる石鹸ですの。フランスから取り寄せました、足りなくなったらまたおっしゃって下さい」

その瞬間藤岡が修造を睨みつけた。

以前藤岡に入れ込んだ鴨似田夫人の熱を下げる為に「藤岡は足が臭いし性格も悪い」と吹き込んだことをまた蒸し返えされたのだ。

折角収まった怒りがまた込み上げてくる「クッ」

立場無く修造が「あれは違うんです、あれは俺がその場しのぎで口から出まかせを」

「あら、そうなんですの。私てっきり悩んでらっしゃるのかと思いましたわ」

「それなら心配ありません。足も臭くないし性格は凄くいい方です」誤解されたままだと気の毒なので由梨が突然割って入った。

「この方はどなたですの?」

「俺の」

俺の?みんなが藤岡を見た。

とその時

 

 

「修造さーん」

立花が店の中から呼んでいる。

「どうしたの立花さん」

「エスプレッソマシンが調子が悪いそうです」

「すぐいくよ」

そう言って鴨似田に頭を下げて「すみませんちょっと見てきます」と言って走って行った。

 

由梨は『俺の』の続きが気になって振り返って藤岡を見た。

「え」

さっきまで立っていた藤岡は急にベンチに座り込んで店の方を見ていた。

そして少し下を見たまま黙り込んだ。

鴨似田達は違和感を感じたが由梨にそんなに興味がなかったのか「それではこれで」と言って駐車場に向かった。

 

「由梨ちゃん」風花が話しかけてきた。

「はい」

「龍樹がそろそろ帰ろうって」

その言葉に促されて4人で歩き出したが藤岡は考え事をしてるのか心ここにあらずでただ歩いてるだけになってしまっている。

さっきまでの藤岡とはまるで別人だ、それはあのお店から顔を出した女の人を見た時から?

「立花さんって言いましたね」由梨は試しに名前を言ってみた。

関係ないなら無反応、もし的を得てたら藤岡がずっと探していた女性だ。

「うん」

「そうなんですね」

帰りの電車で由梨は杉本と風花に、藤岡は調子が悪いのだと言って座らせた。

 

 

あの人が

 

とうとう見つけたんだわ。

 

こんなに心を支配されるぐらいの存在なんだわ。

 

由梨は吊り革につかまって藤岡を見ていた。

 

ーーーー

 

エスプレッソマシンは故障とかではなく、挽きが細かすぎて抽出が遅いせいだった。

全員がまだ慣れていないので仕方ないが原因がわかればなんの事はない。

「粉を挽く荒さを調整する事で解決だな」ほっとして外に出るとみんな帰っていていない。

「もう夕方だもんな」

そう言って帰路に着く招待客に丁寧に挨拶していった。

 

「修造シェフ」駐車場から呼ぶ声がする.

「はーい?」

「車の鍵が見当たらないんですの」
パン好きビクトリィの会長横田元子が車の周辺をキョロキョロ探している。

「鞄の中では?」

「違うようです」

見ると鞄の中身がぶちまけられている。

「俺、店の中を見てきます。」

「すみませんシェフ」

修造は誰かがキーを蹴っとばしたりしてないかと這いつくばって探した。

「店の中じゃないのかなぁ」

一応皆んなが片付け中の工房も見てみる「ないなあ、車の鍵知らない?」

「見ませんでした」「見ませんでした」と皆んなに言われる。

じゃあ外か、、、

「横田さん、見つかりましたか?」

「まだなんです」

「何れかのテーブルに座られましたか?」

「はいそこのテーブルに」

ひょっとしたらこの近くの芝の中か?

手の平で丁寧に探してるうちに腰が痛くなってくる「イタタ」

「すみませんシェフ。こんな時にお願いが」

「なんでしょう」

「今度シェフの独占インタビューをさせて頂けませんか?」

「はい、良いですよ。喜んで」と言ったが自分の事を話すのは苦手だ。

その後なんだか気が重くなって何も話さなくなっていく。

黙ったまま探す範囲を拡大する。

江川が来た「ねえ、何やってるんですか?」

「横田さんが車の鍵を無くされたんだ」

「僕も探します」

江川は何故か横田の近くで探し出す。

「横田さんって凄い超有名人ですよね」

「いえいえ大した事ないですよ」

「いつもテレビ出てますよね、僕休みの日はお昼の番組のパン屋紹介のコーナーチェックしています」

「私のコーナーね」

「そうそう」

「長い事コーナーを維持するのって大変なのよ。でもこうして良いお店ができて自分の紹介したものを観て色んなお客さんが来てくれるとパン屋さんの為になるしパンを買った色んな人が喜んでくれるの」

「あ、それパン粉ちゃんも言ってました」

「パン粉ちゃんと仲良しなのね」

「はい!とっても」

「そう、今度ここの紹介をする時にパン粉ちゃんをゲストで呼べるか聞いてあげる」

「え!ほんと?パン粉ちゃーん」江川が店に向かってパン粉を呼ぶと、パン粉がパンの袋を持って出てきた。「江川職人!これ誰か忘れて帰ったよ」持って走ってる途中、ガサガサとパンの袋の下の方で重いものが入っている「何これ?」袋から取り出したのは車の鍵だった。

 

 

「あ!」

「それ」

「私のパン!」

「見つかった〜」と3人が叫んだ。

 

 

もう薄暗い駐車場、車の中から横田と送ってもらえる事になったパン粉が「じゃあまた」と挨拶した。

「シェフ、本当にすみませんでした。近いうちにインタビューにきますね」と横田が何度も頭を下げた。

「どうも」

「またね」

と2人も見送った。

 

ーーーー

 

やっと片付いて職人たちはみんな帰った。

大地はベビーカーの中でぐっすり寝ていてその横で緑は絵を描いていた。

小さな緑にとって新しい店はまるでお城の様だった。

素敵

 

 

お父さんは王様みたい
じゃあお母さんはお妃様で

ってことは私はお姫様ね。

少々厚かましいが夢見る少女はこの建物が大のお気に入りだった。

その光景を見ながら愛妻の律子が「修造お疲れ様、今日大変だったわね」と労った。

「律子も疲れただろ?」昼間外れた棚を修理しながら愛妻に返事した。

「平気よ子供達と遊んでただけだったし」

あの女優も帰っちゃったし、何事もなくて良かったわ。

律子はホッとしていた。

「さあ、私達も帰りましょうか」

「うん」

 

 

もうすぐ本当のオープンだ

そして修造は今日のバタバタなんて大した事なかった。

 

 

そう思う日が来る。

 

 

 

おわり

 

桐田とマウンテンの出てくるお話、江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!後編はこちら

gloire.biz/all/4129

パン王座決定戦!前編の続きです。 修造はNNテレビのパン王座決定戦で強敵のシェフと戦う事になりましたが。。

 

 

マウンテンが出てくるお話、江川と修造シリーズ 背の高い挑戦者 江川 Flapping to the futureはこちら

gloire.biz/all/4365

修造と江川の務めるパン屋パンロンドにNNテレビがやって来た!

みんな頑張って!その時修造は、、、

 

藤岡くんが攫われそうになるお話し、パンの職人の修造 江川と修造シリーズAnnoying People はこちら

http://www.gloire.biz/all/5211

修造!藤岡君がおこってるよ?

 

桐田とパン粉が出てくるお話、パン職人の修造 江川と修造シリーズ   dough is alive

テレビに出た修造と江川でしたが、、、

http://gloire.biz/all/5565


2023年03月06日(月)

パンの小説の一覧を作りました

 

 

パンの小説の一覧を作りました。

 

ブログの表示が5つのお話までしか掲示されないので一覧をこちらに作りました。

よろしければ下にある一覧から好きな話を探して見てくださいね。

このお話はフイクションです。

江川と修造シリーズは修造が修行先のドイツから帰ってきて江川をパンロンドで面接したところから始まります。
引きこもりで不登校だった江川は修造の弟子っこになり、やがて世界大会の助手を経てナイスなパン職人になっていきます。

イラスト付きでわかりやすく、電車の中ですぐ読める感じになっていますのでぜひお楽しみ下さい。
どんどん更新していくのでたまに覗いて見てくださいね。

note始めました。3部の途中の江川君がパンロンドに面接に来た所から始まります。少しずつ読みたい方はこちら

パン職人の修造 noteマガジン1話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/m0eff88870636

パン職人の修造 noteマガジン56話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/m7dbc331f59d6

パン職人の修造 noteマガジン101話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/mc296482c0c46

お話の最後にあるハートマークを押して頂くと励みになります。

 

イラストだけ見る方はこちら

https://www.instagram.com/panyanosyousetu/

 

 

このブログでの新作↓

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーベンアンドブロートができるまではこちら

http://www.gloire.biz/all/5664

開店準備は楽じゃない修造、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some futureはこちら

http://www.gloire.biz/all/5619

独立の準備を始めた修造は、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   dough is alive

テレビに出た修造と江川でしたが、、、

http://gloire.biz/all/5565

 

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

Emergence of butterfly はこちら

http://www.gloire.biz/all/5498

休日にパン屋めぐりをしていた藤岡君が出会った由梨は、、、

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

Awards ceremonyはこちら 

http://www.gloire.biz/all/5465

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

stairway to gloryはこちら

http://www.gloire.biz/all/5403

世界大会に出場する江川と修造は、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

surprise giftはこちら

http://www.gloire.biz/all/5330

フランスに到着。江川が思いがげず受け取った贈り物とは、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

江川 Preparation for departureはこちら

http://www.gloire.biz/all/5273

とうとうフランスに旅立つ時が来た!
準備に忙しい江川と修造の前にやり手の営業マンが現れた。。

 

 

パンの職人の修造 江川と修造シリーズ

Annoying People はこちら

http://www.gloire.biz/all/5211

修造!藤岡君がおこってるよ?

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

One after another 江川はこちら

gloire.biz/all/5158

新たに練習を始める江川だったが、、

 

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

A fulfilling day 修造はこちら

gloire.biz/all/5105

大地が生まれた!毎日ハッピーな修造

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 後編はこちら

http://www.gloire.biz/all/5034

杉本に試験を受けさせようとする風花だったが、、、

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 前編はこちら

http://www.gloire.biz/all/5018

いつもぼーっとしているタイプの杉本の特技を発見したパンロンドの職人達は

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ バゲットジャンキーはこちら

http://www.gloire.biz/all/4967

あのメモを渡してきた男の正体は?

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ broken knittingはこちら

http://www.gloire.biz/all/4872

とうとう若手コンテストに挑んだ江川と鷲羽でしたが、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Mountain Viewはこちら

http://www.gloire.biz/all/4845

江川と修造は2人で荷物を積んで選考会に出発しました。

そこには、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ honeycomb structureはこちら

http://www.gloire.biz/all/4802

ホルツにてとうとう飾りパンの練習が始まりましたが、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Prepared for the roseはこちら
http://www.gloire.biz/all/4774

鷲羽はパンロンドに勉強の為に行きます。そこでつい、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   イーグルフェザーはこちら

http://www.gloire.biz/all/4720

鷲羽と江川はベークウエルのヘルプに行きますがそこでは、、、

 

パンロンドの職人さんのバレンタイン Happy Valentineはこちら

http://www.gloire.biz/all/4753

パンロンドの職人さん達のバレンタインはどんなのでしょうか?

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ スケアリーキングはこちら

http://www.gloire.biz/all/4675

いつも自信満々な修造が唯一怖いもの、それは、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Sourdough Scoring 江川はこちら

http://www.gloire.biz/all/4634

選考会への修業を重ねる江川と修造。江川にまたしても試練が訪れる。

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ ジャストクリスマスはこちら

http://www.gloire.biz/all/4588

クリスマスはパンロンドに優しい風を吹かせました。

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ お父さんはパン職人 はこちら

http://www.gloire.biz/all/4548

修造と緑はとっても仲良し。だけど近所の人はお父さんの事を、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ  六本の紐  braided practice 江川はこちら

http://www.gloire.biz/all/4477

修造と一緒にホルツで修業を始めた江川を待ち受けていた者とは、、、

 

 

江川と修造シリーズ フォーチュンクッキーラブ 杉本Heart thiefはこちら

gloire.biz/all/4415

やっと職場に慣れてきた杉本。一緒に仕事している店員の風花に危険が迫る!その時杉本は、、、

 

 

江川と修造シリーズ 背の高い挑戦者 江川 Flapping to the futureはこちら

gloire.biz/all/4365

修造と江川の務めるパン屋パンロンドにNNテレビがやって来た!

みんな頑張って!その時修造は、、、

 

 

ハートフル短編小説 アルバイトの咲希ちゃんはこちら

gloire.biz/all/3705

東南駅と学校の間にあるパン屋のパンロンドでアルバイトをはじめた高校2年の咲希ちゃんでしたが、、、

 

 

江川と修造シリーズ催事だよ!全員集合!江川Small progressはこちら

gloire.biz/all/4249

このお話は進め!パン王座決定戦!の続きです。催事を通じて少しずつ成長する若手の職人達のお話です。パンロンドにイケメンの仲間がやってきましたが実は、、、

 

 

江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!後編はこちら

gloire.biz/all/4129

パン王座決定戦!前編の続きです。 修造はNNテレビのパン王座決定戦で強敵のシェフと戦う事になりましたが。。

 

 

江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!前編はこちら

gloire.biz/all/4009

新人の杉本君の続きのお話です。親方が修造をパン王座決定戦に出てくれと言ってきました。その時修造は、、

 

 

江川と修造シリーズ 新人の杉本君Baker’s fightはこちら

gloire.biz/all/4056

江川To be smartの続きのお話です。パンロンドに新人の杉本君が入ってきましたが、、、

 

 

江川と修造シリーズ 江川To be smart はこちら

gloire.biz/all/3940

江川が15年前パンロンドの面接で修造と出会った時のお話です。

修造は一風変わった面接をします。。

 

 

製パンアンドロイドのリューべm3はこちら

gloire.biz/all/3877

30年後の未来、アンドロイドはとうとうパンも作ってくれる様になりました。
利佳はアンドロイドと仕事をする決心をします、その理由とは。

 

 

パン職人の修造第1部 青春編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3032

パンロンドに就職した空手少年の修造は運命の人に出逢います。そして、、

 

 

パン職人の修造第2部 ドイツ編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3063

修造はパンの技術を得るためにドイツに向かいますが、、、

 

 

パン職人の修造第3部 世界大会編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3065

江川と出会った修造は2人で世界大会を目指します。

 

 

パン職人の修造第4部 山の上のパン屋編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3073

律子と2人で念願のパン屋を開きますが、、

 

 

パン職人の修造第5部 コーチ編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3088

江川の為に世界大会のコーチを引き受けますが、、

 

 

パン職人の修造第6部 再び世界大会編前半はこちら

http://www.gloire.biz/all/3100

世界大会の為にコーチとして江川や緑と色々と作戦を練りますが、、

 

 

サイドストーリー江川と修造シリーズ ペンショングロゼイユはこちら

http://www.gloire.biz/all/3748

世界大会前編の始めに東北のお祭りに行った後のサイドストーリーです。

世界大会のアイデアを練る為に江川と東北に行った帰り道、泊まったペンションで修造が会った夫婦は、、、

こちら

 

パン職人の修造第6部 再び世界大会編後編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3596

世界大会が終わった後修造は、、

この後もまだまだお話は続きます。

このお話を書いたきっかけ。

昔々グロワールの近所にパンマイスターのお店があって、うちの先代が「マイスターのお店があるから行ってみ。」と言いました。
私はその時はマイスターって聞いたことあるけど何なのか知りませんでした。

お店に入るとご夫婦がお二人で経営されていて、ショーケースがありました。
当時(今も)無知だった私はどれがドイツパンかもわかりませんでしたが、記憶では日本の菓子パンもあった様に思います。

入り口の横に燦然と輝くマイスターの証が飾ってありました。
今はもうぼやけた思い出ですが、今にして思えばなんて勿体無い事をしたのでしょう。
もっと行っとけば良かった!
お店はいつのまにか無くなっていました。

推測ですが戦時中にドイツに渡り紆余曲折あってマイスターの資格を取り日本に戻ってこられたのではないかと。
そして日本にドイツのパンを広めるはずだったのに、当時はやはり菓子パンや食パンが主流で、しかも「白くてフワフワ」というワードがもっとも信頼されていた頃です。

推測ですが、色々悩まれたのではないかと思っています。
あぁ〜今やったらパン好きの人達に紹介して記事を書いて貰うのに。
そしてそれを読ませて貰うのに!

当時はSNSも無かったし、私も価値が分からずにいたと思うと口惜しいです

????

そんな気持ちがくすぶっていてマイスターについて色々調べ、今では価値のある存在って十分わかっております。

修行は長く、様々なお辛い事、そして楽しいこともあったと思います。

パン職人の修造第2部ドイツ編にはそんな思いが込められています。

世界大会については、審査、選考会、世界大会の順に勝ち進んでいくのですが、調べていくにつれ、色んな選手の方が色々な事を調べて作ってらっしゃるのがよくわかります。
時間内にタルティーヌやクロワッサン、バゲット、スペシャリテ、芸術作品などをを作らなければいけません。
とても技術を要し、過酷なものと推測します。

大会で修造が作ったパンは調べあげた末、誰とも被らないようなものを作ったつもりですがもしもモチーフが被った場合はご容赦下さい。
その他の一般でも販売可能なパンに関してはこんなに沢山の種類やパンがあるんだとわかって貰えるようになるべく色んなパンを紹介することもあるかもしれません。

世界大会には選手と助手(コミ)の2人が出ます。
そして会場ではブースの外からコーチが色々指導したりします。
素晴らしいコーチと助手と選手の熱い思いが燦然と輝くのです。

今後も修造の話は続きます。

応援お願いします。

ここに出てくるお話はフィクションです。

実在する人物、団体とは一切関係ありません。

パンと愛の小説

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2023年02月05日(日)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーベンアンドブロートができるまで

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーベンアンドブロートができるまで

 

 

パン屋開業の為に修造は江川と一緒に色々な土地を探した。

安くて交通の弁が良くて人が通いやすい、広くて落ち着ける場所を。そこはきっと花が咲き乱れてみんなパンを食べながらほっと一息つける所。そんな場所を探そう」

2人は東南駅の近くのアイリス不動産の小島百年子(こじまもとこ)と一緒に車でファミレスやカフェなどの居抜き物件や空き地を探した。

 

なかなかしっくりくる物件には当たらない。
遠すぎる、高すぎる、広すぎる、狭すぎるなど理由は様々


休みの日に何軒も見に行ったり、ネットで不動産屋の出している物件情報を漁った。

 

「そろそろ決めたいところですね」
「はい」
小島にも毎回物件を紹介して貰って申し訳ない。

 

アイリス不動産のネームが車体の横に入ったカローラに乗って物件を何件か見た後、3人が幹線道路沿いを走っていると、白い鳥が車について来た。
何気なく江川がその鳥を目で追っているとその鳥は左に曲がってひと気のない駐車場へ入って行った。

「すみません、今のところに戻って貰っても良いですか?」江川は小島に頼んで戻って貰った。
鳥は飛んでいってしまった様だ。

3人はその駐車場に車を停めた。そこは木々に囲まれた広い駐車場の奥に空き店舗らしい建物があって築年数はそんなに古くない様だったが壁の色は燻んでいて雑草が建物のぐるりを囲んでいる。

「長い事使われてないみたいですね」

「ここって空き物件ですか?」修造が小島に聞いた。「調べてみます」そう言ってアイリス不動産に電話をした。

「ちょっとお待ちくださいね」
そう言われて2人は建物の方へ歩いて行った。

 

 

駐車場の向こうの小道を歩いて暗い空き店舗の中を目を凝らして見た。カフェかレストランだったのか?

そんな感じのスペースがある。

そこに机と椅子を置いて、その奥はパン棚が沢山置けそうだ。

その左のドアの奥は工場が作れそうかな?

2人は建物の周りを回った。この窓の奥が工房で、2階には休憩室に事務所ができそうだ。などと色々な話がどんどん進んでいった。

一周して戻ると小島が「ここ、元レストランで子供さんが相続したらしいんですが話し合いによっては売却しても良いそうですよ」と言った。

すぐに場所を押さえて貰った。

これからは不動産屋を通じて売主との交渉が始まる。「詳しいことはまた決まり次第お知らせします。それと、、、」

「はい」

「もし借入金で購入されるなら見積書が必要になりますから知り合いの所で心当たりがあったら頼んでみて下さい」

「わ、分かりました」

 

その何日か後に不動産屋に敷地と建物の図面を貰う。

それを元に、無料見積もりの工務店を探して内装はああでもないこうでもないと相談して見積もりを書いて貰った。

その後,基嶋機械の後藤に連絡して駅前の喫茶アメリカンのテーブルに図面を広げる。

 


 

厨房を少しいじってオーブンやミキサーを置くスペースを作るとなるとそれは何センチでとか、特に中古にするか新品にするかとか何と何がいるのか2パターンの見積もりを書いてもらうことに決めた。

後藤は張り切って「とうとうここまで来ましたね!開店してお客さんがパンを買ってる所を想像してワクワクしますね」と白い歯を見せて言った。

「はい。よろしくお願いします」

一応新品の方の資金計画書を出して通らなければ一緒に考えましょう」

「はい」

基嶋機械のベテラン営業マンの後藤は一緒に考えましょうと言ったが、もうちゃんと中古も押さえてある、だが資金によっては全部新品にしたり一部を中古にしても良い。

 

次に修造は後藤の車で店舗の外観を見に行った。

「経費を浮かす為に細かい補強は自分でやりますのでいい配置を一緒に考えて下さいね」

後藤はおでこをつけて窓の中の暗い厨房を見ながら「あそこにオーブンを置いてそこにパイローラーを置きましょう!ミキサーはこっち、その隣がドゥコン」と指差して興奮気味に言った。

その後もあちこち見て回った。木が鬱蒼と駐車場の日当たりの良いところに伸び放題だ。庭師を呼んで木を剪定したりここに花壇を作りたいと相談したりと。。まだまだ色々やることはある。

 

ーーーー

 

興善フーズの五十嵐にも開店当時に要りそうなものの見積もりを書いて貰って、なんだか見積もりが分厚くなって来た。。

不動産屋には売主との手付けの日にちを決めたいので資金繰りが決まったら教えてくれと言われている。なので不動産屋にも正式な土地の測量図と売却金額の乗った書類を貰わなくては。

修造は小島に連絡した「あの、土地代っていくらぐらいなんですか?」「いくらなら買って貰えますか?」などと言う腹の探り合いをする。土地の相場は都心から離れているし駅からも遠いので1200万〜1500万と言われる。結局いくらお金を借りれるかまだわからないと言う話になる。

修造は後藤から※新創業融資制度というのがあると教えて貰った。無担保・無保証人で融資が受けられる。ただし自分の持ち金が創業資金総額の10分の1以上の自己資金を持っていなければいけない。それと、勤めている企業と同じ業種を始める者に限る。などの取り決めがある。

 

 

色んな見積もりや創業計画書、申し込み書類を持って金融公庫に行く。受付の人に個人か法人かと言われて、逆に相談した。そして後々の事を考えて、途中で代表を代わるなら株式会社をと勧められ、そうする事にした。その時に名前を決めなくちゃいけないので色々考えるが、結局生活とパンの関連性を考えて株式会社リーベンアンドブロートLeben und Brot生活とパン)にする。

株式会社にするならするで法務局に行って用紙を貰い、登録するのに書類を作る。しかし会社の概要とか定款とか、、やっぱここは司法書士に頼まなければ俺には無理だ、、そう思い、法務局の近くの束根{たばね)司法書士を訪ねて、今はこんな感じだとか相談した。会社ができて金融機関に書類を出して、後戻りはできない感じが強くなる。もうこうなったら全てを前向きに進めないと。。修造は足元にジワジワ押し寄せる不安を蹴飛ばして振り払った。

不動産屋の小島から連絡がある「地代ですが都心からも離れていますし、元々土地代は安かったです。建物の解体をしなくて良いなら1500万で良いそうですよ。ですので手付金は10分の1の金額で150万になります。駐車場と広場と店舗でこのお値段はお買い得でしたね!あの〜、他にも土地を買いたいと申し出るものがいるんですよ〜金融機関から振込の日がわかったら知らせて下さいますか?勿論1番に申し込んだ田所様が優先ですので。安心して下さい。それ以降はネットで販売を告知することになってるんです。なのでなるべくお早めにお願いしまーす」

電話を切った後「何が安心なんだ。今までほったらかしだった土地なのに急にライバルが現れるもんか!」と独り言を言ったが本当の事は電話のこちら側の修造にはわからない。しかしそう言われたり、期限を切られると焦る。

 

ーーーー

 

「あぁ」

1500万という金額にビビる。何せ生まれて初めての事ばかりだ。仕事中ぐるぐる頭を心配事が巡る。

その横で杉本が呑気に昨日観たテレビの話を楽しそうにしている。

 

 

こんな心境の時には呑気な奴や呑気な CMなんかを見ると心から羨ましい。

こっちは審査が通るまではそれどころじゃないんだ。
眉間に皺を寄せて製造を続ける。

 

仕事しながら親方を見た。

親方も同じ思いを創業の時にしたんだろうな、まだお給料が貰える状態で良かった。

ホッとしながら親方の懐のデカさに感謝する。

 

 

程なくして金融公庫から審査が通ったと電話があった。

修造は今まで準備して来たことが無駄にならずにホッとした。

束根司法書士から登記ができた知らせが来だので急いで受け取る。とうとう全ての書類を揃えて持って行った。

株式会社リーベンアンドブロートで新規事業として3000万円のお金を借りた。代表は田所修造。金利は2.01% 

生まれてはじめての高額な借入金だった。

 

 

契約の瞬間震える手で印鑑を押す。

「やばい、俺不眠不休で働かなきゃ。」と冷や汗が垂れ、足元がヒヤッとした。係のものに冷静に淡々と今後の事を説明される。

今後の事とは返済計画書の返済金額と金利の合計金額が書いてある用紙についての説明と、もう一つ、団信(だんしん)とは団体信用生命保険の事で返済中借主が亡くなる事があった時はローンがゼロになる。考えるとゾッとするが残された者に迷惑がかからずに済む。これも証書が送られてくる旨を申し伝えられる。

帰りの電車で眉間に皺を寄せ、腕組みをして座りながら「うぅ」と呻く。

もう後には引けない。何がなんでもやらなきゃ。と頭の中で繰り返す。

1週間以内に資金が振り込まれると言われていたので、全てはそれからだ。

次は手付けの日取りを決める。

相手先と対面して現金で全体の10%を持参するのだ。

 

修造はアイリス不動産に指定された日時にやって来た。

「田所様お疲れ様です。まず店長から購入の流れをご説明致しますのでこちらへどうぞ」と小島に応接室に通された。

横の座席に穏やかそうな夫婦が座っている。この人達かな?と思いながらそことは仕切られた横のテーブルに案内される。程なくして1人の貫禄ある男が現れた。

「田所様、初めまして、私店長の副馬武和と申します。

「どうも」

近頃は沢山の人に会い、沢山名刺を貰ったが覚えきれ無くありつつある。机の脇に置いて名前が見える様にした。

副馬は分厚いファイルを修造に渡した。購入時の決まりとか流れについてひとつひとつファイルをめくりながら丁寧に説明された。
その後売主と対面。やはり隣の
2人だった。

あの土地は何に使われるんですか?」

「はい、ドイツパンが中心のパン屋をやる予定です」

「へぇー!パン屋さんになるんですね。うちの父があの土地でレストランをやっていましたが、父も引退してからは手付かずでした。また活躍できて良かったです」

「大切に使わせて頂きます」結構和やかな会話ができてホッとする。

そこへ店長と交代で小島がやって来た。

「それでは今から印鑑を押す場所ををご説明させて頂きます」

急に皆ピリッとする。

初めてで緊張するし押す場所を間違えたら面倒なことになりそうだし。

それではこちらとこちらに印鑑を押して頂きます。こちらに割り印も」

失敗のないように付箋が貼られた箇所に小島が指差して印鑑を押させた。金融公庫の用紙もそうだったが、最近のこういう紙は印鑑が実に上手く押せる。

修造は手が震えたがなんとかブレずに綺麗に押せた。

無事印鑑を押した後のホッとした事と言ったら!

修造は誰にも分からない様に安堵の溜め息をつく。

その後手付金の受け渡しだ。丁寧に150万を数える。更に不動産屋への手数料を払い「もうこれであの土地は田所様が買う意思を示されましたので。今後田所様が土地建物購入をやめられる場合はこちらの金額は戻りません。もしも売主様がやめると言われた場合は割り増しての返金になります」

 

「へぇー」っと全員が言った。

「ここまで来て購入をやめるなんて事はありませんので」そう言って領収書を受け取る。

「今後の流れなんですが」副馬がまた説明を始めた。

そうだった、今日無事に済んでホッとしたが残金はこれからだ。

「はい」

「田所様がご指定の銀行で売主、アイリス不動産の小島、司法書士が集まって残金の1350万円をお支払い頂きます」

「わ、わかりました」

「司法書士の手続きが終わったらご連絡致します」ここでも不動産屋と司法書士の人への手数料がいる。

一旦通帳に入金されてホッとしたのも束の間、もうこれ以降はどんどんそれを使って開店への運びとなる。

使いすぎに気をつけよう。

小島は分厚いファイルに書類を挟んでアイリス不動産の紙袋に入れて「お疲れ様でした」と修造に渡した。

「ふぅ〜」帰り道自転車を漕ぎながらなんだかわからない大きな息をつく。

緊張したな」

 

ーーーー

 

さて1番に買うものは高額なオーブンなどの機械ではないかと思っていた。内装は自分でやろう、そしてエントランスや外観もだ。

修造は後藤に連絡した。

正直に土地代を差し引いた残高の事を話す。おそらく全額を自分の所の機械代に使わせるとは考えないだろうと思ったからだ。

後藤から見たら残高はそんなに無い。諸経費を甘くみてはいけない。

残高なく開店するのは危険な事だ。

特に何回かの仕入れの支払い分は残しておかなければと考えていた

なのでオーブンもそうだが、新品と集めた中古の中から良いのを吟味した。

「修造さん、このカタログのこちらとこちらのオーブン中から良いのを選んで下さい」

「ハード系に強いのはこっちですよね?」「はい」

オーブンだけではない、ホイロ、ドゥコン、ミキサー、パイローラー、モルダー、ラック、ガス台、生地用冷蔵庫、台下冷蔵庫、冷凍庫、生地用冷凍庫などなど、、

正直これを中古にすると料金的に抑えられるがこれは!というものを新品にしたい。

「オーブンとミキサーは新品でお願いします。あとは見てから決めても良いですか?

「えっ?うちとしては嬉しいですが、予算的に大丈夫なんですか?

「はい、何もかも中古っていうのになんか気がひけるんです」

「自分の物なのに誰に対して気がひけるんです?」

「またそのうち分かりますよ。後藤さん、俺2年のうちに利益を出して借りた殆どを返す予定なんです」

「繰上げ返済の事ですか?割と返済金も10年で返せる緩やかなものだと思いますが」

「とにかくその新品のオーブンにはバリバリ働いて貰う予定です」

後藤は若く燃える目の前の男を見て、確かにこの男ならやってくれるかも知れないと思う。

どのぐらい値引きできるか会社(基嶋)と話し合ってみます」

基本一括払いなので気を使うが、正式な見積もり書を作ってくると言って後藤は帰った。

 


 

さて、今日はとうとう土地建物代の残金を払う日だ。

待ち合わせの10時にNN銀行東南支店に行く。

すると皆が銀行の前で待っていた。

「お待たせしました」

「こちらへどうぞ」アイリス不動産の小島が奥の個室を予約していた。

「司法書士の田嶋です」「どうも」

先方の司法書士が挨拶してきた。

今日は土地建物代の残金、司法書士への手数料、不動産屋への手数料を支払う。

またしても双方が言われた通り慎重に用紙に記入する。

 

 

不動産屋とATMの前に行き、目の前で振り込む。画面を押す手が震えた。

司法書士と不動産屋に手数料を現金で手渡し領収書を受け取る。

無事終わった!

変な汗をかき、フゥと息をつく。

その後全員で土地を見に行き、手落ちがないか確認し合う。

「それではこれで」と東南支店まで送ってもらい、なんだかスッキリした様な、バランスが悪い様な変な気持ちで自転車を漕いで帰る。

 

ーーーー

 

こうなったらもう後には引けないのだ。

そしてとうとうパンロンドから去る時がきた前日。

江川と修造はパンロンドの閉店後、2人だけで裏口から入ってきた

「さあ、始めようか」

「はい」

2人は今までの感謝を込めて工場の機械を掃除しに来た。

 

 

 

デバイダー(分割丸め機の事。真ん中の赤いレバーを下げると生地に30個分のスジがつく。その後1番上のレバーと下についているレバーを同時に下げると機械が回転して生地が丸々仕組み)を手入れしてピカピカにしながら今までのみんなとの思い出を振り返えって涙が出てくる。

 

「みんなありがとう」その言葉は人にも機械にもかけられた。

「江川」

「はいなんですか」江川はオーブンのガラスをピカピカにしながら応えた。

「ここで色んな事があったな。色んなパンも作ったし」

「今までで1番楽しかったのはなんですか?」

勿論律子との出会いなのだがそれは恥ずかしいので他のにする「親方と2人でヘクセンハウスを夜中まで作ったり、みんなと催事に出たり色々あったな」

「じゃあ1番辛かった事は?」また律子を置いてドイツに行った時の事を思い出したが他にも色々ある。

修造はがっくり頭を下げてから言った「おれ、ここに来た当初はめちゃくちゃパンを焦がしたんだよ。ブザーがなったから開けてみて、もうちょっとだなと思って閉じたらタイマーの追加を忘れて結局全部焦がしたり。でも親方が全然俺を責めないんだよ。俺はそれが1辛かったな」やるせなくそう言った。が実は半分は律子に見惚れていたからだがそれも内緒だ。

「おれは親方が大好きなんだよ」

江川はわかりますと言った感じでうんうんと頷いた。

2人で思い出話をしながら夜中まで機械の手入れは続いた。

工場が綺麗になって2人は働いていた場所に一礼した。

「明日でパンロンドともお別れだな」

修造の言葉に江川も感極まった「はい」

 

ーーーー

 

次の朝

早番の藤岡と杉本がやってきた。

「あ、これは」

藤岡は周りを見回して言った。

「なんですかあ」

「俺が帰る前より綺麗になってる。機械が光ってる」

「言われるまでわかんなかったな」

「お前はな」

「サンタさんかなあ」

「時期もやる事も違うだろ」

藤岡は修造達だと気がついた。

「立つ鳥跡を濁さず」

2人が機械を拭いてるところを思うと泣けてくる。

いよいよなんだ」

藤岡は寂しさで胸が締め付けられた。

「藤岡さんほら見て!お鍋がピカピカ!」

2人は自分達の顔が写る鍋を見ながら言った。

「もうあの2人ともお別れだな」

「寂しいっすね。俺、修造さんのおかげでやる事見つけたし」

「俺も目標が見つかったよ」

 

 

 

2人が昼前に挨拶にやってきた。

鍵を返すと親方は男泣きに泣いている。

「元気でな、また店にも行くよ。今までありがとうな」

「お世話になりました。親方、奥さん、皆さん」「また店にも来てくださいね」

「困ったら相談に来いよ」

「はい」

皆涙涙でお別れが辛いが、2人で頭を下げて歩き出した。

その時

跡をつけている者がいた。そしてそのまた跡をつけてる者が1人。

だがそれはまたのお話。

 

江川は見えなくなるまで見てくれているパンロンドのみんなに何度も振り向き手を振った。

 

ーーーー

 

ベッカライリーベンアンドブロートのオープンの日にちを決めた。

もうこの土地建物は修造のものなので出入りは自由だ。
2人は駐車場から建物を眺めた。

「江川!あと3ヶ月で開店だ!」

「凄い!ワクワクしますね!僕出来るだけ手伝います」

「まずは内装からやっていく。明日から工務店の人が工場の設備をやりに来てくれるから、その後すぐに機械の搬入!」

「はい」

「今から車を見に行こうと思うんだ」

「配達の車ですか?リーベンアンドブロート号ですね!」

「そう」

江川と修造は中古車センターに行き、配達用の車を選んだ。予算が気になるのでなるべく安くて丈夫そうな軽を真剣に見て回る

注文は全て受けてこの車で納品する予定だ。車屋の人に車の横に店名を入れてくれる様に頼んだ。

 

 

工務店に頼んでガス、電気、水道の設備を整える。配管は元々あったので点検と一部新しいものにする。

その間に修造は江川と2人でまず建物の周りの雑草を全て綺麗に抜き、ホームセンターでタイルを買ってきて、工務店の人に教わりながら、店へのアプローチにドイツ風のタイルを散りばめた。

内装はシンプルでパン棚は見やすく沢山パンを並べたい。

工場の中は何人かで立ち回れる様に考えて作った。拭けばすぐ汚れの取れる鏡面張りの壁の素材を買ってきて取り付ける。

工事代を浮かすために自分でパン棚を作りながら「江川、パンはパンロンド時代のものと、ドイツパン、そして世界大会で作ったものを取り入れようと思うんだ。」

「はい!」江川は目をキラキラさせてこのパンはここであのパンはここでと張り切って考えていた。

さて、工場の感じができて来たら忘れちゃならないものがある。保健所に行って営業許可証の申請に行く。江川と2人で食品衛生責任者の講習会に行き、証書と札を貰う。

シンクは2槽でお湯と水が分かれたもの!ラッキー!保健所の許可に必要な物は流石元レストランだけあってちゃんとしていた。

こうして必要なものを一つ一つクリアしていく。

元々あったものはなんでも使い、庭の机と椅子は修理して塗り直したり、カフェ部分は中古でお洒落な机と椅子を探したりした。探してみれば中古のものも良いティーセットとかトレーとかあるものだ。

 

ーーーー

 

家族を連れてきて、ホームセンターで買ってきた花をこことここに植えて欲しいと頼んだ。

律子と緑は楽しそうに色とりどりの花を植えていった。そして庭に元々あった白いアーチの枯れ草を取り、蔦を這わせた。

緑が「これって何に使うの?」と聞いたので「結婚式とかに使ってたんじゃない?」と答えた。

緑は花嫁の真似をして花を手に持ち「ほら見て、こんな感じ?」とアーチの前でポーズした。

 

 

修造は大地を抱っこしながら「いつか緑がお嫁さんに行く日が来るなんて考えられない」と涙を浮かべた。

修造はこの店を道路の入り口から見て、ドイツ式のタイルに悦にいったが、ちょっと寂しいかなと思い芝生を両脇に植えることにした。店の前のアプローチの両端の地面に地道に四つん這いで芝を植えながら

店を作るってこうやって少しずつお金が出ていくんだなと呟いた。

俺は山の上にパン屋を作ったら機械以外は全部自分で作るぞ。

勿論薪窯もだ。今は勉強の時期なんだ。

自分で作って自分の城にして自分だけのパン作りをするぞ。

その前にここでドーンと当ててやる。

「よしっ!」タイルと芝生をみて満足げに言った。

 

ーーーー

 

機械の搬入の日

後藤が芝居がかった大袈裟な感じで「とうとうこの日がきました!」と言ってオーブンやミキサー、モルダー、パイローラーなど次々搬入した。「基嶋の新品のオーブンがリーベンアンドブロートにやって来ました」やや大声で張り切って言いながら写真を沢山撮ってるのでまたホームページに載せるつもりなんだろう。

「ここまで来るのに色々あったからお疲れでしょう」

 

 

後藤は修造の顔を見て「色々心配が尽きませんが大丈夫!もうダメだと思った瞬間また他の所から助けがやって来る、商売ってそういうものですよ、私はそんなシェフを何人も見て来ました」とベテランの営業マンらしい事を言った。

「悲喜交々、これから色んな事があると思いますが、お二人で力を合わせていってください。何か困ったら直ぐにこの後藤を呼んでくださいね」

閉店開店
後藤はその度に立ち会いその『色んな事』を見て来たんだろう。

「これからも力になって下さい」修造は頭を下げた。

 

ーーーー

 

その後もまだまだやる事はある。

仕入れ、用具の購入、店のレジはどんなものにするのか、事務所の机や椅子、更衣室のロッカーの手入れ、従業員募集、制服決めなどなどキリがない様に思えた。

さて、従業員募集の件だが、修造は広告を出す事にした。料金表を見ながら「結構値が張るがこの大きい枠にしよう」と面接の全てを江川にやらせた「お前の合いそうな人を探すんだよ」

とはいえ実際一緒にやってみなければこればっかりはわからないしなあ。

3ヶ月の工事期間を経て、いよいよ工場で仕事出来る様になった。プレオープンは1週間後。

パンロンドのみんなや鳥井シェフや大木シェフにも来てもらうことにして律子に招待状の葉書を書いて貰った。「なにこれ!桐田美月って?本物の?来てくれるわけないじゃ無い!それに売れっ子お笑い芸人のマウンテン山田さんまで招待状出すの?厚かましい。それにこの住所あってるの?」「江川が出してくれって言うんだよ。絶対来てくれるって」

「え〜」律子は笑いながら半信半疑でハガキを出した。

程なくして修造に電話がかかってきた。

「はい」

「修造シェフお久しぶりです。NNテレビのディレクター四角志蔵です」

「あ、お久しぶりですね、四角さん」

「実は女優の桐田さんからお話を頂きましてね、是非桐田さんの進行でリーベンアンドブロートの取材をさせて頂きたいんですが」

「えーーっ」

 

 

全く思いもしない事で修造は驚いた。そして桐田の顔を必死で思い出そうとしたが何となくしかわからない。「有名な女優さんなのは知ってるけど顔と名前が一致しないんだよ江川」「修造さん何言ってるんですか、ほら!パン王座決定戦の時に審査員席に座ってた赤い衣装の女優さんじゃないですかあ。その時また会いたいって言ってたし、こないだテレビに出た時もわざわざ握手しに来てくれたでしょう?」と言ったらすぐ隣にいた律子に聞こえていた「それほんとなの?修造。また会いたいですって?」その時の事を思い出した修造は汗をかきながら「えっそんな事あったっけ?」と誤魔化した。

 

修造はディレクターの四角と話し合ってプレオープンの日に撮影に来る事になった。

プレオープンの日は5月11日、グランドオープンは15日に決めた。
「修造さん、ホームページとかSNSとかやった方がいいですよね?」
「簡単なやつでいいよ江川」
「安く作ってくれる人達の載ってるサイトから頼んでみましょうか?」
「そんなのあるんだ!探してみてよ」
「わっかりました〜」

そうだ!2階の更衣室や休憩室、事務所の事も考えなきゃ。
と言う訳で壁紙は前のを使う事にして他の物をホームセンターに買いに行く。

カーペットと机、椅子、ロッカーにマガジンラックを更衣室と休憩室に。

事務所には江川がネットで買ったパソコンデスクと来客用の机と椅子を置くつもりだったが可愛らしいピンクのソファが届く。

「ちょっとこの色、、」

「可愛いでしょう?」江川は恥ずかしがる修造を横にならせた。色はともかく3人掛けのソフアに横になってみるとフカフカで寝心地が良い。
「こりゃいいや」と言ってそのままいびきをかきだした。

「お疲れ様です」と言いながら江川は上着をかけてやった。

 

ーーーー

 

「修造さん、パン好き女子の小手川パン粉ちゃんが何日間か僕と一緒に駅前でチラシを配ってくれる事になったんです」「えっつ本当?助かるよ江川」「僕たちとっても仲良しになったんです」

いつの間に、、、江川の社交性に驚きながら本当にオープンに向けて真っ直ぐ突っ切る感じが強まってきたと実感する。

保健所の施設検査も合格したし、1回目の仕入れも済んだ。

明日からは本格的にパン作りを行う。

「本当にいよいよだな江川」

「はい!僕頑張りますね」

「うん」

ところが

修造は事務所机のセットの椅子に座って機械代やら店舗補修費その他諸々がこんなに嵩むとは、、と頭を抱えた。

チリも積もれば山となる。

後藤に言われていた通り2ヶ月分ぐらいの分の支払いの金額は残しておきたい。

修造は細かく何がいるか計算するために粉屋とか資材屋、包装紙屋などに貰った見積書をもう一度見直して計算してみた。そして人件費、光熱費、社会保険料、税金、その他諸々。

「全然足りないじゃないか。開店の時は行列を見越して大量仕入れしないと。こんなんでやってけるのか?」そう言いながら仕方ないなんとか回していかないとと覚悟を決める。初めの売り上げを支払いに回していくしかない。

 

不安だな。

 

そこに一本の電話が修造に掛かってくる。

「はい」

「修造さんですか?ご無沙汰しております。私株式会社メリットストーンの有田でございます」

え?あー!あのヘッドハンティングする為に付き纏ってた人!

「あのー何か御用ですか?俺今度こそ店を開店するんですよ」

「存じております。その事で電話しました」

「はあ」

「実はあの時お騒がせしていた鴨似田フードの奥様なんですが」

「まだ藤岡を追い回してるんですか?やめてやって貰えますかね?」

「勿論ですよ修造さん、あの時ご迷惑をおかけした事を反省されていますし、波風が立たない様にして下さった事をいたく感謝されておりまして、御開店の時の材料等3ヶ月分をお使い頂きたいとの事です」

「え!」

「私が繋ぎ役を買って出ました!」

 

ーーーー

 

 

有田は事務所にやってきて遠慮する修造にあれこれ使いたい材料を聞きだして、あれよあれよという間に鴨似田フーズからやって来た例の2人の男と共に大量に材料を並べた。「これが奥様からの開店祝いでございます、また来月も持って来ますんで」2人から言われて唖然として見ていると「御伽話みたい」と江川が言うので、「だな」と、やっと声が出た。

「こんなにして貰って感謝してますが、大丈夫なんですか?奥さんは?旦那様に叱られるのでは?」

「社長は奥様に自由過ぎるほど好きにさせておられるので」と2人が声を揃えて言っていた。修造は薄っすら残る鴨似田フーズの奥さんとやらの記憶を辿って可愛い奥さんだしそうなるんだなあとぼんやり納得。

「俺、絶対良いものを作るんで感謝してるって言っといて下さい」修造は頭を下げた。

これが後藤さんの言ってたそれか。

このチャンスを無駄にせず全て美味いパンに変えるぞ!

そう固く誓う。

 

さて、プレオープンの前に2人で試し焼きを夜通し続けた。

「今日は従業員さん達が初めてリーベンアンドブロートで作業を始める日ですね」

「うん」

ここまで長い長い道のりだった。だが今日からが本当の始まりだ。

 

「江川、外に出ようか」

「はい」

窓の外が明るくなり、空が赤く染まって来た。

 

2人は駐車場の入り口から敷石とその向こうの店舗を見ながら言った。

 

「やっと俺達の店ができたな」

 

 

おわり

 

何とか無事に開店の運びに至った修造と江川
オープンはもうすぐだ修造!

 

※新創業融資制度 https://www.jfc.go.jp/n/finance/search/04_shinsogyo_m.html 後藤が勧めた制度

日本政策金融公庫 国民生活事業より。新たに事業を始めるとか事業開始後税務申告を2期終えていない人に無担保・無保証人で利用できる「新創業融資制度」条件をクリアしないと受けることはできない。

 

※今時は建物を相続しても解体費用に二の足を踏んでこのような空き物件があることがあるので辛抱強く居抜きや空き家を探してみるといい物件が見つかる可能性がある。

 

鴨似田フーズの奥さんが出てくる話はこちら

パンの職人の修造 江川と修造シリーズ   Annoying People

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2023年01月02日(月)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some future

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some future

 

 

「修造パンロンドのみんなはどう?」

 

早番で早く帰ってきた修造に妻の律子が話しかけた。

 

「花嶋由梨って新入社員が入って来たんだ。丁度探そうとしてた所だったんでタイミングよかったんだよ」

「そうなの」

「今みんなで仕事を教えてるよ。今日は江川と一緒に生地の手ゴネをしてた」

「どんな人?」

「えーと藤岡の紹介で入ってきたんだよ。今度お店に来たら紹介するね」

と言いながら修造は、6ヶ月児の大地とうつ伏せになって向かい合った。

「大地これどうぞ〜」と言ってオモチャを渡そうとする。

「ほら、こっちだよ」大地はオモチャを取ろうとニコニコしながらハイハイでやってくる

すると修造は一周して大地に追いつきちょんちょんとつつくと大地が振り向いて大喜びして座ってパチパチして笑う。

追いかけて来るとわかっていて振り向きながらニコニコと急いでハイハイするのだ。大地はこの遊びが大のお気に入りで、2人の楽しいひと時だ。

そのあと、大地は座って修造が足の間にポンと投げたボールを可愛い手で掴んで「ダ〜」と言って投げ返してくる「大地上手上手」これが今修造の最も嬉しい瞬間だ。

「大地可愛い可愛い〜」と目を細めて大地に話しかけた。

「律子ホラ見て!歯が生えてきたよ」

律子も「大地歯が生えてきたね」と言って大地の顔をのぞいて笑った。

本当は律子は知っていたが、修造を嬉しい第一発見者にしてあげる為に黙っていた。

「ふふふ。可愛い」

 

「ただいま〜」

「あ!おかえり緑」

夕方は学校から帰ってきた長女の緑と3人で東南スーパーに買い物に行く

「今日空手道場の日だね、お母さんと大地も見に来てくれるかなあ」

「一緒に行きたいね」

「うん」

緑は修造と繋いだ手をゆらゆら揺らしながら「ねえ、お父さん、私達って仲良しよね」と言った。

「勿論だよ。超仲良し」

夕焼けの光に照らされて子供達の成長とこれからの未来に想いを馳せる修造だった。

 

ーーーー

 

次の日

修造は藤岡とハート型の※レープクーヘンを作っていた。

オブラートに生地を乗せて焼くとスパイスの香りが辺りに立ち込める。

チョコを塗りながら「乾いたらこれにアイシングしてみよう。すごく日持ちがして、袋に入れて紐で吊るして並べると可愛いんだよ」

「楽しみです」

「藤岡は吸収率が高いから教えがいがあるよ」

「ありがとうございます。もっと色々教えて下さいね」

「うん」

とそこへ、律子が大地と緑を連れて来た。

律子の実家から野菜が送られて来たから奥さんに持って来たのだ。

「修ちゃん、律子さん達が来たわよ〜」奥さんがお店から修造を呼んだ。

「あ!律子!」

修造は作業中の顔つきとはガラリと変わって嬉しそうに飛んで行った。

 

 

「凄いハッピーファミリーなんですね」

それを見た由梨が驚いて風花に言った。

「そうなのよ。普段強面なのに律子さんの前に行くとニコニコね」

 

由梨が見ていると奥さんが手招きしたのでそちらに行く

由梨ちゃん、この人が修造さんの奥さんよ。そして緑ちゃんと大地くん」

「初めまして花嶋由梨です」

「律子です。お仕事頑張ってね」

「はい、ありがとうございます」

 

3人が帰るのを見送った後由梨は結婚という言葉についてイメージしてみた。

自分もいつか結婚したり子供ができたりするのかしら。そして目の前のハッピーファミリーの様な暮らしをするのかしら。

ちょっとだけ藤岡を見てみた。

そしてこの間聞いた前の職場の先輩の事を思い出した。

「あ」

そうだった。全然遠い道のりだったんだった。

すぐそこにいるのに遠い。

 

ーーーー

 

次の日

由梨は仕事が休みの日なので東南駅の横の巨大ショッピングモールで服屋巡りをしているとペビーカーで大地を連れた律子に会った。

「こんにちは。お買い物ですか」

「あ、由梨ちゃん。こんにちは、そうなの。パンロンドはどう?とても働きやすい所でしょう?」

「はい、本当に。皆さんに優しくして頂いています」

「私も以前パンロンドで働いてたのよ。5年間工場にいたの」

「そうなんですね、、あの」

「なあに?」

「修造さんとはどうやって知り合ったんですか?」

「私は始めは販売員として働いていたのよ」

「えっそうなんですか?」

「そう初日にね、工場の奥のミキサーの所に修造がいてね、私が挨拶したの」

律子は当時の事を思い出して話しだした。

それはこんな風だった。

 

働き始めた初日。

奥さんが案内してくれて、奥からお店に向かって歩いて行って順番に挨拶していったの。工場の奥のミキサーの所に修造がいてね、私が挨拶したの

その時初めて目があって私を見て修造が思った事が私にはわかったの。

ドキッとして顔が真っ赤になったから私もドキッとしちゃった。

 

 

その後ね、何度も何度も目が合うのに全然話しかけてこなくてね。

もう多分話すことはないんだわって思ってた。

そんな時に事件が起こったわ。

突然ナイフを持った痩せた男が入って来て、奥に入って行こうとして私を突き飛ばした。後で聞いたんだけど、その人はお店とトラブルになった人らしくてね、大きい声を出してたし、めちゃくちゃ怖かった。そしたら修造が血相変えて飛んできてオーブンの前まで来ていた男の腕を掴んで脇腹を蹴って倒した。

揉み合ってるうちにナイフを掴んでしまって床が修造の血で一杯になってこっちが卒倒しそうだった。

その時ね、私この人から離れないって思ったの。

それから病院に一緒に行って

毎日手当に行ったのよ。フフフ。

そしてすぐに一緒に住みだしたの。

今も修造の手にはその時の跡が残ってる。

でもね

私は修造が大好きだったのに、、、

結婚して緑が生まれて間もなくして急にドイツに行くって言い出したわ。

 

「パンの修行の為に」由梨が合いの手を入れた。

 

「そう!凄く反対したわ。緑も小さかったし。

でも目の奥に覚悟が段々できてきて、絶対行くんだわって悟った。

5年間ずっと修造が帰ってくるのを待ってたの。

パンロンドで働きながら長女の緑を保育園に預けて

仕事が終わったら2人で帰ってまた次の朝が来る。

修造が大好きで会いたくて、でも意地を張ってメールの返信もしなかった。

ずっと後悔してるのよ。

追いかけていけば良かった

一緒にドイツで暮らせばよかった。

だからこれからずーっと一緒にいようと思ってるの」

由梨は律子が力を込めて言ったずーっとに何か意味があるのかと思って見ていた。

「はい」

「私達ね、山の上でパン屋さんをするの。修造がパンを作って私が販売して修造を支えるの。修造がパンを作ってる所がお客様にも見えるようにしようかな」

「素敵」

由梨は自分と藤岡の未来をちょっと夢見てみた。

「結婚って良いですね」

「ホント毎日が楽しいわ」

その姿は堂々としていて自信に満ち溢れ輝いてるように見えた。

子供達から必要とされる存在で、夫から絶対的に愛されている証拠のようにも見えた。

 

ーーーー

 

次の週

 

修造一家は法事で山の上の実家に帰っていた。

 

修造の家がある山の上半分は母方の先祖代々のものだ。

今は誰もすんでいないので、結構埃が溜まっている。

掃除しながら「やっぱすんでこその家だ。とはいえ元々ボロ屋だからな」と見渡した。

 

 

修造の実家は山の上にある平屋で、玄関の前は平らで広場の様になっている。

入り口の入って直ぐの所は6畳ぐらいの土間になっていて、左には部屋が2つぐらいの大きさの板張りの部屋がある。入り口の奥は台所とその奥に風呂トイレ洗面台。建物の右手には部屋が3つ

母親の法事中、無骨で無口な修造に比べてしっかり者の律子に皆感心した「あんなできた嫁ばよく見つかったもんたいね」と山の中腹に住む母親の妹夫婦が囁き合った。

皆帰った後、家族4人だけになった。緑は珍しい板張りの広い部屋をゴロゴロ転がって、大地はそれをハイハイで追いかけている。

「ねぇ修造。ここにオーブンを置きましょうよ」と左の部屋で両手を広げて言った。「ここに工房」そして入口の土間を指差して「ここがショーケース」こっちに棚を置いてこっちに台を置いて。と律子は張り切って言った。

「裏に畑を作って野菜を作るわ、修造はそれを使ってパンを作ってね」信州の実家が農家の律子は自慢げに言った。

「素晴らしいなあ。いい考えだよ律子」

今は昼間は別々だけどここなら昼夜なく同じ空間で一緒に過ごす事ができる。

俺の俺だけの工房で俺のパン作りをして、最愛の律子と毎日パン作りをここで。

二人は出会った頃の様に見つめ合った。

ここにいて2人で同じものを見て同じ様に感じて毎日を過ごして2人で歳をとろう。

ここら辺の湧き水は潤沢な硬水よりの水でパン作りに適してる。遠くに見える山の周りは牧場と農家が沢山あって良い材料が手に入る。

山を降りた所にある小麦農家と話して粉を卸して貰おう。

修造の夢はギラギラと膨らみ胸いっぱいになった。

外に出れば目の前は林の続く斜面でその下には広大な景色が広がり、その向こうはまた山が見える。その向こうは空だ。夕焼けが真っ赤になり何もかも赤く染まる。

「綺麗だわ」

律子はこの夕焼けを見ていつも感動している。

入り口は南向きだが工房を作る予定の居間は西に向いていて夕方は西日がきつそうだ。なので庭にベランダを作って長めの庇(ひさし)を作ることにしよう。ここに薪窯を作って外に薪の置くところを作って。など随分具体的になってきた。

初めて律子をここに連れて来た時に、美しい眺めに感動した律子はこの場所が気に入り、ここでパン屋さんをしようとどちらも言い出した。それ以来、いつかはここでと言う話は度々出ていたのだ。

修造は納屋に伐採用の鉈(なた)を取りに行った、すると便利な折込式のこぎりと充電式の電動ノコが見つかる、母親が使っていたのだろうか?にしては大型で結構新しい。不思議に思いながらそれを持って裏庭から斜面になって続く林に入り、枝を切り落として来た。

不思議な事に長い間ほったらかしていたのに周りの雑草や蔦はそこそこ手入れされている。さっきの親戚のおじさんが見かねてやったのだろうか。

誰が手入れしてくれてるんだろう」そう独り言を言いながら鉈で細長く切っていく。2年後に使う薪窯様の薪を準備して工房ができるであろう場所に大量に積み上げた

「これだけあれば開店当初の分はいけるだろう」

よく乾燥させないと木の芯に水分が残って燃えづらい。切って断面を空気に晒し、長く乾燥させた方がいい。

「2年間大人しくしといてくれよ」

 

ーーーー

 

パンロンドに戻った修造は神妙な面持ちで親方の前に立って話しかけた。

「親方!俺、、」

うわ、ついに来たこの時が。

 

 

親方は修造の表情を見て悟った。

「修造、俺はお前に感謝しかしてないよ。お別れは寂しいけどお前ならどこででもなんでもやれる。応援してるからな」

「ありがとうございます」

「それとさ、あいつきっとついていくんだろ?」親方は由梨と一緒に楽しそうに分割をしている江川を見た。

「親方、その事なんですが。俺と江川は店作りをするつもりです。でも俺、その後田舎に帰って一人で工房に籠るつもりです。それで江川には今までの感謝を込めて俺からのプレゼントを徐々に持たせようと思うんです」

「なるほどね。お前は本当にギブアンドテイクの男だよ。お前の思う通りにやってみろよ」

「はい」

「しばらくはまだ準備ができるまではうちにいるんだろ?」

「はい、すみません、勝手ばかりで。よろしくお願いします」

親方との話し合いで休みの日を平日に週2日にして貰った。手続きに動くなら平日の方が良いからだ。

家に帰って律子に親方との話を説明して、「あと2年待って欲しい。必ずその期間に開店資金を作ってみせるから」と頼んだ。

修造は律子に2度目の土下座をした。

「そんな格好やめてよ修造ったら、わかったわ。ダメって言ったらまたどこかに行っちゃうんでしょう?」

「そんな訳ないよ。山の上に行ったら律子と2人の時を増やす様に誓うよ」

 

その夜布団の中で修造は色々な計算が止まらなかった。

場所、開店資金、機械の購入などパン屋の開店は他の店の開店より結構かかるなんだろうなあ。

基嶋機械の営業の後藤さんにも聞いてみようかな。あの人なら何でも知っていそうだし。

あとは立地だな。。駅前の不動産屋さんに相談してみよう。

「どんな場所が良いかなあ」

 

ーーーー

 

次の日

先輩の佐久山と広巻、後輩の杉本が声を掛けてきた。

 

 

「修造、とうとう行っちまうんだって?寂しくなるよ。元気で頑張ってな」

「俺達は親方と一緒にまだまだ頑張るよ」

「勝手ばかりしてすみませんでした。パンロンドをよろしくお願いします」

「離れてても俺と修造さんとは兄弟っすよ!」

「わかったよ杉本。ありがとうな、がんばって次の技術士の試験も受けてくれよな」

「わっかりました~」

「江川、元気でな」

「はい、僕修造さんに付いて行っちゃいますけど僕がいないとみんな寂しくなっちゃいますよね」

「自分で言うなよ」

アハハと笑うみんなの会話を聞きながら藤岡は近くにいた由梨に言うともなしに呟いた。

「俺は修造さんの去った後もパンロンドを守り続けたい。その時はいつも修造さんの背中を思い出すだろう」

「はい」

修造を見ながらそう言った藤岡に

修造さんって朝焼けに輝く山の様な存在みたいなものなんですね」と、多分藤岡が思い描いている修造のイメージを言ってみた。

「そうなんだ。赤々と燃えている」藤岡は由梨の詩的でピッタリな言い方にちょっと感動して微笑んだ。

由梨は藤岡が例の『前職の先輩』の事もそんな風に思ってたのか気になる。

パン屋さん巡りをしていって、いつかその人が見つかったらどうするのかしら。藤岡さんはまだその時の気持ちのままなのかしら。

 

ーーーー

 

由梨の両親は東南商店街で無事着物屋『花装』を新装開店し、今は近所の賃貸マンションで3人で暮らしている。

パンロンドから戻った由梨は自室に籠りパソコンで藤岡の動画を探した。

 

 

確かパン屋への行き道を説明して、パンを買ったあと公園で紹介をするんだったわ。

結構色んな人がパン屋さんを巡ってる動画を出してるけどどれなんだろう?

パン屋さん巡りの動画は沢山あって見つからない。

そうだ、ウンタービルクを紹介してるのを探せば良いんだわ。

由梨は以前住んでいた町のパン屋ベッカライウンタービルクの動画を探していった。

その店のお知らせも見てみる。

「あ」

お店がホームページに貼り付けていた映像にテロップと曲だけの動画を見つけた。

「これかも」

各駅電車を降りた所からウンタービルク迄の道のりを動画とテロップで説明していて、2人が出会った川が映っている。

映っているパンの中にはあのヘルンヒェンとSchweinsohr(シュヴァンスオアー)もあった!

「間違いない。これなんだわ」

動画の名前は『各駅停車 パン屋探し』電車好きとパン好きが見るのか登録者数は多い。

一見普通の名前そうだが、何故こんな名前なのか由梨だけが知っている。

『各駅停車 パン屋探し』は、他にも沢山の店の動画があった。由梨はその動画を観ながら「これ、藤岡さんが撮ったんだ」と藤岡の表情や仕草を思い出して言った。

駅に着いて、歩いてパン屋さんの工場を覗いて、先輩がいるのか確かめたんだわ。

そう思うとなんだか切ない。

 

もし先輩が見つかったらどうするんだろうか。

何か声をかけるのか。

 

『あ、藤岡君久しぶり、元気にしてた?』

そう言われたら理想的な言葉をかけるのかしら「お久しぶりです。またお会いできて良かった」

それとも

「探しました、なんで俺を置いて行ったんですか。もう離れないで下さい」

とか

 

返事は分からない。

会ってみないと分からないんだわ。

だから探してる。

 

 

その夜

由梨は夢を見た

始めはとても嫌な夢だった

夢の中の由梨は随分歳をとっていて1人で料理屋に入る。1番奥のカウンターの席に座って食事をしていた。会計を済ませようと席を立つと自分が通った所の人は全員由梨に悪意のある目を向けた。

全員が見張っている。そして由梨にひどい言葉をぶつけた。由梨は逃げ出そうとすると手を引いて一緒に歩いてくれる人がいた。「もう大丈夫心配ないよ」とても優しい声でそう言ったので顔を見ると藤岡だった。

 

 

そこで目が覚めて

藤岡から離れたくないと

強く思う

もし出会えなかったら

私はあの夢の通りの生活を送る事になってたわ。

それとも本当に河に飛び込んでいたかもしれない。

 

藤岡さん

 

ーーーー

 

由梨と藤岡は二人でベルリーナという揚げ菓子にジャムを詰めていた。

由梨はそれを手早くトレーに並べながら思い切って言ってみた。

 

「あの、今度私もパン屋さん巡りについて行っても良いですか?」

 

「え」

 

「いいけど」

 

「助手って事かな?」

「あ!はい!そうです助手として」

 

藤岡は何か考えている様だった。

 

作業中沈黙が続き

 

でも最後にはこう言った。

 

「俺は今度の休みに動画を撮りに行こうと思ってる、由梨の行ってみたいパン屋さんはある?」

「はい、他の動画で美味しそうなパン屋さんがありました。勿論パンロンド程じゃないですけど。それといつか修造さんのお店にも行ってみたいです」

 

「そりゃいいね。じゃあお店ができたら行ってみよう」

「はい!」

 

 

みんながみんな

思いおもいに

少し先の未来を

想像して

また明日が

やってくる

 

 

おわり

 

※レープクーヘン はちみつ、砂糖漬けのフルーツ、スパイス、アーモンドなどのナッツの入ったお菓子。オブラートの上にのせて焼く。丸形、ハート型など大きさも様々。通常ヘクセンハウスもこの生地で作られる。デコレーションを施し紐を付けてクリスマスの飾りに使われる。

 

 

 


2022年12月07日(水)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ dough is alive

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   dough is alive

 

 

フランスから帰ってきて何日か経った。

 

パンロンドの奥さんは手回しよく『世界大会優勝!田所修造・江川卓也』ののぼりを店先に付けていた。

修造と江川はパンロンドの出窓のところに世界大会で作ったパンデコレを飾っている最中だった。

「やっぱこの選考会の時のパンデコレは退けるよ。太陽の反射が当たってたし劣化してる。付け根がグラグラしてるし」

「ですね、崩れてきそう、僕のは小さいからまだいけそうですけど」

そんな会話を横で聞きながら、新入社員の花嶋由梨は2人のお手伝いをしていた。

「ねぇ由梨ちゃん、ここに冷却スプレーをかけてよ」

江川は溶かした水飴を接着面に付けながら指差した。

「はい」

 

由梨は藤岡を追いかけてパンロンドに来た。

動機は不純だが、世界大会の優勝者の修造のそばで早速勉強できるなんて凄い事だと思って2人の作業を見ていた。

これからみんなに色々教わってパン作りと言う新しい世界に飛び込んでいきたい。

 

とそこへ

「あのさ、修造く〜ん」

さっきまで電話していた親方が話しかけてきた。

「なんですか親方」

修造は嫌な予感がした。

「NNテレビのディレクターの四角志蔵さんから電話があって、修造と江川をテレビ局に呼んで取材したいんだってさ」

「えー俺テレビとか苦手なんで」と言いかけたらそれより大きい声で「はい!出ます!絶対出ます」と江川が大喜びで右手を上げ、ピョンと跳ねながら返事した。

「よしっ!じゃあ決まりだな」と言って親方がまた電話し始めた。

「江川、お前だけ出たら?」

「えー?助手の僕だけ出るなんて変じゃないですかぁ。僕出たがりだと思われちゃいますよぅ」それを聞いて修造はそうだろうが!と言いかけた。

 

 

「じゃあ修造!次の火曜日にNNテレビに江川と2人で行ってくれよ。ユニフォーム持ってきてくれってさ」

「はいわかりましたぁ」

「あの、、」

江川の元気な声に修造の声はかき消される。

「江川さん凄ーいテレビに出るんですね!家族と一緒に見ますね」

「うん花嶋さん。家族ってお店ごと今度東南商店街に引っ越してくるんでしょ?運良く空き店舗があって良かったね」

「はい、しばらくはバタバタしますが、早くこちらで落ち着きたいです」

 

ーーーー

 

次の火曜日

 

2人はNNテレビに来た。

「久しぶりに来ましたね修造さん」

「えー?うーん」

なんとも気のない返事をして、待っていた四角のところに行く。

「どうも、これ、言われてたパンです」修造は店で作ってきたパンの入った箱を渡した。

「ありがとうございます。シェフ、お疲れ様でした。相変わらずご活躍ですね。楽屋へ案内しますので時間までお待ちください」

2人は6畳の部屋に通された。

台本を渡されてしばらくそれを見ていたが「こんな、人の考えた言葉を言わなくちゃいけないのかよ」と修造は文句を言った。

「そう言うものじゃないですか?」

「そうかなあ」

自分で話すのも億劫なのにさらに覚えるなんてできるのか、、?

こんなもの無視して答えてやろう。そう思って修造は台本を裏返して置き、ゴロンと畳の上に横になった。

そこに女優の桐谷美月が挨拶に来た。

「わあ!桐谷さんだあ。ご無沙汰してまーす」

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」桐谷が嬉しそうにしている江川に笑顔を向けた。

修造も起き上がり「どうも」と言う。

それをじっと見つめていた桐谷は「シェフ、この度はおめでとうございます。またお会いできてとっても嬉しいわ」と手入れの行き届いた細い指の柔らかな手で修造の無骨なゴツゴツした手を上と下から包んだ。

 

 

「ではまた後で」

 

立ち去った桐谷を見送った江川は「桐谷さんに手を握られてましたね!律子さんに言ってやろ」と小学生みたいな事を言ってからかってきた。

「うわー!それだけはやめてくれ」修造はズザーっ!と滑り込んで江川の足を掴んで懇願した。

「じゃあ収録で本気出して下さいね、笑顔を忘れないでくださいよぅ」

「はいはいわかりました」

修造はそのまま顔を伏せて言った。

 

ーーーー

 

修造と江川はユニフォームに着替え、スタッフに連れられてスタジオに入った。

台本は読んでないが江川に言われた通り真面目な気持ちで行くつもりだ

美月は優雅な感じで椅子に座ってディレクターの話を聞いていたがユニフォームに着替えた修造が入ってきた瞬間に釘付けになっていた。

 

 

ウフフ

修造シェフ

やっぱり素敵

世界一の男だわ

 

 

修造達はマイクをつけて言われたところに座った。

収録が始まり、司会のアナウンサー埴原亮介(はにはらりょうすけ)が挨拶した。

 

 

「こんばんは、司会の埴原亮介です。そして女優の桐谷美月さん、パン好き代表の小手川パン粉さん、アクション俳優のジェイソン牧さんです」と修造と江川の座っている前の3人を指した。

「さて、テレビをご覧の皆さんはパンの世界大会があるのをご存知でしょうか」

小手川が「知ってますぅ〜フランスで開催されたんですよね、各国の強豪達がパンでしのぎを削るんです」

すると埴原が「そう、実は今日のお客様はその大会に出られたお二人なんです!パン職人の田所修造さんと江川卓也さんです」と手のひらをさっと2人に向けた。

テレビではそこで世界大会の場面が流れ、修造達の作品が映し出される。

見ている方は「へぇー!パンの世界大会ってのがあるんだねぇ」なんて言ってる人もいるかもしれない。

「田所シェフ、助手の江川さん、優勝おめでとうございます」

「どうも」

お二人はパンロンドって言うパン屋さんで働いてるそうなんですが、そこで練習しながら大会をめざされたんですか?」

自分達はパンロンドの店主とベッカライホルツの大木コーチの所を行き来して大会のパンについて教わりました。本当にありがたかったです。随分と良くして頂きました」

「そうなんですね、その時は江川さんもご一緒に練習に行かれたのですか?」

「はい、僕始めは何も出来なかったけど、コーチと修造さんに教えてもらって選考会でも助手に選んでもらえて大会に出る事が出来ました」

「田所シェフは大会に向けてさぞ努力をされたんでしょうね」と桐谷がコメントした。

「入社当時は右も左もわからなかったんですが、途中からパン作りに夢中になって、ドイツに5年間修行に行きました。そのあとは大会に向けてまた夢中になっちゃって」

「それだけ打ち込んだから今のシェフがあるんですね」

「俺、すぐ意地になっちゃうんです」

それが追い求めることになって結果的にトップを目指すんでしょうね」埴原がまとめた。

次に小手川が江川に聞いた。

「江川さんはどうしてこの業界に入ったんですかあ?」

「僕は修造さんを雑誌で見て、なんだか前から知ってる気がして、気になってパンロンドにきました。そして修造さんに面接して貰ったんです」

そのあと江川は修造のやった段ボールを使って3種類の温度帯を見抜く風変わりな面接の事を面白おかしく話した。

「段ボールを何も知らされずに3分で仕分けるんですね?変わった面接ですねえ」

「はい焦りましたぁ〜。始め何も分からなかったけど持って運んでるうちにあ!これだ!ってわかったんです。最後の10秒なんて大急ぎでしたあ〜」

皆アハハと笑って盛り上がった所で試食タイムに入る。

「これは?なんてキラキラしたパンなんでしょう」

これはチェリーのシロップ煮を使ったバイカラークロワッサンです生地を細長く切り半分に折って真ん中に切り込みを細かく入れていく。それを花のように巻いて先を菊の花弁のようにカットするんです。それとは別に、赤い生地でステンシルを施した小箱を作り花を中に入れて焼く。花弁の先が焦げないように上に途中から厚紙をのせて気をつけて焼いて、焼成後江川がキルシュワッサー使用のシロップを塗ったものです」

「まあ、このパンだけでもそんなに手数が多いんですね。8時間で全て作るなんて凄いわ」と桐谷が感嘆の声をあげた。

 

 

「さて、では3人に食べて貰いましょう」三人の前にパンが並べられた。

「見た事ないわあ。色味が綺麗ですね」

「菊のイメージが強く出ていますね、シェフ」

「はい、自国のイメージを出す為に菊の花びらの形を考えるのに苦労しましたが、なるべく細かくカットする事で実現できました」

「テクニックなんですね」

「パリパリだぁ〜」

「チェリーの風味がしますね。初めて食べたなあ。美味しいです」

「ありがとうございます」

「それともう一種類パンを作ってきて下さいました」修造はみんなに人型の大きめのパンを配った。

「シェフ、これはどの様なパンですか?人の形のパンですね?パイプを持ってますね」ジェイソンが珍しそうに抱えて言った。

 

 

「これってヴェックマンですよね?ドイツ近辺で作られてる冬のパン」とパン好きの小手川が大喜びで言った。

「こちらは自分がドイツにいた時の店で11月頃になると並ぶパンでヴェックマンと言います。Weckenヴェッケンが小麦粉を使った白いパンなんかの事で、Mannはそのまま人とか男とかって意味です」

「どこから食べたら良いか迷いますね」桐谷が困った様に言った。

「人の形だから確かにそうですね、甘めの菓子パンみたいな味なので気軽に食べて貰ったら大丈夫ですよ」

みんな急に現れた人型のパンに盛り上がった。

試食中に埴原が質問した。

「シェフの世界大会での思いと、これからの展望をお聞かせ下さい」

自分はずっと自分のイメージした通りのパン作りをできるようにしてきたし、それを追い求めてきました。自分はパン作りに対してすごく我儘だと思っています。出来るだけ全力を出したい。今回もそれが実現したのは助手である江川のお陰です。微に入り細に入り手助けしてくれました。これからも自分と、自分の周りの人達のために1日1日を大切にパンを作って行きたい」

それを聞いた江川の顔がパッと赤らんで涙が溢れた。

カメラが江川の瞳を大映しにする。

 

 

「僕実家からパンロンドに来て良かったです。あの頃と今の僕とは全然違うぐらいパンの事を教えて貰ったし、僕も大切にパン作りをしていきたいです。修造さんと僕とは何度となく自分で最後の最後に自分のパン作りを見てみたいって言ってきました。これがこれからずっと先の展望だと思っています」

「お二人は肝胆相照らす仲なんですね」

埴原も桐谷も目から涙が溢れた。

「このお二人なら最後まで極めて行って下さると思います」

「さて、シェフは何か得意な事がありますか?」という埴原の問いかけに

得意というのもなんですが小さな頃から高校卒業までずっと空手をやっていました。今は小学校でやってる道場に子供と一緒に通っています」

「そうなんですね、それでは修造シェフに自慢の空手を対決方式で見せて頂きましょう

「えっ?」

「シェフとジェイソンさんこちらへ」

ジェイソン牧が立ち上がって真ん中に立った。えっと驚く修造に「台本に書いてありましたよ?読んでなかったんでしょう!」とこっそり江川が言った。

 

ーーーー

 

その頃パンロンドでは

由梨は藤岡にパンの作り方について説明して貰っていた。

 

 

「パンは粉、水、塩、イーストが有ればできる」

「はい」由梨はメモしながら聞いていた。

「見てて」

藤岡はミキサーのボールに※小麦粉と水とモルトを入れた「モルトは発酵を促したり、生地のうまみを引き出してくれる」

低速でミキサーを5分ほど回して止める。

「こうすると水と小麦粉の中のタンパク質が結びついて※グルテンが形成される」

「グルテン、、」由梨はグルテンとメモに書いてから藤岡の顔を見た。

「そう、これをこうしてしばらく置いておくとだんだん緩んで伸びる様になる。20分置いておこう」

「はい」

「今由梨が見てるのはautolyse自己融解って言うんだよ。autoは自動、lyseは溶解。つまり自分で溶けてくって意味なんだ。小麦粉は水と出逢った瞬間に自己融解を始める」

「オートリーズ、、」

「オートリーズは小麦の持つ自分の酵素で糖を分解させて、そしてグルテンを形成して伸びる様になる、本捏ねの前準備の事なんだ」

「粉と水が出逢ったら(混ぜたら)グルテンができる」

「そう」

「不思議ですね、私、今までそんな事考えた事も無かったです。こうやってパンを作ってるんですね」

「俺なんて子供の頃うどんは『うどん粉』ってのがあって、それで作ってると思ってたよ。中力粉の事だって知らなかったんだ」藤岡はニッコリ笑った。

「ウフフ」

もしハッピーに音がするとしたらそれはどんな音だろう。

由梨からキュンという音が聞こえたらそれかも知れない。

 

 

20分ほど経って藤岡が生地の状態を見せた。

「ほら、生地が緩んだ感じになってるだろ?」

「はい、本当だ」さっき迄粉と水という別々の物だったのに今はちゃんと生地っぽくなり、その先はパンになっていくのが不思議だった。

藤岡は「塩とイーストも忘れずに」と言って低速でミキサーを回した。

 

ーーーー

 

一方NNテレビのスタジオでは

修造とジェイソン牧が並んで立っていた。

修造はユニフォームを脱いだ。

筋を伸ばし、ピョンピョンと飛んで首をコキコキいわせながらジェイソンを観察した。

それにしてもでかいな。体格もいい。流石アクション俳優。まさか戦うとか言わないだろうな。

すると2人の前に木の板を乗せた台が運ばれて来た。

「板割りか、、」

道着の人たちが来て、板を持って立った。

それでは順に割って頂きましょう!1枚目!まずはジェイソン牧さんから」

ジェイソンは突きでパン!といい音をさせて板を割った。そして修造を見た。

え?何今の視線。。と思いながら修造も板を割った。

何のことはない、修造もチラッとジェイソンを見た。なんだよ?向こうも見ている。

次に2人の空手着の男の人達がそれぞれ1枚ずつの板を持って立った。

「さあ連続割、今度は2枚の板を割って頂きましょう、さあどうぞ」

ジェイソンが腕と足で軽く割った。そのままならいいがまた修造を見た。

なんだ?できるのか?って感じか?

訳もないぞ!

修造も正拳突きをして、回し蹴りで板を割る。

「修造シェフ!カッコいいですね、どうですか?まだ出来ますか?」埴原の質問に2人とも当然だと言わんばかりに頷く。

3人の道着の男が少し離れた位置で一枚ずつ持って立った。ジェイソンは動きを大きくして1枚目を突きで、2枚目を蹴りで3枚目は修造より早く回し蹴りで割る。

 

 

修造も負けていられない!持ってる板を高い位置で持つ様に調節して突き、裏回し蹴り、踵落としで割った。

拍手喝采である。横に立って2人ともお互いをバチバチに見ている

「いやお二人共カッコいいですね、まだまだいけそうなので今度は5枚で」なんて埴原が言い出した。

江川はそばに置かれていた水を飲んで、座っている回転椅子をくるっくるっと左右に回しながら、空手対決をしている2人を見て、意地になってなにやってるんだろうと呆れていた。

もうすっかり飽きて、スタジオのセットを観察していた江川が再び修造を見た時は、両足で同時に割って反動でそのままくるっと一回転してシュタっと立ってる所だった。

「もう帰りましょうよ」

江川が小声で呟いた。

 

ーーーー

 

一方パンロンドでは由梨の幸せな時間はまだ続いていた。

「パン作りに大切なのは時間と温度なんだ」

「はい」

「さっきみたいに温度に気をつけて、時間をとってやったらパンは勝手に発酵していく」

捏ね上がった生地をケースに入れて、蓋をした。

「乾燥しない様に気をつけて」

由梨は注意深く作業を見ていた。

わざわざ教えてくれてるんだから忘れないようにしなくちゃ。

他にも生地の種類や種によってやり方が違うからおいおい教えていくよ」

「はい」

おいおいとは順を追って次々に

まだまだこの先があるんだわ。

なんだか毎回宝箱を開ける様な期待が由梨の中に煌めきだした。

 

ーーーー

 

収録後

修造はクタクタになって楽屋へ戻って行った。

「江川さん」

「あ!桐谷さん」

「お疲れ様。とても良い収録だったわね。私感動しちゃったわ」

「僕もです」

「ねぇ、今度何かあったら連絡くれない?」

桐谷は自分の連絡先を書いたメモを江川に渡した。

何かとは修造の収録が再びあった時とか?

「あ!そうだ!今度修造さんがお店を開いたらその時は来て下さいね」

「わかったわ。間近になったら教えてね」

「はい。新人の由梨ちゃんも入ってきたし、藤岡さんにもう少しライ麦パンの作り方を教えたらって修造さんは言ってました。もう間近まで迫っています」

「そうなの。楽しみにしてるわね」

「はい!」

 

「江川さーん」

次に食パンマンじゃなかった。。小手川パン粉が声をかけて来た。

「ねぇ、可愛いねその食パン。僕も被ってみていい?」

「勿論ですぅ〜」小手川は手に持っていた食パンの被り物を渡した」

「ねぇ、どう?似合う?どこで買えるの?これ。ぼくも欲しいなぁ」

 

 

「あ!ひとつあげましょうか?それ、私が作ったんですよ。家にまだあるんです」

「本当?嬉しい。ねぇパン粉ちゃんってパン屋さんをいっぱい巡ってるんでしょう?またうちにも来てよね」

「パンロンドなら何回も行ってますぅ〜記事を書いた事もあるんですよ」

「えっそうなの?また見てみるね。そうだ!今度修造さんがお店を開いたら来てよね。招待するね」

「えー!嬉しい。絶対声をかけて下さいね」

「うん」

 

ーーーー

 

後日

修造は生地をどんどん練って藤岡と杉本にどんどん分割して布をかけてラックに差していった。それが終わったらまた次の生地をという風に生地を渡して、2人は連続で分割して、そのあと順に成形して型の中に入れていった。大型の成形が終わってホイロという発酵の機械の中に入れたら、次は小物パンの分割、成形。

「ねえ、まだあるんですかあ?疲れるなあ」

「杉本、今日は早さに慣れて貰う練習をしてるから。生産性をあげるんだ。はい、これ丸めて真ん中に切り込みを入れて。ブロッチェンの成形が終わったら次は※ブレッツエルの成形だから」修造は量と速さに慣れる為に次々生地を練った。

勿論細かい計算済みで、表を見ながら綿密に仕込んでいく。

「あのな、杉本。今度から2人だけでやらなきゃいけない日もあるんだよ」藤岡に言われて杉本は奇声を上げた。

「ヒェ〜」

お店の方にいて、パンを包装していた風花と由梨に杉本の奇声が聞こえてきた「また馬鹿な声出してるわ」風花はグーを見せて杉本をじろっと睨んだ。

由梨はその様子を見て、風花さんって杉本さんに厳しいけど本当は凄く仲良いのよね、と思っていた。

「あのー、風花さん。。藤岡さんって彼女とかいるんですか?」

「えっ?」実は藤岡は私生活の事は何も話さないし、誰も何も知らない。「えーとお。バレンタインの時はここにくる時に沢山チョコを貰ってたわよ。昼間はお客さんに、帰りも待ち伏せした女子高生とかにね。歩いてるだけでチョコ貰えるなんて良いわね。もう誰が誰のチョコかわからないから龍樹も何個かおこぼれを貰ってたわ。プライドとかないのかしら」風花はちょっとだけ馬鹿にして笑った。

「藤岡さんね、攫(さら)われそうになった事もあったのよ」

えっ攫われる?」

「そう、配達先の人に気に入られてね。無事帰って来れて良かったわ」急に由梨は藤岡とグーンと距離が開いた気がした。

そういえばね、奥さんが藤岡さんは最近引っ越したって言ってたわよ」

その時お客さんがレジに並び出したので風花は店に行ってしまった

由梨はチラッと藤岡を見た。ブリーツェンの成形をしている。正直カッコいい。由梨は小さなため息をついた。

 

ーーーー

 

仕事終わり。

風花と杉本は一緒に帰っていた。

「ねぇ、藤岡さんって引っ越したんでしょう?奥さんに聞いたら1人暮らしって言ってたわ」

「そうなの?知らなかった」

毎日一緒に仕事してるのになんでよ」

だって向こうも何も言わないし、誰も何も聞かないし」

プライベートに首を突っ込まないって事なのかしら?」

そうかなー」

「あっ!あれ見て!」急に風花は小声で杉本に言った。本屋から出てきた藤岡が前を歩いている。

「ねえ、ついて行きましょうよ」

「え?なんで探偵ごっこ?」

だって声をかけてもはぐらかされるかもしれないじゃない」

そうかな〜」

 

 

2人は角を曲がって3丁目の方へ行く藤岡にこっそりついて行った

 

5回程角を曲がった時「あっ」藤岡は高級そうなマンションに入って行った。

公園と役所のある広い通りに面したエントランスはエレベーターホールまで距離があり、豪華で広い。警備員室もある。

「タ、タワマン」杉本も口をあんぐり開けて上を向き、何階建てか数え出した。だが下から見上げて数えると、何回数えても途中で何階まで数えたかわからなくなる。

「どの階なのかしら?」

「わかんない」

マンションの名前は東南エクスペリエンスグランデ「名前もいかついな」

 

次の日

杉本は一緒に組んで仕事してる藤岡の顔をじーっと見た。

なんだよ杉本」

「藤岡さんってお金持ちなんですね。タワマンに住んでるんでしょ?」

「え!なんで知ってんの?」

だって昨日歩いてたじゃないですかぁ」

「歩いてた、、なんだそれ。この事はここの奥さんしか知らないんだ。警備の厳しそうなところに引っ越したんだ。誰にも言うなよ」

それは無理です!」

「なんで」

「風花も一緒だったしぃ。由梨ちゃんにも言ってると思うしぃ」

藤岡は風花と由梨に向かって人差し指を口に当てて「しぃ〜」と言うジェスチャーをした。

それを見た風花もしーっというジェスチャーをして見せた。

「やっぱり攫われそうになったから警戒してるのね。イケメンって大変ね」

「はい、大変そうです」

 

夕方

 

早番だった職人達が帰った後、由梨と藤岡は工場の掃除をしていた。親方は店側の台の上で明日の仕込みの計算をしていた。

「あの」

工場の奥の機械を拭きながら由梨は藤岡に話しかけた。「何?由梨」

藤岡さんはあの時どうしてベッカライウンタービルクに来ていたんですか?」

藤岡が由梨に出会ったのは由梨の実家の着物屋花装の近くのパン屋に立ち寄った帰り道だったが、そこから東南駅は随分離れている。

「由梨、俺は誰かの答えて欲しいように答えたり、理想の答えを探して言う様にいつもしてしまうんだ。人によっては俺の事を出来過ぎくんと揶揄する者もいる」

「え?」どう言う意味なのかしら。由梨は注意深く聞いていた。

その時親方が振り向いて「もう時間だから片付けて帰りなよ」と声をかけた。

「わかりました親方」

藤岡はしばらく考えて「ま、後で移動して話そうか」と言った。

 

その後

2人は駅前のオムライスの美味しい店に来ていた。

茶色が基調の店内のテーブルには赤と白のチェックのテーブルクロスが敷かれていて、小瓶に花が一輪さしてある。

シンプルでタマゴはパリッとしたタイプで、赤いソースのかかったオムライスの端をスプーンで掬いながら藤岡が言った。

「美味いんだよここのオムライス」

「本当、美味しいです」

バターの香りが一口毎にふわっと立ち込める。

途中まで食べかけて、藤岡は話しだした。

「今こう言うべきだという場面で理想の答えを言っちまうんだ。でも言っちゃいけない時もあったんだなと後悔する事もある」

急に始まったさっきの話の続きを聞きながら、藤岡の顔をじっと見ていた。

「高校を出てすぐ調理師学校に入ったんだ。その後レストランに就職した。6人ぐらい従業員がいて、3つ歳上の人について仕事を教えて貰った」

「はい」

と言いながらその先輩が女性なのかどうか気になる。

 

 

「優しくてしっかり者でね、なんでも教えて貰っていて、俺も持ち前の当たり障りのない受け答えで上手くやっていたんだ」

由梨は目を見てうんうんとうなづいた。丁度今の由梨より少し年上の頃の藤岡の話だ。

飲食は離職率の多い業界だから同僚もちょこちょこ変わって安定感は無かった。その日その日仕事をこなすのに精一杯でね。あの頃と比べるとパンロンドの親方や修造さん、他の先輩達は仕事もできるし頼りになるよ。でもそのレストランはそんな環境じゃなくてね」

「大変だったんですね。頼れるのはその先輩だけだったんですか?

「そう」

藤岡は言葉を詰まらせた。

「そうなんだ、お互いに力を合わせて必死で、でもある日その人は心が折れてしまったんだ」

 

『藤岡君、私転職するの。パン屋さんで職人を探してるところがあるから』

 

そう言われて

その場で怒ってもよかった。

俺はどうなるんですか

あなたがいないなんて

相談も無しに勝手に他所に行くんですか。

そう言えば良かった。

でも俺の口から出たのは

元気で

頑張って下さい

活躍を祈っています。

そんなどうでもいい

当たり障りのない言葉だった

あの人は俺に

ごめんね

と言っていた。

心の疲れたあの人に

行かないで下さい

と言えば良かったのかどうか

パン職人になると言って誰にも行き先を告げずに辞めてしまった。その後あちこちのパン屋を探して回った。その時始めたんだ。動画を撮ってそれをアップするのを。お陰で登録者数も増えて広告のお陰で良いところに住めるようになったよ」

自虐的に笑う藤岡の話をただ黙って聞くことしかできない。

「俺、初めて人に言ったよこの事を。なんだかずっと辛かったけど、気が楽になったかも」

藤岡さんも初めて会った時私の話を聞いてくれた。そして一緒に解決して貰ったわ。できれば私も手助けしたい。

「あの時俺が言ったんだったね。話せば楽になれるんじゃない?って」

時間がゆっくり溶かしてくれる事もある。

こういうのを自己融解って言うのかな。

そう思いながら残りのオムライスを黙って食べた。

「ほら、由梨」藤岡はほっぺをトントンと指さした。

由梨はほっぺに少しトマトソースがついていた。

「あ」

顔を赤らめて由梨はソースを拭き取ったのを見て藤岡はニッコリ笑った。

食後コーヒーを飲みながら、黙っていた由梨が「あの、私藤岡さんと出会ったのはとても意味があるんじゃないかと思って、、私達縁があると思ったんです。それで電車まで追いかけて走って来ました」

「あの時」

「はい」

俺はちゃんと気がついている。

何故由梨が追いかけて来たのかを。

ただこういうのって人の言って欲しい事を言うわけにいかない場合もあるんだって今はちゃんとわかってる。

 

 

藤岡はマンションに帰って薄暗い部屋で1人考えていた。

まだ消化しきれてないんだ。

ずっと胃もたれを起こしてて

俺にはもう少し時間が必要なんだ。

 

ーーーー

 

次の日の夕方頃

お店はいつも以上に大忙しだった。

修造達は特訓の為に大量にパンを作ったがそれももう無くなりそうだった。

由梨は江川にあまり生地で丸めの説明をして貰っていた。「ほら、こうして手を猫さんの形にしてね。クルクルって丸めてね」

 

 

 

それを聞いていた藤岡が「幼稚園児か」と突っ込んでいた。

「だってわかりやすいと思って」テヘヘと笑いながら江川がそれに返事していた。

「そうだ由梨ちゃん、昨日僕達の映ってたテレビ見た?9時からやってたでしょ?」

「はい、見ました。途中すごく感動する所がありましたね。司会の人とかみんな泣いてて、私も泣いちゃいました」

「あの後ね、空手の板割りってのがあったんだけどね、全部カットになっててね」江川は2人共あんなに真剣にやってたのにと思うと笑いが込み上げた。

「それで最後の方ユニフォームも脱いでたんですね」

「そうそう、ウフフ」

それを遠くで聞きながら修造は「あんなにムキになってて恥ずかしいよ。カットになって良かった。だいたいパンと関係ないんだし」

「見たかったですよ。修造さんの蹴りや突きを」と藤岡に言われて修造は顔を赤らめながら言った「さ!台を片付けて、みんなでヴェックマンを作るよ。そのあとシュトレンとヘクセンハウスな!」

「はーい」

去年は親方と2人でつくったヘクセンハウスだったが、今年はみんなで作れるようにしていた。パーツを作って組み立てるお菓子の家だ。

パンロンドでの楽しいひと時も後わずか。

 

おわり

 

※オートリーズの時にイーストと塩を入れる店もあれば、塩は後で入れる(後塩法)店もある。

※グルテン パンに粘り気と弾力を与える。アミノ酸からなるタンパク質。水と小麦が出会ってグリアジンとグルテニンが結びついてパンができる。不思議。今回この結びつきと恋をかけてみました。

※ Brezelnブリーツェン=プレッツェルの事。腕を組んだ様な形をしていて、塩味、バター味、チーズ味など愛されドイツパンの事。ラヴゲン液をかけて焼くので独特の食感になる。めちゃうま。

※ヴェックマン Weckmann 地域によって呼び方も形も様々。11月中旬からクリスマスまで見かける。

 

 

桐谷美月との出会いはこちら 進め!パン王座決定戦!

https://note.com/gloire/n/n394ace24aa33 

 

江川君のはじめての面接はこちら 初めての面接

https://note.com/gloire/n/n313e7bee5f33?magazine_key=m0eff88870636

 

由梨と藤岡の出会いはこちら Emergence of butterfly

http://www.gloire.biz/all/5498


2022年11月05日(土)

パンの小説の一覧を作りました。

 

パンの小説の一覧を作りました。

 

ブログの表示が5つのお話までしか掲示されないので一覧をこちらに作りました。

よろしければ下にある一覧から好きな話を探して見てくださいね。

このお話はフイクションです。

江川と修造シリーズは修造が修行先のドイツから帰ってきて江川をパンロンドで面接したところから始まります。
引きこもりで不登校だった江川は修造の弟子っこになり、やがて世界大会の助手を経てナイスなパン職人になっていきます。

イラスト付きでわかりやすく、電車の中ですぐ読める感じになっていますのでぜひお楽しみ下さい。
どんどん更新していくのでたまに覗いて見てくださいね。

note始めました。3部の途中の江川君がパンロンドに面接に来た所から始まります。少しずつ読みたい方はこちら

パン職人の修造 noteマガジン1話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/m0eff88870636

パン職人の修造 noteマガジン56話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/m7dbc331f59d6

パン職人の修造 noteマガジン101話〜 江川と修造シリーズ 

https://note.com/gloire/m/mc296482c0c46

お話の最後にあるハートマークを押して頂くと励みになります。

 

イラストだけ見る方はこちら

https://www.instagram.com/panyanosyousetu/

 

 

このブログでの新作↓

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ リーベンアンドブロートができるまではこちら

http://www.gloire.biz/all/5664

開店準備は楽じゃない修造、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ some futureはこちら

http://www.gloire.biz/all/5619

独立の準備を始めた修造は、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   dough is alive

テレビに出た修造と江川でしたが、、、

http://gloire.biz/all/5565

 

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

Emergence of butterfly はこちら

http://www.gloire.biz/all/5498

休日にパン屋めぐりをしていた藤岡君が出会った由梨は、、、

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

Awards ceremonyはこちら 

http://www.gloire.biz/all/5465

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

stairway to gloryはこちら

http://www.gloire.biz/all/5403

世界大会に出場する江川と修造は、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

surprise giftはこちら

http://www.gloire.biz/all/5330

フランスに到着。江川が思いがげず受け取った贈り物とは、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

江川 Preparation for departureはこちら

http://www.gloire.biz/all/5273

とうとうフランスに旅立つ時が来た!
準備に忙しい江川と修造の前にやり手の営業マンが現れた。。

 

 

パンの職人の修造 江川と修造シリーズ

Annoying People はこちら

http://www.gloire.biz/all/5211

修造!藤岡君がおこってるよ?

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

One after another 江川はこちら

gloire.biz/all/5158

新たに練習を始める江川だったが、、

 

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 

A fulfilling day 修造はこちら

gloire.biz/all/5105

大地が生まれた!毎日ハッピーな修造

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 後編はこちら

http://www.gloire.biz/all/5034

杉本に試験を受けさせようとする風花だったが、、、

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Genius杉本 リングナンバー7 前編はこちら

http://www.gloire.biz/all/5018

いつもぼーっとしているタイプの杉本の特技を発見したパンロンドの職人達は

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ バゲットジャンキーはこちら

http://www.gloire.biz/all/4967

あのメモを渡してきた男の正体は?

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ broken knittingはこちら

http://www.gloire.biz/all/4872

とうとう若手コンテストに挑んだ江川と鷲羽でしたが、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Mountain Viewはこちら

http://www.gloire.biz/all/4845

江川と修造は2人で荷物を積んで選考会に出発しました。

そこには、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ honeycomb structureはこちら

http://www.gloire.biz/all/4802

ホルツにてとうとう飾りパンの練習が始まりましたが、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Prepared for the roseはこちら
http://www.gloire.biz/all/4774

鷲羽はパンロンドに勉強の為に行きます。そこでつい、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ   イーグルフェザーはこちら

http://www.gloire.biz/all/4720

鷲羽と江川はベークウエルのヘルプに行きますがそこでは、、、

 

パンロンドの職人さんのバレンタイン Happy Valentineはこちら

http://www.gloire.biz/all/4753

パンロンドの職人さん達のバレンタインはどんなのでしょうか?

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ スケアリーキングはこちら

http://www.gloire.biz/all/4675

いつも自信満々な修造が唯一怖いもの、それは、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Sourdough Scoring 江川はこちら

http://www.gloire.biz/all/4634

選考会への修業を重ねる江川と修造。江川にまたしても試練が訪れる。

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ ジャストクリスマスはこちら

http://www.gloire.biz/all/4588

クリスマスはパンロンドに優しい風を吹かせました。

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ お父さんはパン職人 はこちら

http://www.gloire.biz/all/4548

修造と緑はとっても仲良し。だけど近所の人はお父さんの事を、、、

 

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ  六本の紐  braided practice 江川はこちら

http://www.gloire.biz/all/4477

修造と一緒にホルツで修業を始めた江川を待ち受けていた者とは、、、

 

 

江川と修造シリーズ フォーチュンクッキーラブ 杉本Heart thiefはこちら

gloire.biz/all/4415

やっと職場に慣れてきた杉本。一緒に仕事している店員の風花に危険が迫る!その時杉本は、、、

 

 

江川と修造シリーズ 背の高い挑戦者 江川 Flapping to the futureはこちら

gloire.biz/all/4365

修造と江川の務めるパン屋パンロンドにNNテレビがやって来た!

みんな頑張って!その時修造は、、、

 

 

ハートフル短編小説 アルバイトの咲希ちゃんはこちら

gloire.biz/all/3705

東南駅と学校の間にあるパン屋のパンロンドでアルバイトをはじめた高校2年の咲希ちゃんでしたが、、、

 

 

江川と修造シリーズ催事だよ!全員集合!江川Small progressはこちら

gloire.biz/all/4249

このお話は進め!パン王座決定戦!の続きです。催事を通じて少しずつ成長する若手の職人達のお話です。パンロンドにイケメンの仲間がやってきましたが実は、、、

 

 

江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!後編はこちら

gloire.biz/all/4129

パン王座決定戦!前編の続きです。 修造はNNテレビのパン王座決定戦で強敵のシェフと戦う事になりましたが。。

 

 

江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!前編はこちら

gloire.biz/all/4009

新人の杉本君の続きのお話です。親方が修造をパン王座決定戦に出てくれと言ってきました。その時修造は、、

 

 

江川と修造シリーズ 新人の杉本君Baker’s fightはこちら

gloire.biz/all/4056

江川To be smartの続きのお話です。パンロンドに新人の杉本君が入ってきましたが、、、

 

 

江川と修造シリーズ 江川To be smart はこちら

gloire.biz/all/3940

江川が15年前パンロンドの面接で修造と出会った時のお話です。

修造は一風変わった面接をします。。

 

 

製パンアンドロイドのリューべm3はこちら

gloire.biz/all/3877

30年後の未来、アンドロイドはとうとうパンも作ってくれる様になりました。
利佳はアンドロイドと仕事をする決心をします、その理由とは。

 

 

パン職人の修造第1部 青春編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3032

パンロンドに就職した空手少年の修造は運命の人に出逢います。そして、、

 

 

パン職人の修造第2部 ドイツ編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3063

修造はパンの技術を得るためにドイツに向かいますが、、、

 

 

パン職人の修造第3部 世界大会編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3065

江川と出会った修造は2人で世界大会を目指します。

 

 

パン職人の修造第4部 山の上のパン屋編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3073

律子と2人で念願のパン屋を開きますが、、

 

 

パン職人の修造第5部 コーチ編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3088

江川の為に世界大会のコーチを引き受けますが、、

 

 

パン職人の修造第6部 再び世界大会編前半はこちら

http://www.gloire.biz/all/3100

世界大会の為にコーチとして江川や緑と色々と作戦を練りますが、、

 

 

サイドストーリー江川と修造シリーズ ペンショングロゼイユはこちら

http://www.gloire.biz/all/3748

世界大会前編の始めに東北のお祭りに行った後のサイドストーリーです。

世界大会のアイデアを練る為に江川と東北に行った帰り道、泊まったペンションで修造が会った夫婦は、、、

こちら

 

パン職人の修造第6部 再び世界大会編後編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3596

世界大会が終わった後修造は、、

この後もまだまだお話は続きます。

このお話を書いたきっかけ。

昔々グロワールの近所にパンマイスターのお店があって、うちの先代が「マイスターのお店があるから行ってみ。」と言いました。
私はその時はマイスターって聞いたことあるけど何なのか知りませんでした。

お店に入るとご夫婦がお二人で経営されていて、ショーケースがありました。
当時(今も)無知だった私はどれがドイツパンかもわかりませんでしたが、記憶では日本の菓子パンもあった様に思います。

入り口の横に燦然と輝くマイスターの証が飾ってありました。
今はもうぼやけた思い出ですが、今にして思えばなんて勿体無い事をしたのでしょう。
もっと行っとけば良かった!
お店はいつのまにか無くなっていました。

推測ですが戦時中にドイツに渡り紆余曲折あってマイスターの資格を取り日本に戻ってこられたのではないかと。
そして日本にドイツのパンを広めるはずだったのに、当時はやはり菓子パンや食パンが主流で、しかも「白くてフワフワ」というワードがもっとも信頼されていた頃です。

推測ですが、色々悩まれたのではないかと思っています。
あぁ〜今やったらパン好きの人達に紹介して記事を書いて貰うのに。
そしてそれを読ませて貰うのに!

当時はSNSも無かったし、私も価値が分からずにいたと思うと口惜しいです

????

そんな気持ちがくすぶっていてマイスターについて色々調べ、今では価値のある存在って十分わかっております。

修行は長く、様々なお辛い事、そして楽しいこともあったと思います。

パン職人の修造第2部ドイツ編にはそんな思いが込められています。

世界大会については、審査、選考会、世界大会の順に勝ち進んでいくのですが、調べていくにつれ、色んな選手の方が色々な事を調べて作ってらっしゃるのがよくわかります。
時間内にタルティーヌやクロワッサン、バゲット、スペシャリテ、芸術作品などをを作らなければいけません。
とても技術を要し、過酷なものと推測します。

大会で修造が作ったパンは調べあげた末、誰とも被らないようなものを作ったつもりですがもしもモチーフが被った場合はご容赦下さい。
その他の一般でも販売可能なパンに関してはこんなに沢山の種類やパンがあるんだとわかって貰えるようになるべく色んなパンを紹介することもあるかもしれません。

世界大会には選手と助手(コミ)の2人が出ます。
そして会場ではブースの外からコーチが色々指導したりします。
素晴らしいコーチと助手と選手の熱い思いが燦然と輝くのです。

今後も修造の話は続きます。

応援お願いします。

ここに出てくるお話はフィクションです。

実在する人物、団体とは一切関係ありません。

パンと愛の小説

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2022年11月03日(木)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Emergence of butterfly

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Emergence of butterfly 

 

東南駅の西にある東南商店街で一際賑わうパン屋のパンロンドでは、親方、藤岡、杉本が『修造と江川の世界大会一位おめでとうパーティー』を計画していた。

 

 

「ここでやりますか?」「座れるとこがいいかな」「近くの店でいいところある?」「いつもの居酒屋は?」「パーティーと言うより飲み会だな」などなど

社長の柚木(通称親方)は早速駅近の宴会場がある居酒屋に電話して予約していた。

「よし!明日は江川と修造が来るし、仕事が終わったらそのまま直行だ」

それを聞いてパン職人の藤岡恭介は「俺明日休みなんでそこに直接行って良いですか?」と聞いてきた。

「勿論いいよ、じゃあその時間に待ってるからな」

「はい」

それを聞いていた後輩の杉本龍樹は質問した。

「ねぇ、藤岡さん」

「なんだよ杉本」

「いつも休日は何やってんですかあ?」

「パン屋さん巡りかな?パン屋の数は凄い多いから中々巡り切れるもんじゃない」

「新しい店もどんどん増えてますもんね」

「そう」

「お土産買ってきて下さいね」

「厚かましいなお前」

 

ーーーー

 

次の日、藤岡は朝9時頃パン屋巡りに出かけた。

行ったことのないエリアを攻めようと東南駅から快速列車に乗り、途中乗り換えて普通電車で40分程の比較的田舎の長閑な駅に降り立った。

駅からパン屋までの動画を歩きながら撮って店の前まで来たらちょっとパン屋の外観について説明。店内の動画は撮らず買ったパンを近くの公園で紹介する。

それを帰ってぼちぼち編集してアップする。

それが藤岡の休日の過ごし方だった。

「ちょっと買いすぎちゃったな。あまったから杉本にやろう」1そう言ってパンをバックパックの上の方に入れた、

動画を撮り終えて公園から出る。

しばらく歩くと大きめの川が流れていて、橋を渡って右に曲がると駅だ。

「おや」

 

 

藤岡は橋の真ん中で髙欄に手を掛け、じっと立って川を眺めている女の子を見つけた

女の子と言っても高校生か大学生かと言った感じ。

あの感じは飛び込む感じなのかなあ。

藤岡は川の水量を見た。

結構深そうだしまあまあな流れがある。

おいおい。

手すりに手をかけるな。

覗くな川を。

そう思って歩いていると、とうとう女の子の後ろに来てしまったので「あのさ」と声をかけた。

「ひょっとしてだけど飛び込む気?川は冷たいし溺れたら苦しいよ?息ができないんだからさ」

その女子はギクッとして手摺から手を離し、泣き腫らした顔をこちらに向けた。

このまま自分が立ち去ったせいで、気を取り直してもう一度川を覗かれたら困るな。

「ま、どこかで落ち着いて話そうか」と言って一緒に橋を渡りきろうとする。

失恋でもしたのか、2人で歩いてるところを誰かが見たら自分が泣かせたと思うのか。そんな事が頭に浮かんだ。

とりあえずどこか落ち着けるところを探さないとだけど俺土地勘ないしなあ。

「カフェでも入る?」と言ったら、女の子は急に立ち止まりまた泣き出した。

え?カフェが地雷?

仕方ない。

藤岡はこのまま見知らぬ人物の人生相談をするかどうか迷った。

「君高校生?家族とか親身になって相談できる人はいないの ?

「お父さんやお母さんに言ったら心配かけるから」

「そんなに深刻な事なの?俺さあこの町の人間じゃないから言いやすいかも。言ったら楽になるんじゃない?」

失恋の痛手も時間が経てば忘れるのかなと思いながら藤岡は川からはちょっと離れた土手の方に誘導して眺めの良い斜面に座るように促した。

 

 

「俺は東南駅にあるパンロンドって店のパン職人藤岡恭介。君は?」

「私は、、、花嶋由梨と言います。高校を4月に卒業してカフェで働いていたんです。でも今日辞めてきました」

「なんだろう?労務問題?」職場のいじめか何かと思い藤岡は聞いた。

「私には小さな頃から黒い噂が付き纏っていて、この町にそれが蔓延した事があるんです」

「噂?どんな?」

「私の実家は花装(はなそう)と言う着物屋なんです。父と母が着物関係の物を販売しています。近所にある福咏(ふくえい)と言う着物屋がうちを目の敵にしていて。小さい頃からその店の前を通るといつも罵声みたいな言葉が聞こえてくるんです」

「うん」

てっきり恋愛のもつれかと思ったら全然違うのかと思い藤岡はじっと聞いていた。

「罵声の内容は泥棒とかこの道を歩くなとかでした」

「えっ ? その店の人間が君に向かって?」

「私その道が嫌で他の道から通るようになって、そしたら私が通る所の人達に何か噂をしていて、こちらを見て何か言ってるか聞き耳を立てたらやはり手癖が悪いとか泥棒って言ってたんです」

「え?何それ。失礼だけど別に泥棒じゃないんでしょう?」

「私そんな人間じゃありません」と言ってまた泣き出してしまった。

「ごめん、今の質問は悪かったね。謝るよ」

「通りすがりの人に何度も同じ話を執拗にし続けていたので、段々みんなが私の事をそんな目で見るようになりました。子供だった私にはそんな大人達をどうする事も出来なくて。それに何もしてないって言っても誰も信じてくれないわ」

 

 

「実際の被害者がいないのにそんな噂が広まるなんて酷いね。お父さんやお母さんはなんて言ってたの」

「父と母は何も知りません。福咏以外は直接私に行って来る人はいません。噂や陰口なので両親には中々伝わらないし、私、そんな事で両親に心配かけたくない」

まだ小さい頃から大人の嫌がらせを受けてたなんて気の毒な。それに噂って一度立ってしまうと中々消せないな。

「その福咏の人ってどんな奴なの?」

「その人は福咏という着物屋の店主です。元々は父と同じ職場で働いていたらしくて、父が店を開くとその人もうちに来て働いていたらしいんです」

「ふーん」

なのに独立してうちの近くに開店したそうなんです」

「なんでかな ? 商圏がかぶると自分も損するのに。仲が悪かったの?」

それは分かりません」

藤岡は、この子は両親との意思の疎通が上手くいってないんだなと思って何かアドバイスをしようと考えた。「あのさ、嫌な目にあってんのに両親に言えないのは思いやりなんだろ?だけど自分がもし死んだらどのぐらい親が悲しむか考えた事ある?

「それは、、私自分が悲しすぎてその事について考えてませんでした。福咏が噂を流してる所は私が見ただけでも色んな通行人に言っていて、一体誰がその噂を信じていてどのぐらい広まってるのかを考えると怖くて」

「子供の頃からずっと続く嫌がらせなんて卑怯だな。実際に嫌な思いした事あるの?

「この町のどの店に行ってもすごく見張られる様になりました。何もしてないのに」

「何か盗まれると思ってるって事?確証もないのに疑うなんて酷いよね。その福咏って言う着物屋卑劣な奴だな」

噂なんて払拭できないのかな。不特定多数過ぎて太刀打ちできないのか。

それでカフェはどうしたの?」

カフェで働く私を見て噂を知ってたお客さんの何人かが軽蔑の眼差しで見てきました。そのあと店長に何か言ってたんです。福咏が流した噂が4人のお客さんの会話の中で繋がってやっぱり私はよくない存在だって、もうその噂は真実として店長に伝えられたんです」

 

 

「ネタ元は福咏だろ?」

「はい」

「で、店長はなんて?」

「はい、『そのお客さん達は皆それぞれ君の噂を知っていて、カフェで1人が私の噂話をした時、他の人達も私も知ってる私も知ってると繋がって、その人達の中で確固たる真実の様に決定した、みたいに言われたよ。君何を盗んでそんなに噂になってるの?捕まった事あるの?』って言われたんです。自分は何もしていないって言いましたが、『じゃあなんでみんながその事を知ってるの?』って聞いてきました。それでもうここにはいられないって思って辞めますと言いました」

「それでさっき橋のところに立ってたんだね?」

「はい」

「ネタ元が一緒ならちょっと考えりゃ分りそうな事なのに。バカだなそいつら。きっと人を追い込むのが楽しいんだろうよ」

ここら辺は結構古くからある住宅街みたいで、地域の密着もありそうだからこんなつまらない嘘も染み付いて行くんだろう。みんな暇なのか?snsの書き込みならともかくなんてアナログなんだ!

藤岡はそう思うと段々腹が立ってきた。由梨に纏いつく呪いが見えたような気がした。

「あのさ、この町にいるから辛いんじゃない?俺ならここを離れて心機一転、新しい生活や人間関係の中で生きていくけどな」

「私、父と母が大好きで、一緒に暮らしてたかったけど藤岡さんの言う通りだわ。でも私がいなくなったら残された父と母はどうなるんだろう」

「由梨がこの世からいなくなるのと引っ越しとは違うでしょ。何か他の土地に行くと不都合な事があるの?」

今度はうちの家族が福咏にターゲットにされるんじゃないかと心配で。着物離れが進んでいく中でおかしな噂のせいで売り上げが落ちたら気の毒です」

 

「噂の元を断とう」

「えっ?」

「どんな風に嫌がらせして来るのか実際確かめよう」

「そんな事ができるんですか?

「やってみなきゃわからないけど」

 

ーーーー

 

由梨の生家が営んでいる着物屋『花装』は質素な店構えで、古びた店が何軒かある元商店街の様な所にある。過去には賑わっていたのかもしれないが今は閉店した建物が多い。そしてその筋から15メートルほど離れた向かいの筋に『福咏』がある。

福咏の店は派手な店構えで、手前にキラキラしたリーズナブルな帯がぶら下げられている。

藤岡は由梨と2人でその店の前に来た。

そして「店の前をゆっくり歩いて」と由梨に指示した。

由梨は言われた通りにその前をゆっくり歩いてみた、

すると暇なのか椅子に座って外をぼーっと眺めている福咏が由梨に気がついた。

店内に客はいないからなのか店の中から「おい、どうしたトボトボ歩いて、何か盗んできたのか?」と言ってきた。

由梨はそれを聞いて足速に立ち去った。藤岡はゆっくりその後を歩いていた。

本当に言ってた!しかも結構はっきりと、藤岡は驚いた。

「何故あんな事言わせとくの?」

「だって怖くて」由梨は下を向いて言った。

「あれって言葉の暴力じゃん。黙って殴らせておくなんて良くないよ」

確かに由梨は大人しそうで自主性に乏しく受け身そうに見える。憂さ晴らしに虐める相手にはもってこいだ。何年も続けているうちに確証なき噂が定着したんだ。噂と噂は繋がった時に真実として語られる。それをまた言いふらされるんだ。

「こりゃ良くないな」

由梨には悪いが、藤岡はもう一度ゆっくり福咏の前を歩かせた。

すると福咏はまた由梨を見つけて店内から声を張り上げた。

「なんだ?また何か万引きに行くのか?泥棒めが」と言ってきた。

藤岡は不思議だった。

色々な噂の種類があるだろうに何故泥棒にしたのか?

 

2人でさっき座ってた川縁に戻りながら考えた。

 

証拠があまりなくて、商店が被害にあいやすく、犯人が探しづらく噂になりやすい、そして不特定多数の万引き犯を皆恨んでいる。ターゲットが明確だと余計に噂になる。

「だからか、、」

兎に角元を断ち切らないといけない。由梨が逆らわないからと言ってこのままでは辛くなってまた川に飛び込もうとするだろう。

「由梨、逃げるのは良くないじゃん。立ち向かおう!反撃するんだ」

その瞬間まで由梨は自分の人生がつまらないものだと思っていた。生きていても良いことはなく、いなくなったらその噂がひとつ消えるだけの事だと。それをこんな風に言ってくれる人がいるなんて夢にも思っていなかった。

「立ち向かう、、、」

「そう、俺もそれに付き合うよ」

 

さっきの川縁に戻って座る。

藤岡はパン屋で買ってリュックの上にフワッと入れて置いたパンを出した。

「良かった、潰れてないよ」と言ってパンを半分に割って渡した。

「腹ごしらえしとこう。元気が出るよ」

「ありがとうございます。これ、ベッカライウンタービルクのですよね?母がよく買って来ています」

由梨は半分に割ったヘルンヒェンを美味しそうに食べた。

昼前は落ち込んでいたけど、美味しいパンは人を幸せにするな。表情も少し明るくなってるし。と、藤岡は由梨を観察していた。

「何故藤岡さんはこの町に来たんですか?パン屋さんに来るため?

「そう、色んなパン屋さんを巡って動画に撮ってネットに上げてるんだ。ここに来たのはたまたまだよ」

藤岡は偶然だと思っていたが、由梨にはこうして一緒にパンを食べている藤岡との出会いが運命の様に思えた。

藤岡はもう一つパンを取り出した。

「これ、豚の耳って意味のパンなんだけど俺の店にもあるよ」藤岡はハート型のパイ※Schweinsohrシュヴァンスオアー)を出して二つに割って、由梨に渡した。

「俺の働いてる店にはドイツで修行してきた先輩がいて、俺も今その人にパンを教えて貰ってるんだ。ドイツでは豚は新年に幸福を運んでくれるって言われていてクリスマスが終わると豚のグッズを見かけるようになるらしいよ。それが幸運の豚 Gluecksschweinグリュックスシュバイン)』って言うんだってさ」

「幸運の」と言って由梨は藤岡を見た。

 

 

藤岡を幸運の豚と言うのは当てはまらないが、今自分は充分に元気を貰っている。

今日の昼前は暗い気持ちで川の水面を見つめていたのに、今はどうだろう。

由梨の中に何か熱い気持ちが芽生えていた。

「パンって良いですね、人の気持ちを明るくしてくれるのかも。藤岡さんの勤めてるパンロンドはどんなお店なんですか?

「東南駅の商店街にある明るいパン屋だよ。そこには優しくてでかい店主がいて、面白い後輩や、いつもパンに熱い先輩がいてるんだ。俺はそこがすごく気に入ってる」

そんな藤岡の表情は光り輝いてる様に見えで、由梨はその顔をじっと見つめていた。

「じゃ、打ち合わせをするか」

「はい」

 

ーーーー

 

日中を過ぎた頃の商店街

夕飯の食材を求める買い物客がそろそろ増えて来る時間。

藤岡は福咏に入った。

「男物の足袋を見たいんですがサイズを見て貰えますか?」

すると福咏は店の奥に向かって「おい、足袋を出して」と言った。「はーい」店の奥の暖簾の間から女性が出てきてレジの後ろの棚から足袋をいくつか出してきた

「足のサイズは何センチですか?

28です」

「それならこれなんて如何ですか?」

「どれがいいかな」藤岡はゆっくりと足袋を見ていた。

「これにします」と言って足袋を一つ選んで買いながら

「あなたはここの奥さん?」と聞いた。

「はい、そうですよ」

そこに由梨が入ってきた。

 

 

福咏は入り口近くの和柄のガーゼタオルを補充していたが、由梨が入ってきたのを見て心底驚いていた。福咏は慌てて客前にも関わらず

「おや、珍しいやつが来たぞ」と奥さんに言った。

そして由梨に向かって語気を強くした。まるで追い払いたいかの様だった。

「何しに来たんだ。うちに何か盗みに来たのか」

「私は泥棒でも万引き犯でもありません」

「そんな証拠どこにある!お前が怪しいのはみんなが知ってるぞ」

「それは福咏さんが言いふらしたからでしょう!私が泥棒って言うんなら証拠を見せて下さい」

「この町の有名な噂だからな!誰でも知ってる事だろ」

「今日カフェの店長に言われました。みんなが知ってるって、それは福咏さんが流した嘘が繋がったんじゃないですか!」震える声でそう言いながら自分にこんなはっきり言う力があったのかと驚いていた。それは他ならぬ藤岡の後押しによるものだと由梨は自覚していた。

福咏は青筋が立ってきた、今迄と違う態度に困っている様に見えた。「うるさい!泥棒!泥棒!お前は泥棒だ!親はどんな躾をしてるんだ!花装は終わってる!もっと言いふらしてやる。あの店はもう終わりだな」

無茶苦茶なやり取りに藤岡は呆れた。よくこんな奴が商売をしていて成り立ってるな。

「いや、なり立ってないよね。この店こそ終わりだよ」と福咏に向かって言った。

「なに!あんたなんなんだ」

「俺はこの店の客で、ただの第三者だよ。この店で買った足袋を撮ったら偶然あんたが映り込んでいたんだ」

「それがどうした」

「証拠もないのにこの人を侮辱した。ありもしない噂を広めて店の評判を落とした。名誉毀損、侮辱罪、信用毀損罪だ!裁判になったら証拠として提出する、そして俺は証人として出廷するからな!」

「俺が噂を広めたって証拠はどこにある!」

「店長に聞いてお客さんが誰かわかれば済む事だわ。きっと弁護士さんが聞いたら正直に答えてくれると思います」と由梨が言った。さっきの言葉も含め、由梨がこんなにはっきりと言ったのは生まれて初めての事だった。

「ほらな!そう言う費用も含めて慰謝料を用意しておけよ」藤岡はそう言って店から出る様に由梨に目で合図した。

由梨が小走りに店を出る時に振り向くと膝をついてガッカリしている福咏と、それを仁王立ちになって睨みつける奥さんが見えた。

 

「まだやる事がある」

「えっ」

藤岡は花装の店の前で由梨に言った。

「お父さんとお母さんに今までの事を全て正直に言うんだ」

「でも」

「さっき福咏にあんなに強く言ったんだからもう大丈夫。自分が辛かった事や今の自分の気持ちもちゃんと言えるよ」

 

 

由梨は藤岡の目を見てその気持ちをまた自分の中に取り込んだ。心の中に宿った炎が大きくなって燃えている。

 

由梨は花裝の店の中にいた父親と母親の前に立った。

「由梨おかえり」

 

 

「お父さん、お母さん、話があるの」

「動画を見て貰おう。昼間撮ったものもあるから」藤岡は店の前を往復した時にも動画を撮っていた。

「はい」

「あの方はどなたなの?」

「藤岡さんよ」

由梨はそう言って店の奥で2人に今迄の事、今日由梨に起こった出来事を詳しく話して動画を見せた。

実は今日娘さんが川の水面を見ながら深刻な顔をしてたので気になって声をかけたんです」

父親と母親は娘があっていたいじめにショックを受けた様だった。

「そうだったんですね、由梨ごめんね今まで知らなくて」母親は泣きながら由梨の手を握った。

「由梨までそんな事になっていたなんて」

「えっ?」

父親が藤岡に言った。

「私達もなんです」

「私達?」

2人は交互に自分達の名刺を藤岡に渡してきた。花装の花嶋祥雄と花嶋香織が由梨の両親の名前だ。

2人はこれまでの経緯を話した。

「福咏からの嫌がらせはあの店ができる前からありました。私達と福咏は元同僚で、20年前私が開業した時福咏も一緒に働かせてくれと言ってきたので、その時は私を慕って付いてきてくれたんだと思っていました。でもそれは勘違いで、福咏はうちの嫁さんに想いを寄せていたのが分かって」

私は福咏さんの事はなんとも思っていないってはっきり言いました。それにお腹に由梨もいましたので」

「その後の福咏は変わっていきました。態度が悪くなってついにうちを辞めて当て付けにうちのすぐ近くて店を出して、うちの商品は質が悪いとか欠陥品を売ってるとかマイナスイメージになる事ばかり言ってるんです」

「拗らせてるな」

「その後結婚したのでもう済んだ事だと思ってましたが、嫌がらせは延々と続いていたわ」

「由梨も同じ目にあってたなんて」と香織はすまなそうにいい、由梨の肩を抱いた。

「大変だったね由梨」祥雄も由梨の手を握った。

お互いに心配をかけるから言えなかったんだな、優しい親子だ。

「あの、偉そうな事言いますけど、自分の人生は自分で守らなきゃ。自分で力強く生きていかなきゃいけない。そんな状態を何年もほっといたなんて良くないですよ。もし訴えるんならこの動画を証拠として提出します」

「そうだったんですね」

藤岡が振り向くと福咏の嫁が立っていた。

「主人が花装の奥さんに、、」

と言って香織を見たので祥雄が「初めはそうだったと思いますが昔のことなんですよ。ご主人には憎しみだけが残ってるのかも知れませんが」

「情けない。そんな事だったなんて。何故いつも由梨ちゃんに辛く当たるのか不思議だったんです。商売敵の子だからだと思っていましたが、ちゃんと注意しなかった私が悪いんです」

「お前」

慌てて追いかけて福咏も入って来た。

こいつまで入ってくるなんてカオスだなと思って福咏を見ていると、福咏の嫁は冷たく「もう顔も見たく無いわ」と言って触れた手を振り払って出ていった。

それを追いかけようとする福咏の行く先に藤岡は立った。

「あんた何か言うことがあるだろ ? あんたのせいで奥さんとも揉めるんなら自業自得だよ。だけどな、ここまで入って来てこのまま出ていくのはどうなんだ」

そう言われて福咏は振り向いて花嶋の3人を見た。

「花嶋さん、すまなかった。俺は自分を途中で止める事が出来なかった。あんたが憎かったのに花装に入って香織さんに近づいたんだ。諦めようとしたんだが憎しみがどんどんエスカレートしてきて、あんたら親子にも嫁にもすまない事をした」

福咏は謝った事で全てが開けた気持ちになり手をついて「許してくれ」と詫びた。

藤岡は「まだ花嶋の奥さんに想いを寄せてんの?」と聞いた。聞きにくい事だが、福咏の夫婦関係に関わる。

「その気持ちはもうありません。自分には憎しみしか無かった」

「それはこの一件で今後どうなるの?

「こんなに綺麗に露呈して全て現れた形になっています。今は償いの気持ちしかありません」

「あのさ、散々名誉毀損したんだからこれから自分は嘘をついてたって事を知らしめて花装の信頼の復元に努めなきゃだめなんだよね。これで終わりじゃ無いよ。信用回復に努めなきゃ」

不特定多数の人間に言いふらした事を回収できるのか?それは全員が疑問な事だった。

「福咏、私達夫婦はお前の長い嫌がらせに疲れてここを売り払って花装を移転しようと考えていたんだ。もう私達の事は忘れて、今から嫁に謝って許して貰いなさい」

「祥雄さん」

福咏は頭をガックリと下げた。

「すみませんでした。関係ない由梨ちゃんにもすまない事をした」

「花嶋さん、本当に移転するんですか?

「そうですね藤岡さん。まだ計画中なのですが、どこかいい場所があったら」

「花嶋さん、福咏が、私達が移転します。この町の人達には謝罪広告を出します」

そこに由梨が口を開いた「お父さん、お母さん、私達がこの町から出ましょう。藤岡さんも言ってくれたわ。この町にいるから辛いんだって、俺ならここを離れて心機一転、新しい生活や人間関係の中で生きていくって」

 

 

「由梨」

大人しかった由梨が自分の意志を示すなんて」祥雄は藤岡の力が強いと思った。

昨日の由梨と今日はまるで違う性格のようだった。

「藤岡さんのおかげなのね」

「俺は何もしてませんよ。元々のこの子の力でしょう。それと俺、もう行かなきゃ」

夕方パンロンドの集まりがあるのにちょっと忘れてた、そう思っていると祥雄が言った。「本当にありがとうございました。縁あって助けて貰った。今後の事は親子で話し合います」

「わかりました。じゃあ」と言って由梨に会釈した。

「え?」

さっきまで強く心が繋がってる気がしたのにこれで立ち去って終わりになってしまうの。

由梨の心はもやもやと不安に覆われた。

「ちゃんとしといてくれよ」と福咏に言ってから、みんなに挨拶して出て行く後ろ姿を由梨は見ていた。

芳雄は福咏に「由梨は今朝まで深刻な状態だったんだ。あの若者に助けられたんだ」と藤岡の背中に感謝の視線を投げかけた。

「本当に謝罪広告を出します。嫁に謝って来て良いですか?」

「そうしてやれ」と言い放って福咏を店から出した。

「由梨、すまなかったね。本当に無事で良かった」

祥雄と香織は黙って立っている由梨にそう言った。

「私」

「え?」

「行かなきゃ」

そう言って由梨は走っていった。

体育の時よりずっと速く今までで1番速く。

橋を渡って道なりに行くと駅。

藤岡は駅にたどり着いて電車に乗り、空いてる席を見つけて座った。

良かったのかな?

今日は

いい方向に行ってくれると良いけど。

 

自分の人生は自分で守らなきゃ。自分で力強く生きていかなきゃね。

辺りはもう暗くホームの向こうの家々の明かりを見ながら「色んな家庭があるよな」と呟いた。

発射の合図のプルプルプルプルという音が流れる。

由梨はギリギリで電車に飛び乗って後ろ髪をドアに挟まれた。ドアはもう一度開いたのでそのスキに電車の中に転げこんで床に手をついた。

藤岡は百合を見て「電車にあんな乗り方したら危ないな」と笑って言った。

走って来たのでハアハア息が切れて恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら目は藤岡を見ている。

「あ、あの」

「どうしたの?そんなに息を切らして、俺忘れ物でもした?」

「私、今日気がついたんです。自分の人生も運命も自分で決めます!私をパンロンドで働かせて下さい」

しばらくポカーンと由梨を見て「まあ座りなよ。あのさ、パンロンドで働けるかどうかは親方が決めるんだ。俺じゃないよ」

「親方、、相撲部屋の」

藤岡はそう言われて親方が横綱の格好をしてるところを想像して笑った「ピッタリだな」

「え?」

「いや、折角電車に乗っちゃったから会う?親方に。めちゃくちゃ力持ちなんだよその人。相撲取りに見えるけどパン屋の店主なんだ」

「わかりました。会って見たいです」

「じゃあ心配してるだろうから家の人に連絡しておいて」

「はい」

由梨は不思議な気持ちで祥雄と香織にメールしていた。

告白が就活宣言になり、走って来た目的と違う方向に話が行ったが、今はもうとても前向きな自分がいて、藤岡の横に座りこの時がずっと続けば良いと思っていた。

 

 

「私頑張れそうです」

「そりゃ良いね。只今従業員募集中だからね」 

東南駅に着くまで藤岡はパンロンドの人達の性格や人間関係について話した。

駅前の居酒屋に入ると丁度江川が世界大会でどう活躍したのかを初めから順に説明していて、それを微笑ましそうに聞きながら修造が黙ってビールを飲んでいる。一際大きいのが親方、その横には奥さん。そして明るくて面白そうな杉本とその彼女の風香。

由梨は藤岡の話の通りだと思って微笑んだ。

藤岡の後ろにいる由梨にみんなが気が付いた。

「ちょっと!藤岡さーん。遅かったじゃないですか〜!その人誰ですかあ?」

「あ、ごめんごめん杉本。親方!面接したいって人を連れて来ました」

その時すでに酔っ払っていた親方は大声で「合格!採用!明日から来て」と言ってみんなを驚かせたが「ありがとうございます」と由梨だけは大真面目で応えた。

「ごめんなさいね、うちのが酔っ払ってて、また時間のある時に話しに来てね。2人ともここに座りなさいよ」と奥さんが話しかけてきた。

 

 

イエ〜イ!カンパーイ

みんな由梨に乾杯してニコニコしている。

また江川が大声でみんなに説明の続きを始めた。親方は「よーし!いいぞ!その調子だ」とか変なタイミングで返事している。

みんなの輪の中に座ってわいわいと楽しい話を聞いていると、ずっとこの輪の中にいたような、いたいような気持ちになる。

 

 

「ねえ、藤岡さーん。お土産は?」

「まだ言ってんのか杉本」

「たまには俺にもパンを買ってきて下さいよー」

「食べちゃったな。そうだこれやるよ、ほらお土産」

と言って杉本に渡した。

「やった!」

杉本は白い紙の袋から出して驚いて叫んだ

 

「足袋⁉︎

 

 

おわり

 

Emergence of butterfly  蝶の羽化

由梨はこれから自由に羽ばたいていけるでしょうか。

 

※ハート型のパイ Schweinsohrシュヴァンスオアー) ドイツのパン屋さんでよく売られているハート形のパイ生地のお菓子で、豚の耳という意味。幸運のシンボル。フランスではパルミエと言う。藤岡はこれを真っ二つにしたが意外と無神経。とはいえ他の向きで半分にちぎるのは難しい。

 

 

 

 


2022年10月04日(火)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Awards ceremony

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Awards ceremony

 

審査員のパンの試食が終わった。

選手たちは控え室に戻って休憩する様に言われる。

修造は椅子にどかっと座って机に臥せながら、工程に反省点があるか考えていた。

そして顔を上げて言った。

「江川」

「はいなんですか」

「全部の工程でお前の世話になった事しか思い出せないよ。野菜のゼリーと言い、他の工程の全ても。俺の我儘を叶えてくれてありがとうな」

 

 

「僕、役に立てたなら良かったです」

「俺は俺の考えたパン作りの全てを思った通りにしたかったんだ。それが実現したのは江川のサポートのおかげだよ」

さっきまで目元が引き攣ったままだったので江川は目尻を摩ってマッサージしながら言った。

「本当に良かった」

 

ーーーー

 

20分後

また会場に戻る。

表彰式が始まるのだ。

 

一か国ずつ呼ばれて出て行く。

参加者全員が並ぶ中、荘厳な曲に合わせて式典の司会が出てきた。

白い封筒を開いている。

江川はそれをじっと見ていた。

フランス語で何人かの選手が呼び出されている。

修造も江川も全然フランス語がわからないが受け取った選手は歓喜に咽び泣き、皆大喜びだ。

大木と話していた通訳の人に「ねぇ、あれが優勝カップですか?」と聞いたら違うと言われる。

今はクロワッサンやタルテイーヌなどの各部門のパンの受賞式だそうだ。司会が何か叫んだ。

ジャポネって呼ばれた気がする。

ワーっと日本チームの応援団から拍手が起こった。

大木に合図されて修造と江川は真ん中に立った。

自分達にライトが当たっている。

修造は透明のずっしりしたトロフイーを受け取った。

修造は表情を変えなかったが嬉しくないわけじゃない。空手の試合の時、勝った方は相手に敬意を表して、おおげさに喜んだりせず己を律しなければならない。

和装のパンデコレが賞を貰った。

「うわーすごーい!修造さん!おめでとうございます〜」

「ありがとう。これで安心して帰れるよ」

賞を貰ってホッとした。

元の場所に立ってると今度は大木が江川に「おめでとう」と言った。

「えっ?」

「江川真ん中に立つんだ」

呼ばれてセンターに立ち、大木と修造が拍手する中、江川はトロフィーを受け取った。

「最優秀助手賞だ」

大木の言葉にびっくりした。江川のコミとしてのサポート力が評価されたのだ。

「えーっ!僕が?みんなー!僕賞を貰いました〜」

うわーっと叫びながら、江川はトロフィーを高く上げて応援席に向かって叫んだ。

 

 

その途端応援席から声援が届いた。

後藤がみんなに賞の名前を言って驚かせている。

「すごーい!江川君」

「江川くーん」パチパチパチパチ

みんな拍手している、

「あいつちゃんとサポートしてたもんな」

鷲羽が何故か誇らしげに言った。

嬉しそうだ。

 

江川はその後はなんだか気が楽になって他の選手の受賞に拍手を続けた。

 

オリンピックで言えば金銀銅のメダルと同じ授賞式が始まった。

3位の国、2位の国の名前が呼ばれて、1位はどこかしらとキョロキョロしていたら「ジャポネ!」と言うワードが聞こえた。

大木と通訳の人が大喜びして修造と江川を真ん中に連れて行った。1番高い台の上に立ち、修造は1番大きなトロフィーを受け取った。

 

 

バゲットを切り取った様な形の黄金のトロフィーを持って真ん中のライトを見ている修造の横で江川は大木とハイタッチして、両腕を高く上げて「やったー!」と大声を張り上げた。

全身に全部の拍手とライトを浴びた。壮大な音楽が鳴り響き、感動を盛り上げた。

色んな人におめでとうと言ってもらってありがとうを何度も言う。

うわあ嬉しい!僕このままライトに当たり過ぎて白くなって消えていくんじゃないかしら。江川は存分にライトを浴びて、修造の代わりに倍みんなに手を振った。

「修造、せっかく優勝したんだからもっと喜べよ」

修造はあまりに直立不動だったので、大木にそう言われる程固まっていた。

「修造さん、おめでとうございます」

「ありがとうな、江川のおかげだよ。頑張ってくれたもんな」

江川は照れて「エヘヘ」と笑顔を向けた。

表彰式が終わって応援団のみんなと話していた。

「みんな応援ありがとう」全員と握手する。

鷲羽が興奮して帯の模様が手が込んでるとか、あのパンが食べてみたいとか騒いでいた時、突然後ろから大柄で白髪混じりのヒゲを濃く蓄えたおじさんが話しかけて来た。

「シューゾー」

その声に修造が機敏に反応してバッと振り返りそのままそのおじさんとガシッと抱き合った「エーベルトーっ!」

 

 

ウワーっと2人とも懐かしがって握手したり年甲斐もなくピョンと跳ねそうなぐらい修造は喜んでいた。そんな修造を見たのは初めてだった。

「あ!あの人がエーベルトさん」

江川は折に触れエーベルトの事を聞いていた。

大恩人のエーベルトと修造はドイツ語で話していて、何を言ってるのかはわからない。きっとこの大会に出ると聞いて会いに来てくれたんだろう。

しばらくしてリツコリツコと言ってエーベルトが修造をからかってるのがなんとなく分かる。

おそらく「あの時は奥さんのリツコの事ばかり言ってたな、ワッハッハ」みたいな事なんだろう。

「わしも鼻が高いよ」とわからないのに江川は2人を見て勝手に訳していた。そのうちに江川を手招きで呼んだのでそっちに歩いて行く。エーベルトと握手した。あったかい。「江川です」と言ってすぐ修造を見た。なんて言ったらいいのかわからない。修造は見た事ないぐらい顔が赤らんでニコニコしていたので、表彰式の時にこんな笑顔するもんなのにと思っていた。

その後まだまだずっと話している2人をほっといて、江川は山々コンビのところに行った。

おや、山々コンビと鷲羽達はすっかり打ち解けている。全員が日本チームを心を一つにして応援しているうちに通い合うものがあったんだろうか。

北山と篠山は昨日パリのルーブル美術館やベルサイユ宮殿に行った後、カフェでパリ気分を満喫していた。

明日はモンサンミッシェルに行くのだが詳しい行き方を園部に聞いた。が、園部は「うーん」と言って考えている。鷲羽がその場で色々調べて教えたので山々コンビは本当にびっくりした。

「モンパルナスから※TGVで行ってレンヌの北口ターミナルでバスに乗換えだって。モンパルナスわかる?」

鷲羽って意地悪な印象だったが、こうしてパリに来て充実してるのか表情もイキイキしていてなんならちょっとかっこいい。

「モンパルナス、、、」聞いた事しかない。

「心配なら明日一緒に行ってやろうか?

「え?いいのぉ?」なんて

 

今から夕食に行って明日はモンサンミッシェルに行くとか楽しそうに話が展開している。

 

それを側で見ていた江川の様子を観察していた後藤が優しく話しかけて来た。

「江川さん、本当にお疲れ様でした。大変だったのに頑張りましたね」と、キラッと輝く白い歯を見せた。

「後藤さんありがとう」

「せっかくだから世界大会で優勝したパンの前で記念写真を撮りましょう」

「はい」

 

 

後藤はトロフィーを持たせたり手を前にやったり横にやったりと、江川の写真を何枚も撮った。

そしてそれをさっき撮った授賞式の写真と一緒にすぐに会社のネットに何枚も載せた。ここに基嶋の機械が無くて残念だ。

それを江川に見せながら「これをみんなが見るでしょうから江川さんも業界の有名人ですね」

「えー」

「前途有望な若者のサクセスストーリーなんですから」

「サクセス?」

「これから修造さんはお店を持つのですから江川さんもますます活躍できますね」後藤は修造が江川をとても大事にしていると思っていた。それは江川の打算や欲のない一生懸命さのせいなんだろう。なので行く末に自分も関わっていくつもりなのだ。

「将来的には江川さんもお店を持つわけなんですから」

「先の事すぎてわかんないや。それに僕貯金が全然無くて」

有れば使うのもあるが、この何ヶ月か結構移動費も含め色々必要だった。

「まだまだ若いんですからそりゃそうですよ。積み立てを始めたら意外と溜まっていくものですよ」

「積み立てかあ。考えた事なかったです」

「それに今日までの事は全て江川さんの財産なんですよ」

江川は後藤が今まで考えたことも無かった事を色々教える大人だと思っていた。

「後藤さん、勉強になるな。確かにこれからの事って考えなきゃ。もっと色々教えて下さいね」

「はい」

 

ーーーー

 

エーベルトが帰った時の修造は寂しそうだった。

後ろ姿が見えなくなるまで2人で手を振った。

もう片付けて帰らないと。

後藤や五十嵐に手伝って貰って荷造りを済ませて日本に送り返す。

パンデコレを包みながら「これ、パンロンドの出窓に並べよう」と親方を思い出しながら修造が言った。

「はい、3っつ分なのでキチキチですね」

「本当だ、入るかな」

 

ーーーー

 

その後、2人はみんなと別れて飛行場に移動し、マカロンやヌガー、ぬいぐるみやらのお土産を買ってるうちに時間が足りず走って行く。

 

どうにか間に合った飛行機の中で

「修造さん、今日凄い良いことが二つありましたね」

「表彰式とエーベルトだろ?

「ウフフ」

 

 

「江川」

「はいなんですか」

「俺はドイツにいた頃、エーベルトに言われた事があるんだ」

「はい」

「修造よ、マイスターとは若手に製パン技術を教え、知識を教える立場なんんだよ。伝統的な技術や決められた製法を守るんだ。いつかお前もお前が教わった様に下の者に継承して行くんだ。ってな」

「はい」

「俺は今からそれを実現しようと思う」

「あ!僕にも教えて下さいね」

修造は江川をまっすぐ見て「そういう事だ」と言った。

「江川、俺は店作りをしようと思ってる。その前にパンロンで改めてみんなにも伝えておきたいんだ」

「はい」

藤岡と杉本の顔が浮かんだ。

「僕達2人が抜けたら大変ですものね。誰か新しい人を探すんでしょうか?」

「親方と話し合ってみるよ」

そういった後修造は待ち受け画面の家族の写真を見ていた。

そろそろあれが始まるぞ。

なんて考えていると、江川の思った通りに「早く帰ってトロフィーを律子に見せてやろう。緑と大地に会いたいなあ。大地は産まれて5ヶ月経ったんだ。寝返りもできて離乳食もちょっとずつ始まったんだよ」と可愛い写真を見せてきた。

「ホッとしたら家族に無性に会いたくなるんですもんね」

「そうなんだよ江川」

「早く逢いたいですね」

「うん」

修造はそう言いながらふーっと安堵の吐息を吐き、椅子に深くもたれてそのまま寝てしまった。

律子さんの恋人で夫でお父さんなんだ。そして空手家で世界一のパン職人だ。

江川はその横顔に

「お疲れ様」

と言った。

 

江川は帰りの飛行場の免税店で自分へのご褒美にリュックを買った。

それと凱旋門のマグカップと置物。

そしてみんなにはエッフェル塔のスノードーム。

柚木の奥さんと風花にはトリコロールカラーのスカーフだ。

ちょっと使い過ぎちゃったな。

後藤の顔を思い出して、帰ったら積み立てを始める決心をした。

 

ーーーー

 

その時

成田ではドイツから来た飛行機から1人の女が降り立った。

質素ななりだが遠くから見ても女性らしいフォルムでスタイルの良いのが分かる。

髪色は派手でシャンパンゴールドに赤いメッシュが入っている。

ぱっと見強い印象なのに、よく見ると表情は儚げで歩き方もおずおずとしている。

空港から出たあと、日本の空を眺める。

「これから私はどうすればいいのかしら」小声で呟く

 

女は目的があったが行く先は決まっていなかった。

 

駅の券売機の横にあった無料の求人雑誌を開いて電話をした。

しばらく相手の質問に答えた後電話を切り、人混みの中に消えていった。

 

 

おわり

 

※TGB  フランスの超特急列車。最高速度は300キロを越え日本の新幹線と並ぶ速さ。

 

 

 

 


2022年09月20日(火)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ stairway to glory

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ stairway to glory

はじめに

このお話はフィクションです。

修造達はとうとう世界の一流パン職人の方々と戦うところまで来ました。格闘と違い選手は各ブースで自分との闘いをするのです。色々と配慮し、どこの国に勝ったとか負けたとかはこの場では伏せることにします。後でちょっと選手がチラ見えするかもしれませんが想像でこの国だな、とかあの国だなとか思い描いて頂けるとありがたく存じます。パンの説明は分かり易い様に時系列ではなく種類別にしています。それでは。

 

 

 

stairway to glory

 

世界大会の前日

朝、ホテルの洗面台で修造はまた髭を綺麗に剃った。

「気合を表してるんですね?」江川が不思議そうに見ている。

髭の無い修造が別人の様で新鮮な気持ちがする。

 

会場に着くと大木が呼びに来た。

「修造、10時から順番に写真撮影があるから」

「ええ?」写真撮りは嫌だけど仕方がない、大木に着いて行く。

この時に初めて参加国の各コーチ、選手、助手を見ることになる。

「カッコいい」江川が憧れの眼差しで見ている。

色んな国のチームが並んで順番待ちをしていて確かにカッコいい。

「きっと凄いパン作りをするんだろうなあ」

自分の国の国旗を持った選手を見て2人共感動していた。

さて、自分達の番が来て、日本の国旗を大木が手に持ち3人で並んだ。修造は前回の経験があるので今日は顔を引き攣らせない様に家族の事を思う浮かべながら微笑んだ。

そのうちに鷲羽と園部が荷物を両腕に振り分けて沢山持って来た。

出汁用の乾物とオーガニックの野菜や果物が入っている。

「修造さーん」

「あ!2人共どうもありがとう」修造も内心心配していたのか荷物が届いてホッとしていた。

なるべく新鮮な野菜を手に入れたかったので、お店の人に頼んでおいたのだ。一旦パリに行って買い物してまた戻ってくれるなんてありがたい。

「俺たち明日は応援席にいるから頑張って下さい」

「うん!ありがとうな。これから開会式だから見て行って」

「はい。修造さん、アンフリッシユザワーは上手く行きましたか?」

「うん、フィードしたよ。上手くいきそうだ」

「よかった!心配だったので」

鷲羽は修造に渡した種の次の段階が上手くいくか気がかりだった。上手く育てて本番で使ってくれるなんてテンションが上がる。

「よしっ!江川!頑張れよ」鷲羽は拳を横から前にグッと握ってガッツポーズをした。

「頑張るね」江川は鷲羽達と長年の友の様に手を振って見送った。

 

ーーーー

 

開会式では主催であるフランスのパン職人の重鎮達が揃い、世界から集まった9か国のチームは順番に呼ばれて、やがて全員がずらりと並んだ。

これからここで繰り広げられる戦いは敵とではなく、常に自分との闘いなのだ。

開会式を見ていた鷲羽は複雑な心境だった様だが、こうなったら自分の実力で這い上がってくるしかない。

会場から立ち去る時二人は黙ったまま橋の上を歩いていたが、急に園部が「江川で良かったな」と言ったので、鷲羽は見透かされてると思い顔が真っ赤になった。

実際他の者が助手になっていたら嫉妬でどうにかなりそうだったろう。買い物なんてしてやるわけが無い。もう自分達は友情で結ばれている仲間なんだ。そう思う。

 

ーーーー

 

さて

前日準備は1時間しかない。

各選手達は自分たちのブースに入って作業を始めた。

江川も兼ねてから練習していた物を作り始めた。素早く下ごしらえした各野菜(アスパラ、大根、ナス、インゲン、パプリカ、ズッキーニ、トマト、ジロール茸)の9種類を型に敷き詰めた。特訓通りに綺麗に並べる。そこにあらかじめ水に浸けていた真昆布と、鰹、いりこで出汁をとり、醤油、酒、塩、味醂、寒天を溶かして型に入れた。結構素早くできたのは練習の賜物だ。

温度帯が明日どうなるかわからない、その時の為に2つのレシピを用意する。若干濃い味、若干薄い味。初めは3種類用意するつもりだったが、修造が江川の為に2種類に絞った

綺麗にラップで蓋をして冷蔵庫にしまいながら江川はホッとして額の汗を拭った。

 

 

江川はこの前日の1時間の為に野菜と出汁を使った寒天のゼリー寄せを作る練習をしてきたのだ。そして包丁も研ぎ澄ませてきた。

材料がキチンと手に入ったのは下調べをしてくれた2人のおかげだよ。ありがとう鷲羽君園部君。そう思いながら江川は小さくガッツポーズをした。

ゼリー寄せができたら今度は豚塊を味付けする。ミールで挽いた岩塩とハーブ、砂糖を擦り込み、紙で包んでジップロックに入れて冷蔵庫にしまった。

修造は明日の為の生地作りをしていた。まず鷲羽がさっき言っていた種を育てたグルントザワーの次の段階、フォルザワータイクを仕上げる。

それと小麦粉で作った中種フォアタイク。

次にイーストを少しだけ使った長時間発酵の生地。

そしてヴィエノワズリー(クロワッサンやデニッシャープルンダーなどの甘い系のパンなどの折り込み用の生地)などを順に作っていた。

江川は素早い動きの邪魔にならないように生地の仕込み中の修造の欲しいものを用意したり、後片付けをしていく。

その様子を審査員がつぶさにチェックしていた。

2人とも練習の成果でギリギリのスケジュールをこなす事ができた。

「ふぅ〜」

江川は疲れをほぐす深呼吸をした。

1時間でクタクタだ。

明日どうなるかな?

きっと8時間マラソンみたいなんだろうな。

帰ったらもう一度スケジュールを確認しよう。

なんだか緊張でガチガチになってきた。

 

ーーーー

 

その夜

修造はベッドの中で工程のおさらいをしていたが、やがて考えるのをやめ目をつぶると早々とイビキをかき出した。

それを聞きながら明日の事を思い浮かべてスケジュール表を見てイメトレをしてみる。

明日この通りに動いて修造さんの足を引っ張ったり足手纏いにならない様にしなきゃ。

江川はスケジュール表を見ながらウトウトして紙を持つ手が下がりそのまま眠りについた。

 

大会当日。

後藤と五十嵐が声をかけにきた「修造シェフ、江川さんどうぞ頑張って下さい」

「皆さんのおかげでここに来れました。感謝してます。集中力途切れさせずにやります」

修造は決意の様な言葉を2人に対して言ったが、修造を取り囲む全ての人に対する誓いの様にも聞こえた。

江川は後藤と五十嵐にすっかり懐いてハイタッチをして「行ってきまーす」と笑顔を見せた。

これを見た後藤は、一昨日見た江川の決意を思い出して心が震えた。

「ほんと頑張ってね」江川の背中に呟いた。

 

応援席は2人の立つブースから随分離れていたが、全ブースを見渡せる。逆に選手からは隣のブースとも仕切られていて様子を見る事はできない。

選手の前には審査員がすぐ間近まで来て全て丸見えだ。

さて、とうとう開始の時間を審査員長が告げた。

昨日の準備で手近に置いたラックに必要な用具は全て揃えてある。

例えば鉄板に敷く板や紙一つ、上に乗せるシートひとつとっても大切なのだ。

全ての作業が『これにはこれを』と決まっている。使う順に置いて上から使って使い終わると陰に置いた箱にしまう。

江川は修造の素早い動きに沿っているものを準備したりしながら自分の作業をしていく。

昨日仕込んだ豚塊を常温に戻し、一旦洗って拭き取り、フライパンでオリーブオイルを回しかけ焼いてからオーブンに入れた。それを予熱で火を通す。その間にソースを作って一緒にタッパに入れてカットする時間まで冷蔵庫に入れておく。

次に芋類を細長くカットして炒め始める、甘辛い香りが辺りに立ち込めた。

そのあと小型のミキサーで色とりどりの生地を仕込んでいきながら「僕世界大会に出てるんだ」と一瞬忙しく動いている修造を見た。

僕今修造さんと世界大会に出てるんだ。

いつもの練習と違う、本番中だ。顔が紅潮してドキドキするがいつもの練習を思い出して手を動かす。冷静に冷静に。

 

修造は前日に作ったザワータイクの乳酸菌を増やし酸味のコントロールを心がけていた。

Dinkel(ディンケル)小麦全粒粉を石臼製粉機を使い製粉して粉の自然な甘さと風味を大切に仕込む、そして朝一番から緩やかで長めの発酵をとりたい。

 

ストレッチアンドフォールド4

焼きあがったミッシュブロートは裏を指でコンコンと叩いて焼き上がりを確認していく。

この様に書くといっぺんにできるみたいだが、実は長い発酵時間を経てできるので、全ての生地の時間のかかる作業をうまく工程に組み込んでいく。香りと食感に殊更注意した。

会場が開き、応援の人達が到着した。選手のいるブースから通路を隔てて更に後ろのラインからは出てはいけないが、大型のモニターで各国の選手の手捌きを見る事ができる。

後藤と五十嵐が来ているみんなに名刺を渡して挨拶した。

「俺たちは以前ホルツに居たんです」鷲羽が挨拶した。

「私達は今ホルツで働いています」北山も頭を下げた。

後藤はニコニコして「そうなんですね、同じパン業界の者同士、今日はみんな心を一つにしてお二人を応援しましょう」

「はーい」

後藤から受け取った応援グッズを持って皆応援の言葉を繰り返し叫んだ。

また日本に居ながらにして、世界大会の今の状況が配信されていて、家族やパンロンドの人達も応援していた。

鷲羽は遠くから2人の動きをじっと見ていた。脳内に刻み込む為に。スピードや手順、どっちが何を作っているかなど動画にも撮って帰ってから何度も見るつもりでいた。

絶対にいつか自分もこの場に立ってやる!

そんな気持ちで。

ーーーー

修造達のブースでは

バゲットはデインケル小麦を使い長時間発酵で。皮はパリッとして小麦の甘味を感じ、内層は艶やかな断面のバゲットが焼きあがる。大型のパン、パンスペシオの生地も発酵して、それぞれに成形されて窯に入れられた。

焼き上がりが楽しみだ。

窯の開け閉めと共になのか、昼間の太陽のせいなのか。前に聞いていた通り会場はどんどん暑くなって来た。

江川は顔がほてってきた。

「暑かったんだ」

実は暑い時とそうでない時の二つのプランを練っていた。なのでタルティーヌの為には2つの温度用に作っていた。

 

 

その後、修造は生地を細長く切り、それを束ねてゴムのようにぴょんぴょんと伸ばした。それをまた折って伸ばしまた折って伸ばしまるで麺のように伸ばした後、江川が少しずつ丸めてボーゲルネスト(鳥の巣」のような形にして、揚げ、中に紫いもと※オレンジ色のSüßkartoffelズースカルトッフェルのきんぴらを包んで焼いたクロワッサンの上に飾った。

それを見ていた大木は写真に撮って「ボーゲルネスト」と書いて鳥井に送ってやった。鳥井の店の名前はボーゲルネストだ。写真を見た鳥井は1人嬉しくなってニヤニヤした。修造の鳥井への尊敬の気持ちを受け取った。

成形を済ませ、発酵した生地が焼きあがって行くと審査員達が厳かにテーブルに着く、

各国の選手が作るバゲット、ブリオッシュ、クロワッサンの審査が始まった。

バターの効いたブリオッシュは親方の言うところの「ぶちかましスペシャルの大型で、生地の一本にラズベリー生地とマンゴーの生地を使ったカラフルな編み込みパンを作った。

クロワッサンはブーランジェリータカユキの那須田に教えて貰った月形のパリッとしたものを。

焼成後イメージ通りの出来栄えを見てホッとした。

次にチェリーのシロップ煮を使ったバイカラークロワッサンの生地を細長く切り半分に折って真ん中に切り込みを細かく入れていく。それを花のように巻いて先を菊の花弁のようにカットする。それとは別に、赤い生地でステンシルを施した小箱を作り花を中に入れて焼く。花弁の先が焦げないように上に途中から厚紙をのせて気をつけて焼いた。焼成後江川がキルシュワッサー使用のシロップを塗る。

 

次に

各選手のタルティーヌがカットされて審査員に配られ出した。

それを見た江川が焦ってきた。

自分達のチームだけタルティーヌはまだできていない。

「もうカットしましょうよ」

「まだまだ」 

「まだ?」

「まだだ」

と言いながら修造は編んだ竹墨の生地で包んだスペルト小麦の薄型のカンパーニュに朝仕込んだ豚肉の薄切りを挟んでスタンバイした。

「もういい?」

「まだ」

とうとう次は日本チームの番が回ってきた。

「よし!素早くカットして江川」

「はい」

練習の賜物だ。顔が引き攣ったが、江川はとても薄く上手に濃い味付けの方の8種の野菜のゼリー寄せをカットしてパンと※アイスプラント、ローストポークの上に置いた。竹墨配合の薄い生地の焼き立てに燻製のチーズを四角く切って素早く並べて格子状にしたものを斜めに立てかける。ゼリーにピンと角があるうちに修造は素早くそれを前のテーブルに並べた。

 

 

それを係の者がカットして、ピールに乗せて審査員に順に配っていく。審査員達はピールに置いた現物の見本を見ながらカットされたパンを手に取り口に運んでから点数をつける。

 

固めに仕込んであるので溶ける心配はないが、時間が経つとゼリーの余計な水分が少しずつパンに染み込んでいくだろう。なのでぎりぎりまでカットしたくなかったのだ。

審査員達は、和風の味付けの野菜と薄切りのローストポークを丁度よく食べることができた。

上の薄皮をパリッと噛んだあとゼリーと豚肉が一緒に噛み込まれて生地に到達する。最後はパンの旨味と出汁の旨味がコラボする。

それを見た修造は密かにしたり顔をした。

 

審査員達は点数を採点表に書き出している。

江川はハラハラした。

ゼリーを使った人なんているのかしら。

 

 

さあ!

ぼやぼやしてる暇はない。

とうとう江川と修造はパンデコレを仕上げる時間に差し掛かった。

まず土台を用意して着物の生地を貼り付けていく。

生地の接地面に水飴をつけてから帯やら編笠やらを修造得意の十字相欠き継ぎでしっかりと組み合わせる。それを冷却スプレーで固めていくのだ。

そのあと飾りをつけていく。帯の模様の違いを表面が平らになる様に付けていき、本体に後輪をつける。

 

 

「あと5分」の声が上がる

最後まで諦めない。

江川は練習しすぎて随分実力がつき、修造と言葉を交わさなくても同じように動き、2人で完成させた。

江川、ありがとうな。感謝してるよ。

修造さんは今、世界最速だ。

2人とも心の中でピッタリと気持ちが合っていた。

2人で土台の周りに重石(おもし)代わりのパンを並べた。

「完成だ」

「はい」

その時2人は初めて周りの選手の作品をみた。

流石世界のレベルはとても高い。

「うわーすごーい」

「だな」

 

 

最後の1

江川はこれまで会った全ての人に感謝の気持ちを込めながら、台の上を綺麗にしてそこら辺を片付けた。

修造も片付けに取り掛かり、作業を終了させた。

5・4・3・2・1 とフランス語で声がする。

タイムアップだ。

審査員はまだまだ各選手の作ったパンを順に試食していた。審査員は皆パンの全体を眺めながら本体をカットしたものを食べる。視覚と味覚両方に鋭敏に厳しく審査が行われる。

その前で大木がずっと修造のパンについての説明をしてくれている。

それを見ていたら胸に込み上げるものがあり、感極まって目から水分が浮かぶ。

やる事はやった。

全力を尽くした。

江川と一緒に

 

 

おわり

Süßkartoffel ズース(甘い)カトフェル(ジャガイモ)

※ストレッチアンドフォールド 生地を捏ねるのではなく優しく伸ばして折り畳んでグルテンを形成するやり方

#デニッシャープルンダー   ドイツ語でデニッシュの意味

#フィード 供給すること。この場合は種に新しいライ麦を足して餌を与えるなどの意味。

※アイスプラント 表面に水滴状の細胞があり、プチプチシャキシャキした独特の食感がある。色合いが美しく、サラダに入れると映える。

 

 

 

 

 


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