パン職人の修造 江川と修造シリーズ バゲットジャンキー
「修造さん」
選考会が終わった後、北麦パンの佐々木が声をかけてきた。
「俺、絶対勝ちたかったんですよ」
「すみません、、あの、店を休んで特訓してたって聞きました」
「そこまでやって勝てなかったなんて悔しいな。
佐々木はやや自嘲気味な言い方をした。
「こんな事俺が言うことじゃないけど是非次回頑張って下さい」
2
「本当だね、修造さんが言うことじゃないよ」
そう言って佐々木は笑って去って行った。
—
「修造さん荷物を運んで帰りましょう」
「うん、江川良かったな」
「はい、修造さんもおめでとうございます」
「ありがとうな江川。いつか感謝を形に変えるよ」
「感謝なんて、テヘ。僕が勝手にやった事ですから」
そう言いながら2人は会場の裏にある駐車場に荷物を運びパンロン
「控室に戻って大木シェフに挨拶して帰ろう」
「はい」
2人が駐車場から通用口に入り長い廊下を歩いている時、
その時江川と少し距離ができた。
スタッフに紛れてオレンジ色の大きなスーツケースを押した背の高
江川はそのトランクを見て、
男は立ち止まり「おめでとう、頑張ったね」と労をねぎらった。
江川が一瞬頭を下げて行きすぎようとした時、
「これ、お兄さんに渡しておいて」
江川は、
不機嫌に黙ったままメモを受け取りそのまま遠ざかった江川をしば
ーーー
江川は控え室に戻り、大木と話している修造にメモを渡した。
「通路を歩いてたら渡されました」
珍しくイライラしている江川に「どうしたんだ?疲れたのか?
「別に、何もありません」
「そうか」そう言ってメモに書かれた文字を見た。
人生は数奇なり
己の運命に流されても己は流されるなかれ
あ!この字!本に挟んであったメモと同じ文字だ!
「江川!この人どっちに行った?」
「さっきの駐車場の方に行きました。
修造の慌て様に驚いて江川が言った。
修造はもう一度長い廊下を走って通用口を出た。
駐車場は搬出のスタッフでごった返している。
「もう帰ったのかな」
仕方ない、
でも気になる
なんだ
流されても流されるな
って
どういう意味だ。
俺は順調だ。
愛する妻と可愛い子供
数奇な事なんて何もない
なんだ名乗りもせずに
速足で廊下を歩きながら
修造は頭の中で文句を言っていた。
—-
新名神高速道路に入った帰りの車の中
せっかく二人とも優勝したのに口数が少なかった。
しばらくすると江川は少し不機嫌が直ってきた。
「僕ホッとしました。これで二人で世界大会に出られるんですね。
「だな」
「僕、鷲羽君がトラブルがあって、
「あんな事になるとは思わなくて園部も気の毒だったな」
「コンテストが終わるまで何も知りませんでした。
「
「へぇ〜。鷲羽君って本当はいい人なのかな」
「口は悪いけど悪いやつじゃないよ」
「帰り際声をかけた時フランスに行くって張り切ってました。
「うん、
「はい」
辺りは段々暗くなり、名古屋を過ぎた辺りで修造が言い出した。
「なあ江川!俺、男の子が生まれるんだよ。
「えっ?」
急にガラリとソフトムードになった修造に江川は驚いた。
ウフフだって、、いつもシブイ感じなのに、、
勝負みたいな事が終わるとホッとして家族に会いたくなるんだろう
「楽しみですね!」
「そうなんだ!どこかに寄ってお土産を買って帰ろう」
「はい。僕もみんなにお土産買いたいです。駿河湾沼津 のサービ
「寄ってみる?夜でも売ってるのかな?」
「いっぱい買っちゃお!
「お前よく知ってんな、、」
—-
夜中、パンロンドに車を返してアパートに帰り着いた修造は、
リビングの明かりが少しだけ差し込む寝室の、緑の可愛い寝顔を見つめて目を細めうっとりしていると、
「お帰り修造。おめでとう」
「律子、ただいま。大変な時に家を開けてごめんね」
そう言って急いでパジャマに着替えて布団に入り愛妻の手をそ
「私絶対勝つってわかってわ」と手を握り返した。
「どう?」
「元気よ、すごく動いてる。ほら」
グニ
と手応えがあった気がする。
「あ!」
修造はそのまま律子の顔を見つめながら目を瞑り寝てしまった。
修造の顔を見ながら「おかえり」と呟き、高い鼻頭をツンツンと触った。
—-
次の朝早く自転車に乗ってパンロンドについた修造は工場に入った
「なんだろう?何かおかしい」
すでに来ていた親方と藤岡と杉本が修造を取り囲んで「
「ありがとうございます。あの、、店の色が変わってますよね?」
「そうなんだよ!こっち来て!」
親方は修造に店の中を見せた。
「あ!!!改装してる」
「凄いだろ?
「はい、修造さんに内緒で動いてたんです。内装は僕も勉強してあれこれ考えました」
「全然わからなかったな、、、」
「お前を驚かそうと思ってな!それにほら見て修造」
「ここにお前と江川のパンデコレを飾るんだ」
「えー!優勝しなかったらどうするつもりだったんですか?」
「どうもこうもねえよ。実際優勝したろうが」
と大声で笑い、
「ここはお前のドイツパンのスペースだ」
修造は親方の行動力にポカーンと口を開けながら感心していた。
「さ!もうすぐ新生パンロンドの開店だ!仕事に戻るぞ!」
「はい!」
その日は修造は親方と色々話し合ってドイツパンの種類を絞り込ん
商店街の人にも受け入れやすいドイツのパンか、、
パンロンドには自慢の山食『山の輝き』、『
修造はドイツで働いていたお店のヘフリンガーの人気のラインナッ
1番上の棚は※ロッゲンブロートとか※
2段目辺りはプレッツェルとカイ
3段目は※Schweineohr(豚の耳)やベルリナー、
その下は焼き菓子を置いて、
午前中店内に満タンに作ったパンも夕方にはすっかり売り切れてま
東南商店街の道ゆく人達はパンデコレをガラスの向こうからシゲシ
親方と奥さんは、シフト表をよくよく考えて書き、佐久山と梶沢、修造と江川、藤岡、
次の休みの日
修造は一人でホルツに来ていた。
オレンジ色のトランクの男が渡してきたものを大木に見せた。
「
「さあなあ」と言った後、
「修造、伝説の流れ職人って聞いたことあるか?」
「伝説の?いいえ」
「伝説のなんて大袈裟だし、少々盛ってると思うんだが」
「はい」
「昔山間部に住んでいて、造園を生業にしていた若者がいたんだ。
ある日軽井沢に呼ばれて、金持ちの別荘の庭の手入れをしていた。
「今窯から出たばかりだよ。
客に「美味いから食べてみなさい」
途端にルヴァンの風味と小麦の旨味が、
男には家庭があったんだが、突然パン職人になると言って、
「ええ?随分衝動的な人ですね」
「お前だって突然ドイツに行きたいって言ったんだろう?」
「え?それは、まあ、あの、はい」
大木は笑いながら「人の事は言えないなあ」と言った。
「どうしても行かなきゃならなかったんだろう」
「あの、、俺ずっと不思議だったんです。
「運命ってのは不思議なもんだよ」
「運命?あのメモにもそんな事が書かれていました」
大木は思い出していた。
俺が若い頃、あいつとNNホテルのパン部門で働いていた。
毎日が発見の連続で、
江川を見てるとあの頃の俺を思い出す。
最後の日に俺にこう言った「
その後俺と鳥井はドイツへ、佐久間はフランス。あいつは世界各地を回って何年も帰って来なかった。
おい!俺は約束を守ってるぞ。
急に、考え込んでいる修造に向かって大木が声を張った。
「これから色々大変だぞ!
「はい」
帰りの電車で結局大木にはぐらかされたんだと思った。
「そいつその後どうなったんだ、、」
でも今日少しだけ分かった。
またそのバゲットジャンキーの事を少しずつ聞き出して点と線を繋
修造は心の中で密かに決めていた。
パンロンドに戻り、仕込み中の親方に「
「ああ、そういえば昔そんな噂を聞いた事あるな、
「へぇ〜」
「会ったことあんのか?」
「多分」
「多分?」
「その人の作るバゲットが美味いんですか?」
「そうだな、
そうかオレンジ色の大きなトランクであちこち回ってるのか。
旅の楽しさと、行った先で出会った世界のパン職人。
勿論苦労もあると思うけどずっと続けてるのは
それでも構わない程
うわ、ちょっと憧れちゃうなあ。
「その人パンの世界に没頭したんですね」
「そうだな、
パンの製法も概念も時とともに変わりつつある。
修造はまた少し分かった気がした。
家に帰って本に挟んである2枚の紙を見た。
まるで俺が数奇で運命に流されるみたいじゃないか。
これが予言めいたものでないことを祈るよ。
いつかまたどこかで出会うだろう。
バゲットジャンキーに
おわり
ロッゲンブロート ライ麦90%以上配合されたパン
メアコンブロート ライ麦100%使用 ひまわりの種、オートミール、胡麻、亜麻の実などの穀物をまぶしたパン
ミッシュブロート 小麦粉とライ麦粉を同量配合したパン
ラントブロート ドイツの代表的な 食事パン ライ麦70%配合
Schweineohr(豚の耳) パルミエの事 ドイツでは豚は幸運のシンボル
パンの流れ職人とは 昭和の時代 戦後からバブル期に至るまで、パン屋の忙しさは熾烈を極めました。戦後甘いものに飢えた人たちがあんぱん、クリームパン、ジャムパン、デニッシュなどを買い求めていましたし、それがバブル前どんどん購買熱が加速していきました。流れ職人斡旋を生業としている人たちが、手の足りないパン屋さんに職人さんを紹介するのですが、短期の人も多く、しばらくするとまた次の職場へ行くパターンが多かったのです。
当時はスーパーもコンビニも無かったのでパン職人、特に父ちゃん母ちゃんの店は毎日が超多忙でした。バブル前、パン業界だけでは無かった事ですが、なるべく世界中の食べ物を紹介する業者や、時間短縮の為の食品を考え出す会社が増えて行きました。
バブル以降はリストラと言う言葉が横行して、その後皆さんもご存じの職業斡旋業がどんどん出てきて流れ職人もそれを斡旋する人も少なくなっていったのです。
このお話に出て来る背の高い男は、どちらかと言うとヘルプ的要素が強いですし、長くやっていくうちに先生として呼ばれて赴く感じです。世界中のパンが見てみたかったのでしょうね。