part2です。(part1はこちら)
マイヤアップルロード(まいやさんという方がやっておられる方の店舗)の横を通りかかりました。
その店は総合店舗で震災前陸前高田の便利な店だったのでしょう、前日にもマイヤの話が何度も上がっていました。
全てを失ったのに新しくお店を構える。
それはなみなみならぬバイタリティーと努力、人脈が必要でしょう。
それが早いうちに新規開店して、町の高台に移った方々の生活の明かりになることはまず間違いないでしょう。
皆から必要とされてそれを糧に、新店舗を作る努力をなさったに違いないと思われます。
その先には見渡す限りの野原の様な家の跡地に点々と仮設の店舗が建っていました。
その中に栃ヶ沢ベースという仮設商店街があって、そこにはお菓子の木村屋さん、お酒雑貨のいわ井、そば屋のやぶ屋さんがありました。
そこは朝、むさしで貰った岩手大学の学生さんが作ったという、高田のいいとこマップという小冊子で見たばかりの店でした。
店の中の写真はとても仮設とは思えない温かみのある内装でご主人の人柄がうかがえます。
陸前高田の主要施設は全て仮設でした。
銀行、市役所、農協などが固まって建っていてそこには店舗もありました。
(上の写真は駅のあった場所です。レールははがれてありませんでした。ここは駅だったと思うには余りにも変わり果ててしまったのではないでしょうか。今はこの線は気仙沼までで、その先は復旧の見通しはありません。)
その後、菊池さんのお友達のお宅があった所の前を通りました。
一緒に逃げようといったのに大丈夫だからと逃げられなかったそうですが、そのお話をされた時の会長さんは本当に残念そうでした。
亡くなった方のご冥福を心からお祈り申し上げます。
その後会長さんの流されたご実家やお兄様のお店があった所の前を通って頂き、私達は少し高い道を登って行くと、ぽつりぽつりと空いている土地に何軒かずつ固まって仮設住宅がありました。
下(海際)には危険もありますし、心情的にも住めませんので、どうしてもそのような形になるんでしょうか。
そのうちにもっと小高い見晴らしの良い所に登り、りんごの木が何本かあるお宅が見えて来ました。
その先に今年の1月にりんごの日に使わせて貰ったりんご農家の和野果樹園がありました。
そこのりんごは美味しいのでリピーターも多く予約がいっぱいで、そんなに余りも無いのですが、分けて貰って10軒ほどのパン屋さんでりんごの日が開催されたのでした。
今年の11月17日、18日にもりんごまつりがあり、その時も和野果樹園さんのりんごを使わせて頂きます。
そのりんごまつりの日には東京の有名なパン屋さんが、陸前高田のりんごを使って腕を奮う夢のような2日間なのです。
私達は10月の初めだからまだ青いりんごを見た後、米崎町の米崎小学校に向かいました。
そこは被災していなくて、600件の仮設が校庭に建っていて、その日はそこでパンDEバーベキューというイベントがありました。
東京のパン屋さんやケーキ屋さん達が集まって、米崎町の仮設の方々と一緒に和野果樹園さんのお宅のりんごを使ったカップケーキの講習会や、お汁粉や大福、そしてバーべキューのコンロで焼く具がたっぷりのクロックムッシュ、長い棒に生地を巻き、バーベキューコンロでくるくる回して焼く楽しい巻きパン、美味しいピザ等。
どれも地元高田の人達が参加できる楽しい企画で、自分も参加できて本当に良かったと思いました。
ずっとみんなの為にお餅を搗き続けてくれたお2人
巻きパンを回して焼く皆さん
そのあと私は、もう一度建具屋さんの奥さんに会うことができて話をしたのですが、前の日に聞いた奥さんの話が胸に詰まったままで、駐車場までお送りしてお話したのですが、奥さんがお嫁に来てすぐりんごの行商をした話や、お孫さんの為に茶箪笥を3年間かけて仕事の合間をぬって作ったのに、まだ使わないうちに流されてしまったお話、工場や家を働いて少しずつ大きくして整えていき、自分の好きな車を選ばせて貰って乗ったり、運動も始めてまだ3回目だったのに、それらの日常を取り巻く全てが波にさらわれたことを聞き
私もなんと言っていいか言葉もなく奥さんの手を握ることしかできなかった。
その日は天候にも恵まれ過ごしやすい1日で、みな台を囲んでマフィンを作ったり、バーベキューのコンロでパンを焼いたり、和やかな午後でした。
最後に残ったチーズを全部のせていた女の子
皆温かく優しい人ばかりで、昔からの馴染みなのか子供の頃のまま「~ちゃん」と呼び合っていて、同じ同郷同じ苦労を経ての強い繋がりが感じられた。
最後に、専門学校ビジョナリーアーツの生徒さんが作られた食パンを、仮設の皆さんに配り歩いた。
一緒に配って下さった方の部屋を見せて頂いたが、仮設は1人なら台所と水周りと寝る部屋が、後は人数が増えるにつれ2人に1部屋ぐらいのスペースだ。
もうすぐ冬がやってくる、仮設は寒いのではないだろうか。
今この地域では高台移転化計画というのをまとまって市に申請しているけど、この冬には間に合わないみたいだ。
1日も早く高台に家が建ちショッピングモールが出来て、町の人が快適に暮らせますように。
お昼過ぎ、とうとう時間になり私は名残惜しく、親切にして頂いた米崎町の皆さんに挨拶をして、また菊池さんにお世話になり気仙沼までの道も車の中で色々と被害状況を教えて頂いた。
陸前高田には海際に大きなホテルがあり、観光シーズンには沢山のお客さんを泊めたであろうその姿も、波が中のものをことごとくさらって行ったのか中はがらんどうだ。
道々、大阪府警のお巡りさんが早いうちから来て交通整理などをしてくれて、最後までいてくれたという話も聞いた。
大島のあるおかげでか気仙沼は少しだけ被害がましな所があり、その町の様子を見てきっと陸前高田も元はこんな町並みなんだなあと思いを巡らせた。
厚かましく手ぶらで行ったのに温かく迎え入れて貰い、色んな方のお話も聞け、今の陸前高田を案内までして頂いて感謝に絶えません。
お世話になった方々、むさしの方、池田さん、ありがとうございました。
りんごまつり楽しみにしています。
手ぶらで行ったので帰ってから、店からとしてラスクとマフインを米崎町の仮設に送りました。
お一人分にすると少しずつしかありません、そのことでいつも葛藤があります。
パンが米崎町に届いた夜、米崎町の仮設の自治会長の佐藤さんからお電話を頂きました。
11月6日は愛知県に、震災をどう乗り切ったのか、何が必要だったのか、をお話されに行ってたそうです。
佐藤さんは子供達にメッセージを下さいました。
津波でんでんこという言葉があります。
津波が来たらてんでんバラバラに一目散に逃げるという意味だそうです。
地震や津波が来た時に親や先生がいるとは限らないので、お家で「地震が会った時、まず自分で逃げる方法を考えておく」というのを家族で話し合っておく。「周りの大人に助けを求め、一緒に逃げる」
何故かと言うと、子供を迎えに行って逃げる途中に津波にのまれたり、迎えに行ってる間に被害に合われた方が多かったらしいのです。
津波でんでんこの言葉どうりに、誰かを助ける事よりもまず自分の為に逃げる。
子供は周りの大人に助けを求める。学校と地域が話し合い、いざとなったら高いマンションのオートロックを開けて貰うように決めておく。
というお話でした。
避難所で1番困ったのは歯医者さんがいなかったことだそうで、ストレスで歯が痛くなっても、初めは薬でごまかせても1週間2週間も耐えられないという事です。
長い間読んで頂きありがとうございました。
1日も早く高田の仮設の皆様が高台に移転し、安全な生活が出来、ますます生活が充実しますよう心からお祈りしています。
最後にパンラボの池田さん、仮設の皆様、女性会長さん、米崎の方々本当にありがとうございました。
りんごまつりによって高田の事が、絆のことが、皆さんに通じますように