パン職人の修造 江川と修造シリーズ パン屋日和
「パンが沢山売れるのは晴天の日とは限らないんだ。今日みたいに25度前後で少し曇ってると買い物してる奥さんは「まあこのぐらいの気温で天気なら買ったものが痛まないからゆっくり帰れるわよね」と言うわけで、いつもより店内をゆっくり回って多めにトレーに入れる事になる。俺はそれをパン屋日和と呼んでいる、まさに今日みたいな天気の事なんだよ江川」
と秋口にお客さんで溢れ返る店内を見て修造は言った。
江川も確かにそう言われてみればその通りだと思った。夏場や冬場はテラスもあまり使われていないし、春や秋はすごくのんびりしている。
そう言うのも含めてパン屋日和だ。
「じゃあかき氷日和とかたこ焼き日和とかもありますね」
「だな」と二人で笑ってるとパン粉が「ねぇ卓ちゃん知ってる?女優の桐田美月とお笑い芸人のマウンテン山田が電撃結婚したんですって」とネットニュースを見せて来た。
「えっ!あの二人が?」
画面には二人が指輪を見せているところが写っている。
「私だけを見てくれる彼の優しさが何とかかんとかって書いてますよ修造さん。ここで一緒に仕事したのがきっかけかも」
「へぇ、そうなの」
修造は芸能にあまり関心がなく、本当は桐田の事をあまり覚えていない。
「それにね修造さん!由梨ちゃんと藤岡君がとうとう付き合ってるらしいですよ」
「お前よく知ってんな」
「はい、こないだ由梨ちゃんと電話してたらちょっと教えてくれたんです」
パン粉と江川がその話題で盛り上がっているので、修造は店内のパンの品出しに出た。
「いらっしゃいませ」と声をかけると、中には一緒に写真を撮ってくれと頼まれることもある。
修造の苦手な事の一つだが、最近は嫌がらずにちゃんと口角を上げて笑顔を作る。
なぜこんな野暮ったい自分と写真なんて撮りたがるのか不思議だが、その写真はSNSに上げられる。
江川とか凄い愛想良くてサービス精神もあるもんな。そんな事を考えていると「あの、すみません」と、70歳ぐらいの女性が声をかけて来た。
「お医者さんに糖質を減らせって言われてるのだけど何がお勧めなのかしら」
色々と迷っていたらしいので、修造はSAUERTEIG-ROGGENBROT MIT FRÜCHTEN UND NÜSSENと言うフルーツとナッツの入ったライ麦パンを選び、岡田にパン切り包丁とまな板を貰ってテーブルで薄くカットして一切れ渡した。グレーブラウンの生地の断面にはアプリコットやアーモンドとヘーゼルナッツ、その他のドライフルーツ、オーツ麦フレーク、亜麻仁などが鮮やかに見て取れる。
「ドイツパンは普段食べられていますか?」
「いいえ、菓子パンとか食パンが多いかしら」
「あまり馴染みがないかもしれませんが、ライ麦パンは低GI食品と呼ばれていて血糖値の上昇が起こりにくい。ミネラルや食物繊維も含まれていて、ドライフルーツはマグネシウムやカリウムなどのミネラルを多く含んでいます、そしてナッツもミネラル、食物繊維、不飽和脂肪酸が含まれている。これを食べたから健康になれるとは言いませんが、お腹が空いたらこれを食べるのは良いことかもしれません」修造は普段無口だがパンの説明になると饒舌になる。
「そうなのね」と言って渡されたパンを食べてみた。
思っていたより固くなくて生地には水分が多く、パサついておらず酸味が旨味に感じられ、それがマッチしてフルーツとナッツがより美味しく感じられる。
「あら、美味しいわ」
修造はまた口角を上げて笑った。
「こんな風に薄く切ってよく噛んで召し上がるとあまり沢山食べなくてもお腹が満たされる」
「やってみるわ」
と言う会話も、周りを人が囲んで皆写真を撮っていた。修造はパンを一口サイズに切って「これどうぞ」と言うと皆一斉に手に取りあっという間に無くなった。
それをみていた立花が「凄い人気ね」と呟くと、大坂が「さすが修造さんですね」と隣に立って返事をしてきた。あれから大坂は何かにつけ話しかけてくる、立花が要るものを先にとってくれたり、高いところの物を取ろうとするので「気を使わないで頂戴」と言われて、流石にアプローチが過ぎると反省したのか最近はちょっとだけ静かになった。
「修造さん、パン好きビクトリィの会長横田元子が取材に来る日ですよ」
江川がホワイトボードの予定表を見ながら言った。
「あ、本当だ、もうすぐ来るね」
岡田にそう言おうと思ったが、すでに店内に落ちたパン屑を掃除してくれたり、パンを綺麗に並べてくれている。
「いつもながら岡田には感謝だなあ」
しみじみとそう言ってると「修造シェフ」と横田が声を掛けてきた。
「この間は長々と車の鍵を探して頂いて本当にすみませんでした」横田は頭を下げた。
「いえいえ、見つかって良かったですよ、パン粉ちゃんのお陰です。あの後番組に出して貰ったんですか?」
「はい、パン粉ちゃん私の知らないパン屋にも詳しくて驚きました。しっかりしてますね彼女」
「そうですね、江川も世話になってる様です」
「さて、シェフ。店内でパンとシェフのお写真を撮りたいんですが、どのパンが良いかしら」
横田は店内を見回って「これですかね」と言ってトレーに修造拘りのプレッツェルやブロートを持ってきた。流石業界通、よく調べてある。もしこの時点から「わあ〜美味しそう!何がおすすめですかぁ?」と聞いてきていたら「何も知らないで来たな」とあまり相手にしないかも知れない。なので横田に敬意を表して少し深めの説明をした。特にドイツの修行時代の話やその時仲良くなった親友、世話になった師匠の事も話した。あまり表に出ない話だったので横田は大喜びでボイスレコーダーを回しながら特筆のメモも取っていた。
大会で優勝するという事は過去の話も有り難がられるものなんだなどという事は、この店を開店してから日に日に濃くなっていく。
そして横田の『リーブロ訪問!修造シェフに直聞き』という記事はパン好きビクトリィのホームページに載り、さらに忙しくなっていく。
こうなると時間内に仕事を納めるのは難しい。修造はそんな時、従業員になりたいと言う江川の知り合いからの電話を受け取る。「一人は製造もできて事務もできるの?有難いなぁ!そして仕込みの専門と焼きの専門がいるの?すぐ面接に来てよ!」
と電話を切って江川に知らせた。
「僕の知り合いですか?」
パンロンドかベッカライホルツの職人しか知らないので、誰かと思っていたら「あっ!塚田さん、三田さん、辻さん」以前(イーグルフェザーと言うお話で)鷲羽とヘルプに行ったベークウェルと言うパン屋で知り合った職人達が入って来たので江川は大喜びだった。
三人は江川を囲んで再会を喜んだ。
それを見ていた修造は江川にとって良い環境になって来たと安堵していた。
塚田は顔立ちがキリッとして頭の良さそうな奴だ。その塚田が言うには「僕たちのいたベークウェルは店長の横流しと使い込みが原因で経営が困難になっていました。それで社長があの店を閉めることにして、僕たちは他の店舗にバラバラに移動になっていました。そんな時に江川さんの居る店が開店したと聞いて三人で応募したんです」
「そうだったんだ、色々大変だったんだね」
「これから江川さんと一緒に仕事できるし、修造さんにも仕事を教えて貰いたいです」
「みんなよろしくね」
「はい」
四人は青春っぽく拳を合わせた。
その時
販売員の安芸川が店から「修造シェフ」と緊張した面持ちで内線をかけて来た。
「どうしたの?安芸川さん」
「し、市長が来られてます」
「えっ!市長が?」
店に降りてみると良い仕立てのスーツを着た貫禄ある女性と秘書っぽい細い男が立っている。
「いらっしゃいませ」修造が声をかけた。「あなたがここのシェフの修造さんですか、私笹目市長の富沢富美代と申します」と名刺を渡してきた。
「どうも」
「先日私の母がこちらで食べたパンがとても美味しかったと話しておりました。それ以降シェフの話ばかりしております。あなたは世界大会で優勝さなったシェフだそうじゃないですか」
「はあ」
「実は今度笹目中央公会堂で一ヶ月間地域おこしのイベントがあります。イベント会場ににこのお店の出店を記念してパンで何かを作って頂けたらと考えております」
パンで何かを作るって随分ぼんやりしてるなと思って聞いていると「シェフが母に長い名前のパンをテーブルでカットして下さった話を何度もするもので、シェフの事を調べて貰ったらとても立派な着物の女性をパンで作ってらっしゃった。それでどうでしょう、イベント用にパンで大型の飾りパンを作って下さいませんでしょうか」
修造は以前パンの試食をして貰った婦人の事を思い出した。
「あの奥さんの娘さんでしたか、勿論力になりたいけど、もっと長持ちする芸術作品の方がいいんじゃありませんが?残念ながら重みで撓んできたり劣化したりするものなんです」
「そうなんですね、何かいいアイデアがあったらまたお知らせください」
「考えときます」
市長のお母さんの為なら頑張りたい気持ちはある、だけど他にもっとあるだろう、ブロンズ像とか油絵とか。と言いながら修造の中ではアイデアが大きく膨らんでいく、頭の中でどんな形でどんな大きさで、どこに置くんだろう、どんな人が見るんだろうなどなど考えが止まらなくなっていく。
そして作る工程を考え出すともう止まらない、イラストを描いてここのパーツはこんな風にして、ここはこんな色にして。
そしてとうとう作り始めてしまう。
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何日か後
市長の秘書の島田が来た。
「田所様、あれからお考え頂けたでしょうか」
「そうですね、イベント期間中だけ飾っておいてあとは持って帰って店に飾っておくか、欲しいと言う人にあげてもいいとか考えてました」修造は島田に設計図を渡した。
「なんと立派な!ここまで考えて頂いてありがとうございます。ではその様に進めさせて頂きます」
話してると江川と塚田がやって来て「ねぇ、あれってねえ、大変なんだ作るの」と江川が「まさかただって訳じゃないんでしょう?材料費の事もあるし」と塚田が二人で秘書を挟んで言った。
「では帰ってその旨市長に報告してご連絡致します。会議で予算が通ったらお支払い可能です。材料費が分かりましたらメールでお知らせ下さい」
「頼んだよー」
うわ、俺ならそう言うの言い出しにくいなと修造は見ていた「凄いな2人とも」
そんな訳で修造の芸術作品は公会堂のイベントに飾られる事になった。
沢山の人に分かりやすい物をと考えて、パンのヴィーナスというテーマにする。
生命の息吹と未来への羽ばたきだ。
しかし修造のイメージを実現化するにはパーツの数が半端ないしとにかく重くなるだろう。それを支える為に土台も重くした。
「完成してから運んだんじゃ壊れそうだから現場で組み立てたいんですよ」
修造は秘書に電話した。
そしてイベントの何日か前に土台を現場に運んだ。
イベント会場は公会堂の外にあり、舞台と観客席がある。その上の大きな屋根は白いテントでできている。仮設ではないのでそこでは度々音楽ショーや野外映画会などが行われている様だ。
今回は地域おこしのイベントなので、リーブロはその町にある店という事で修造のパンの作品(パンデコレ)は舞台の後ろの真ん中に飾られる。
「まあここなら外とはいえ雨も掛からないしな、よほどの風が吹かないと大丈夫だろう」
その日から修造は工房でパーツを作っては会場に持っていって江川と二人で仕上げる日々が続いた。
修造と江川が水飴でパーツが外れない様に仕上げていき、冷却スプレーでそれを冷やし固めていく。
倒れてはいけないので裏側に角材を取り付けて柱に結んだ。島田が夜は誰かしらが悪戯するといけないので囲いを設けてくれていた。
「何日かかけて現場に作りに行ってるんだ」修造は工房で仕事中横にいた和鍵に説明した。
「私もお手伝いしに行って良いですか」
「うん、じゃあ今日の夕方現場に行ってパーツを取り付けてみよう」
「はい」
いつもは江川と来るのだが、今日は和鍵と細かいパーツの取り付けを行った。
作業中
修造がパーツを取り付けながら言った「不思議なものだな、最近まで全然知らない土地だった所で受け入れられて、イベントで一か月の間皆んなに見て貰えるものを作ってる。こうしてパンの可能性を広められるのは良いことだ」
「パンってスーパーに並んでるものだと思ってました。今は違いますけど」
「パンにも色々あるんだろう、この際驚く様なものを作ろう」
「はい」
近くにいると修造の燃える様な熱意と作品から情熱が伝わってくる。
過去に和鍵の周りにいた人を裏切ったり嘘をついたりする大人とは全く違う種類の修造の人間像に対して強い憧れを抱いている。
「私ももっとパンの勉強がしたいです」
「明日手ごねをやってみよう。普段はトッピングとか成形ばかりだから目先を変えてみようか」
「はい!お願いします」
最近の暗い顔に比べて和鍵希良梨の顔色が明るくなった。
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とうとうパンデコレは出来上がった。
イベント会場には明日の準備で多くのスタッフがいて、皆作業の手を止めて時々振り返っては高さ2メートル50センチで見た目にも圧倒される『パンの女神』を珍しがったり感嘆の声を上げたりしている。
土台の形は修造得意の組み立ての技法で複雑な形を成し、細かなパーツは執念によって作られ組み立てられた。宝石の様な色合いは色を変えた飴細工によって成されていて、輝きを添えている。
島田がやって来た「田所様、いやー驚きました!凄いものが出来上がりましたね。明日から一ヶ月間はとうとうイベントの日です。毎日色んな地域の町おこしがやって来て、土日は特に人が動いて賑わうでしょう。市長もお喜びです。こちらイベント終了後は第一庁舎のロビーに飾られる事になっています」
「建物内に運んで貰えるなんて有り難いです。それと礼金まで払って頂いてすみません」
「文化芸術予算から経費が出ました。まさかこんな綺麗で大きいものがパンでできるなんて思いもよりませんでした」
「どうも」
「では明日オープニングで挨拶をお願いしますね」
「えっ?挨拶!?」
「はい、スタッフの朝礼の挨拶みたいな感じでお願いします」
「何を話せば良いんですか」
「シェフの事を知らない方の為に経歴とこの作品を作った訳とかでも良いですし」
「うーん、考えてみます」
「ではよろしくお願いします」
修造は家に帰ってただいまのハグをしながら妻の律子にその事を話した。
「挨拶かあ。明日は来賓客の中にはイベント関係者とか市の有力者とか来そうね」
「そんな人達に挨拶とか苦手だよ」
「イベント開催のお祝いと感謝の気持ちを伝えたら良いんじゃない?」
「そうするよ、おめでとうございますありがとうございますとか言って時間を稼ぐよ」
修造は原稿を書き出した。
笹目市について少し調べてみる。産業は山と畑が多いせいか農業が盛ん、特産物はイチゴや梨など。
他に工業製品の会社も多い。
「うーん、挨拶とは関係ないなあ」
修造は頭を悩ませた。
次の日
イベント開催の時刻になり、階段状になった座席には地元の人や来賓客が並んで座っていた。
市長の挨拶が過ぎ「世界大会で優勝したパンのシェフに作品を作って頂きました。盛大な拍手をお願いします」と言う言葉と共にパンデコレの前に掛かっていた垂れ幕が外される。
人々は驚いて「あれパンで出来てるの?」と口々に言っている。
「それでは田所シェフ、皆さんにご挨拶をお願いします」
え!
修造は多くの人を前にして用意していた挨拶を忘れてしまった。
なんだっけ?と、客席に座っている律子の顔を見た。
律子は子供達と並んでいて、頑張ってと拳をグッと握ってて見せた。
仕方ない、普通の事を普通に話すかと覚悟を決めた。
「あの、田所と言います。リーベンアンドブロートは生活とパンと言う意味で名づけました。毎日の生活にパンは欠かせない、そこには色んなライフスタイルがあって、色んな場面で色んなパンが食べられている。縁あってこの笹目市に店を構えたんですから地元のお客さんの生活にリーベンアンドブロートのパンを取り入れて頂けたらと思っています。パン屋さんの仕事は過酷と思ってる人が多いかも知れません。たとえ作ってる所が誰にも見えなくても出来たパンがお客さんといい出会いがあればそれでいい。これからも俺はその為に努力を惜しまないつもりです」
と言って頭を下げた。
剛毅木訥、仁に近し
修造は頑張った。
人々は修造に拍手を送り、無事オープニングイベントが始まった。
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「修造さん、秋なのに季節はずれの台風が近づいて来てるんですよ。三日後の夜にはこの近くを通るらしいですがあのパンデコレは大丈夫なんでしょうか?」
心配する江川に「明日辺り囲いを強固にしようか?」と答えた。
「そうですね、役所の方にも頼んでみたらどうでしょうか?」
「うん、俺電話してみるよ」
ところがその日の夕方にわかに風が強まって来た。早上がりの大坂と立花が心配して見に行くか相談している、それを和鍵も聞いていて、三人で行く事になる。
「修造さん、俺達帰りに見に行って来ます。シートと紐を持っていきますね」
「ありがとう大坂、俺も後で行くよ」
修造も作業が終わったら行く旨を伝えた。
三人がバスで駅前に移動して現場に立ち寄ったら会場の中に外から中心に向かって風が吹き、囲いが倒れていた。
パンの女神がグラグラしている。急いでシートを巻き付けようとしたが風で旗めいて上手くいかない。
大坂が「三人で囲いにシートを巻いて動かない様に固定させよう。俺が囲いを押さえてるから紐で巻いて、その後紐を両側の柱に結ぶ」
しかしダンボールなどの四角い荷物じゃあるまいし、無理に巻くと羽や複雑なパーツが折れる。結構困った状態に陥っていると横風が吹いた「あっ」パンの女神が横倒しに倒れそうになり急いで和鍵が支えたが突風が吹きつけ固定していた角材が外れ、バリバリと言う音と共に和鍵が下敷きになった。
「和鍵さん」バラバラになった破片を避けて大坂が引っ張り出した。
「すぐ救急車を呼んで」ベンチのところに和鍵を運びながら立花に言った。
「パンの女神が」和鍵は破片を掴んで壊れたパンデコレを見てショックを受けていた。
「救急車が来た!」立花が走って救急車から担架を出す隊員に声をかけに行った。
痛いところを色々聞かれている。どうやら手首と足首を痛めた様だ。歩けないので担架に乗せられて移動したので大坂は立花も救急車に乗せようとした。
「パンデコレはどうするの?」立花はパンの女神の方を振り向いた。
「ここは危ないから一緒に行って。俺は修造さんに連絡するよ」と言って立花を救急車に押し込んだ。
「私が残るよ」
「ダメダメ危ないから」
救急車の後ろのカーテンの隙間から心配そうに覗いている立花に大丈夫と目で合図していると救急車がサイレンを鳴らして動き出した。和鍵を診てくれる病院が見つかったんだろう。遠ざかる立花の視線を見送った後、修造に電話して起きた事を話した。
「大坂ありがとうな。俺は立花さんに電話して行った先の病院に向かうよ。危ないからもう帰っていいよ」と言われるが、紐もシートもバラバラになったのをまとめて、本体を横にした後折れた大量のパーツを集めた。「これって元に戻るのかな」
打ちつけてくる強風の中、なんとか一人で全てをシートで覆い紐を左右の柱に渡して結んだ。
その後立花に電話して病院を聞いて駆けつけたらもう修造が立花から話を聞いていた。
「修造さんすみません。なんとかしようと思ったんですが、風に煽られて和鍵さんが下敷きになっちゃって」
「二人が悪いんじゃないよ。ありがとうな、もう帰っていいからね」と言って修造は和鍵の病室に入った。
それを見送ってから立花が「あれからどうなったの?」と大坂の服についた落ち葉を取りながら聞いた。
「うん、とりあえずまとめてシートでカバーしたよ、天気が良くなったら治るかどうか修造さんに見てもらおう」
「そうね、和鍵さんは足を痛めたけど検査は明日になるらしいわ」
「今日は入院かな」
「さっき和鍵さんが家族に電話してたわよ。すぐ来ると思う」
「そうなんだ。あんなにパンデコレを心配してたんで、思ってたよりいい奴なんだなと思ったよ」大坂は病室の方を向いて言った。
「こないだは修造さんにパンの仕込みを真剣に教わっていたわ。今日はカンパーニュを教わってた」
「そうだったな」
と、そこで会話が途切れたので
「風が強いから送って行くよ」と会話を繋げた。
「いいわよ、また帰り道が分からなくなるわ」
「うっ!だ、大丈夫だと、思います、それに道々目印になるものを見ながら歩いたら良い。何かいい店があれば言ってください」
「途中美味しそうな町中華の店があるわ、いつもいい匂いがするの」
「それだ!」
「なんだかお腹空いたわね、もう7時過ぎてるもの」
「じゃあそこで飯食って帰りましょう」
「そうね」
「こんな風に話してるなんて俺たち随分仲良くなりましたよね」
「そうかしら」
さっきは随分心配そうだったのに立花は気のない感じで答えた。
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一方病室では手当の終わった和鍵がベットに横になっていた。
「悪かったな和鍵さん。うちの作品を守る為に怪我をさせてしまった。本当に申し訳ない」修造は頭を下げた。
「治療費と休業保証はさせて貰うから」
「骨折はして無いとお医者さんも言っていました。すぐ退院と思うので大丈夫です。私修造シェフの事が大切なんです、だからあれを守りたかった。あんなに何度も作りに行ってたのに結局壊れてしまった」
「自分を責めるのは間違ってるよ」
その時和鍵の両親が横開きのドアを勢いよく開けて、修造を見るなり激昂しながら入って来た。
「和鍵さんのご両親ですか?この度は申し訳ありません」「お前か!うちの娘を退職させようとしたパワハラ上司は!今度はうちの娘を怪我させて!手をついて謝れ!今度こそ訴えてやるからな」と詰め寄った。
「やめてよ2人とも!こんな店こっちから辞めてやる!だからもういいでしょう。疲れたから今日は2人とも帰って」
と言って枕を怪我してない方の手で投げつけた。枕は両親にあたる前に修造がキャッチしてベッドの足元に置いた。
「大嫌い!訴えたら許さない!」
これまでずっと可愛がっていた娘に大嫌いと言われて父親は狼狽えた「何故なんだ、お前の為に言ってやってるんだよ」
「頼んでないわよ!早く帰って」言われた通りにする習性が染み付いている母親は「お父さん、また明日来ましょう、もう辞めるって言ってるし、それでいいでじゃない」母親にグイグイ押されて父親は病室から消えた。
修造はしゃがんで和鍵の顔を覗き込んで言った。
「今俺を庇う為に辞めるって言ったんだろう。本心じゃないじゃないか」
「いえ、もういいんです」
和鍵はそれ以降、下を向いて何も言わなかった。
大切と言った事に返事が欲しかったが、聞かなくても分かっている。修造にとって律子が一番なのは見ていて分かる。
病室で一人窓の外の吹き付ける風の音を聞きながら「もう色々無理だから」と呟く。
夜九時頃
大雨が降っていた。
修造は一旦リーブロに戻ってから和鍵の家を訪ねた。
「何しに来た!」
さっきのイライラもあって、父親は玄関先で修造を叱責した。
「先ほどは申し訳ありませんでした」
大嫌いとか訴えたら許さないと娘に言われたばかりなので裁判の話はしなかったが怒りが収まらない。
「うちの娘に怪我をさせて!どうしてくれるんだ」
その後ろで母親は何故娘がこの男を庇うのか不思議で観察する
男らしい責任感のある態度
一本気な感じ、ひょっとして娘はこの男の事が。そう思いながら口に手を当てて修造を凝視した。
修造はバッグから取り出した和鍵のパンを見せた。
「和鍵さんはうちの社員をいじめていました。その後その社員と勝負をして負けたんです」
「希良梨が」
「はい、だけど段々変化してきたと思います。最近は仕事に向き合っていた。俺も和鍵さんに本格的にパンを教え始めた所でした。これを見て下さい」
「これはなんだ?」
「このパンはミッシュブロートと言って小麦とライ麦を配合したパンです。和鍵さんが生地を作ったものです」
そう言って父親にパンを渡して話を続けた。
「今日パン作りをしていた時は辞める様子なんて微塵も無かった。今日は俺を庇う為に辞めると言ってしまったんでは無いですか」
「希良梨があんたの所の職人をいじめていたのか」
「はい、でも今は違います。上手くやっていけそうでした」
和鍵希良梨が高校生の時、担任に娘が同級生をいじめていた事があると聞いたが全く信じずに『うちの娘がいじめなんてする訳がない』と突っぱねて話も聞かず、校長に捻じ込んで担任を糾弾して辞めさせた事がある。その時娘の希良梨はいかにも自分は悪くない様に立ち回っていた。
ところが今は遠回しに店やこの男を庇っている。
「一体何故なんだ」父親の呟きを聞いて母親が言った。
「オーナーの事が好きなのよ」
「えっ」修造と父親が同じぐらい驚いた声を出した。
「だから辞めると言ったのよ。この責任はどうとってくれるの。あなた結婚してるんでしょう、離婚しなさいよ」
「離婚なんてしません。急に何を言ってるんですか」
「それがあの子の望みだからよ」
「飛躍しないで下さい。そんな話をしに来たんじゃない」
「ママ、何を言ってるんだ」父親は両手を振って母親を遮ったが、父親越しに続けた。
「さっきあんたも希良梨が自分を庇う為に辞めると言ったって言ってたじゃない。責任取りなさいよ」
「馬鹿な事を言うなママ」
「問題をすり替えないで下さい。本当の事に目を背け過ぎだ。そんな発想子離れしてないのが原因でしょう。娘さんは職人として自立しかけている、俺はその事を話しに来たんだ。その為にパンを見せたのに」
二人とも話が通じず変な方向に向いてきた。修造にすれば自分のところの職人を大事に育てたいからやってきたのに。
「このまま和鍵さんが成長するのを邪魔してばかりではうちも辞めてご両親とも上手くいかなくなるんじゃないですか?もう変わらないといけない所まで来てるんですよ。あなた達が捻じ曲げてきた結果でしょう」
二人とも黙ってしまった。
心当たりがあり過ぎて困っている様だ。
「俺は明日和鍵さんともう一度話してみます。今日このパンを前にして、今後の事をよく考えてみて下さい」
そう言って出て行った修造をそのまま見送り、二人は食卓にミッシュブロートをおいて向かい合って座った。
「希良梨は大人になってきたんだな。あの男がさっき希良梨は段々変わって仕事に向き合ってると言っていた」
「そうね」
「あの男の言う通り私達も考え直さないといけないな」
和鍵の父親はパンを母親に渡した「これを切ってくれよ。希良梨の作ったパンだ」
「そうね、頂いてみましょう」
和鍵の母親はパン切り包丁でカットしたミッシュブロートを皿に乗せてだした。
クラストは力強く、クラムはしっとりとしている。
「美味しいわね」
「そうだな、こういうパンって固いと思っていたが意外と甘いもちもちした食感なんだな」
「これを希良梨が作ったのね。私達あの子を子供扱いして、気持ちも良く聞かずに決めつけてた所があったわね」
「段々色んな経験を積んで大人になっていくんだな」
二人は生地の断面を見ながらしみじみと言った。
ーーーー
次の日
強く雨と風が吹きつけていた。
修造は仕事終わりにもう一度和鍵の病院を訪ねた。
「具合はどう?改めてうちのパンデコレを守ろうと怪我をさせてしまった事、申し訳ない」修造は頭を下げた。
「もう大丈夫です。明日退院なんですが、ただの打ち身だったので入院しなくてもよかったのに」
「怪我に変わりはないよ」
「パンデコレはどうなりましたか?」
「大坂が上手くまとめてくれたそうだから後で見に行ってみるよ」
「はい」
「昨日辞めると言っていた事で、あの後ご両親と話してきたよ」
「そうだったんですか。私も昨日よく考えました。今までの自分は間違っていた。真実を捻じ曲げてきたんだなって」
「これからもっと変われるよ。ご両親も和鍵さんの変化と共に変わってくれるんじゃないかな」
「うちの親はやり過ぎるんです。私も両親に合わせてたし、両親も私に合わせていて、それが悪い方にいってたなって思います。江川さんの事、すみませんでした。辞める前に謝ろうと思ってました」
「昨日のことならもう裁判にはならないしだったら辞めなくても良いんじゃない?」
「いえ、もう無理を通したくない。私一人で暮らして新しい環境で一から頑張りたいです」
「そうか、わかったよ。応援してるからな」
「はい」
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嵐が過ぎた後のイベント広場は落ち葉があちこちに散乱して荒れていた。
「今日はどんよりしていて涼しいパン屋日和でしたね、お店も沢山お客さんが来てましたね修造さん」
「だな、江川」
修造と江川はパンのヴィーナスの修復ができるかどうか見に来ていた。
「大坂がちゃんとまとめてくれたんだよ」
よく似たパーツを集めてあったので助かる。前の様にはいかないが、遠目には分からないぐらいには治せるだろう。
「イベントが終わったらこれはもうダメだな。腕も折れてるし」
「残念ですね、あんなに頑張ったのに」江川がシクシク泣きながら修復していた。「仕方ないよ形あるものはいつか壊れるんだ」
「だって」
「江川」
「和鍵さんが辞めるんだ」
「僕お見舞いの電話をした時和鍵さんから直接聞きました。僕に『今までごめんね』って言ってくれました」
「そうなんだな。なんか辛いな。色々あったけど一生懸命やってくれていた」
「予想もつかない事が沢山ありますね」
「それでもひとつひとつ乗り越えていかないとな」
江川はパーツを引っ付けながら言った「あの」
「うん」
「僕も言ってなかった事があります」
「え?」
江川はずっと修造に言わなくてはいけないと思っていた事があった。
今二人きりなので言うべきかと思っていた。
「僕本当は男の身体なのになんだか男でも女でもなくて、それで心が不安定なんです。愛莉ちゃんだけがこの事を知っています」
「うん?」
修造は手を止めて頭の中でもう一度江川の言う事を復唱した。
修造にとって予想もつかない事だった。
「そうだったんだ。俺は鈍いから江川の悩みを全然気が付いてやれなかった。きっと辛かったんだろうな。だけど俺にとって江川は江川なんだ。今までと変わらず接するよ。教えてくれてありがとうな」
「僕もこれからもずっと今まで通り修造さんとパンが作りたいです。面接で修造さんと初めて会った時、修造さんは丁度生地を捏ねていて、凄く無心で誰が自分の事をどう思ってるかとかそんな事関係ない生き方もあるんだって思いました。僕もそんな風にに生きられたら良いと思います」
これからもと聞いて、修造は2年でお前を一人前にする計画を練っているんだからと心の中で思った。
「ふふふ」修造が建てている計画、それはどんな事なのか。
パン屋日和 おわり
修造の計画の前に
次のお話は製パンアンドロイドが生まれるお話です。
どうぞおおらかな気持ちでご覧ください。