2012年11月11日(日)

陸前高田のこと。りんごまつりの前にpart1

東日本大震災から1年と8ヶ月経ちました。

テレビで見た津波の映像の驚きは今も忘れません。

地震当時私はよくテレビやツイッターをチェックしていました。
そんな時パンラボの池田浩明さんというライターの人が、パンを通じて被災地に支援しているのを知り、
何か協力できるかDMを送ったのです。

うちのお店は大阪にありしかも小さな店ですので、池田さんは考えて60人の方が避難している陸前高田の米崎町にある自然休養村を紹介して頂きました。
1番初めにミニパンセットを60人分送らせてもらったのですが、その日は自然休養村の避難してらっしゃる方が仮設に移るので、ここでのみんなで過ごす夜は今日が最後だねという夜にパンが丁度のタイミングで届き、会にちょっとした花を添えることが出来たのでした。

そのすぐ後、避難所の方からお手紙を頂き、その手紙には震災時の必死の思いで逃げた様子、その後親戚に身を寄せた遠慮の気持ち、これからへの不安が切々と書いてありました。
もう1通は、休養村の避難所の代表の菊池さんという女性からのお手紙で、現状について色々と教えて下さいました。それから何回かパンや手紙のやり取りがあり、東海新報という新聞にグロワールの事を紹介して下さったこともありました。

私は菊池さんという女性の温厚なお人柄に親愛の情を抱いていて、遠いからとか仕事があるとかで1度も行かないのは不義理だと思い、よく地図を調べたり時刻表を調べたりしていました。

そのうち池田さんからお電話があり、「東北のパンのイベントがあります」というお話だったので、店長の許可を取って東北行きの新幹線に乗ったのです。

大阪から東京へ3時間、東京から一関まで2時間半、そこから気仙沼まで1時間半かかりました。
駅では菊池さんのお兄様と旦那様が迎えに来てくださいました。
気仙沼から米崎までの道のりで初めて見たのは津波に打ち上げられた船でした。

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その時はまだ気が付きませんでしたが、草原だと思っていたところは、全て津波の被害に合われた家々の瓦礫が全て撤去された後だったのです。

私は陸前高田に4件しかないという民宿のひとつ、むさしに案内して頂きました。
何故4件しかないというと、海際のホテルなどの宿泊施設は流されてしまったからで、 むさしも8月まで避難所に使われていたそうです。

むさしは外観は普通の民家ですが、玄関や居間の囲炉裏や調度は小奇麗で品がよく、どれも埃などかかっていなく部屋も掃除が行き届いていて、お風呂も綺麗なお湯がたっぷりと張ってありました。
民宿の人も凄くいい人そうなお父さんとお母さんと娘さんという感じでした。

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6時にお迎えに来て頂き、米崎町の菊池さんのお宅に向かいました。
道々菊池さんのお兄様のお宅や工場が津波にのまれたお話、逃げる時のお話、元はここにどんなお店や家があった、誰が住んでいたというお話を聞きました。

もうあたりは真っ暗で遠くは見えなかったのですが、そこには確かに元家の土台があちこちにあり、それが車のライトにうつし出される風景が延々と続いていました。

車を降りた時、降るような星空でした。大阪では絶対見えない満天の星空が広がっていました。

「ネオンが無くなったからね」

というお兄様の言葉で初めてそうなんだと気づきました。
そこでは早くお会いしたかった菊池さんが待っていてくださいました。
手を握り合い言葉を交わせてとても嬉しかった。
菊池さんのお宅ではたいそう歓迎して頂き20人程の大人の方が集まって下さっていました。
可愛らしいお孫さんもいて、わきあいあいとした雰囲気でした。

1月にお世話になったりんご農家の和野果樹園のご夫婦と初めてお話させて頂きました。
その後は女性会の方とお話できたのですが、その中に以前お手紙を下さった方がいらっしゃってお話をさせて貰えました。
高齢のお母様の手を引っ張って命からがら高台へ逃げ助かったが、お家は流されてしまい、お母様も親戚のお家で遠慮をしながら過ごしていたので、早く仮設に入りたいと願っていたけど、先日お宅を新築なさって
親孝行が出来たとおっしゃっていました。

仮設に入られてからは皆中々集まれなかったけど、久しぶりにみんなで集まって話が弾んでおられましたが、やはり瓦礫の中から写真が返ってきたけど見覚えの無いものもあるというお話や、服屋さんが無くてあっても種類が選べないお話、何々は津波に持っていかれたというお話など津波のお話が多く、日常なんだなぁと思いました。

女性同士で集まりお話をしていたのですが、その中に鈴木建具店の奥さんがいらっしゃいました。
奥さんもお店も工場も全てを津波で無くした方のお1人で、3.11の地震の後、家から出てみると向こうの方に津波が見えたので、車に乗って急いで逃げてると3人の走って逃げる人がいたので車の横の扉を自動で開けて乗って貰い、急いで逃げて助かったそうです。
その後は宮城にある工場の一角を間借りしてお仕事をされ、冬はストーブ1台で本当に寒い中震えながら仕事されたのですが、機械が流されたので中古の機械を手に入れたのですが、今までの仕事の5分の1の能力しかなく、それでも1日も休まず仕事されたかいあって家と工場を新築されて今はお孫さんと暮らしてるそうです。

地震当時、陸前高田の総人口は約24000人、現在の生存確認数が約22000人。
今ここに集まっているのは当然助かった方だけが集まっているわけですし、運よくすぐ逃げれる条件の場所に居た方、渋滞に巻き込まれず車で逃げれた、そばに高台があって必死で登ったら助かった方がほとんどです。
しかし仮設に入っている訳ですから家も工場も車も店も流されてしまい、何もかも無くなった、それなのに私に微笑みかけて優しい言葉をかけて下さる。
徐々に言葉少なになった私を見てか、菊池さんが民宿まで送って下さいました。
むさしに帰ってからも、建具屋さんのお話がずっと耳に残っていました。

次の日は朝食の時土建屋の人達が沢山朝早く発って行ったのですが、その人達は解体作業の為に来た埼玉の土建屋さんだそうで。長期で泊まって作業をしているそうです。

民宿むさしさんの玄関の調度品

民宿むさしさんの玄関の調度品

(民宿むさしさんの玄関の調度品)

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私は朝食後待ち合わせの時間までむさしの下の道を降りて見に行きましたが
途中から取り壊された土台だけの所が多くなっていきました。
海のほうではブルドーザーがもう動いていました、
さっきの人達かもしれません。建設中の家もありました。
戻ると菊池さんがお迎えに来てくださっていて、むさしを後にしました。

昨日は夜で暗かったのでわかりませんでしたが
高田に近づくにつれ町は段々被害の範囲が広大になっていきました。
陸前高田の町は海際の平地のところはことごとく津波が襲い
土を盛って家の土台を嵩上げしてる所やギリギリ小高い田畑や家までは
全てがもうすでに瓦礫が取り去ってあって後には野原の様に雑草に覆われていました。

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車は川に沿って走り、気仙沼中学の横を通りました。
4階まで津波が学校の中を通り裏側には波が運んで来た様々な物が突き出ていました。
その先には小学校があり、体育館は車が流れついて燃え真っ黒になっていました。

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川沿いに虹のライブラリーという仮設の図書館がありました。
そこは川から見て小高いところにあり、私は下からその建物を撮りました。
足元に食器のかけらが集めてあり真ん中には何故だか陸前高田の文字の入った食器のかけらがあり、 それが全ての象徴の様にも思えました。

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川沿いは延々と被害が続いていて、ここら辺は床下浸水という地域に差し掛かり、もう海とは全然関係のない山間部でしたが、川が強い波を運んで来た爪あとがあちこちに残っていました。

山道を少し入った所に八木澤商店の新店舗がありました。

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八木澤商店は文化4年創業(創業約200年)の老舗で醤油、味噌、たれ、つゆ等を扱っていて、津波で店と工場が流されてしまいましたが、一関に工場が新しくでき、店も最近できたそうです。
新しいお店は雰囲気もよく和やかで、もし旅先でこんなお店に入ったらきっとお土産を沢山買ってしまうんだろうなと思わせるような素敵なお店でした。
こちらの醤油や味噌を頂いて食べた事がありますが、味噌はほんとに自然な深みのある優しい味で、醤油はどこを捜しても嫌味のない澄んだ味がして料理に使うととてもいい味を出してくれる商品でした。

私達は八木澤商店を後にしてもう一度陸前高田の中心地に戻りました。

また再び川沿いに被害が続き、それは海に向かって広くひろがっていました。

part1終わり part2へ続く


2012年01月21日(土)

りんごの日

こんにちは。

1月21日、22日は岩手県陸前高田のりんごを使ったパンを販売しています。

132713331018913114222_mise前々から「買いにくるわね」「予約するわね」「今駅だけどお店はどこ?」とお客様にお問い合わせいただきました。

今日はりんご祭です。

132713347940213211570_appleお店の人も頑張ってます。

132713353252713114222_reji天然酵母のりんごのパンです。
うちは色んな年齢層のお客様がいらっしゃるので、できるだけ見たままの名前をつけることにしています。

132713376505113211570_appuruドライアップル、ナッツ、レーズン。

132713387279913113978_ringoりんごとクリーム、ナッツ、りんごのソテー、ドライアップル、りんごの煮汁、アーモンドクランチ。
2種類のりんごが入ってるのはソテーは風味、ドライは食感の為です。

132713422783713213297_apple1手前がわいわいアップルデニッシュ。
奥がりんごのデニッシュです。
4種のパンに岩手県陸前高田のと書いてあります。
私達お店のものにとりましても大切な思い出になるイベントです。感謝です。

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2012年01月07日(土)

1月21日(土)22日(日)りんご絆プロジェクト

繋げよう 岩手 東京 大阪を!リンゴ絆プロジェクト☆

1月21日(土)22日(日)岩手県は陸前高田の林檎(放射能検査済み未検出です)を使ったパンの販売を行います。
グロワールの店長が作ったリンゴのパンを是非召し上がれ!
このプロジェクトを考案なさった方は東京のパンラボ池田さんです。

こちらが池田さんからみなさんへのメッセージです。

3月11日の津波によって、陸前高田は壊滅的な被害を受けました。

沿岸部に集中していた、漁業などの産業施設や市街地、住宅地、農地のほとんどを津波が襲いました。

この町であった数少ないもの、それは高台にあったりんごの木です。
一部は津波に飲み込まれましたが、からくも難を逃れた木々には、いつもの年と変わらない、赤い小さな実がたくさんつきました。
どんな悲しみのときにも、希望はなお残されているということを、りんごは表しているように思いました。

陸前高田でパンをお配りしたお礼にいただいたりんごをおすそ分けしたとき、「勇気を貰ったようです」とみなさんによろこんでいただきました。

そこで、もっと多くの方にこの思いを共有していただき、また被災地へのほんのささやかですが支援になればと思い、イベントを企画いたしました。
陸前高田の米崎地区より送っていただいたりんごで、私達の大好きなパン屋さんにりんご入りのパンを作っていただこうというものです。

パン屋さんには、大変恐縮ですがりんごを購入いただき、それによってささやかながら陸前高田にお金がまわり、ひいては復興につながっていけばと思っております。

ご支援となる金額はわずかと思いますが、陸前高田の現実を知っていただいたり、陸前高田の産物を購入する機会を広げ、今後も継続して行っていくことでさらに多くの方に支援の輪に入っていただくきっかけになればと思っております。
使うりんごは陸前高田のジョナゴールド(検査済み)です。

このりんご達を使ったパンを1月21日から22日の2日間グロワールから売り出します。
この機会にお買い求めくださいませ。

主催:パンラボ、こんがりパンだ パンクラブ

グロワールの陸前高田との絆

昨年パンラボの池田さんが、沢山の関東のパン屋さんを通じて岩手県の避難所にパンを支援なさっていました。
それを知ったグロワールも、陸前高田の自然休養村という避難所に縁あって何度かパンを送らせていただいたのです(宅急便で送り、池田さんが手渡しして下さいました)。
そちらの方ともお手紙やハガキを頂いたり返信したりと 本当に絆が深まったと感じております。

今は皆様仮設住宅にお住まいですので年末にもラスクとカイロを送らせていただきました。
お子さんが美味しそうにラスクを頬張るかわいらしい写真付きのおハガキをお礼に貰いましたが、住所が中学校仮設で、胸の詰まる思いがいたしました。

春はまだ遠いですが、早く暖かくなりますように、そして協力してらっしゃるパン屋さんの気持ちが沢山の人の心に届きますように。


2011年07月13日(水)

被災地からの手紙

こんにちは。今日はツイッターを介して起こった出来事を是非お話させて下さい。

まずは初めからお話します。

出会い

ツイッターは色々な出会いやドラマがあるところだと常々考えておりました。お顔も知りませんが沢山仲良しさんが出来ました。

しょんぼりしてる時には励ましてくれたり、病気の時には心配もしてくれます(ありがとうね)。
フォローしフォローされ、その中で色んな事を教えて貰いました。

その中にパンラボというパン研究所があります。
パンの愛好家の方や、カメラマン、ライター、編集者の方がパンに関する記事を書いたり、ブログを書いたり、パンの4コマ漫画を描いたり(おもしろいよ)しています。

その中にライターの池田さんという方がおられます。
東京の美味しいパン屋さん200件をめぐってブログを書いてらっしゃる方で、私はその方のあるブログを読んで本当に涙が止まりませんでした。

震災後、被災地への支援をする為に東京の有名なパン屋さんに声を掛け、沢山のパン屋さんの協力を得て、みんなの作ったパンを車に満載して避難所に届けられたのです。

文章の端々に池田さんの被災地への思い、パンを通じての人間模様、そして他でもないパンへの思いが伝わってきました。

池田さんの書かれた関連記事

第1回 4月27日 被災地にパンを届ける http://panlabo.jugem.jp/?day=20110427
第2回 5月28日 ぱんを届ける 陸前高田編 http://panlabo.jugem.jp/?day=20110604
第2回続編 南相馬編 http://panlabo.jugem.jp/?day=20110610
(これが一番ジンときました、パルティールの事、村上さんの事)
第3回 6月25日 パンを届ける http://panlabo.jugem.jp/?day=20110629

被災地へ赴いた時の様子が書いてあります。是非読んでみてください。

人を突き動かすものとは何か

池田さんの書かれた文の中にこんな一節があります。

「パンを受け取るとき、パンを食べたときの笑顔が、私たちにとってのなによりの報酬だった。
避難者おひとりの幸福は、パンを届けた私たちの幸福になったのである。
パンを仲立ちとすることによって。
そしておそらくは、食べられたパン自身にとっても幸福なできごとであったにちがいない。」

第2回のブログを読み、池田さんの勇気と熱意と行動力がみんなを動かした、その時の私の感動した気持ちをすぐさま池田さんに伝え、グロワールからも少なからず協力させて頂ける事になりました。

私達はパン屋です、日々パンに携わり パンを食べて喜んで頂くことが1番の喜びです。
パンを通じて、被災地の方に何か伝えたい、何か出来ることは無いだろうか?
その思いは第1回目の頃の池田さんも パンを送った時の私もきっと同じ思いだったと勝手に思っています。

信頼

1度も面識はありませんが、何度かツイッター上やお電話でも打ち合わせがあり、ではいつ頃何人分と話は進んで行き、私達の力量にみあった人数での避難所を探してくれました。
(これがグロワールにとって素晴らしい出会いとなったのです。)

池田さんは会ったことのないこの大阪のパン屋のオバちゃんを信用してくださり、こちらがパンが間に合わないとか送れなければ、現場で待っていてくれる方にご迷惑が掛かるのに、「ではお願いします」と言って下さいました。

緊張しました!でもやらなければ。自分の気持ちを届けたい。パンを届けたい。
そしてこの知らない人に物を頼む「信頼」に答えたい。

パンを届ける

さて、グロワールは大阪の少し北の方にあります。
関東と違って直接届けるのは無理です。
宅急便に何度も訪ねましたが、まだ震災後航空便が岩手まで出ていないので、いくら頑張っても次の日の6時以降になり、それもはっきりとは言えないのお返事が返ってくるばかり。
無理も言えずしかし、遅くなると待っていて頂くのもお気の毒。
もう後は祈るばかりでした。

ツイッターにそのことを呟くと、何人もの人が励ましてくれました(みんなありがとうね)。
そしてグロワールの人達に実はこのお話は。。。と説明をした時 、皆が驚いたようなそして嬉しそうな顔で 心よく協力してくれたのです。
そしてもちろん店長大活躍でした。

池田さんからの電話

私達がパンを送ったのは陸前高田の自然休養村の避難所でした。
皆さんも多分ニュースで何度もご覧になったことのある地域です。

6月25日19時過ぎ、池田さんが避難所を出られてからお電話下さいました。
その声はなんだか不思議なものを見た時のような感慨深いもののように私には思えました。

その日は避難所の最後の日で、みな仮設住宅や行くところが決まって、自治会でパーティーを開いてくれている「励ます会」の始まりとともに、グロワールのパンが到着して、パーティーに華を添えることが出来たのだそうです。

なんという嬉しい偶然だったのでしょう!

詳しくは、池田さんのブログの被災地にパンを届ける「 第3回 http://t.co/hARwrGc 被災された方の多くは避難所から仮設住宅に移り自立への一歩を踏み出しています。」の後半にも書かれています。

宅急便ありがとう宅急便グッジョブ!!これが7時でも8時でもだめだったのです。6時ちょうどというところがニクイ!いい仕事してますね。

このことを書いたブログを印刷して、池田さんがグロワールに送ってくれたのでみんなで読みました。

2通の手紙

先日避難所の方からお礼のお手紙を送って頂きました。

胸がつまって涙が溢れるような内容のお手紙で、許可を頂き(このときも池田さんにお世話になりました)、お手紙の内容をここに書かせて頂きます。

菊池さんのお手紙

拝啓

厳しい暑さが続いておりますが、皆様におかれましてはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。

東日本大震災後、国内外の大勢の皆様に 物心両面に亘るご支援を賜り、心より厚く御礼申し上げます。

被災した我々の故郷も序々にガレキの撤去も進み、少数ですが仮店舗等も建設され、市内での買い物も以前よりはできるようになりました。

それでも未だ六百余名の行方不明者の方々がご家族の下へ帰っておらず、悲しみも苦しみも消えることなく、かける言葉を失ってしまいます。

私達の避難所でも津波の犠牲になられたご家族や流出してしまった家屋等の事を考えると、希望もなく暗くなることばかりでしたが、日に日に生かされた私達が一生懸命生きなければと、支えあい励ましあって避難所での共同生活を3ヶ月余り過ごしました。

お蔭様で仮設住宅への入居も決まって、避難所を閉鎖するにあたり、大阪のパン屋さんからのご支援に甘えさせていただき、パンパーティーを計画しましたところ、お世話になっている和野自治会の方々も一緒に「元気づける会」を、ということになりました。

いよいよ当日の夕方、いくつものダンボー箱が届きまして、開けてびっくり、「わあっ!すごい!」皆にこにこ顔、早速会場の皆さんにご紹介いたしました。

会場から突然「あ!手紙が入っている!」異口同音に「パーティーにぴったり!美味しいね。色んな味が楽しめて、ぬくもりのあるお手紙が入っていて、ありがたいことだね。嬉しいね。」等々。

すてきなパッケージに色々いっぱいのパン。感謝と満足の笑顔は、ご縁をくださいましたパンラボの池田様がご紹介して下さった通りでございます。

優しいお心使いとおいしいパンで更にいっぱいの元気を頂戴し、今後復興への道を共に歩むということで、今は元気で仮設住宅で過ごしております。

お痛みをおかけしました。ごちそうさまでした。ありがとうございました。

末筆ながら、皆様のご健康とパン屋のグロワール様の今後ますますのご繁栄を心よりお祈り申し上げます。

被災避難者一同

以上は菊池さんからのお手紙です。
頂いたお手紙をネットに載せるのは抵抗もありますし、パンも持ち上げて下さっていることが端々に感じられありがたくそして本当に申し訳ないのですが、ご自身も被災されているのに前向きで明るくお優しい文章をぜひとも皆さんに知らせたかったのです。

そしてもうお一人

鈴木さんからのお手紙

先日は、遠いところから、わざわざおいしいパンを届けていただきありがとうございました。
今回の津波により、人の優しさ、暖かさを感じ、家も車も失ったけど、幸せを感じ涙が止まりません。

今までも世界で色々な出来事をテレビ、新聞で見てきても、大変だなと思い多少の募金はしても、今回のように自ら出向いて応援できなかったことを反省し申し訳なく思いました。

私は今、夫(56才)と実母(83才)と私(52才)と三人暮らしです。

避難所である公園に避難し、部落の人達と余震におびえ、寒さで車の中で暖まっていました。
あまりに余震が恐いので、たまたま車の外に出た所、白い煙のようなものが見え、誰かの「来た来た」と言う声で足の不自由な母の手を取り、脇の少しなだらかな畑を歩き、脇を見ると、海と波と家の屋根が流れて行くのを見ながら、「ばあちゃん、早く早く、死ぬぞ」を繰り返しながら、必死でひっぱり歩きました。

後ろを振り返ると 我が家も流れ、もう何が何だか、まずは少しでも上に向かって歩こうと。。。

電柱がビリビリと倒れる音が高く恐かった。
息を切らし隣を見ると、母親と祖母が流され、涙を流している高校生が。
旦那さんと一緒に家を出たのに来なかったという、靴下がびしょぬれのおばあさんも。
さっきまで一緒だった人の姿が何人かいない(未だに見つかっていない)。

色々な事があって、まだ仮設も当たらず、親戚のところにいます。
今の夢は、仮設に入って大の字になって横になること。好きなものを使って料理を作ること。
第2の夢は新しい家を建てる事、今は余り時間が無いのです。

母はもう83才。
毎日腰が痛いのに洗濯したり草むしりしたりと気を使っています。
足を引きずりながらも畑で野菜を作る事、はぎれでかばんやスカートなど裁縫をする事が大好きなので、流された家の周りで足踏みミシンを見つけて喜んだものの やっぱり塩水をかぶるとだめですね。。。

これから家を建てたら新しいミシンを買ってあげるからねと話すと 嬉しそうに笑います。

今まで外出を嫌がってましたがもうじき神奈川の小田原に住んでる娘が遊びに来てというので、車椅子を手配して2人で行こうと思っています。

本当なら娘は里帰り出産で3月19日に帰ってくるはずだったのですが、地震が来て神奈川の方で1人で生んだようです。

それでは元気をありがとう。

なんという胸が締め付けられるお手紙でしょう(都合により一部割愛させて頂いていますが)。
恐ろしい津波から逃れる体験 そして生活のご苦労 親孝行な鈴木さんの苦しみは計り知れません

お二人とお電話でお話させて頂きました、菊池さんはお声も若々しく活発な感じのする方で、津波の時は、家の前からは普段宮城県が見えるけれども、波が高すぎてその景色が遮られるほどだったそうです。

お家は小高いところにあり、80㌢ほど浸水されましたが、周りにご家族を亡くされた方や行方不明の方、お家を流された方が沢山おられて、辛い毎日を過ごされたそうです。
行方不明の方もまだ同じ地域だけでも600人もおられ、避難所でも皆 生きなくちゃと明るく笑うけど 一人になると皆黙りこくるそうです

お心のうちは計り知れません。

菊池さんの地区では326世帯で800人余りの方がおられ 米崎町はりんご果樹園が多く、ふれあいりんご祭が行われていたそうです。
今の所は集まる場所もないそうですが、どうか今年の秋口には皆が集まって、お祭りが出来るほど復興しますように心よりお祈り申しあげます。

鈴木さんは電話の向こうでお元気なお声を聞かせて下さいました。

丁度お手紙の通り、神奈川の小田原城にお母さんや娘さんといらっしゃって、お孫さんも無事元気に育って 新幹線でも乗り継ぎの時、駅員さんが親切にしてくださったと喜んでおられ、更に嬉しいことに「今役所に電話して聞いたら、丁度仮設住宅が当選した!」とお話下さいました。

私もお手紙で、「足を伸ばして昼寝したい」「好きな料理を作りたい」とありましたので、もちろん入居後も問題は色々あるでしょうがまずは喜ばしい事ととらえ、おめでとうございますと一緒に喜びの時間を貰いました。本当に良かったです。

お手紙もグロワールのみんなで読みました。涙が止まりませんでした。みんなもうるうるしていました。
店長もありがとう(彼はいつも協力してくれて、一番頑張ってくれるのです)。

最後にこの素敵な出会いを下さった池田さんに感謝したいと存じます。

さて池田さんのお気持ちとしては、これを機会に東北と離れた地域のパン屋さんにも協力してもらい、パンをもっと被災地に送れたら、ということです。
もしこのブログを読んで自分も協力するよというパン屋さんがおられたら、どうかパンラボの池田さんのほうにご連絡お願いします。

http://panlabo.jugem.jp/?cid=1(パンのことが知りたくて、でも何も知らない私たちのための、パンのレッスン。【D】)

最後まで読んで下さってありがとうございました。

ちかブータン


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