2021年05月01日(土)

小説 パン職人の修造 第6部 再び世界大会へ 前編 

パン職人の修造 第6部 再び世界大会へ 前篇

 

高校生になった大地が修造と暮らし始めた。

「大地は何かやりたい事があるのかい?」と聞いたが大地もまた無口な方で、「うん」だけしか答えなかった。

こんな風に無口な自分の事を、律子はよく理解してくれていたな。

本当に感謝しかないよ。

修造はプライベートではまだまだぼんやりとしている事が多かった。

大地は先だっての父親への質問に何日か経って「俺、空手の全国大会に出るのが目標なんだ」と答えた。

「手足がすらりと長くて瞬発力がある大地は小さい頃から師範にも強くなるって言われてたな。楽しみにしてるよ。その時は応援に行くからね」

修造は大地とスパーリングをしたり得意技の三日月蹴りや、太ももの裏など身体の中で当たると痛い所を教えた。

上段蹴りを狙ってると見せかけて脇が開いた瞬間に蹴りを入れると相手は悶え苦しむなどなど試合に役立つあれこれを2人で練習してるうちに楽しくなってきて、久しぶりに気分が上がった気がした。

 

 

「身体を動かすのは良いな。俺もジムにでも通って少し体型を戻さないと痩せて筋肉も落ちてしまった」

「2人で行く?」

「大地はあまり筋肉をつけちゃいけないよ、身体が重くなるからね。トレーナーに相談してみよう」

そう言って大地と2人でジムに通い始めた。

もともと打ち込むタイプの修造はみるみるうちに身体が仕上がっていった。

「空手の練習は毎日欠かさずしないと、今日はいいや明日やろうなんて言ってると結局やってる奴と格段に差がでるんだ」

そう言いながら修業全般に通ずる言葉だと江川の顔が浮かんだ。

あいつは頼りなく見えて努力家なんだ、なんとか大会で成功させてやりたい。

 

ーーーー

 

世界大会に向け、準備をしていかなければならない。

「江川、地方の祭りでコアでヘビーな祭りを見に行こう。なるべく凄い熱気で炎の燃え盛っている迫力のある祭りだ」修造はパンデコレのデザインを決めようとしていた。

「今回はそっち方面で攻めていく訳ですね?」

「うん」

2人は車を走らせ奥州の火祭りを見に行った。

 

燃え盛る炎の中を灯籠を持った褌姿の男達が五穀豊穣を願う。

勢いと迫力がある。

火の粉が飛んで辺りは熱気に包まれ祭りは夜通し続いた。

バイタリティ溢れる祭りだ。

 

 

「燃える薪の上に立つなんて、、本当に燃えてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしますね」

「男の祭りだな」

修造は沢山写真を撮り、それをもとに早速江川とデザイン画を描いてみた。

「炎のゆらめく感じが大事だろ?」

 

 

「何か祭りのモチーフみたいなものを追加したいですね。祭りのモチーフといえば祭りの衣装の柄とかですかね?」

「種類は少なそうだね」

「太鼓を真ん中にして灯篭を持った男を立たせるのはどうだろう?」

「行列の先頭に纏(まとい)を持った人がいましたがそれはどうですかね?」まだまだ考える余地があった。

大会の時の芸術作品部門のパンは横幅が限られているからあまり幅広くできない。縦に表現できればどうなるだろう。太鼓のサイズを小さくして他の飾りを高くするか、、それは世界に通用するのか、、、修造は眠れず一晩中考えていた。

次の日は地元の民芸館や、現地ならではの建築様式の建物のある場所に行き、襖に取り付けられた組子細工を見学した。

頭の中で組子細工と祭りを組み合わせて、イラストを何枚か描いてみた。流れるフォルムや誰もみたことのない飾りパンを作らなくてはいけない。出来上がった下絵を江川に見せた。

「うわー! これ難しそうですね。でも試作してみますか?」

2人は帰って祭に関する情報をなるべく細かく調べた。

顔色も良くなり、次第に熱中してきた修造を見て、江川と緑は目を合わせてニッコリした。どうにかして元の修造さんに戻って欲しい。

江川はそう思っていた。あの時の燃えるような熱い修造さんに!

「僕、頑張るから修造さんも一緒に燃えて下さいね」

 

ーーーー

 

金曜日

麻弥は店に人が居ようがいまいがお構いなしに修造にべったりだった。

この何年間かの分を全て凝縮しているかの様に修造を構った。

佐山が嫌味っぽく言ってきた。「修造さん。ボスとみんなの前でイチャイチャするのはやめたらどうです? 見るのも嫌なんですが」

「俺かよ?」

「俺じゃないなら何ですか? 嫌々付き合ってるのか? だとしたらほんとに無責任な人ですね」

 

 

無責任か、麻弥に押しに押されて交際を始めてしまった。あの時の俺は麻弥に心を持って行かれてしまったんだ。

「佐山、麻弥を傷つけるのは嫌なんだよ。わかってくれ」

「わからないですね。ボスが気の毒です!」

全てが佐山の言う通りだった。傷つけない様にすることが傷つける事になる。

麻弥、俺がここにいるのは世界大会が終わるまでだよ。

何度も言いかけてやめた。

愛が良くわからない。今1番遠ざかりたい言葉だった。

麻弥は律子と全く違うタイプだった。また店舗を増やしバリバリに働いていた。凄く忙しい女社長なのに休みの日を設け、カレンダーに「S」と書いた。修造の頭文字だ。

修造を訪ね「もお〜! 男所帯ってしょうがないわね〜!」と言ってバタバタと掃除して、大地に「ママって呼んでね!」と言ったので、驚いた大地が

(あの人彼女? 「ママ」になるの?)とこっそり手書きのメモを見せてきた。

これには答えに困った。

特に結婚という言葉には抵抗を感じていた。自分が誰かを幸せにするとは到底思えない。

修造は2人にシュニッツェル(トンカツ)とライべクーヘン(ジャガイモのパンケーキ)を作った。

食べながら麻弥は大地にドイツにいた時のお父さんがカッコ良かった話を聞かせた。

 

 

「素敵だったわ、ママの憧れの人だったのよ」

(またママって言ってるよ。)大地が修造に目配せした。

修造は何も言わなかった。

 

後で大地は麻弥にこっそり言った。

「ママさん」

「父はちょっと前まで全然やる気がなかったんだ。そこから考えたら随分ましになったんだよ」

麻弥は貴重な修造の情報をじっと聞いていた。

「誰にも相談せずに一人で抱えてるけど、夜になるとうなされててそれが聞こえてくるんだ」

 

「だから、少し待ってやってくれない?」

 

 

夜うなされる

夢にいつも同じものが出てきて修造を苦しめた。

あのソファに修造が座っている。

何か大切なものを抱えているのに腕の中でふわふわと掻き消え追いかけると声がする。

「お前が悪いんだよ」

 

「お前のせいで全部なくなったんだ」

 

と声が修造を取り囲む。

 

押し寄せる波の様に引いては寄せて。

 

いつもそこで目が覚めた。

 

 

 

大会の前の江川、緑の為の応援講習会が開かれ、修造と西畑も同行した。修造は全員のためのランチを西畑に並べさせた。「気に入ってるのかい?」何人かのシェフが西畑を指して言った。「そうですね、良い職人になりそうですよ。大会の時はフランスにも連れて行くつもりです。どうぞよろしくお願いします」

世界大会で競う項目は見た目も大事だが審査員がひとつひとつのパンを味見する所が思い出された。「食感と味も気を抜けないな」

タルテイーヌについて色々試行錯誤を重ねた。

3種類のタルティーヌをそれぞれライ麦の配合を変え、そのうち3種類は焼いた牡蠣とチーズ、帆立とピンクペッパー、3色の海藻に和風の味付けを施して、野菜とハーブをそれぞれ2色ずつシャープにカットして飾った。4種類は鹿肉と無花果、ローストビーフとブルーベリー、ターキーとラズベリー、鶏のフリットとレモンなどの、肉と果物の取り合わせを。残りの4種はカブとオレンジとクリームチーズ、渋皮栗と茄子、干し柿とフェタ、ザリガニとナンチュアソースをそれぞれハーブやスパイスと共に美しく盛りつけた。

どれが1番美味いですかね?

「このザリガニは美味かったね」

「私もこれが美味しかった」

「このザリガニはレイクロブスターと言って僕の故郷から取り寄せた物なんです。肉厚で味も良いんです」

ザリガニの身のソテーとディルの組み合わせは、ナンチュアソースのザリガニの出汁と濃厚なバターと生クリームの香りが後口にいつまでも旨みを残した。

「よし! タルティーヌにレイクロブスターとブラウンマッシュルームのソテーとナンチュアソースを使ってみよう」

「パンの上にザリガニのステンシルを施したらどうでしょう?」と、3人でアイデアを出し合った。

「塩の代わりに塩麹を使って旨みを出し、仕上げにザリガニにパルメザンを絡めて黄味を振りかけてみるか」

「八つ橋の様な薄いパリッとした食感の生地を焼いて被せてザリガニのステンシルを施せばインパクトがあるぞ」

 

 

「どうですか? いかつくカッコいいじゃないですか!」

 

 

「ザリガニの形も捨てがたいな」

「これもインパクトありますね。触角の所は糸唐辛子で表現してみましょう。」「足はルッコラを使いましょうか?」

「となると、フタは和柄がいいか」

「どっちがいいか迷いますね」

 

3人はひとつひとつのパンに深く拘った。

 

「ペストリーには祭りのイメージのものを関連付けたい」

「太鼓の形とか?」」

「華やかな色合いが良いね」

「ピスタチオとかエスプレッソ、ヘーゼルナッツとか濃厚なラズベリーとか使いたいですね」

「祭りに関連付けて太鼓の形を真ん中で開けられる様にして下は濃厚なラズベリーソース、その上にまろやかな抹茶豆乳ソースを詰めてココアとラズベリーパウダーと粉糖の3色でステンシルを施そう」

「上蓋は内側にホワイトチョコをひとまわししてみましょう」

「試食も進んで飽きが来た頃に抹茶の風味が好印象をもたらさないでしょうかね?」

 

「ピスタチオのクリームを生地に詰めて外側に組子細工のプレートをのせたらどうでしょう。土台はエスプレッソの風味付けをした生地に和柄のステンシルを1周させましょう」

 

「これは美味いよ」修造はぶどう、ネクタリン、プルーンとイチゴをバターでソテーして洋酒をふりかけフランベしてフランボワーズとハチミツを入れて煮詰まったらパンにのせてバーナーで焼いた。

「うわ! 旨い!」表面は香ばしく生地に染み込んだフルーツのソースの味が旨みを出していた。

「問題は形だな」

「フルーツボックスみたいな?」

「太鼓によく描かれている模様は?」

「三つ巴の事かい?」

「こんな感じですかね?」

徐々に様々なパンが本決まりになり後は完成度を上げていくだけになった。

修造は緑に繊細なステンシル作りを教えた。

「柄は細かすぎてもよくわからない。端をいい加減にカットするとぼんやりした印象になるんだよ」

そしてカンパーニュの美しい模様のカットの仕方を徹底的に練習させた。

「シャープに同じ感覚でリズムよくカットしていくんだ。深さが違うと焼き上がりにはっきり出てくるからね」

「江川、タイム通りにできるか練習するんだよ、西畑にタイムスケジュールを見て貰って緑と2人で何度もやってみて、時間の感覚を掴んで行くんだ。」

「やってみます!」

修造は出来ることが増えるとタイムスケジュールの行を次々増やした。大会の制限時間の8時間と言う限界に挑戦して、しかも全てを完璧にしなければならない。

「試合と同じだよ、当日に向かって練習して当日は良いパフオーマンスが出来るように自分を調整していく。相手だって努力してるんだ。猛者ばっかりだぞ」

「2人の息があってきたら次は『お互い確かめ合わなくても次の動きを考えて動く』練習をするんだ。え~っと次は、、なんてやっていたら時間なんてあっという間だぞ。2人とも役割をはっきりと決めて動け」

「できるまでやるんだ」

江川は過去に修造と出た大会の事を思い出した。

「このタイムスケジュールは修造さんが世界大会で作った物より少し劣る気がする。修造さんの速さと正確さは本当にあの時世界1だったんだ」

「あの人はタイムロスを嫌がってタイムスケジュールを頭に叩き込んできていたんだ。あれだけのものを作りながら僕を動かしていた」

勝てるのか? 今の自分は? あんな事が、、

 

 

いや

やるんだ

僕は修造さんにではなく自分に勝たなくちゃ。

「もっともっと近づいて行くぞ!」

研修室は数人以外は立ち入りが禁止になった。何日か続けてやっているうちに2人は時間の経過と作業の手順を掴んできた。大会で焦らないための練習だった。心のゆとりがミスを防ぐと考えたからだ。

「あの、修造さん」西畑が廊下で話しかけてきた。

「僕大会が終わったら緑さんにプロポーズするつもりです」

「そうか、それはまた大会が終わったら新たに話そう。今の俺とお前は緑が集中して動きやすいようにしてやる、それが使命だと思って打ち込むんだ。他に心配事がないように、一緒に寄り添ってやれよ」

「心の拠り所になってやれ」

「はい! 修造さん」

そしてとうとうフランスに大会の用品を送る時が来た。

 

ーーーー

 

日本のチームは大会の開催国フランスへ到着した。

会場には世界各国の選手が入るキッチンブースが並んでいる。

前日の準備も終わりかけた頃、修造に話しかけてきたドイツ人がいた。

「久しぶりだね修造」

「?」修造は目の前の男の顔をよく見た。知っている顔だ。

「わからないのか? エーベルトの息子のミヒャエルだよ。」

「あ! 久しぶりだなミヒャエル!」

ミヒャエルはエーベルトの店にはあまり顔を見せなかったので何度かしか会っていないが懐かしい。。

「エーベルトは? エーベルトは元気なのか?」

「親父は死んだよ。あの店は俺が改装して観光客も気軽に入れるカフェにした」

「エーベルトが?! どうして教えてくれなかったんだ!」

エーベルトが、あのエーベルトベッカーが亡くなった?!

「俺と親父はソリが合わなかったのさ。お前がうちに入り浸ってる間、親父はお前の事を随分可愛がっていたな。親父は全てをお前に教えていた」

ミヒャエルはハナをフンと鳴らしながら。

「俺はお前が嫌いだったよ。。」

「そうだ紹介するよ、うちの息子のフランクだ。今回はアシスタントとして参加するが、これから俺が上級の職人に育てて行く」

「明日はお前のブースの横で勝負する事になりそうだ。勿論我がドイツ国の勝利だ。せいぜい頑張るんだな修造」

江川と緑が心配して声を掛けてきた「修造さん、大丈夫ですか? 随分がっくりされていますが」

「お父さん、隣のドイツのコーチとどんな話してたの?」

「俺の恩人が亡くなったんだ」大切な人が次々と、、しかも大事な大会の前日にまたメンタルをやられるなんて。

「あのミヒャエルは技巧派なんですよ。その息子のフランクも大した腕だと聞いています。修造さんの知り合いだったとは分かりませんでしたね」

 

修造はこぶしを握って立ち上がった。

そして「明日は負けられない!」

「何があってもだ!」と誓った。

久しぶりに心の中に熱いものが込み上げた瞬間だった。

 

おわり

 

後編へつづく

 

あとがき

 

今回は世界大会のパンについて色々書いてみました。4部門のパンを全て高水準で作るパンの世界大会はやはり凄いと思います。

江川は世界大会に出た頃の修造を追い抜こうと頑張りを見せます。緑と西畑は優しさを見せながら愛を育み、麻弥と修造は心がすれ違います、2人の架空の愛はこれからどうなっていくのでしょうか。

そして最愛の妻律子を失った修造のロストが産んだ悪夢からの脱却は出来るのでしょうか?

※この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。


2021年04月21日(水)

小説 パン職人の修造 第5部 puppet and stalker

 

パン職人の修造 第5部 puppet and stalker

 

修造はある時大量に材料を買い込み、パンを焼き、全て袋に入れて近所のおばさん達に配った。

「あの、、、しばらく留守にするのでお墓を交代で見て欲しいんですけど」

おばさん達は動けるようになった修造を見てほっとした。「わかってるよ。気をつけて行っておいで」

鞄の中に律子の位牌と道着を入れ、修造は出かけた。

 

ーーーー

 

久しぶりのLeben und Brotは花が咲き乱れ、お客さんがテラスに座りパンを楽しんで食べていた。

店内も賑わっている。

修造はハッとした。律子とそっくりになってきた緑が工場から焼き立てのパンをカゴに盛って運んでいる。

以前は忙しいながらも生き生きと楽しかった。今の自分はまるで燃えかすの様だ。

テラスにいたパン好きのお客さんが修造に気がついた。「あの、、修造シェフですよね?私とっても憧れてました。Grüne Erdeは今日はお休みですか?」

修造は言葉に詰まった。何一つ決められなくなっていたからだ。

「この何ヶ月かは休んでるんです」とだけ答えた。

思ったより自分は不甲斐無くなっている。

そう思って店に入るのをやめ、通りに振り向いた時

「修造」

と、またあの声が聞こえた。

「私に会いに来てくれたの?」

「いや、あのぅ、、」

 

 

ラメ入りの茶色いスーツを着た麻弥に手を引かれてドイツ菓子の店「コンディトライ マヤ」に連れていかれる。

木と漆喰のドイツ風の建物で外観も可愛らしい。オレンジ色の壁で、出窓には赤いゼラニウムが咲いていた。

 

高級そうなショーケースと小さなカフェ部分がある店の中で麻弥にコーヒーとフルヒテシュニッテンをご馳走になりながら懐かしさが込み上げてきた。

「ノアやエーベルトおじさんは元気なのかなあ」家族を連れて会いに行くと言った約束は果たせなかった。

「ノアは元気よ。こないだ会いに行ったの」

今や麻弥はやり手の女社長だった。百貨店での店も何箇所か展開していて、通販も季節によってはとても忙しいらしい。

2人はしばらくドイツの話をした。ドイツのお菓子はその時の記憶を蘇らせて、何故だかいくらでも話をしてしまった。と言っても話をするのは殆ど麻弥だったが。

「ねぇ修造、あなたLeben und Brotで働いてよ。休みの時なんかに私がお菓子を教えてあげる」

 

 

実際、事態は麻弥の思惑通りになっていく。

麻弥は江川に連絡した。迎えに来た江川は修造をLeben und Brotに引っ張って行った。

そして「僕、今度緑ちゃんと一緒に選考会に出ようと思ってるんです」と意気揚々と声高らかに宣言した。

「その先は世界大会です!」

「だから修造さんは僕たちのコーチをしなきゃならないんです!」

「ねっ!」

その時驚く元気のなかった修造は聞いた「緑、若手コンクールに出るつもりなの?」

「そうよお父さん。私、お父さんの出た大会に私も出たいの。だからお願い。私達のコーチになって!」

 

しばらく緑のところに厄介になる事になった。

「自分には思い出が多すぎるんだ」

布団の中で独り言を言った。

様々な出来事が後悔となって巨大な待ち針の様に修造の心を刺した。

隣に眠っているパン職人の緑。

大きくなったな、あんなに小さかったのに。

 

これから技術を身につけさせて、大会に出ても江川の足を引っ張らせない様に自分もシャンとしなくては。

修造は緑に毎日丁寧な生地作りについて教えた。技巧ばかりではなく栄養や味覚に拘った。

寝る前に、遠く離れてしまった大地に毎晩メールをしたが、流石は修造の子だ、あまり返事はしてこない。

時々「わかった」とか「うん」とか返ってくるだけで様子は全くわからなかった。

「高校入試はこちらで受けるかい?お父さんが部屋を借りておくよ」

すると何日か経ってからやっと「うん」と返事が返ってきた。

 

ーーーー

 

修造はLeave und Brot のエグゼクティブコーチとして就任することになった。エグゼクティブなどと言うと大そうだが大会の為のコーチの役と、江川を練習に専念させる為に自分が江川の代わりの仕事をするという感じだった。

そして麻弥もまた契約書を用意していた。「休日は私の所でお菓子を作って欲しいの」

どうせこの辺にしばらく住むんだ、あまり一人の時間を持たず仕事をしていた方が気が紛れる。と思い世界大会が終わるまでの約束でサインした。

麻弥はすぐさま修造の動きやすい様に場所を作り、自分が不在の時は大切にする様に皆に伝えた。

マネージャーの佐山は「こんなボサボサのしょぼくれたオッサンを何故ボスは大切にするんだろう?」と思っていたが、修造の仕事を見て考えがすぐに変わった。

伝統の製法に基づき美しいパンやお菓子を次々に作っていく修造。

佐山は「マイスター」と修造の背中を見て呟いた。

 

 

修造の作るブレッツェルは全ての見た目が同じで細いところはカリッと、太いところはもっちりとしていて、振りかけた岩塩もパラパラと落ちる塩の量まで計算されていた。まさにブレッツェルど真ん中の美しいものだった。麻弥はそれを見て感動して、修造の来る金曜日に準えて「金曜日のブレッツェル」として販売しだした。

修造、素敵だわ。修造が仕事してるところをもう一度こんなに近くで見られるなんて。こんな事が起こるなんて。

ドイツの修業から帰ってきてあなたをテレビで見た時は驚いたわ。

そして迷いに迷ってLeben und Brotの近くにお店を開いた。

その途端あなたは山の上のパン屋に去って行ってしまった。

私は何度かGrüne Erdeに行ったわ。あなたは私に全く気が付かなくて、新聞に載った修造の事で奥さんと楽しそうに話をしてたわね。

帰り道私は山の中腹で羨ましくて悔しくて涙が溢れて運転できなくなったわ。

その時期に小井沼伸治が出したパン好きの聖地Ⅱも見たわ。

あなたの充実した姿が映っていた。

それから何年かして、あなたが1人で山で暮らしてると聞いて、いてもたってもいられなくてGrüne Erdeに行ってしまったの。

 

絶対修造を手に入れたいの、この手でしっかりと捕まえたい。

 

 

 

修造はそんな麻弥の気持ちを全く知らないままここまで過ごしてきた。

 

麻弥が仕事終わりに白いアスパラガスを料理して出した。「シュパーゲルよ。旬の季節には食べたわね。懐かしいわ」

修造は麻弥に大地の為に部屋を借りる事を話すと「え? 私と住むんじゃないのね?」とピッタリ横に座り笑って言ってきた。

麻弥はよく修造を誘惑しようとしたが、冗談めいたふざけた言い方がほとんどだった。

修造は、麻弥は元同僚だし良い奴だが『こう言うところ』が苦手だと思っていた。本心かどうかわからないし、からかってる様にも見えるのでいつも気が付かないフリをしていた。

修造は女の人にモテた。独り身になった修造を明らかに狙ってるファンもいたが、失礼ながら全く心が動かない。

いつもさりげなくその場から立ち去る様にしていた。

修造はあの日冷たくなった律子を抱いて一晩を過ごしてるうちに、心から愛とか恋とか以外にも、人として抜け落ちたものが多くあった。

 

 

 

笑顔はなく無口で仕事に厳しい修造を職人たちは恐れた。

江川はLeben und Brotの裏の空き地に練習に専念する為の施設を設けた。新しくできた研修室には、大会を意識した最新の設備が整えられていた。自分が大会に出た時の機械の配置を思い出して業者に頼んだのだ。

修造はそこで2人に指導したり、新入社員に講習会を開いた。

江川は「今の修造さんは責任感だけで構築されてる気がするな。それもこれも緑ちゃんの為か」と思っていた。

 

ーーーー

 

製パンの作業中、修造は緑を見つめる青年に気がついた。

西畑という入社1年目の若者だ。

「おい西畑、ちょっと研修室に来い」

「はいっ」

修造は西畑にヘルンヒェンの作り方を何度か教えた「1000個作ってそのうちダメな10個を俺のところに持って来い」

経験の浅い西畑は震え上がったが、毎日修造に10個持って行っては「なんだこれは?」と言われて何度も作り直した。緑はそのうちの成功したパンをお店で販売した。

何度かして「もういい、次はブレッツェルにするから」

そう言われてブレッツェルについて色々教わり、また1000個作ってそのうちのダメな10個を修造に見せた。

修造は「この研修費用は全部お前の給料じゃなくて店からなんだから、ゆめゆめ無駄にするなよ」と厳しく言った「できるまで作ってこい」

西畑は言われた通りに毎日特訓をして、できるようになるとまた次のパンが待っていた。半年もすると習得したパンの数が格段に増えた。

緑に「腕が上がったわね」と言われ西畑は顔が赤くなるのが自分でも分かった。

修造が10個と言ったのは特別な意味はない、西畑の技術を身につけさせる為にギリギリの限界に挑戦させたのだ。

緑は「お父さんのやり方は今時は古いのよ。修行とか特訓なんて、西畑さんだから良かった様なものの。。やりすぎると訴えられるわよ。呼び捨てじゃなくて〇〇さん、よ!」と言ったが修造は聞き入れなかった。

ついて来れなければそれまでだろう。

西畑にロッゲンブロートの作り方を見せてやりながら、この仕事は辛いか聞いてみた。

「僕、初め全然わからなかった事ばかりでしたが、毎日修造さんにパン作りを教えて貰えるなんて光栄です。僕もいつかパン屋をやりたいし、修造さんは僕の目標です」

 

ーーーー

 

修造は講習会やセミナーなどに西畑をつきあわせ、色んなところに連れて行く様になった。

そして緑を見つめる西畑を、昔々工場から律子を見つめていた自分と重ね合わせていた。

ある時、修造は可愛らしい飾りパンを西畑に教えた。

ピンクの薔薇の花と緑のリーフを施してGrün(緑)と文字が入っている。

なかなかいい出来だ。

「緑にプレゼントしてこいよ。俺が手伝ったって言うなよ」

 

 

「あの、緑さん。」

「これを修造さんから教わりました。内緒にする様に言われましたが、何故こんな事になったかって言うと。。」

「?」

「僕の気持ちを修造さんがご存知だったんです。僕が緑さんを好きだって事を」

「えっ、、西畑さん」

「僕と付き合って貰えませんか?」

「修造さんは子供の頃から僕の憧れの人だったんです。家にあった『パン好きの聖地』って本を穴が開くほど読みました。あの女の子が緑さんだったんだなって、、僕ここに就職して、緑さんに出会えて本当に良かったです」

「ありがとう西畑さん」

「私、お父さんとお母さんが本当に仲良かったのを見て育ったの、だから私もあのぐらいお互いに大切にできる人と付き合いたいの」

「修造さんと亡くなったお母さんの様になれるかどうかはわからないけど、僕は僕で緑さんを大切にします」

 

 

ーーーー

 

麻弥の店のマネージャー佐山は嫌味っぽく修造に言った。

「修造さん、あなたはご存知ないかもですが、ボスはずいぶん熱心にあなたの事を追いかけてる気がします。それにどんどん綺麗になっていってる。あなたが来るまでのボスはクールな方だったのにここ最近は金曜日には必ずいて、ドイツ系の食材を取り寄せては料理したりしてますよね、それって何故かわかります?」

「何故って、、」

 

 

なんと言えばいいのだろう、気も付かなかった。自分はずいぶん麻弥に甘えていた。

契約期間が過ぎれば山に帰ろう。

そしてその後は、、

心の弱った修造には先の予想など到底考えられない事だった。

「麻弥にはすまない事をしてる

「そうでしょう、そう思うんならそろそろちゃんとしてあげたらどうです」

佐山の言った言葉の意味はぼんやりと耳に入って来る他人事の様で修造には届いていなかった。

 

いつもの様に職人に技術指導をしていた時。「修造さ〜ん」江川が泣き言を言ってきた。「選考会の飾りパンがなんかイマイチ決め手にかけるんですよ〜」

選考会と大会に出す飾りパンは違う。もし大会に進めなかったら、本戦に用意してたアイデアとテクニックを出せば良かったと後悔するだろう。ジレンマのある事にならない為にも真剣に考える様に言った。

日本らしいテーマの物を2人で考えた。全く今までにない最も素晴らしいものを作るのは至難の業だったが、抜け道を見つけて王道に変化させて圧倒的な技術で勝たなければならない。

数年前に世界大会で協力してくれた江川の為にも以前の自分よりも更に上を目指さなくてはと、修造は無理やり決意を新たにしようとした。

緑にはヴィエノワズリーやタルティーヌについて考える様に言い、過去の写真や資料を徹底的に調べさせて今まで無いものを作る様に指導した。「テクニックを磨くのと同時に食べる人の健康や食感や味、何か自分が心動かされる事について研究するんだよ」

江川と緑は1次予選を突破し、パン職人選抜選考会まであと4か月になった。

西畑は遅くまで緑の練習に付き合っていた。

緑に必要なものを揃えたり片付けを手伝いながら寄り添い続けた。

「緑さんのパンは繊細ですよ、とてもフォルムが美しいです。江川さんとも修造さんとも違う個性があります」

「ありがとう、まだ失敗する所があるからそこを直さなきゃね」

「お父さんは世界大会で優勝したからプレッシャーがあって、みんなより練習しないとね。でも時々怖くなるの、コンテストで負けたらどうしようって」

「はい」西畑は優しいまなざしで緑の言葉を聞いていた。

「お母さんが亡くなってお父さんは心労でやせ細ってしまった。私は江川さんにお父さんを元気づける為に世界大会に出ようって誘われた時、本当にそれってお父さんが前の様にやる気出す事なのかもって考えて、身の程も知らずに出ることにしたの」

「大丈夫です!」

「僕がずっと緑さんを支えて行きます。だから一緒に頑張りましょう!」緑を抱きしめた。

「大会が終わったら僕と結婚して下さい」緑は影日向無く大切にしてくれる西畑に暖かい愛情を抱いていた。

「優勝したら」

「いえ、しなくても。。こんなこと言ったらお父さんに叱られちゃいますね」

 

ーーーー

 

「お義兄さん久しぶりね」

律子の妹の園子(そのこ)が訪ねてきた。

「実はお姉ちゃんのお墓をうちの実家のお墓に移そうと思ってるの。お父さんもお母さんも年を取って遠出ができなくなって来たし、近くの方が寂しくないでしょう? 山の上は遠くて中々来れないから」

そう言われて黙って聞いていたがしばらくたって「わかった」と返事した。

2人で山の上のパン屋に行き、自然にさらされて段々雑草に覆われてきた建物を修造がぼんやり見ている。

その子はそれを見て、以前のお兄さんとは全然違うわ生気ってものが無くなってる、と驚いていた。

墓は近所のおばさん達が綺麗にしてくれていた。「修造、まだまだ痩せたままじゃないか。心配してたんだよ」おばさん達は皆修造に声をかけに来た。

「みんな良い人ばかりね」

「俺1人だと多分誰とも話さなかったよ。俺は変わり者だからね。律子がいたから上手くやってこれた」

「義兄さん、本当にお姉ちゃんを大切にしてくれてたのね。お姉ちゃんも幸せだったと思うよ」

律子が幸せだったという言葉を心の中で否定した。自分のせいで律子は亡くなったと言う気持ちが押し寄せる波の様に何度も何度も心に被さる。

山の上のお墓から業者が律子の遺骨を運んだ。

長野の墓に納骨を済ませ、修造は魂をお墓に入れるお経をぼんやり聞いていた。

「これで通える様になったわね」と修造の方を見たが以前とは全く違う兄の姿になんと言ったらいいのか言葉に困る。

「お義兄さん、少しは元気出してよ。 お姉ちゃんが亡くなって凄く気落ちしてたから気の毒だった。本当に痩せてしまったわ」

「俺は本当にダメな奴なんだよ」

「だけど色々な事があって段々心の隙間が少し埋まってきた気がするよ。緑が世界大会に出るんだ、今はそれに掛かりきりにしてる」

 

ーーーー

 

そんな時

山の上のパン屋の跡を引き継ぎたいという若夫婦が連絡してきた。

修造は山に戻って2人と対面する。

「初めまして修造さん、麹谷正人(こうじだにまさと)と言います。僕たち夫婦は農家をしていて、家でパンも焼き始めたんです。それで山の上のパン屋が閉めてると聞いて是非ここで焼かせて貰えないかとご連絡したんです」

「ここで」

修造はボロ雑巾をきつく絞る様にギリギリと胸が締め付けられ座り込んだ。

律子や子供達との思い出だらけの家だが、若い人達がまた新しく地域に根付くのは良い事だ。

暗い気持ちの中、そんな前向きな気持ちが無いわけでも無かった。

「本気なんですか?ここでパン屋を?」

「はい、貸して頂けると助かります」

朽ち果てていく家屋を見て、意気揚々と未来を見つめる若者を見た。

「いいだろう」

修造はこの若夫婦に家を貸すことにした。

家の隅々まで説明して、屋根の雨漏りを直し、機械や窯のメンテナンスをした。

何日間か麹谷につきっきりで窯の使い方を説明した。

言い出すとキリが無いような気がするが、仕入れの連絡先や薪の保管方法、裏庭の栗の木の事など伝え、わからない事があればすぐに答える約束をした。

その後、空手の師範に会いに行き、律子が亡くなった時お世話になったと挨拶した。

「まあ飲めよ」師範の家でお酒を飲みながら話をした。

思えばこうやって師範と杯を交わしたのは初めての事だった。

「師範の事は父親代わりに思って慕っていました。空手が無ければ今の自分はありません」

「修造、今まで世話になった人達の分を若いものに返してやればいいよ。今のお前をみて満足しているよ。辛い事があったらがっくりきたっていい。お前はきっと乗り越えていくよ」

 

 

家の引き渡しの時がきた。

荷物を全て送り家の鍵を渡した。

修造は山の上からの景色を見ながら「律子、緑も大地もしっかりしてきたよ。俺も子供たちの為に頑張るよ」と声をかけた。

 

その声は誰にも聞こえず山の風がさらっていった。

 

ーーーー

 

パン職人選抜選考会は巨大な建物の中で行われるパンとお菓子の展示会の建物の奥で開催される。

「江川頑張れよ!」

「はい! 今まで教えてきて貰った事を全て活かします」

ブースの中でパン作りに専念する江川を見守るしかなかった。落ち着いて、冷静に、素早く動け!

会場で大木シェフと会う。

「なんかさ、色々大変だったんだって? 過去のことってさ、どうにもならない事が沢山あるからね。先を見て歩くしかないよ」沢山の職人を束ねているシェフの言葉は説得力があった。

修造は世話になった大木に深々と頭を下げた。

若手シェフのコンテストでは緑はテンポ良く、タイムテーブルを見ながらミスなく進めていった。若鳥が巣立つ瞬間の飾りパンは一際映えていた。

 

江川も緑も無事選考会を勝ち進む事ができた。

程なくして世界大会のテーマは「祭」だと知らせが届いた。

 

ーーーー

 

ある寒い金曜日

外は暗く雪が降っていた。

世話になっている麻弥の店の為にヘクセンハウスを組立てアイシングを施して店先に飾った。中にライトが仕込んであってスイッチを押すと聖堂の窓が光る。

 

 

 

「綺麗ね。ヘフリンガーの近くにあった大聖堂だわ」

電気を消して店を閉めた麻弥は修造の横に座りドイツの大聖堂をモチーフにしたヘクセンハウスの明かりを見てしみじみと言った。

「ドイツで修業してた頃はお金が無くてジャガイモのスープばかり食べてたわ。パンの端や失敗したパンを持って帰ってスープに漬けて食べてたの。若さと夢があった」

「そうだね、俺もそうだったな」

「同じ店で働く真剣で熱い修造をずっと気にしていたわ」

麻弥はいつもの軽い調子とは違う真面目な口調で言った。

「ねぇ、私達いつか結婚するんでしょう?」

「麻弥、それって本気で言ってるの?」

「ええそうよ、私が先に修造と会いたかった。私が先に修造を見つければ良かったのよ」

麻弥は修造の手を強く握りながら言った。

「麻弥」

亡くなった妻を不幸にしていたとしか思っていなかった修造は、また麻弥に二の舞を踏ますのはいけない事だと言った。

「すまない麻弥」

すると麻弥は立ち上がって

「そんな事で修造を諦めたりしないわ。私はこれからも修造とパンやお菓子を作って楽しく暮らすの! 修造は私から逃れられないわよ!」麻弥は修造の手首を手錠の様にきつく握った。

聞くと執念深いストーカーの様な怖い発言だが、そうでは無く、麻弥はただただ長きに渡って修造を愛していただけだった。

「麻弥、君って人は、、」

 

 

修造は麻弥の尽きない愛に根負けした。

こんな腑抜けの様な自分の事を長きに渡って思い続けてくれた麻弥に義務感の様な気持ちが芽生えてきた。

「あなたは私のものにならなくちゃダメ!」

麻弥は圧倒的な力で、心の弱った修造を支配した。

黙ったまま首を「うん」と動かした。

 

おわり

 

あとがき

江川は自分が世界大会にアシスタントとして出た年齢と同じ緑とまた世界を目指そうとします。そして修造に再び熱く燃えさせようとも。修造リスペクトの江川の思惑は上手く行くのでしょうか?

修造が麻弥のお菓子の店で食べたフルヒテシュニッテンはフルーツのお菓子で、シュニッテンは切り菓子の事です。味覚はその当時の事を鮮明に甦らせ、ドイツに居た時の事を懐かしく思ったのでしょう。

そして麻弥はドイツで修造を大好きだった愛の炎が燃えさかります。ずっと堂々と生きてきて、はっきりとした性格の様に見える麻弥。

絶対手に入らない修造の心を芝居じみた態度で振り向かせ様としますが、果たしてその愛はいつか報われるのでしょうか。

 

 


2021年04月07日(水)

小説 パン職人の修造 第4部 緑と大地に囲まれたパン屋

 

パン職人の修造 第4部 緑と大地に囲まれたパン屋

 

山々に囲まれた修造の実家はもう誰も住んでいない。

修造と律子は以前からの計画通りに実家でパン屋をする為に山の上に移り住んで来た。

「これからここで暮らすんだよ」

「キャンプみたい!」

子供たちは生まれて初めての大自然に驚いた。

修造の実家は山の1番上にあり、家の前からは広大な大地が一望できた。

夕方は空が真っ赤になり全てが赤く染まる。

夜になると辺りは暗く、星が降らんばかりに煌めいている。

天の川を子供達は珍しがった。

「そう言えば子供の頃はあって当たり前だったので、何も考えず星の名前も気にもして無くて、北斗七星ぐらいしか知らなかったな」律子と2人で笑い合ってテラスの椅子に座り「あれはオリオン座、あれが夏の大三角」と律子に教わった。

「私達昔ここでパン屋をやるって言ってたの覚えてる?」

「覚えてたよ」

実際には覚えてるどころか、ドイツにいた時はその思いに駆られて、いつか律子と2人でパン屋を作り、静かに暮らす事を夢に見ていた。

ここでずっとパンを焼いて、律子と子供達と暮らそう。

まず家の補修から始まり、店は入り口の土間に小さなショーケース、奥に2段窯を置き、動きやすいパン工房を作った。

工房の外には屋根付きのベランダを設け、石と煉瓦で薪窯を手作りした。

 

 

店の名前はBäckerei Grüne Erdeベッカライグーネエアデと名付けた。緑の大地と言う意味合いだ。

 

山の上の辺鄙な立地にも関わらず、開店当初はニュースになり車の大行列ができた。修造は持ち前の頑丈な身体でパンを作りづけたが、14時頃にはすっからかんになり、また次の日の1時に起き出してなるべく沢山のパンを揃えた。

山を降りた所の小麦農家と知り合いになり粉を卸して貰ってるうちに、麦ふみや収穫を手伝う様になり、地元の小麦や農産物について色々教えて貰った。

さわさわと音をたてて風にしなる小麦の穂。

緑の小麦畑はやがて黄褐色になり、穂には沢山の実が付き収穫の時期を迎える。

湧水を使い、塩は海側のソルトファーム、野菜は近所の農家のおばさんから買う。農場で作ったチーズやバターもある。

修造の作るパンは地元の味そのものだった。

「地産地消」

修造はまたパンの世界の扉を開けた。

 

 

石臼で挽いた小麦を使った生地を低温でじっくりと寝かせ、旨みを引き出す。薪を焚いてしっかりと温度を上げパンを焼く。焼けたパンの裏側を指で叩いて高い音がすると焼けている合図だ。窯から出す瞬間に小麦の香りに包まれると、いつもエーベルトの顔が浮かんだ。

裏庭の栗を甘く煮て、秋ごろから漬けこんだフルーツをたっぷり使ったシュトレンは評判になり、また更に遠くから車に乗ってお客さんが来てくれた。

 

 

休みの日は緑と大地を師範のところに連れて行き、道場の子供達に空手を教えた。

師範は修造に嬉しそうに言った「大地はお前の子供の頃そっくりだ。動きが似てるよ。瞬発力がある」

大地はメキメキ空手が上達していった。「楽しみだなあ」

毎日が充実した素晴らしい日々だった。

 

ーーーー

 

夜は2人でソファに横になり、律子と音楽を聴いた。

「修造」

律子は用もないのに修造の瞳を覗き込み音痴な修造にドイツ語の歌を歌わせてからかうように笑った。

 

 

修造の生活はまさに人生の収穫の時期そのものだった。

 

「修造さんお久しぶりです」ある日パン好きのカリスマ小井沼がやって来た。

「久しぶりですね小井沼さん」

修造は聞けばなんでも答えてくれる博識な小井沼に心を開いていた。

取材に来た小井沼にドイツ時代の心の師匠エーベルトが与えた今のパン作りへの影響について説明した。

「これからもこの生活を維持していきたい」

小井沼はこれが充実した男の生きざまだと思った。

「Grüne Erdeは本当に素晴らしいパン屋さんだと思いますよ」

 

ーーーー

 

律子が「猪を見た人がいるそうよ」とおびえて言った。噂は聞いた事はあるけど1度も見たことは無い。

さすがに猪と戦っても勝てないだろうな。「念の為に気を付けてね。何かあったら家から出ないで」

 

ある日

修造は大地を連れて薪用の枝を落としていた。

大地は地面に落ちた木の実を拾っていた。

枝を集めてふと後ろを振り返ると、大地の20メートルほど後ろに巨大な猪がいた。

「うわ」

「走って来る」

「やばい」

大地に駆け寄り左手で大地の襟首を掴んで持ち上げ、右手で鉈(なた)を真っ直ぐ走ってくる猪の眉間目掛けて当てた。

鉈は急所にヒットして猪はドオオーーン! と音を立てて倒れた。

修造は生まれてから1番恐怖を感じた。

「大地大丈夫? 怖かったね」震える手で大地を抱きしめた。

猪をどうにかしないといけない。修造は地元の猟友会に電話した。引き取りに来てもらい、猪はトラックで運ばれて行った。

修造はしばらく腕の痛みに悩まされた。「俺も若くないな」

「見て! パン屋の修造が猪を鉈で一撃にしたって地元の新聞に載ってるわ!」

「恥ずかしいよ。こんな事で新聞に載るなんて。。」

程なくして猪の片足が修造の所に運ばれて来た。ジビエ料理はやった事がないが、修造はシュバイネハクセに挑戦することにした。

猪の足を塩水に漬けこんで血抜きをした後、ハーブや香辛料、香味野菜と煮込み、冷ましたら玉ねぎをひいた天板にのせ薪窯で焼いた。

当たりは猪の油の甘いような、香ばしい香りが立ち込めた。それをカットしてジャガイモやハーブを添えて近所のおばさん達に振る舞った。

 

「子供のころは挨拶しても返事もしなかった修造ちゃんが最近は明るくなってきたね。きっと奥さんがしっかりしてるんだよ。いい奥さんをもらったね」

 

ーーーー

 

充実した生活が何年か続いたが、律子はよく腰を摩るようになった。

脊柱管狭窄症と診断された。

徐々に足のしびれもひどくなってきた。

律子は以前から足の裏に綿を踏んだような感覚があったらしいが気にもしていなかった。家の周りは坂だらけなのでそれが良くなかったのかも知れない。

手術は成功したものの、その後腸腰筋膿瘍を併発して具合が悪くなる一方になり塞ぎがちになった。

お客さんの出入りも落ち着いてきたので修造は律子を看病しながらパンを焼いてお店に並べた。近所の人達がパンに困らないように作ったパンの無人販売所というわけだ。お金の代わりに野菜が沢山置かれている時もある。

律子が移動する時は修造が真綿を運ぶようにそっとお姫様抱っこをするので緑に冷やかされた。

店の前の眺めが良い所に柔らかなクッションの椅子を置き座らせた。

「痛い?」徐々に食欲がなくなる律子を心配して色々なものを勧めた。

痛みと衰弱で何度か入院した律子を心配しながらも、

「俺は行きたい学校があるんだ」と言って大地は空手の強い中学の寮に入った。

 

「お母さん」

「なあに緑」

「大地が遠くに行ってしまったから言いにくいんだけど、私、江川さんの所でパンの修行がしたいの。お父さんがLeben und Brotで作ってたパンを私も見てたわ。だからそれを引き継いだ江川さんのパンが作りたいの」

「緑、私の事は気にしないであなたはやりたい事をやりなさい。お母さんはお父さんを独り占めするわね」

「お母さん、、私頑張るね」

緑は江川の店Leben und Brotに行くことになった。

緑からのメールによると、江川は実力派のシェフとして名を馳せていてLeben und Brotは繁盛していた様だ。

修造も子供達にメールでお母さんの様子をたまに知らせた。

 

律子はお医者さんから内臓の機能不全と言われていたが入院を嫌がった。

修造はある時とうとうお医者さんから「奥さんの最後を迎えるなら病院にするか家にするか」と聞かれた。

帰り道

車の中で何かあったら救急車は中々来れない山の中で、人工呼吸しながら車を運転して病院に行くのは無理だ。帰りの車で入院の支度をしなくてはと考えていた。

「修造、もういいの、修造と山の上で一緒にいる」

 

ーーーー

 

律子はお店の前の椅子に座らせてもらい「空手の形を見せて」と言った。

修造は道着に着替え律子の好きな形をしてみせた。

 

夕焼けに赤く染まり、ゆっくりと両手を広げて形を始めた修造。

最後を迎えた律子の瞳に修造が真っ赤に映っている。律子ははいつのまにか目をつぶって動かなくなった。

「律子」

修造は律子を膝に乗せて抱き、「ごめんね」と言った。今まで苦労しかかけてこなかった。

修造は空手着のまま律子を抱いて離さなかった。徐々に冷たくなった律子がこのまま夜の暗闇に消えてしまいそうだったからだ。

当たりは暗くなり時々揺れる風の音以外は何も無くなった。

「律子」

 

 

翌朝訪ねてきた近所のおばさんが、空手着のまま座って律子を抱いてる修造を見てすぐ師範に連絡した。

「修造!しっかりしろ、お前が律子さんを弔ってやらなきゃ誰がやるんだ!」

師範は無理に修造を動かした。

修造は何もする気が起きない日が何ヶ月も続いた。

パンも焼かず店の前に置いたソファに黙ったまま座っている日が多く、緑と大地が心配してちょくちょく訪れ「街へ戻ってまた前のようにパンを焼きなよ」と言ったが「律子のお墓を守らなきゃ」としか言わなかった。

実際自然の中のお墓はほっておくと蜘蛛の巣がはり、そこに木の葉が引っかかってたちまち自然と同化した感じになってしまうからだった。

 

緑はLeben und Brotに戻り江川に相談した。

 

江川は世界大会の時の燃えるような動きの修造を思い出し、そんな修造は「信じられない」と鞄を持って新幹線に飛び乗った。

レンタカーで何時間もかかってやっと辿り着くと、話に聞いた様に本当に店の前の椅子に座っていた。

江川が知っている修造とは変わり果てた姿だった。

修造さん、僕の人生は修造さんに貰ったようなものなんですよ。僕がなんとか元の修造さんに戻さないと!

「修造さん」

修造はもうちらっとも江川を見ない。他の世界に行ってしまった様に。

「修造さん、、お気持ちはわかりますが元気出して下さいよ。。」

「僕と2人で世界大会を目指してた時の修造さんを思い出して下さい。メラメラに燃えてたじゃないですか。まだ若くて体力もあるんですがら、店に戻ってきて若いものにパン作りを教えて下さい。何のためにドイツに行ってパンの修行してきたんですか? 宝の持ち腐れじゃないですか」

江川は修造を必死で励ました。

 

 

Leben und Brotにもう一度戻る?考えた事も無かった。

ちらっとそう考えたが返事もしない。

江川は「また迎えに来ますからね」と言って自分の店に戻っていった。

それでも全然動こうとしない修造。自分の心から全てのものが抜け落ちた気持ちだった。

 

ーーーー

 

修造はある時ドイツ時代に流行っていた曲を思い出し音痴ながら口ずさんでみた。

すると

それにハモって一緒に歌を歌う人影が現れた。ドイツ語で? 修造が振り向くと、知らない女の人が立っていた。

なんだか仕事が出来そうなパリッとしたベージュのスーツを着ている。

「どちらさんですか?」

すると女の人は「え〜?」信じられない! と言う風に修造の肩をバシッと叩いた。

「無理もないわね! もう何年も経ったから。私! 麻弥よ!」

「麻弥?」

「そうよ! ドイツで一緒のお店で修行してたじゃない」

 

修造は突然の事すぎてしばらく麻弥が思い出せなかったが、ドイツのクリスマスマーケットで交際を断った女の子だと思い出した。

「あの、、その節は」

「何言ってるの!もう全然気にしてないわよ」麻弥はハキハキと話しかけてきた。

麻弥はドイツのお菓子マイスターの資格を取り、何年か働いた後日本に帰ってきて、テレビで修造を見た時はとても驚いたのだと言う。

その後SNSで修造の事を調べたり、新しいお店の情報もパン好きの人達の発信を見てずっと追っていたらしい。

「私ドイツ菓子のお店を開いたの。今から一緒に行かない? Leben und Brotからすぐ近くよ」

今から一緒にと言うのは辞退したが、江川や緑の事が気になり、一度Leben und Brotに寄る事にした。その時にお店に行く約束をして、割としつこい麻弥を帰らせた。

 

おわり

 

最後まで読んで頂いてありがとうございました。

修造が作った山の上のパン屋さんはある意味理想の生き方ではないでしょうか。雄大な景色を眺めながら薪窯でパンを焼き、地元の人たちと触れ合い、地産地消を心がける。憧れのテーマであります。

修造は最愛の妻律子を亡くし、失意の中にいます。これから修造はどうなるのでしょうか。

今回のテーマの中に「父ちゃん母ちゃんの店」という事が隠れているのですが、これは夫婦2人で営むお店の事で、若い時は勢いがあり2人で商売を続けていられるのですが、やがてどちらかが病気になったり、お亡くなりになると残された方は失意のうちにお店を畳んだりする事もあります。人手不足、後継者不足も要因の一つです。

もし近所に父ちゃん母ちゃんの店があったら応援してあげて下さい。

 

 


2021年04月06日(火)

小説 パン職人の修造 第3部 パンの世界大会

 

パン職人の修造 第3部 パンの世界大会

ドイツから日本に帰って来た修造は、空港からアパートに直行したが律子達は留守だった。

その足でパンロンドに走って行った。

 

「親方!奥さん!今帰りました!律子と緑は?」

久しぶりに会った親方と奥さんはとても喜んだ「おー!修造ーー!さっき保育園にお迎えに行ったから早く行って」と駆け出した修造に大声で言った。

修造は保育園まで走って2人を探した。

律子と緑は手を繋いで流行りのCMの歌を歌いながら歩いて来た。

「あっ」

前から修造がやってきたのを見て、律子は驚いた。

「ごめん」

息を切らした修造は大きくなった緑を見て涙が溢れてきた。

「馬鹿じゃないの?」律子は道の真ん中で不器用な男に大声を出した。

「どんな顔をして修造に会ったらいいかわからないじゃない!」

 

修造

長い間自分の前から姿を消していた修造が目の前にいる。

「そんなに泣かないでよ」そう言いながら修造を見つめた。

相変わらず綺麗な白目が青く透き通った修造

嘘のない姿

律子は自分の気持ちを確かめる為におそるおそる修造の手を握った。

「律子ごめん」

修造は律子を抱きしめた。

 

「会いたかった。」

律子は修造の前よりもっと分厚くなった胸板におそるおそる顔を埋めた。

6歳になる緑は。走ってきた大男をみて「助けて~」と大声を出すか迷ったが、どうやら違うようだ、、

それどころか大男が緑に手をつないで来てもお母さんは何も言わない。

ーーーー

 

アパートに帰って緑はお土産の民族衣装を着たテディベアを渡された。

「あ!」この子の兄弟をくれたのはもしかして???

緑の玩具箱の上に、似たような民族衣装を着たテディベアが5つ並んでいる。それは毎年サンタさんがくれたものだったのだけど?

 

 

 

緑はニコニコして座っているヒゲモジャの大きな男の人を見て「おじさんは誰なの? サンタさん?」と聞いた。

修造は緑を膝に乗せて「お父さんだよ。」そう言って優しく微笑んだ。

 

お父さんとはなんだろう。

保育園にはお母さんがお迎えに来る子と、お父さんがお迎えに来る子と。

お父さんとお母さんがお迎えに来る子がいる。

緑はお母さんしか知らない。

ずっとお母さんと2人で暮らしていてこんなに大きな男の人が家にいた事はなかった。

生意気盛りの緑は修造に「邪魔なヒゲモジャオジサン」と言い、からかうように笑った。

修造は緑に好かれる様に髭を綺麗に剃った。

「ちょっと待ってて」

台所でリンゴをカットしてレモンを入れて甘く煮込んだ。クラプフェンの生地に、リンゴのコンフィチュールを包み、揚げて粉糖を振ってお皿にのせた。

「食べてごらん、美味しいよ。」

「ホントだー!」緑は食べたことのない味の柔らかなあつあつの揚げ菓子に驚いた。ほんのり甘いクラプフェンにりんごの素朴なあじわい。

「美味しい!」そ

してお父さんからお菓子の作り方を聞きたがった。

「お母さんにクッキーを作ってあげよう。」修造は赤ちゃんの時の緑しか知らず、慣れない手つきでクッキーの型抜きをしている姿を見て生きてるって凄いなと思う。

「律子ありがとう。本当にごめんね」土下座をして謝る修造の背中を抱きしめた時の匂いは以前のままだった。

「修造」

修造は多くを語らない。だからいつも修造の表情から全てを読み取っていたわ。

依然と変わらない修造。愛してる気持ちを思い出すかも。

 

ーーーー

 

修造は親方のところで働き、ドイツのパンの中で店の購買層にあったパンを提案して売り出すと同時に、パン学校の生徒を面接して入社させて生地作りを教え始めた。

お店の奥さんは律子にお店を持った時にやる事や、焼き菓子の包装、会計の仕方も教えだした。皆が次の動きに向かって動いてる感じがした。

 

やがて修造にとって新しく運命の出会いが訪れる。

ーーーー

 

修造と律子は以前より結びつきを強く感じていた。

ドイツに行ってた間のブランクを埋める為に事更に優しくした。

 

修造は神社であった空手の田中師範に会いに行き、緑に道着を着せて一緒に走ったり、蹴りと突きを一緒に練習してなるべく触れ合いを持つ様にした。

お世話になった鳥山シェフに会いに行き、親方に恩返しした後、国へ帰ってパン屋を開業すると告げると、シェフは「そうなんだ!」と言ってパン業界の色々な事を教えた。

そして修造を業界最大のパンやお菓子の展示会に連れていった。

大きな会場に様々なパン屋やケーキ屋にまつわる資材、機械がブース毎に並べられていて、会場の奥ではパンのコンテストが行われていた。

鳥山シェフが大木シェフというコンテストの重鎮を紹介してくれた。「今は25歳以上のシェフと21歳以下の若手が組んで世界大会に出る為の選考会が行われているんだよ。」

修造は選手の技術の高さに衝撃を受け、釘付けになった。

 

パンの世界は奥が深い、追っても追ってもキリがないんだ。目をキラキラさせて見ている修造を見ていた大木シェフが大きな手で修造の肩を掴んで言った。

「1年後の選考会にお前も出ろよ! 俺が練習見てやるよ!」

1次審査、選考会に勝ち抜くと世界大会へのチケットが手に入る。

修造は店に戻り18歳になったばかりの新人江川拓也に

「世界大会に出よう!」と声をかけた。

 

江川は修造が日本に戻ってから色々な技術を教えていた若者だ。

「せ、世界大会ですか?」

「2年後に。」

「俺とお前は別々に選考会に出るんだ。それでどちらかが落ちたら2人では出られない。選ばれたらの話だけどな。」

修造は江川を若手のコンクールに勝たせて、世界大会に助手(コミ)として一緒に出ないかと持ち掛けた。2人で今から練習を重ねれば行けるかもしれないと思ったからだ。勿論修造が世界大会の代表選手に選ばれなければ無い話だ。

 

次の日もう一度2人で展示会に行き、高い技術の職人が作ったパンを感心して眺めていると大木シェフが声をかけに来てくれたので、江川を紹介して、いつシェフのところに特訓に行くか決めた。

それから2人は過去の世界大会の出展作品や動画を調べたり、参加店を廻ったりした。

修造と江川は1次審査の課題を大木シェフの店の研修室で作り、冷凍で送った。

程なくして審査通過の知らせが届いた。

選考会の課題は自慢のパン部門、サンドイッチ部門、ヴィエノワズリー部門、芸術作品部門(パンデコレ)があり、江川と特訓を重ねた。

芸術作品の飾りパンに関しては選考会と世界大会の時の2種類が必要だが、世界大会の時のテーマは1年前に知らされる。

エーベルトに習った飾りパンを懐かしく思い出しながら色々選考会用の日本画風のデザインを描いてみた。

どうやったら伝わりやすいのかイメージを固めるのに時間がかかった。街に出ても何をしてもどんなものが良いのか考え続けた。

修造は律子とソファに横になりながら何か良いイメージはないか聞いてみた。「修造が育った山の花々はどう?紫の可愛い花が咲いてたわ。」「紫の花か、、」修造は緑の周りの飾りを色々考えてみた。地元の山々は高山で、夏になると道端には無数に紫の葱坊主の様な形の「ヒゴタイ」や淡い紫色の「ヒゴシオン」が咲いている。

「無数に夕顔も咲いてたな。。それをパンで表現できないだろうか。」

修造は試行錯誤を重ねてみた。「花のたおやかな感じをだすぞ。」

他のテーマと技術面に関してもシェフに相談して、対策を教えてもらい、2人で時間内の成形と焼成、重さ、大きさの正確さなどできるように何度も練習した。

緑は小学生になって、空手は頑張って8級になった。

道場で習って来た形を修造にやって見せ、ヌンチャクも練習しているところなので、一緒になって家で練習して律子に危ないと叱られたりした。

 

 

緑はもうすぐお姉ちゃんになる。

病院に一緒に行って先生に「どうやら男の子の様ですよ。」と言われて3人で大喜びした。

 

ーーーー

 

世界大会へのチケットが貰える、日本代表選考会そして江川の出る若手コンクールの選考会が近づいてきた。

修造と江川は2人で前日に荷物を運び、近くのホテルに泊まっていた。

「とうとう当日になったね。悔いのないように今までの練習の成果を、全力を尽くして出そう。」試合の度、師範に言われていた言葉だった。

世界大会の出場権を手にする為に様々なパン屋の職人が練習に練習を重ねてここに集まっている。

持ち時間は8時間、粛々と細かい計画をこなしていかなくては時間が足らない。

修造が素早くパーツを組み、花を施した。江川はサポートし続け、様々なパンを成形していき2人で仕上げ並べていった。

速さと丁寧さは上手くいっていたが、それは他の選手も同じ事だ。出来上がりを審査するシェフが各選手の作品をチェックし続けた。片付けも審査対象になる。2人はやり残しがないかチェックしながら終了時間を迎えた。

 

 

疲れた江川の肩に手をやり「頑張ったな」と声をかけ合った。「精一杯やりました。」今頃江川は手が震えて来た。

選考会3日目、今度は江川の若手コンクールの日だ。江川は正確で丁寧に仕上げていった。プレゼンも修造と違いはきはきと爽やかにこなした。

全ての選考会が終了し、後は世界大会に出る選手と助手が誰なのか知るだけになった。

修造と江川は並べられたパンの前に立ち、審査結果を待った。2人の点数は思ったより高く世界大会の出場権を手にする。

沢山の拍手を貰い急にスター選手のように写真を撮ってくれと言う人に囲まれた。

大木シェフにお礼を言い、今度はもっと練習が待ってるぞ!と喝を入れられ2人は緊張感が込み上げできた。

ーーーー

 

パン職人の修造はパンを作り始めて10年経った。自分が誰かと結婚したり、父親になったりするなんて、何年か前は想像もできなかったのに、また新しい家族が誕生する。修造はワクワクが止まらなかった。

出産が近づいてきた。

「律子、ありがとう。今の自分があるのは全部律子のおかげだよ」

律子は修造の目を見て、笑った。「昔も今も修造は変わらないわ。いつも私を愛してくれるもの」

修造がドイツに行った時、私は素直じゃなくなって心を閉ざしたわ。でも今になってみたら修造は私達の為に日本に帰ってくる費用も節約して仕送りしてくれてた。私達がドイツに追いかけて行くべきだったのよ。。

律子はずっと後悔していた。

2人目の男の子は無事生まれ、名前は大地(だいち)と名付た。緑と大地。まさに故郷の山々を連想させる広大な名前だ。「みっちゃん、大地だよ。」産院のガラス窓から生まれたての大地をみっちゃんに見せた。「大ちゃん〜! 可愛い〜!」

 

 

世界大会の芸術作品部門の課題は「文化」だった。

和装の女性はどうだろう、後ろ向きにして帯から美しく模様を表現できないだろうか。修造は江川に色々デザイン画を描いてみせた。

「和装の柄を色々調べてみましょう。」2人で考えて試作を重ねた。

修造は着物の柄を熱心に研究し出して、彫り師のようにステンシル作りに没頭した。

「いつも何かに熱く燃えてる修造、あなたは私の道標だわ。次に修造がどこかに行ってしまうなら、私は地の果てまでもついていく。」

 

フランスでの世界大会が近づいて来た。

フランスに行く前に修造と江川は飾りパンの用具を慎重に、忘れ物が無いように梱包して送った。心配だったが、無事に届けと祈るしかなかった。2人でギリギリまで帯の模様を手品のように手早く作る練習をしながら、修造は必死について来てくれる江川に心から感謝していた。

行こうか江川

はい

大会には大木シェフ、修造と江川、応援の人達で行く事になった、材料を調達したり送った荷物を確認したりして準備は整い、大会が始まった。応援の声を聞きながら全力を尽くした。

各国のブースが並ぶ中、開始の音がなると会場の選手が一斉に製造をはじめた。細かく決めたタイムテーブルの順にミスなく進めて行かないと時間が足らなくなる。

ヴェノワズリーも色を変化させ和装の帯の紋様を順に変えて飾り、カンパーニュに半分ラズベリーを混ぜて陰陽のマークにしたあと着物の柄のステンシルを施した。

手際良く仕上げる修造を江川は絶えずサポートし続けた。

修造と江川は立ち姿の女性の着物の帯に美しく色を変化させながら柄を貼り付けていき、帯の中央にはアゲハ蝶の羽を取り付けていった。そして着物姿の上に光輪の飾りを2本つけた。

 

 

「修造さんカッコイイ。」江川はその背中に見惚れた。

「僕、修造さんに出会えて良かったです」

 

制限時間までに片付けを済ませ、やり残しが無いか確認してから他の国もそれぞれタイムアップになった。

沢山の審査員が修造の作品に高く点数を入れ優勝を果たした。

修造を助け続けた江川は最優秀助手として評価を頂いた。

 

修造は世界大会で優勝した。

「頑張ってきて良かったですね!」

「そうだな」

江川はさっきまで燃えてたのにこの人明らかにテンション下がったなと思い驚いた。修造さんってコンテスト、ドイツ、世界大会と、ひとつ山を超えると次に行きたくなる男なのかも。

 

ーーーー

 

日本に帰った後は、2人ともマスコミの取材を受けたり、修造の苦手なテレビに出たりと忙しく過ごした。お店はお客さんで大行列で、親方と江川、中堅の職人や新しい新人達と製造を続け、クリスマス時期にはドイツ時代エーベルトに教わったシュトレンを販売すると、本場の味が話題になり、お客さんが絶えない日が続いた。

親方が修造に話しかけた。

「修造が来た頃は、体力があって物覚えが早くて良い職人になると思ってたけど、突然ドイツに行くって言い出した時は内心どうなるかと思ったよ。」

「本当に長い間2人を面倒見て頂いてありがとうございました。親方には感謝しきれません」

「修造、お前はここにずっといてる器じゃないんだよ。自分の店を作ってもっと沢山の人にお前のパンを食べてもらうんだぞ」

修造は親方の為にしっかりと人を育ててから独立した。

 

ーーーー

 

郊外に土地を探し、律子や江川と一緒に理想のベッカライLeben und Brot(生活とパン)を作った。

駐車場と庭は広く花が咲き、子供達が遊び、カフェが併設されていて綺麗な広い工場でパンを作り続けた。

ある時、律子が花の手入れをしていて、修造が子供達を芝生で遊ばせていると、パン好きのカリスマ小井沼という男が取材に来た。

「初めましてシェフ、僕は今パン好きの聖地って言う雑誌の編集をしてまして、是非Leben und Brotも取材させて頂きたいんですが。」

修造は江川を呼んで「イケメンだろ? 表紙にしてくれよ」と笑っていった。

修造は小井沼の質問に丁寧に答え、ドイツに行った経緯を伝えた。「じゃあ奥様は5年間日本で修造シェフがお帰りになるのを待ってらしたんですね。凄いことです。」

「全部僕の我儘なんですよ。妻には迷惑をかけました」

小井沼はこの事を気をつけて書かないと修造が悪い印象を受ける恐れがあると思った。江川と修造が写真撮りをしている間に律子に話しかけた。

「先程のお話なんですが、奥様はどんなお気持ちだったんですか?」

「確かに私ははじめ驚いてドイツ行きを受け入れませんでした。でも修造はずっと誠意を見せてくれていました。置いていったんじゃないんです。私はドイツに追いかけて行く事もできたのに行かなかった。修造は何も悪くないんです」

「愛してらっしゃるんですね、修造シェフを」

 

 

小井沼は修造と律子と子供達の家族写真を撮った。

しばらくして出た雑誌には江川が表紙に。中程のLeben und Brotの特集には家族4人の写真と、「時を超えた夫婦の絆」というタイトルの記事が丁寧に書かれていた。

「小井沼さんありがとう」

律子は感謝した。

 

 

Leben und Brotは世界大会の覇者がいる店として沢山の雑誌に載り、遠方からも沢山の人が訪れた。

2年ほど経っても土日になると行列が絶えることなく、経験を積んだ江川は立派なパン職人として成長していた。

「江川」

「はいなんですか」

「このままいけば順調に行くよ、この店はお前にやる」

「えっ!」

「俺は律子と子供達と田舎に帰ってパン屋をやるよ。」

「えー!」

修造は以前から考えていた、律子と子供達の為に生き。自分なりのパン屋を作ると。

何も考えずに仕事を決め、高速バスに乗ってやってきた時は何一つ知らなかったけれど、今の自分はパン職人として色々な経験と知識を得つつある。その全てを自然に溶け込ませて、素直なパン作りがしたいんだ。

「江川、元気でな」

おわり

やっと律子と再会した修造。

修造はドイツから帰ってなんと世界大会に挑戦しました。マイスターになったらドイツに残ってそのまま職人に仕事を教えるか、その後帰って店を持つかです。修造の様に世界大会を目指すのは珍しいですが、そこはパンの楽しいお話なので、、

パンの世界にも色々あります。若いうちにフランスに渡って修行して、フランスパンのコンテストに出る人もいます。世界各国のパンを勉強したがる人もいます。そんなシェフのお店のパンはきっと美味しいでしょうね。

そして本文では割愛しましたが、世界大会にも色々あります。モンデュアル・デュ・パン、クープデュモンド・デュ・ラ・ブーランジュリー、iba カップなどそれはそれはレベルの高い勝ち抜き戦で、何度も審査を通過したシェフだけが世界大会に出る事ができます。そしてそれに優勝するのは並大抵の事ではありません。どうやったらこんなに美しいパンができるのかしらと見惚れてしまいます。

世界大会に出る為に何年も前から準備をしていく方が殆どです。

パンの世界は奥が深いですね。

小説 パン職人の修造 第2部 製パンマイスター

小説 パン職人の修造 第4部 山の上のパン屋編


2021年03月27日(土)

小説 パン職人の修造 第2部 製パンマイスター

 

パン職人修造 第2部 製パンマイスター

 

修造はナッツのコンテストで優勝してから、セミナーや講習会で他店のシェフと交流する事が多くなった。

修造の顔写真が優勝者の欄に貼られて業界に広く配られたので向こうから気が付いてくれる事も多い。

色々話を聞く内に、何か資格を取ったらどうかと言われ、そこで初めてマイスターの事を聞いた。

「マイスター?」

「そんな制度のある国もあるんだよ。もっと詳しいシェフもいるから紹介しようか?」

取得にはとても年月がかかるそうで、語学学校に行きながら2年半修行して、ゲセレの資格を取り、その後頑張ったらマイスターの試験に合格するとかで。

マイスター制度のことに興味を持った修造は、紹介して貰ったベッカライボーゲルネストという店の鳥山シェフを訪ね、そこで生まれて初めてドイツパンと出会う。

 

 

店には沢山のドイツパンが並び、厨房で鳥山にワリサーブロートやロッゲンブロートを試食させて貰い、その美味さに衝撃を受けた。

メアコーンブロートにレバーケーゼを、プンパニッケルにクリームチーズを塗って試食した。

「美味い」

「ライ麦の香りと酸味がいいだろ?」

「はい、今まで食べたことが無かったんです。勉強不足でした」

「これからもっと色んなパンに出会うよ」

修造は鳥山シェフにドイツの事を詳しく聞いた。

ドイツはパンの国であり、1,800種類以上もパンがある事、英語ならまだ耳に慣れているが、ドイツ語は難しい事など。

しかし若い時に身につけた技術は一生の宝になるとも言われた。

修造はまだ見ないドイツに思いを馳せ、ついにはドイツ行きを決心した。

まだまだパンの世界には知らない事がいっぱいある。

それを確かめてみたい。そんな強い気持ちに駆られた。

だけど律子に何て言う? 緑は生まれたばかりだ。

そんな事はできない。

 

ーーーー

 

修造は帰ってから親方に相談した。

親方と奥さんは「そんなに勉強したいのなら、私たちが2人の面倒を見るから行っておいで」と言ってくれたが、、

とにかく期間が長い。。

悩みに悩んだ。

 

 

俺には律子と緑がいるんだ

行くなら早い方が良い

 

この2つが頭に交互に浮かぶ。

どんどん時間が経っていく。

 

修造は再び鳥山シェフのところを訪れ悩みを打ち明けた。

「決めるのはお前だろ? もし行くなら全力で後押ししてやるよ。職場と学校を紹介するから渡航の準備をしておけよ」

修造が賞を取り、店は有名になって益々忙しくなっている。

自分が抜けたら大変だろう。

 

でも

 

人生はこの後も長く続くだろう。

自分ははっきりとした証が欲しい。

そしてその後の人生も律子と緑と一緒に生きたい。

 

ーーーー

 

「あの、、」

緑を抱いている律子に修造は話しかけた。律子は修造の表情を見た。

「何か言いたいことがあるんでしょう?」と言って、緑を寝かしつけてソファに座った。

修造のドイツに行きたいという話を聞いて律子はみるみる涙目になる

「そんなの納得できるわけないでしょう! 私たちが離れ離れになるなんて、そんな事出来るわけないじゃない!」

「ダメな事はよくわかってるんだ。だけど。。」

その後は2人とも何日か葛藤の日々が続いた。

 

ドイツ行きの資金は今まで開業のためにしてきた貯金で何とかなるでしょう。

でも私達はどうなるの? 修造がいないなんてそんな事考えられない。

どこにも行っちゃダメ。

律子は泣きすぎて胸が苦しくなった。

 

「俺は行ってくるよ。絶対最短で帰ってくるから待ってて欲しい」

無口な修造が心から絞り出して言った。

 

嫌だそんな辛い事。

 

でもそれでは修造の為にならないの? ここで修行したら良いじゃない。

 

ーーーー

 

ドイツ行きの日は迫ってきた。

どうしてこんな辛い事が起こるの。

律子の妹の園子は慰めた。

「行かせてあげるの? ひょっとして5.6年なんてあっという間かもよ。5年前を振り返ったら今日まであっという間だったじゃない? みんなで緑を育てようよ」

律子は泣くのをやめた。

絶対私と緑のところに帰ってきてね。

 

ーーーー

 

修造は鳥山シェフに頼んでドイツでの職業訓練校や職場を斡旋して貰った。

週に3日学校、4日はパン屋さんで働き、何年かしたらゲセレ(パン職人の資格)の試験を受けて合格したらゲセレになれる。修造が目指しているマイスターの資格試験はまだまだその先の事だ。

緑を抱きしめてると心が揺らいだ。

こんなに小さな子を置いていくなんて自分は鬼の様な心を持っている。

パン屋で働き始めた頃はなんの目標もなかったのに、今は夢中になってもっと上を目指したい。

その気持ちに勝てないんだ。

緑ごめんね。

 

ドイツで資格を取るまでは会えないかもしれない。

働きながら学校へ行き資格を取るのは中々生活が苦しそうだ。

貯めたお金をいかにケチケチ使うかと言うことも考えなければならない。

律子ごめんね。絶対二人が困らないように仕送りするから。

 

修造は行ってしまった。

 

ーーーー

 

しばらく律子は毎日泣いて暮らしていた。

そのうちこんなに苦しいならいっそ憎んだ方が楽になれるかもしれない。

私は緑を守っていかなきゃいけないんだもの。

そう思うようになっていった。

 

律子の心に冷たい何かが生まれ、修造の事を忘れなければ辛すぎると考える様になっていく。

私は緑だけを守らなきゃ。

パン屋の奥さんの勧めもあって、律子はパン屋の工場で働き始めた。

以前はここで修造が働き、修造が使っていたものを使っている。

寂しい、、会いたい気持ちが強くなってきたら辛いだけだわ。

一方、修造はドイツの職業訓練校に通いながら、パン工場での実習が始まった。全く言葉が分からない。帰ってからはドイツ語の勉強。そしてまたパン工場と目まぐるしく毎日が過ぎていく。

 

 

修造がやって来たドイツの町は以外にも四角い白い建物に四角い窓が多い町で、人口が多く日本人には住みやすい所だった。学校も近いし川が近く公園も多い。

寮の食器棚の上に律子と緑の写真と、持ってきた黒帯を飾った。

疲れて横になると毎晩思い出すのは律子と緑のことばかりだった。

自分は何をしてるんだ、このまま毎日を過ごしていれば目標に辿り着けるのか。

毎日焦りが大きくなっていく。

 

修造の修業先の店は大きな街の外れにあるHeflinger(ヘフリンガー)という店で、見たことのない様な大型のミキサーが3台、6段の窯が2台、出来上がった生地が延々と流れてきて成形を続けた。

マイスターがいてみんなにシェフと呼ばれている。職人は色んな国籍の人が居てみんなここに来て働いている事情はまちまちだ。パン部門とお菓子部門は仕切られていてそこに各々職人や見習いがいる。

とにかく早く言葉を覚えなきゃ、、そう思ったが元々自分は人と話すのが苦手で標準語もままならなかった。

 

ーーーー

 

先輩のノアがドイツ語の分からない修造にイライラして時々キレた態度でいたが、近くで仕事してるので避けられない。

こんな時は本当に分からないふりをしてぎこちない笑顔を向けた。

 

何千個とモルダーに生地を入れ続け、成形して並べて運ぶ。

そのあと機械の清掃。

日本でのパン作りとは比べ物にならない量のパンを朝から多くのお客さんが買って行く。

店員さんはクールだが、愛想よく話しかけると親切に接してくれる。

 

ある日工場の奥でブレッチェンを成形していた、最近では上手く出来る様になってきた。

なにか店から騒ぎが聞こえる。

どうやら店に強盗が入ってきた様だ。

みんな急いで見にいくと、店員さん2人をナイフで脅しているところが見えた。

修造はパンロンドで見たナイフ男を思い出した。

今度は怪我しないようにパンをオーブンに入れる木のスコップ(ピール)を持ってきて、男の前に立った。

女性従業員の首に鋭いナイフを突き立てている最中のナイフ男にこっちだと言うように「ドン!」とピールを床に突いて音を立てた。

男はナイフの切っ先を修造の方に変え、ドイツ語で何か叫びながらナイフをまっすぐ突き刺してきた、後から考えるとあれはお前から始末する!と言っていたんだろう。

修造は左から棒で腕を掬い上げてからそのままもう片方の腕に叩きつけた。

 

 

ナイフが落ち、そのまま男を倒して正拳突きを胸に放った。

男を裏返してピールをを背中側の右袖から左袖まで服にカカシの様に通して、「紐ある?」と聞いて、ビニールテープで両腕とも棒に縛り付け、足も縛った。

その一部始終を見ていたノアは、修造を忍者と呼ぶ様になった。

「なあ忍者、俺にその棒を振り回すのを教えてくれよ」と作業中の修造の横に立ってしつこく言ってきた。

それ以降毎日ノアに棒の「一の形」を稽古させた、引き換えに種起こしのやり方や生地作り、ドイツ語の製パンに纏わる言葉を残らず書き出して貰い、ノアが何度も一の形をやっている横で自分も書いて覚えた。

ノアは仕事終わりに修造の部屋を訪ねてきた。その時はビールを飲みながら、ドイツの職業訓練の仕組みや、発酵の事などを教えてくれた。

なかなか自分のことを話さない修造に「なあ忍者、お前は何をそんなにガツガツしてるんだ。なぜそんなに早く日本に帰りたい? ドイツじゃゆとりある仕事しかしないぜ。せっかく来たんだ、ゆっくりやろうぜ」と聞いてきた。

修造は日本に妻子がいて、1人でドイツに来た。出来るだけ製法について沢山勉強し、一刻も早く戻りたいとたどたどしく伝えた。

 

ーーーー

 

一方その頃日本では、律子は緑を保育園に通わせ、自分はパン屋で働いた。

9時から16時まで働き、なかなかパン作りは難しいと新ためて思った。

この時になって初めて修造の実力について改めて知る。

 

自分には修造の穴埋めはとてもできないんだわ。

毎日疲れてソファに横になる修造を思い出し、「あれだけの仕事量をこなしてたんだから無理もない」と初めて納得した。

お店から見ていた修造の素早い動き。もっと見ておけば良かった。

だが会いたい気持ちを抑えるにはそのことさえ封印した。

そうしなければ愛で自分は壊れてしまう。

 

毎日緑を保育園にお迎えに行き、手を繋いで歌を歌って帰り、パン屋さんで貰ったパンとおかずを一緒に食べ、夜は抱きしめて子守唄を歌った。

「緑は私が育てる」

 

 

一方ドイツでは

ノアの協力もあって、修造は片言ながらまあまあ話せる様になってきた。

自分の与えられた仕事を凄い速さで済ませ、ノアの仕事を随分手伝わせて貰った。お礼に空手の「一の形」と「二の形」を教えて毎日みてやった。

ノアは形の時の気合の入れ方が随分上手くなってきた。

修造の部屋に置いてあった黒いボロボロのロープを見て、

「なあ忍者、これはなんだ?」と不思議そうにノアが聞いた。

「それは空手の黒帯だよ。黒帯は頂いた瞬間から大切にずっと使い続け、そのうち帯の端が擦れていくんだ。責任を持って黒帯を締め、鍛錬をするんだ」

 

ーーーー

 

仕事帰り、街を歩いていると向かいから背が高いヒゲモジャのおじさんが歩いて来た。

腕が太くお腹が出ていて、リュックを肩にかけていたおじさん。

なんだかあのおじさん上腕二頭筋と胸筋が発達していてパン屋のおじさんみたいだなと思いながら歩いていると、突然後ろから黒い服の男が走ってきておじさんのリュックをひったくってこちらに走ってきた。

おじさんはドイツ語で待て〜と言いながら追いかけて来た。

修造はすれ違い様に黒い服の男の内股を足で引っ掛け、掬い上げてから街路灯のポールにぶつけ、男が跳ね返ってきた所をリュックを奪い取って胸を突いた。男はもう一度街路灯に打ち付けられ背中を強打した。

 

 

修造はその手でおじさんにリュックを返して、黒い服の男にもう片方の拳を見せた。言葉にすると長いが一瞬の事で、おじさんも男も「今一体何が起こったんだ」と思った。

男が逃げ去るのを見届けてから、修造はおじさんに何も言わずに立ち去ろうとした。

慌てておじさんが太い腕で修造の腕を掴んだ。

「まてまて、お前は一体何者なんだ⁉︎」

 

おじさんに連れられて、近くのカフェで二人で話した。

自分はパン職人で、早くマイスターになって日本に帰りたい事、その為に学校へ行く資金をプールし、帰国準備をしなければならない事をおじさんに言うと、急におじさんは大声で笑い出して言った。

「ボウズ! パンのことなら色々教えてやるからお前は俺のところに来い!」

よくわからないドイツ語でゆっくり話して貰うと、おじさんはエーベルトベッカーと言うマイスターで、パン屋のオーナーだった。

エーベルトにすっかり気に入られた修造は休みの日に直接パン作りを教えて貰える事になった。

 

 

大きな公園の見える山小屋風のエーベルトベッカーは、代々続くパン屋で、手作りのものばかりで、都会の機械に囲まれた工場よりも素朴だった。

店の棚には大型の田舎パンが並び、修造は珍しくてひとつひとつをゆっくり見て行った。

その後は石臼でその日の分の小麦やライ麦を挽いたり、1日おきの種を見て説明して貰ったり、種を作らせて貰ったり、生地を手ごねしたり薪でパンを焼かせて貰ったりとめちゃくちゃ楽しい時間を過ごせた。

エーベルトは修造に薪窯の温度管理を細かく教えた。

灰を掻き出し水のついたモップで拭いて水蒸気を発生させ、パンをピールにのせて滑らせ窯へ入れる。

窯で焼けたばかりのパンにチーズをのせたらこの世のものとは思えないほど旨かった。

修造は休みの日にエーベルトの店に入り浸った。

いつか自分もエーベルトの様なパン屋ができたら。

修造は自分の目指すものが見つかった気がした。

「修造よ。マイスターとは若手に製パン技術を教え、知識を教える立場なんだよ。伝統的な技術や決められた製法を守るんだ。いつかお前もマイスターになったらお前が教わった様に下のものに継承して行くんだ。」

修造はこれまでの人生で常に年上に可愛がられてきた。これは自分に与えられた徳なんだと薄々感じてもいた。田舎で空手を教えてくれた師範、パンを教えてくれた親方。鳥山シェフ、神社の師範。

みんな元気だろうか。

そして律子と緑は。

何度となく律子にメールや手紙を出したが、律子からは段々そっけなく返事も間隔が開いてきたと感じていた。

それでも緑の写真を送って欲しいとメールを送ったが、律子からの返事は無かった。自分のした事を考えるとそれも仕方のないことかもしれない。

 

 

 

そんな頃

ヘフリンガーに2年違いでに入ってきて、お菓子の勉強をしている日本人の女の子の麻弥が色々話しかけてくる様になった。

麻弥はナイフ男をカカシの様に縛った時その場にいて、色々興味を持ったらしくて、修造に話しかけたり何かと行動を共にしてきた。

「修造、次の休みにみんなでクリスマスマーケットに行ってみない? 珍しいレープクーヘンが沢山売ってるから勉強に行きましょうよ」他の人達も一緒に行くと誘われて同僚何人かとクリスマスマーケットに出かけた。

生まれて初めてこんなに煌びやかで飾りの凝ったマーケットを見た。

広い会場に屋台というよりも、しっかりとした作りの小屋が並んでいて、それぞれの店に所狭しとクリスマスのものが並んでいる。

「凄いなあ」

甘くて酸っぱいシナモン味のグリューワイン(ホットワイン)を飲んだ。

寒かったので何杯か飲んでほろ酔いになり、会場の店を見て廻った。

麻弥は何度も寄り添ってきたが修造はずっと気がつないふりをしていた。

麻弥から離れて観覧車を見ていた時すぐに見つかって麻弥が駆け寄って来た。

麻弥は華やかなタイプで正直ちょっと苦手だ。

腕を掴まれ綺麗な観覧車を二人で見ながら「修造、私修造のことが好きなの。私と付き合って」と詰め寄って来た。

この時初めて麻弥の顔を見た「自分は結婚していて、奥さんと子供がいるんだ。もし麻弥と付き合ったら、自分の性格では麻弥のことも自分の奥さんのこともどちらも裏切れないと思う。自分は日本に戻って律子とパン屋をする為にここにいるんだ。だからごめん。」と言った。

無口な修造にすれば頑張った方だった。

麻弥とはそれ以来疎遠になり、店であっても何も言わなくなった。ごめん麻弥。お互い遠くからやってきた者同士、頑張れよと思うことしかできない。

 

ーーーー

そのすぐ後

なんとか試験に出そうなドイツ語や教科の内容を勉強し、修造はゲセレの試験を受ける時期に来た。

 

実技では、テーブルいっぱいに自分の技術を凝らしたパンを並べる。

修造はエーベルトが丁寧に教えてくれた飾りパンを思い出しながら作った。

赤や緑色の生地で薔薇とRosengarten(薔薇の庭)の文字を綺麗に飾った。シンプルで大型のパンにステンシルを施して並べ、大型のカゴにプレッツェルやブロッチェンを盛りつけ。デニッシュは2色の葡萄を、マンデルクーヘンにチェリーを並べた。

修造の成績は中々のものだった。

やっとゲセレの資格を取得できた。

ほっとしたがまだ道の半ばだ。

次の目標に向かって学費を貯めつつ勉強しなければならない。

修造はなんとか捻出して仕送りをしていた。これは絶対断らせるわけにいかなかった。今のところ示せる唯一の誠意なんだ、何年たっても律子を愛している。なのに自分は何をやっている。

 

ーーーー

 

2年後、修造は親友となったノアにや世話になったヘフリンガーのみんなと別れを告げ、とうとうマイスターの試験の為に本格的にFachschulen(ファッハシュレ)と呼ばれる高等職業学校で勉強をしだした。

後は試験に合格しなくては。マイスターの試験はそう何度も受けられない。

日本に帰ったらドイツで学んだパンを作り、地元の人達に食べてもらいたい。そんな風に考えていた。

その前に律子と緑がお世話になっている親方のところで、自分の覚えた技術で下の子を育てよう。そのあと田舎に帰って自分の店を作ろう。

修造は色々なワクワクが止まらなかったが、試験のことともう一つ、律子がとても冷たい感じがしているのが気がかりだった。

メールは返事が無かったが、今はこんな感じだとまめにメールを送って自分の気持ちを伝え続けた。

修造は最近になってやっと『自分の気持ちを他人に伝える大切さ』を学んだ。

試験後、修造はやっとマイスターになる事ができた。エーベルトがお祝いをしてくれ、お別れを寂しがった。お世話になった皆んなに別れを告げ、今度は3人で来るからと約束した。

 

 

律子からメールが届いた。

「私、修造がくれたメールや仕送りに入ってた手紙をいつも読んでいたわ。早く帰ってきて欲しかった。会えないのが辛かった。どうして私達をこんなにほっておいたの。いいえ、何故かはわかってる。あなたはきっと以前とは比べ物にならないぐらいパンの技術を習得したんでしょう? 私達はただ離れ離れになってたわけじゃない。修造は早く私のところに帰ってきて、沢山の人のためにパンを作らなきゃいけないわ。そして私がそれを見届ける。でなければ長い間離れてた甲斐が無いわ。」

それは律子からの愛のメッセージで、パン職人の妻としての葛藤のメッセージでもあった。

律子、今すぐ走って会いにいきたい。

 

おわり

 

第2部も最後まで読んで頂きありがとうございます。このお話はフィクションで、実在する団体とは無関係です。

若いうちに修行して、腕を身につけて店を出すパン屋さんは多いです。しかし一生のうちに店を出すのは一度きりと決まっていませんので、何度勉強に出かけてもいいし、いつ勉強したりどこかの店で修行したりしても良いのです。

修造の中で1番胸を揺さぶられたのがドイツのマイスター制度だったのでしょう。

マイスターのブログなどを読んでいると、何年もかかったと書いてる方が多い様です。ここでは早く律子の元に戻さなくではいけないので、5.6年と言ったところです。

今はゲセレになる為に企業が面倒見てくれる所もありますので、どんな形で行きたいのかよく調べて決めるといいと思います。今はドイツでもマイスターを目指さなくてもお店を持てるそうです。外国から来た方もパン屋さんを営業してる人が多いそうですよ。

何をするのも覚えるまでは大変なものですが、一度身につけた技術は一生ものです。

自分の店を持つなら開店前にできるだけいろんな世界を見てみたいですね。

ドイツのクリスマスマーケットですが、各主要都市に毎年大きなマーケットが開かれます。ちゃんとした木の家みたいなお店が並び、服や置物、お土産など様々なクリスマス関連のものが販売されています。

ドイツのお菓子といえば日本ではシュトレンが知られていますが、Lebkuchenレープクーヘン(ジンジャーブレッド)も可愛くて楽しいお菓子です。ハチミツ、アーモンド、ナッツ、香辛料、スパイスなどが入っていて、クリスマス時期にはハート型の生地に色とりどりのアイシングやチョコレート飾りや文字を施したものが沢山作られ、マーケットではリボンをつけて壁にぶら下げて販売されています。

小説 パン職人の修造 第3部 世界大会編

小説 パン職人の修造 第4部 山の上のパン屋編


2021年03月20日(土)

小説 パン職人の修造 第1部 パンと律子と青春と

 

パン職人修造 第1部 パンと律子と青春と

1 はじまり

山育ちの田所修造は無口な子供だった。

山々に囲まれた集落は眺めがよく静かに育った。

幼い頃から近くの空手道場に通い、師範について空手の修行をしていた。

空手には形と組手があり、どちらも師範の教えに沿ってコツコツと自分のものにしていく。

頭の中は空手のことしか無かった。

鍛錬をして納得のいく形の習得が出来た時は生きがいを感じた。

やがて黒帯になり、師範代として子供たちの指導をすることもあった。

 

 

高3になった。

とうとう里を離れ働かなくてはならなくなって、学校の壁に貼ってあった求人募集の適当な所を指差し、関東にあるパン屋「パンロンド」の面接試験を受ける。社長の柚木(ゆずき)は皆から親方と呼ばれていた。親方は身長が高く体つきのしっかりした修造を「力持ちそうだ。」と気に入った様だった。

「就職先が決まった」と師範に告げた時、師範はとても寂しそうで見ていると辛かった。

実家を出て、海を渡り1人高速バスに乗ってやってきたパンロンド。

パンロンドはパンの輪舞と言う意味らしく、親方曰く「パンが楽しそうに踊っているイメージ」だそうだ。

店は東南駅の西に続く商店街の真ん中にあり、お客の年齢は様々志向も様々なので、色々なアイテムを取り揃えていた。1番の人気はハード系の山形の食パン「山の輝き」。

 

 

街も仕事も初めてのことばかりだったが、空手時代は様々な空手の型を学び、礼儀正しく、絶えず師範の教えを守ったので、その甲斐もあって、仕事場でも礼節を守り、親方の仕事を学んで実践した。

真面目で吸収率の高い修造を親方と奥さんは可愛がり身内の様に大事にした。

 

2 運命の出来事

街の商店街のパン屋「パンロンド」で働き始めて2年が経った。

親方と職人3人。人も入れ替わり工場は自分が入ってきた頃とは違う配置になった。

親方に仕込みから焼成など一通り教わって出来る事が増え、やり甲斐を感じてきた頃。

「パン屋の仕事って楽しいものだろ?」

「はい親方」

本当に楽しい、物作りって自分の作った物が結果として目に見えてわかる。

修造は言葉には出さなかったがそんな風に思っていた。

 

ーーーー

 

そんなある日

パンロンドに店員として高梨律子が入ってきた。

お店の奥さんが「田所君、こちら高梨さんよ」と紹介してきた。

「高梨律子です、よろしくお願いします」律子が挨拶して修造の方を見たその時。

「、、、どうも」

 

 

律子と目が合った、顔が赤くなり今までなかった程ドキッとする。

なんて笑顔の美しい人なんだろう。

姿だけではない、何か自分にピタッとはまる魂と言うか

この人しかいないと言うか、、、

とにかく気になって仕方がない。

これを運命の出会いとか言うのかな、、、

 

工場で仕事しながら気もそぞろで、親方にばれそうだった。

全く話しかける事ができないまま日々は過ぎていく。

それどころか挨拶も出来ない不甲斐無さだった。

ふぅ~!俺って駄目だな、、そんな風に思いながら工場で仕込みをしていると

お店から「きゃあ!」と言う律子の悲鳴が聞こえた。

見るとナイフを持った痩せた男が入ってきて律子を突き飛ばした。

大変だ!

それを見た修造はなぜ入ってきたかもわからない男に素早く掴みかかった。

普段、空手で人を傷つけるなどと言うことは考えられないが、ナイフを振りかざして工場に入り、親方に何か怒鳴り出した男の腕を抑えようとした。

男は抵抗し、修造目掛けてナイフを振り降ろしたので、彼は咄嗟にナイフを掴んでしまった。

ギリギリ親指と人差し指の間でグッと力を入れたが親指の付け根が切れ、血が滴り落ちた。

 

 

ナイフを掴んだまま、男の右脇腹に中段膝蹴りを入れた。

「グハッ」と言って倒れた男は、息ができないのか苦しそうに呻いている。

修造は男の背中に膝を乗せて動けなくした。

警察が来るまでなんとかしなくては。押さえつけながら両腕と両足を紐で縛ったので、あたりは血だらけになりどちらが流血したかも分からなくなった程だった。

「修造大丈夫か?」

親方は自分の代わりに修造が怪我したと思い慌てた。

タオルを修造の手に巻きつけながら

「ごめんよ修造。凄い怪我じゃないか」

「大丈夫です。大したことありません」

犯人は以前遅刻と無欠勤を繰り返して退職に至った男だったと親方から聞いた。

親方をずっと恨んでいたそうだが、我が身を振り返って反省したらいいのにと修造は思った。

律子は修造の荷物を持ち病院に付き添った。

 

「大丈夫ですか?」

普段は温厚で無口な修造が、律子をかばう為に頭に血が昇った所を見た。

きっと私の為なんだわ

 

ーーーー

 

利き手を怪我して包帯が替えにくいだろうと、律子は毎日手当てをしに修造のアパートに行った。

自分の為に毎日包帯を替えてくれる律子を見て、修造は心から愛しいと思ったが。

 

 

でも

いつまで経っても何も言わない修造。

律子は修造を見つめながら言った。

「きっと自分からは何も言ってくれないのね」

「え、、」

「正直に言って下さい」

「あの」

「あの?」

「俺と、、」

「付き合って下さい」

「はい」

一生涯で1番ドキドキした瞬間だった。

 

ーーーー

 

律子も自分の事を好きでいてくれる。

修造は毎日が幸せだった。

律子が気になって仕事が手につかない。

「バカね修造。恥ずかしいじゃない」

そんな修造を見て、彼女はお店の奥さんに事情を話して転職することを決め、その後修造と一緒に住み出した。

アパートと言っても小綺麗で清潔で明るい部屋で、窓からはお日様が燦々と差し込んでいた。

 

 

「今日どこ行く?」

2人ははいつも休みの日を合わせ、街に出てパン屋巡りをして楽しむことが多かった。

修造は色々な店の外観やパンの質、流行りの傾向、従業員の人数などを見て廻った。

街のパン屋のカフェでランチを楽しみながら、律子に「ねぇ、田舎のお母さんに野菜を送ってもらったでしょう? 何かお返しした方がいいわ。 一度も田舎に帰ってないし、たまには連絡したら?」と言われたが「うん」とだけ答えて母親に何も連絡しない。

修造が無口で何も言わないので、律子はいつも修造の表情や雰囲気で全て察するしかなかった。

修造の若々しくエネルギーに溢れ、青く透き通った瞳から本当なのか嘘なのかとか、どのぐらいの熱量が言ってることにあるのかとか判断するしかなかったし、律子はそれが人より得意だった。

たまに「修造」と言ってこちらを向かせて律子への気持ちが真っ直ぐな事を律子も見ていた。

なので他の恋人たちよりも幾分多く見つめあう回数が多かった様だ。

打ち込む性格の修造は仕事で全力を出した。

律子は夕飯の後、疲れて眠る修造を横に読みかけたままのパンの本を見たり、1人ゲームをしたりして過ごすことも多かった。

パン屋の仕事は4時からだ。修造は律子を起こさない様に寝顔を眺めてからそっと出かける。

まだ外は暗く星が煌めいている。

田舎に住んでいた頃は星が降りそうな程見えたが、都会ではそうはいかない。それでも朝の空気は澄んでいた。

一歩パン工場に入ると、まだ人々が寝静まってるとは信じられないほど皆忙しく働いている。

シャッターの閉まった表の通りからはとても想像できないが、開店前のパン屋は忙しい。

仕込みをする人、成型をする人、焼成をする人、品出しをする人、サンドイッチをする人、袋詰めなどをする人。皆、開店時間に向けて動いている。修造は仕込みを任されていた。

4修造の心配

生地を練ってミキサーの様子を見ていると、親方が「修造はいつ結婚するんだい?」と聞いた。

「考えてはいるんですが」

「のんびりしてたら律子さんに逃げられちゃうぞ」

親方は冗談っぽく言ったがそれはちょっと心配なところだった。

このまま何も言わないで律子と離れてしまうなんて考えられない。

でもこの後もすれ違いの生活は続くだろう。

「律子いつもごめんね、時間も合わないし悪いと思ってる。でも今の仕事が好きなんだ。パン屋に勤めてて良かったと思ってる」

「修造、私パンを作ってる時の修造を素敵だと思ってたわ。だから今のままでいて欲しい」

2人はたまにこんな会話をしていた。

 

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2人の住んでるアパートの近くに、大学生になった律子の妹 園子(そのこ)が部屋を借りて時々訪ねて来る様になった。

「ねぇお姉ちゃん。修造さんと仲良くいってる?」

「自分から何も話さないけど、優しさの塊りみたいな人よ。大切にしてくれる」

「優しさの!凄い、、」

「今度プチっとバースデーパーティーしてくれるのよ。その子も来てね」

そんなのろけを妹は時々聞かされたが姉の律子が幸せそうで嬉しい。

 

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「お姉ちゃん誕生日おめでとう! これみんな修造さんが用意してくれたの? 羨ましー!」

この日修造は結構頑張って律子の為にパーティー料理を準備した。

テーブルの上にはフルーツを盛ったケーキとお洒落に野菜を飾り付けたローストビーフ、薔薇の花の形のサーモンを施したタルティーヌが置かれている。

「修造ありがとう、私幸せだわ」

律子は修造の優しいまなざしの中の、目力の強い瞳の白目が青白く透き通って美しいところが好きだった。

律子は修造にとても愛されていると感じてはいたが、、きっと自分からは言ってくれないんだわ。と悟ってもいた。

 

もし私たちが結婚したら生活が変わるのかしら

毎日修造を愛して

それ以外に何かいるものがあるのかしら。

 

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ある時、親方にナッツを使ったコンテストにでる様に勧められた。

「修造、これ大会のパンフレットだよ。結構しっかりした大会なんで色んなパン職人やケーキ職人が応募してる。どんなものを作りたいか決まったら教えてくれよ」

「はい」

修造は帰ってからパンフレットを黙って渡した。

「これに修造も応募するの?まずレシピを送って選ばれたら作品を送るのね」

どのような生地で、素朴なアイテムと食感で、どのような形のものを作ると良いかを、2人で話し合った。

「クルミとフルーツ、アーモンドも使いたい」

「イチジクを洋酒につけてナッツと合わせたら?」

「生地にキャラメル風味のクリームチーズを塗ったら美味しいかもしれない」

2人が持っているパンの知識を引き出し、修造はそれを元に何枚かデザイン画を描いてみた。

仕事中も修造は頭の中で色々想像を巡らせ、何度も試作をしてみた。

親方はブリオッシュの温度など細かく見てやり、材料の組み合わせをアドバイスした。

段々と形になってきて、焼成までは、いい感じになってきていた。

修造は焼き上がったパンを持ち帰り、律子と試食をして意見を聞いた。

「うん! 美味しい! ねえ、このパンの上はキラキラさせられないの? もう少し甘みが欲しいわ」

「キラキラ」と言われて困ったが、無骨な自分と違い、律子の素直な感性を大事にしたいと色々考えてみた。

キラキラ、、、それは修造が苦手な世界観だった。

修造はクルミとアーモンドをグラッセし、トッピングしてから焼成することにした。

その上にナパージュを塗ると、表面はキラキラと光沢を放ち、カリカリとした食感がリズムを生み、とても美味しく感じた。

 

 

書類とレシピを丁寧に書き、写真を添えて、コンテストに申請した。

親方と2人で結果を待っていると、一次審査を通過したとの知らせが店に届いた。

「おっ 修造おめでとう!第一段階は突破したな!次は指定の日に出来たパンを作って持って行くんだ。頑張れよ!」親方は本当に喜んでくれた。

 

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律子と修造はよくソファーに横になり寄り添って話をするのが好きだった。

とは言っても話すのはほとんど律子で修造は聞いているだけだったが、それでも2人はとても楽しい時間を過ごした。

 

律子

パン職人としての考えや生き方を理解してくれてありがとう。

やっぱり運命の人なんだ。

律子のいない毎日なんて想像できない。

 

修造は仕事帰りに1人で街に出てジュエリーショップに入り、指輪を選んだ。

シャンデリアの輝く店に1人で入るのは恥ずかしく、とても勇気が必要だった。

「どんなものをお探しですか?」

店員さんに聞かれて顔が真っ赤になりながら「こ、これを」と指輪を選んだ。

 

ある日、母親から修造に電話が入った。

「一度帰ってこんね」

「うん」

母親とはもう何年も会っていない。

いつも連絡を貰うのだがろくに話もしていなかった。

いつか律子を連れて田舎に帰ろう。

 

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修造は早く仕事が終わった日には、空手の技を忘れない様に近所の公園で練習した。

形と言うのは、決められた順に技を繰り出す動きの連続で、練習を重ねると組手も上達する。形の全てに技が込められている。

その様子をしばらく見ていたおじさんが声をかけて来た。

「君、どこの道場の人? ここら辺の道場の形ではないよね?」

おじさんは近所の神社や小学校で子供達に空手を教えている田中師範だった。

故郷から遠く離れて今は1人で練習している事を伝えると、師範は修造を神社に連れて行った。

「今度から一緒に練習しよう。うちは古武道が主流で棒やヌンチャクの練習もしているんだ」

修造は黙ってうなずいた。

仲間が増えた様な気がした。

それに田中師範は故郷の師範と少し雰囲気が似ている。

 

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アパートに戻ってからシャワーを浴び、夕食の用意をしていたが律子はまだ帰ってこない。

電話にも出ないしメールも返事がない。

「どうしたんだ」

律子の職場のスーパーにも電話をかけたが、何時間も前に帰ったという。

パンロンドのナイフ男の事件を思い出し、心配になって探しに出かけた。

自転車で街を探し回ったが見つけられない。

人を探す時は中々わからないものだ、ひと筋違うだけでもすれ違ってしまう。

修造は駅の周りを見て座り込んだ。

「律子」

ふと不安が過った。

親方に「逃げられちゃうぞ」と言われたことを思い出した。

何も言わず、煮え切らないのでとうとう愛想を尽かされたのか、、それとも危険な目に遭ってないのか。

警察に相談するか、、

どうしよう

駅前のベンチに座って考えを巡らせていると「修造」と律子が声をかけてきた。

「あ」立ち上がって駆け寄る。

「私、赤ちゃんができたの。でも修造がどんな顔をするかわからないから、今まで喫茶店にいたの」

そう言いながら律子は彼の表情をつぶさに見ていた。

いつまでも何も言わない修造の事が不安だった。

自分が父親に?

突然のことで、本当に驚いた。

まだ若く、二十歳の修造には自信もなく、不安がどっと押し寄せてきた。

しかし、それと同時に自分が父親に!

不思議なほど嬉しくて大きな感動があった。

律子はそんな移り変わる修造の表情を見て笑ってしまった。

 

 

照れながら律子の自転車を押して2人で帰った。

 

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今日はコンテストに出すパンを会場に持っていく日だ。

修造は何個か焼いたパンの中から、できの良いものを3個選び、箱に入れた。

上手くいってくれ! 修造は祈った。

そして帰ってから律子に指輪を渡した。

「結婚しよう。今まで言わなくてごめんね」

 

 

修造のパンは素材の組み合わせの良さと、食感の良さ、見栄えの良さでコンテストの最優勝賞に輝いた。

「うわー!修造おめでとう!」

親方はとても喜んで、律子と3人で授賞式に出かけた。

トロフィーと額縁に入った賞状を貰い他の受賞者との写真撮影が行われた。

 

「律子、この賞状を持って出かけたいところがあるんだ」

「分かった、修造。一緒に行っていい?」

「うん。気を付けて行こうね」

「その前に役所に行こう」

「うん」

2人は親方夫婦に保証人になって貰い、役所で入籍を済ませた。

 

その後新幹線を乗り継ぎ、レンタカーで何時間も走って山奥の修造の実家にたどり着いた。

お嫁さんと孫ができる知らせと、コンテストで優勝した賞状が入った額縁を持って。

母親は修造がどこでどうしてるのか何も聞かされていなくて心配する毎日だったが、修造が額縁を壁に取り付けるのを見ながら、「こげんキレかお嫁さんば連れてくるとは修造もやるったい!」と、とても喜んだ。

 

「あの子はなんも言わんけんね。。大変やろう?母親ならよかばってんお嫁さんにはちゃんとせにゃ」修造の背中を見ながら律子に言った。

「お母さん、私修造さんの表情を読み取るの結構得意なんです。私達きっと上手くやっていけます」

そう言って2人で笑った。

修造の実家は人里離れた集落のまだまだ上の山の上にある一軒家で、家の周りからは広大な景色が広がっているのが見渡せた。

「律子、こっちだよ」

修造は足元の悪い道を、細心の注意を払いながら律子を歩かせ家の前に広がる眺めを見せた。

「凄いワイドビューだわ」

修造は律子の手を支えて「うん」と言ったが心配で仕方ない。

山の上からは森林がなだらかに谷の底まで見えた。

その向こうの木々のまた向こうに山々が連なって見える。

「空も広いわ」

「今日は雲一つないから夜の眺めも凄いよ」

「えっほんと?私の実家は長野なの。そこも星が凄いけどここは空の広さが違うわね」

「うん」

夜になるのを待って外に出た。

修造は律子をそっと抱きかかえて、空に輝く満天の星を見せた。

「クラクラするぐらいの星!見て!天の川よ修造」

律子は空を指さしながら

「ねえ修造、いつかここに帰って来て2人でパン屋をやりましょうよ」

「うん。。え?ここで?」

「修造と2人ならどこにいても大丈夫だわ」

修造と2人なら辛い事も乗り越えていける。

律子は今日の事を忘れない様に空に誓った。

 

 

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パンロンドでは賞を取った修造のパンが有名になり沢山のお客さんが来店して、日ごとに忙しくなっていった。

毎日が目まぐるしく過ぎていく。

律子は産院から帰って来て「お医者様が女の子って言ってたわ」と告げた。

律子のお腹の中で命が育っている。

2人は寄り添ってソファに座り、お腹の子供が大きくなるのを楽しみに毎日を過ごした。

 

「名前なんだけど、、俺の故郷の山々のイメージで緑(みどり)はどう?」

「緑、可愛い名前」

「楽しみだ」

 

 

やがて無事に元気な女の子が産まれた。

「律子ありがとう。可愛いね」

律子に似てる、肌や髪の色も同じだ。

でかい俺に似なくて良かったよ。

 

律子は緑をいつも抱き、歌を歌って育てた。

それを見ながら、自分には家族が出来たんだ。

今までとは違うんだ、もっと頑張らなきゃ。

修造は決意を固めた。

 

第1部 おわり

あとがき

読んで頂いてありがとうございました。

このお話はフィクションです。筆者が見聞きしたパンの世界の様々な事を盛り込もうと考えて作りました。これから修造は勝手に動き出します。これを読んでパンの世界について楽しんで頂けたらと思います。

修造の体験しているパン屋さんの毎日。朝早く起きてパン作りをして、恋をして。不器用でいつも出遅れるけど、修造の毎日は充実しています。

迷いの多い青春ですが、パン職人として立派になって欲しいと思います。

修造は賞を取った事で運命がどんどん変わっていきます。さて、どうなるのでしょうか?

それは次号に続く。

文中に出てきたコンテストは、カリフォルニアレーズンコンテストを参考に書きました。

 

小説 パン職人の修造 第2部 ドイツ編

小説 パン職人の修造 第3部 世界大会編


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