2022年01月07日(金)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Sourdough Scoring 江川

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ Sourdough Scoring 江川

 

 

「あっ鷲羽君と園部君!」

ベッカライホルスの別室に入るなり江川は叫んだ。

一次審査への練習もそろそろ仕上がってきた頃、いつもの様に修造と江川はホルスにやって来ていた。

入ってきた二人をオーナーシェフの大木、二十歳で同期の鷲羽と園部が見ていた。

「どうも」修造が三人に挨拶した。

「修造さん!おはようございます」鷲羽は憧れの修造に一歩近づけて、嬉しさのあまり目を爛々と輝かせている。

大木が説明し出した。

「今日から一緒に練習する事になったからな。狭いけど協力しあってできる様に無理のないスケジュールを三人で組めよ。修造は第一審査用のレシピを書いて見せろよ、詳細はここに書いてあるからな」

「はい」

修造は大木がダウンロードした審査の詳細を受け取った。そこには出品する種類毎の細かい決まりが書いてある。

修造は早速奥の事務机と椅子が置くいてあるところに行き、座ってじっくり読み出した。

「お前達三人は今日はカンパーニュを作るんだ。発酵種はうちのを使って良い。生地の具合、発酵、スコーリング、焼成のできをみる。空いた時間があったらそれぞれ工房に行って成形を手伝って来い」

「はい」

「では始めて」

江川は焦った。まだ練習中の事を鷲羽と園部の前でやるなんて!

失敗したら再びもう来なくて良いと言われそうだ。

鷲羽は大木と憧れの修造の手前、笑顔を作って「協力しながらやろうね、江川君」と言ったがとても本心からとは思えない。

顔が引き攣ったまま「うん」と言った。

その時大木に電話がかかってきた。

「あいつからだ」

大木は小声で言いながら別室から外に出て、修造達に聞こえない様に電話した。

「あぁ、言われた通りにしたよ。三人とも顔が引き攣ってるよ。うんうん、そう。揉め事が起こるんじゃないのか?別々に練習した方がいいだろ?」大木は室内を除いて、また隠れる様に話し出した。

「何?これで全員爆上がりになるって?特にあの若い子が?お前は相変わらずだなぁ。まあ、こっちも職人達の技術が上がって良いよ。そっちはどうなんだ、随分仕上がって来たって?こっちも負けてられないからな。はいはい、じゃあまたな」

あの三人にハッパをかけてドーンだな!あいつめ。

大木はフフフと笑った。

大木が指示を出したスコーリングとは本来は歯車などの損傷に関する言葉だが、この場合は発酵した生地にカミソリの刃を入れる作業(クープ)のことで、さまざまな模様がカミソリひとつで作れる。

 

三人はじゃんけんでミキサーの順番を決めて、勝った江川が初めに生地を練り始めた。

生地を作り発酵させて成形、そしてそれをバヌトン(発酵カゴ)に入れる。

「誰が誰のか間違えない様にな。それぞれ自分の生地にスコーリングしてみろ。窯は三段あるから一段ずつ使えよ」

「はい」

江川と二人が牽制しあって作業してる間、修造は椅子に座ってどんなパンにするか考えていた。

それはこんな風だった。

選考会ではバゲット、ヴィエノワズリー、タルティーヌ、パンスペシオ、飾りパンがあるんだ。

修造はその五種類を紙に書き出してペンで机をトントンと叩いた。

バゲットはパキッとエッジの効いたものにしたい。パンスペシオは味わいを大切に。

ヴィエノワズリーは色合いと種類に気を使いたいな。飾りパンは他にない、見たことのない形にしつつ、日本の文化的なものを取り入れたい。

今日は形はともかく生地の配合を考えよう。

選考会までの審査は日本人のシェフがやるんだからあまりライ麦重視に走らない方がいいだろうか。それに前回までの傾向もあるし。そこもよく考えておかないと。

大会ではヨーロッパの審査員が審査するんだから、向こうの生地も意識しつつ日本らしさを出していかなきゃならない。

そして生地のベースはよりナチュラルで、滋味に満ちた味わいのものだ。

よくよく考えて

最終的に修造はバゲットは国産小麦で起こしたルヴァン(発酵種)で、パンスペシオとタルティーヌはザワータイクを使って国産のライ麦の分量を調節して配合を書き始めた。

集中して配合を書き綴る修造の横では、いよいよ焼成の時間が来ていた。

 

   

 

一番の江川が生地をスリップピールに乗せてカットしていた。

スリップピールとは沢山の生地を窯に入れる時に使う業務用の道具で、布を張った板に生地を乗せてそのまま窯に入れ、窯の入り口に引っ掛けて引っぱり出すと布が回転して生地だけが窯に残る。

鷲羽が江川の手元を穴の開くほど見ている、そうなると緊張して、手が震えてきた。

江川は震える刃先で生地に少し強引にグイグイと真ん中に筋目を入れた。

負けるのは嫌だ、だがそう思うと余計に手が震える。

江川が窯にパンを入れたあと、鷲羽が自分の生地を並べてカットし出した。

自分と比べて刃の滑りがいいように思える。

鷲羽は長い指先で器用に6種類の基本的なスコーリングを展開した。

そして園部も。

焼成後、大木が並べられた三人のカンパーニュを審査した。

「江川、カットがガタガタじゃないか。引っ張りながらカットしたらこうなるから次から気をつけろよ。」

「はい」

鷲羽はうっすら笑いながら江川をまた穴の開くほどじっと見た。

威嚇か!江川の顔の辺りに視線が粘りついて鬱陶しい。

大木は鷲羽と園部のものには「うん、少しぎこちないところもあるがまあ良いだろう」

江川は二人のカットをマジマジと見た。

二人との実力の差が激しい。

 

 

大木がカットして三人のパンをそれぞれに試食させた。

断面を見せて「江川、断面の気泡に偏りがある、成形の時に絞め過ぎるなよ」

そして「うん、味も悪くないだろう。これが一番気泡がいい感じだね」と鷲羽のパンを指した。

「ありがとうございます」

「次の時もう一度やるから次回までに三人とも練習してこいよ」

大木の指示に三人が返事した「はい」

「江川君、次も頑張ろうね」鷲羽はまるで大根役者の様な大袈裟でわざとらしい言い方で言った。

その夜、江川はベッドに入ったが、疲れているのに頭の中に鷲羽の視線がこびりついて眠れなかった。


   

次の日の朝、杉本が出勤してきてみんなに挨拶した。

「おはようございまーす」

「いつも元気だな」

「藤岡さんおはようございます〜」

「おはよう、最近顔色も良いしなんか顔つきも変わってきたよね」

「俺ですかあ?俺今充実してるんで」

「へぇ、仕事に愛に的な?」

「俺、この中で一番幸せなんで!」

「はあ?まあ本人がそういうんだからある意味幸せで仕方ないよね」

そう言って杉本のお腹あたりを指して

「そういえば腹の当たりも福々しくなってきたよね、幸せ太りかな?」

「気のせいですよ!」

そう言われて杉本がお腹の周りを見せない様に手で隠した。

その時、後ろでガッシャーンと音がした。

「あっ!江川!」修造が慌てた声を出した。

 

 

「親方!!江川さんが倒れました!」杉本が大きい声で親方を呼んだ。

「なに〜!!」親方は飛んできて江川をひょいっと車に担ぎ込んで病院に素早く行ってしまった。

江川は倒れてしまった。

修造は自分が江川に無理をさせたと思い後悔していた。

時頃

杉本はパンに使うローズマリーを計って小さなボールに入れ棚の上に置いたが、置き方が悪く丁度修造が通りかかった時に裏返って頭の上に落ちた

カポッ!

「あっ!」杉本は背中に三筋ほどの冷や汗を垂らした「すみません修造さん!」

修造はいいよいいよのジェスチャーをしてコック帽と頭や肩についたローズマリーを払っていた。

その時親方が病院から戻ってきた。

「過労だろうってさ。病院のベッドが空いてたんでめまいが治るまで検査して入院することになったよ」

「俺、後で見舞いに行ってきます」

「うん、頼んだよ修造」

仕事終わり、五階建ての東南中央病院に来た。

江川の病室は四階の四人部屋で比較的軽症の患者が集められていた。

病室の入り口横のベッドで寝ている江川の顔を見ながら、これから先も無理をさせるだろう。でも絶対やめるって言わないだろうなと思っていた。

薄暗い病室で江川の顔を眺めてるうちに修造も疲れが出て眠くなってきた。

うとうとして江川の布団の縁で居眠りを始めてしまったが、そのことは全く知らないで寝ている江川はこんな夢を見ていた。

あ、草だ、、草原の草がザワザワと風になびいている。太陽の匂いと草花のいい匂いがする。

広がる草原、遠くに見える山々が美しく空は青い。江川は草の間を走っていた。

それは小さい頃故郷で見た景色だった。

と思っていたが、実は修造の頭にかかったローズマリーの香りがそうさせていた。

「はっ」

江川の声で修造も目が覚めた。

「おぉ、江川、具合どお?」

「僕、いい事を思いつきました。スコーリングの柄を」そう言って立ち上がろうとした。

「おい、まだ休んでろよ」

「もう治りました」

「何言ってんだ」

修造が江川をベットに戻そうとしていると、そこへ女の人が荷物と花を持ってやってきた。

「卓也、調子はどう?」

「あ、姉さん」

江川ってお姉さんがいたのか。自分のこと何も話さないから知らなかったな。江川より少し年上ぐらいかな?

「修造さん、美春って言います」

身体のでかい修造はベット周りが急に狭くなったので「じゃあ俺帰ります」と江川に目で挨拶して病室を出た。

すると美春が追いかけてきた。

「あの」

「はい」

「弟は高校生の時、三ヶ月ほど不登校だったんです。なのに急にパンロンドに面接に行って働くと決めてきた時は驚いて、随分心配したんです。でも修造さんと約束したからと言って学校にも真面目に行きだしたし、ちゃんと卒業してホッとしました。あの子が変わったのは修造さんのおかげだと思っています」

そうだった、あの時俺が面接して就職が決まった時、あいつすぐ来るって言ったから、学校は卒業する様に言ったんだ。

「電話でも修造さんの話ばかりしているから、私も初めて会った気がしません」

「そうだったんですね、実は俺、江川に会ってから随分変わりました。仕事中何も話さない事が多かったけど。毎日あいつと話ししてるうちに口数も増えてきた。江川と一緒にいると楽しいですよ」

「良かった、本当に。卓也も明るくなったって母も喜んでいます」

美春は嬉しそうに笑った。

「そりゃ良かった」

「あの子、以前は寂しかったんだと思います、父と母は別れてしまって」

「そうだったんですね」

「父親はあまり家にいない人でした。卓也はそんな父親に懐いてなかったんです。反抗ばかりしていました」

「え!あの江川が反抗?想像つかないなあ」

「笑うことなんてあまりなかったわ」

信じられない。

あんなに明るいやつなのに、、、

「俺、謝らなきゃいけない事があるんです。入院したのは俺のせいなんです。休みの日はよその店に修行に行っていて、そこでもライバルがいて気が抜けない。体力が持たなかったんです」

「それ、あの子がやりたくてやってる事でしょう?私から無理しないように言ってはおきますが、元々頑固だから多分聞かないわ」

美春は頭を下げた。

「きっと修造さんと一緒にいたいんだと思います。これからも卓也をよろしくお願いします」

「こちらこそ」と修造も美春に頭を下げて長い廊下を歩き出した。

美春はその背中を見つめながら「本当に初めて会った気がしないわ」と呟いた。

エレベーターに乗りながら修造は考えていた。

反抗的で不登校の江川か、そんなところ全然見た事ないなあ。一生懸命でいつも明るいやつなのに。

きっと俺と江川は良い相性なんだろう。安定してお互いを良い方に高めていけるようになってるんだ。

本当はこの調子で大会まで持っていきたいけど、もう無理はさせないようにしなきゃ。


江川は二日後退院してパンロンドに戻ってきた。

みんなが江川を取り囲んで声をかけた。

「おっ!江川!大丈夫なのか?もう治った?」

「親方、すみません休んじゃって」

「お前の分は修造が頑張ってくれたよ」

「修造さん、すみません」

「江川、これから辛くなったら言ってくれよ」

「はい」

はいと言ったが、江川の頭の中はライバル鷲羽との対決で頭がいっぱいだった。

その鷲羽と園部は二人でスコーリングのデザインを研究したり、先輩の生地作りや技を穴が開くほど見たりして、次に江川が来る時に備えていた。

パンロンドでは、江川はスコーリングの練習をみて貰いながら鷲羽の視線を思い出してイライラしていた。

「江川、怒りながらじゃちゃんとしたスコーリングはできないよ。ギューギュー引っ張るんじゃない」

「すみません、つい力が入っちゃいました」

鷲羽が頭をよぎる

指先がブレる。

落ち着いて落ち着いて、自分の思い描いたラインにカミソリを繊細に入れていくんだ。

「強弱を考えて。

同じラインは同じ深さと速度に気をつけて」

「はい」

「ほら、これをあげるよ」

江川は修造が使っていた2種類のカミソリのホルダーと新しいカミソリの両刃を受け取った。

 

 

それは当たり前の形でどこにでも売っているかも知れないが、江川にとって特別貴重なものの様に感じた。

修造さんのホルダー!

これ僕の宝物になると思うな。

江川はホルダーを持ってパン生地に刃を入れた。

嘘の様に気持ちよくスッと刃が通る。不思議なほど指先の震えがおさまった。

「絶対負けない。ぼく頑張ります」

江川は病院で夢に出てきた情景を忘れないように生地に刻んだ。

「おっ!これ凄いじゃないか」

修造に褒められて江川はストレスが吹き飛んだ様な気がした。


 そしてまたホルツに行く日がやってきた。

今日は修造も加わって四人でスケジュールを組み、仕込み、成形、スコーリング、焼成を行う。生地の発酵中はホルツの職人に混じって成形を手伝ったが、皆修造に色々話を聞きたかったようで話しかける者が次々現れた。

さて、スコーリングの時間がやって来た。

修造が一番にスリップピールに生地を六つ並べてそのうちの三つに持ってきたステンシルを生地に貼り付けたあと、粉を振って剥がした。ステンシルの後が綺麗に残り、そこにひと筋カミソリを入れる。

三人はそれを見ながらどんな風になるのかワクワクした。それを3種類やった後、残りの3つはカミソリのみで素早くカットを入れていった。

修造の窯入れを見た後、江川の番がやってきた。

江川も六つの生地をバヌトンを裏返して並べ、粉を振りかけていき、修造に貰ったホルダーに新しいカミソリを付けたものを滑らせた。滑らかな指の動きで理想の柄をつける事ができた。

実際に焼けてみないと出来栄えは分からないが、江川の動き自体が前とちがう事に鷲羽は焦りを感じていた。

以前編み込みパンで負けた時の事を思い出したのだ。

鷲羽も順番が来て、先輩や、今見た修造の動きを思い出しながらカミソリを入れた。なるべく同じペースを守りイメージ通りのものを意識した。江川には絶対負けたくない!何か意地の様なものが表情に出ていた。

園部はあまり二人の争いには引っかからない様にフラットな気持ちで基本に忠実にカミソリを入れた。

焼成後

四人はそれぞれのパンを並べて前に立った。

 

 

大木はひとつひとつをしげしげ見て心の中で思っていた。

うーん前回に比べると飛躍的に伸びてるな。半端ねぇ。いい刺激になるんだろうよ。昔ホテルのベーカリーで働いてた時、あいつと佐久間と鳥井とでよく練習したもんだ。懐かしいなあ。

修造のは繊細で表現力は文句ない。

江川はよく仕上げてきたものだ、修造とはまた違う繊細なカットで表現できている。

鷲羽は基本に忠実だし、園部は力強い。

「よし、良いだろう。次は全員真ん中でカットして見せてくれ」

「はい」

皆、パンナイフで真ん中をカットして大木に見せた。

「うん、修造はまず悪いところはないだろう、この調子で審査まで持っていけよ。申請書もよく書けてた。あとは飾りパンのデザイン画を描いて持って来いよ」

「はい」

「江川はスコーリングは格段にマシになってる。まだ断面の所々気泡が詰まってるから気をつけろ」「はい、気をつけます」

「鷲羽と園部は先輩のをよく見て勉強していたらしいな、その調子で練習していけ」

「はい」

鷲羽は江川のスコーリングを一つ一つ見て行った。綺麗だな。クソっ!あいついつも課題をめちゃくちゃ練習して来てる。こいつに勝てる様になんとか俺も上に立たないと。

鷲羽は江川と目があった。

そのままお互いジーッと見ていたその時。

「おい鷲羽」

「はい!」

鷲羽は初めて憧れの修造に声をかけられたので驚いて姿勢がどんどん真っ直ぐになっていった。こういうのを『直立不動』と言う見本の様になった。少し顔が赤くなってきた。

「美味いパンって言うのはいつも食べられる当たり前の存在であってほしいと俺は思ってる。だから天候や気温に合わせて種や生地の面倒を見て良い状態で焼成まで持っていく、そうすると美味いものができるんだ」

「はい」

「お前は江川の事をライバルで、戦わなきゃならないと思ってるのかもしれないが、お前がこれから戦うのは自分自身なんだ。お前の作ったものを選んで食べてもらう為にな。それは必ず美味いものでないといけない。形だけ勝っても意味はないんだ」

江川はそれを聞いて鷲羽に悟られない様に心の中で反省した。自分も形だけにとらわれていた。

なんとか上手くつくろって鷲羽に打ち勝とうと。

僕は僕自身にこれからも打ち勝って行かなきゃならない。

「誰が見ても美しく、誰が食べても美味しいもの。世界大会ってその頂点なんだよ。それが俺たちが目指してるものなんだ。その為に練習してるんだろ?」

鷲羽はさっきとは大違いの姿勢で項垂れて修造の言葉を聞いていた。なんなら縮んでいきそうだった。

自分自身!

鷲羽は自己愛が強い反面、自分が他人からよく思われてないことが多いのも分かっていた。不遜で傲慢なので女性社員からはことごとく嫌われて告げ口もされる。先輩も自分の事を可愛いとは思っていない。職場では皆に当たらず触らずにされている。気の合うのは園部だけだった。

修造に可愛がられている江川を見ただけで腹が立つ。

「なんとか努力します」

そう言ったものの、修造の言葉通りにできる気がしない。

まだまだ長い道のりを考えて気が遠くなりそうだった。

そこへ、滅多に喋らない園部が鷲羽に言った「さっきのって、江川への敵対心のボルテージをなんとか自分自身のパンへの熱量に変えろ、そう言う意味なんだな」

「ああ、できるかな俺に」

鷲羽は自分のパンを見ながらその遠くにある自分の十ヶ月後の姿を見ていた。

 

 

 

帰りの電車の中

「江川、疲れたろ?体調はどうなんだ。大丈夫なのか?」

「はい、もう平気です。姉さんに聞きました。修造さんが僕と出会って口数が増えたし楽しいって言ってくれたんでしょ?」

「そ、そうだけど」修造は照れながら言った。

「だからお姉さんに言いました、世界大会に修造さんと出るから見ていてねって」

「へぇ、親方も楽しみにしてるって言ってたよ」

「そうなんですね、絶対絶対行きましょうね」

「うん」

二人の夢を乗せてというか

運行スケジュール通りに

電車は東南駅に向かって行った。

おわり


2021年12月22日(水)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ  ジャストクリスマス


2021年12月01日(水)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ お父さんはパン職人

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ お父さんはパン職人

 

今日は修造の二27歳の誕生日

家族3人で仲良く夕飯の準備中。

修造はじゃがいもとソーセージにカレー粉を準備して「今日はカリーヴルストだ」と自分の好物を作ろうとしていた。

右のコンロでフライドポテトを揚げて、左のコンロでソーセージを茹でていた。

ドイツでは夕食はカルテスエッセン(冷たい食事)が定番だが、我が家ではあったかい料理も欲しい。

修造が立っているキッチンの後ろには4人掛けの椅子とテーブルがあり、そこでパンとサラダとハムとチーズを皿に盛りつけながら七歳になった緑(みどり)が隣にいる律子に聞いてきた。

「ねえ、お母さん」

「なあに?緑」

「よりってなあに?」

「より?なになにより大きいとかのより?」

「ううん」緑は首をふりながら言いにくそうに言った。

「あのね」

「うん」

「昨日紗南ちゃんのうちに洋子ちゃんと遊びに行ったらね、紗南ちゃんママがね、緑ちゃんパパは家出してたけど最近帰ってきて奥さんとよりが戻ったのねって一緒に来てた洋子ちゃんママに言ってたの」

一瞬、緑ちゃんパパって誰の事かわからなかった。

緑ちゃん

パパ

俺?

「ええっ!」

丁度フライドポテトを揚げていた修造は、驚いて網付きバットを持った自分の指に熱々のポテトを置いた。「うわっち!」

あわてて冷水で指を冷やしながら律子を見た。

律子は修造にすまなさそうに「ずっとそんな噂があるのよ。保育園のお友達のお母さんは今ではみんなわかってるんだけど、近所でもお父さんは出て行ったのねって言われてたし、小学生になってからまたその噂が再燃したみたい」

なんだか立つ瀬がなくて立ってる床が抜けそうな錯覚に陥った。

「律子ごめん」と謝るしかない。

「紗南ちゃんと洋子ちゃんも最近お友達になったから、何も知らなくて噂を信じてるのよ。私から言っておくわね」と言って早速電話の受話器を手に取った。

律子は腹を立てている様に見えた、その腹立ちは[なんとかママ]にではなく簡単に噂を信じてそれをまた尾ひれはひれを付けて広める不特定多数の人達に対する漠然としたものの様に思えた。

緑のお友達のお母さんに1人ずつ電話して丁寧に説明をした「ええ、そうなんですよ。うちの主人はマイスターになる為にドイツに修行に行ってたんですよ。オホホホ。まあ、別居といえば別居ですけれども。ええ、それではまた」

オホホホという言い方にわかったか?という裏側の言葉が見えてちょっと怖い。

そして緑に「よりを戻すってね、一度離れたけど元通りになったって意味よ」と律子は説明を続けた。

「お父さんはね、ドイツにパンの勉強をしに行っていたのよ。だからほら!」と言って壁にかけてあるマイスターブリーフを見せた。

「これはね、お父さんがドイツに行ってパンの勉強をして合格したっていう証明書なのよ」

明らかに他のポスターとは違う、価値のあるそれは緑にもとても大切なものだとわかっていた。

「それにね、お父さんとお母さんはとっても仲良しだからね」

「知ってる」

緑は修造が帰ってからというもの毎日ベタベタ仲良しな両親を見ていて他のお家もこうなのかしらと思っていたが、どうやらそうではない様だと最近はわかってきた。

「洋子ちゃんのおうちはお父さんとお母さんが、もう1年ぐらい話してないんだって、一緒のおうちの中にいるのに」

「へぇ〜」

そして緑は修造に「今度の休みの日に学校から帰ったら一緒に空手に行って。田中師範がたまにはおいでって」と言ってきた。

「勿論だよ緑!夕方行こう!」

修造はやっとこの話が終わったのでホッとした。

 

田中師範とは修造が住んでるアパートの近くの公園で知り合った空手の師範で、小学校や神社でも子供達に空手を教えている。半年ほど緑と通っていたが、修造は最近休みがちだった。

「次の休みといえばホルツに行く予定なので帰ったらすぐ行こう」

「さあ、2人とも座って!お父さんのお誕生日のお祝いをしましょう」

「はーい」

 

 


 

修造は〇〇ちゃんママ達の事をベッカライホルツに行く電車の中で江川に話した。

江川は嬉しそうに「緑ちゃんパパって呼ばれてるんですか?」と言った。

 

 

自分の想像もしない所で修造が違った呼び方をされているのが不思議で新鮮だったからだ。

「そう」

修造もそれが不思議だったが、考えてみれば誰がどの親かわかりやすい呼び名だ。苗字も名前も知らなくても子供の名前さえ判っていれば使える。

 

「さあ、今日もホルツで練習だ!」

修造はホルツに着く手前で張り切って言った。

「はい。僕この間、鷲羽君と勝負した時に6本まで編み込みパンを作ったんです。だけど思ってたより早く鷲羽君が俺の負けだって言ったので親方に習った[ぶちかましスペシャル]は使わなかったんです」

ぶちかましスペシャルってすごい名前だなあ。修造はフフフと笑った。

「一体どんな編み込みパンなんだろう」

「いつか見てもらいますね、緑ちゃんパパ」

「江川まで!やめろよ、、」修造は顔が赤らんだ。

「冗談ですよ、修造さん」

江川が楽しそうに笑いながらホルツに着くとみんなが挨拶してくれた。

鷲羽には自分から「鷲羽君おはよう」と挨拶した。

鷲羽は江川の方を見て照れ臭そうに頭をペコっと下げた。

江川に対して勝手に勝負を挑み、しかも負けた事で大木に注意を受けて、今日は大人しくしておく様に言われていた。

さて、別室で今日も第一審査に送るパンの練習が始まった。

今日は提出するパンの練習を通しでやってみる。

大木は『修造はちょっとしたアドバイスで大丈夫そうだが、江川は細かく見ておかないといけないな』と思っていた。その為捏ね上げから細かく教えていた。

大木がついていて、指導している時は良いが、1人で成形させてみると焼いた時に生地の裏がはじけて割れる。

 

「少し下火が弱かったな」

「僕まだそこがちょっとわからなくて」

「上手くやろうとして逆に締めすぎてるんだよ」大木もそう言っていた。

「はい」

「発酵も少し若めに焼いてしまったな」

「はい」

江川はまだタイミングがわからなくて悩んでいた。

こんなとこ鷲羽君に見られたらいやだなと思ってドアの外を見たが、職人たちは大木に仕事に集中するように言われていたので誰もいなかった。

ほっとしている江川に大木が釘を刺した。

「江川」

「はい」

「分かってると思うが一次審査は誰でも応募できる」

「はい」

「勿論、鷲羽や園部もだ」

「え」

「つまり沢山の職人が応募するってことだ。一回一回の練習を大切にな」

「はい!」

 


 

帰りの電車で不安そうな江川に声をかけた「パンロンドでも生地の発酵と焼く時のタイミングを学ぶ為に色んな人の仕事を見ていくといいよ。明日仕込みはやるから成形に参加させて貰って」

「はい、僕今日初めて沢山応募者がいるんだって気が付きました。もっともっと練習します」

「ライバルは多そうだね」

俺ももっと勉強しないと。自分も同じ立場なんだ。

一次審査は全国から技術の高いパン職人が大勢応募してくるだろう、それに選ばれるようにならないと。

修造と江川はそれぞれ決意を新たにしていた。

 


 

「おかえりなさーい、お父さん空手に行こう」アパートに帰ると緑が待ち構えていた。

「うん」

夕方、東南小学校の講堂でやってる田中師範の空手道場に行き道着に袖を通した。

「道着はいいな。気持ちがしゃっきりする」

修造は故郷の空手道場で黒帯だったが、今の所では白帯からやり直し、古武術も習っていて今は五級になり帯の色は紺色だ。

「師範ご無沙汰しています」

「よくきたね。緑ちゃんとヌンチャクを練習して」

修造はヌンチャク「一之型」を練習中だがそれも久しぶりだ。

習いはじめは後ろ手で掴むのも先がブレて上手く掴めない。

右で後ろ手に回したあとまた左手で掴んで後ろ手にまわすのも早くできるようになってきた所だ。

脇にヌンチャクの先を挟み素早く見えない相手を攻撃して元に戻す。回す方が掴む手より早くて指先に当たった。

「イテッ」指をさすりながらその動作を何度も繰り返し練習した。

形の動きも何度もやってるうちにスムーズになってくる。

「おっ!段々できてきた?緑」

「お父さん上手くなったね、次はこうよ」

緑は右手で掴んだヌンチャクの先を後ろに回し、左手で掴んでまた後ろに回して右手で掴んだ。

 

 

「これを繰り返して」

「はい」

修造は丁寧に小さなヌンチャクの先生に返事して何度かやってみた。ピュンピュンと回してるうちに段々とコツを掴んでくる。

「緑先生どうですか?」

すると緑は結構上手くシュッシュッと回して見せた。

「敵わないなあ」

 

鏡を見ながらやるといいな。

何度もやってると突然手がヌンチャクになじんでくる。

おっ!俺、何かコツを掴んだな。

感覚だな。あとは練習だ。

自転車を漕ぐのもヌンチャクの練習もパン作りも一度自分のものにしたらずっとできるんだ。

コツを掴む。行き過ぎは良くない、加減を知る。そして何度も練習だ。

そうだこの話を江川にしてやろう。今日は来て良かったな~

 


 

仕事中、修造が江川に昨日の力加減の話をしてバゲットの成形を見ていた。

「生地が荒れたり絞め過ぎないように力加減を調節するんだよ」

「はい」

その時配達の郵便局員が来てパンロンドの奥さんが受け取った。

「田所修造様って書いてあるよ。はい」と言って修造に茶色い封筒に入った分厚いものを渡した。

「なんだろう」

開けるとフランスパンの製法が書かれている洋書の翻訳本が入っていた。

送り主の名前も住所も書いていない。

「親方、本を送ってもらいましたか?」と聞いた。

「え?本?なんの事?」

「親方じゃなかったんですね、本が送られて来たんですが名前も何も書いてなかったんです」

「へぇ〜それは気になるなあ。他の人かもね」

「そうですね」

大木に電話した「あの、本を送って頂いてありがとうございます」

「本?どんな?送ってないけどなあ」

「え?そうなんですか?失礼しました」

修造は鳥井に電話した「あの〜本を送って頂きましたか?」

「いいや、私ではないよ」

「わかりましたすみません」

それから会う人会う人に聞いてみたが皆知らないという。

「誰なのかなあ。江川?」と聞いた。

「僕じゃありません」

「うーんわからないなあ」

俺宛なんだから読めって事なんだ。

ひとまず誰からかとか忘れて読もう。

本の内容はフランスの高名なシェフがパンの歴史や製法、作り手の心構えについて細かく書いてあるものだった。

発酵のところにメモが挟んであった。

『必ず一番良いポイントがやってくる。 その時をじっと待つ事だ』

この字、誰の字だろう。このメモの文字、、、

これって丁度江川の悩んでいるところだけど関係あるんだろうか?

本には詳しい製法が段階を踏んで細かく書いてあった。

新しい発見があり、読むたびにそうか。そうか。と納得していた。

そして何時間も本を読み耽った。

ソファに座って真剣な顔をしている修造。

緑はそれを台所のテーブルから見ながら作文を書いていた。

この作文は今度の授業参観でみんなが読む予定だった。

テーマは自分の家族について。

原稿用紙に2Bの鉛筆で書いていて、緑は思い出した事があった。

お父さんがドイツからおうちに帰ってきた時

ドゲザ

してるのを見たわ

大人のドゲザ

「律子、緑すまなかった」って

その時お母さんはお父さんの背中をさすって泣いてた。

 

 

お母さんは怒ってなかった。

お母さんはお父さんを大好きなんだわ。

それに

お父さんにとってパンを作るのはとても大切な事だったんだわ。

私はそんなお父さんとお母さんが大好き。

緑は難しいところは律子に見てもらいながら作文を一生懸命書き出した。

 

 

「修造、今度の火曜日は休みなんでしょう?」

律子が聞いてきた。

「うん」

年末でホルツもパンロンドも忙しくなるから今年はもう練習は無い。

「じゃあ緑の授業参観に行きましょうよ」

「うん」

楽しみだけど、なんとかママが沢山いるので修造はちょっと怖かった。

もう誤解は解けたのかなあ。

 


 

火曜日、緑は学校に行く時

「お父さん」

「なに?」

「綺麗にしてきてね」緑は顎のあたりをトントンと触った。

緑に厳しく言われてすぐにカットハウスに行き「とりあえずすっきりさせて下さい」と言って髪を短くして髭を剃って貰った。

 


 

学校に着いて律子と一緒に緑の教室一年二組の後ろの戸から入る。

平日だからかお母さんが多い。

〇〇ちゃんママ達は修造をチラチラ見ていた。紗南ちゃんママと洋子ちゃんママもこっちを見ている。

うっ、ただ見てるだけかもしれないのに緊張するな。

修造は誰とも目が合わないように真っ直ぐ前を向いていた。

 

 

始業のチャイムがなって先生が入ってきた。

先生が挨拶して「今日は生徒の皆さんに順番に作文を読んでもらいます」と言って順番に生徒たちに作文を読ませた。

「次は田所さーん」緑が立ち上がって作文を読み出した、

それはこんなタイトルだった。

【お父さんはマイスター】

「私のお父さんはパンロンドというパン屋さんで働いています。お父さんはパンを作るのが大好きです。大好きすぎて外国に行って勉強していました。毎年クリスマスになると民族衣装を着たテディベアを送ってきてくれました。そのあとテストがあってお父さんはマイスターになりました。そして私が保育園に行ってる時に帰ってきました。外国にいて、きっとお父さんが1番寂しかったと思います。だって日本に帰ってきて走って私達に会いにきた時、とても泣いていたからです。その時に作ってくれたクラプフェンというジャムの入った揚げパンがとてもおいしかったです。お父さんの作るパンはとても美味しいです。私も大人になったらパン職人になりたいです」

読み終わったあと、緑は修造の方を見た。

「お父さん泣いてる」

修造の眼から大粒の涙が溢れていた。

 

 

緑ありがとう。

なんて良い子なんだ。

律子良い子に育ててくれてありがとう。

パン職人になりたいのか、そうか。

そう思うと

修造は感動してまた泣けてきた。

律子はハンカチを渡してそっと修造の手を握った。

それを見ていた〇〇ちゃんママ達は緑と修造に拍手を送ってくれた。

修造はしばらくみんなから泣き虫パパと呼ばれていた。

 

おわり


2021年11月13日(土)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 六本の紐 braided practice 江川

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

六本の紐  braided practice 江川

 

こんにちは、いつも読んで頂いてありがとうございます。「パン職人の修造 江川と修造シリーズ」これまでのあらすじを親方が説明します。

 

 

よう!

俺は関東にあるパン屋のパンロンドのオーナー柚木阿具利(ゆずきあぐり)だ。俺は二十五の時に夫婦でパンロンドを開店した、その五年後、全国の高校に求人を出して色んな場所から来た学生を面接したんだ。

その中の一人に九州出身の田所修造(たどころしゅうぞう)がいた。

あいつは一言でいうと「熱い男」だ。

口数は少ないがいつも真剣にパンと向き合ってる。奴は結婚して子供が生まれた後、ドイツに修業に行きたいって言いだした。よく考えた末らしいので奥さんと子供は俺達夫婦が面倒見る事にして、奴は旅だったんだ。

5年って長いようであっと言う間だったなあ。

修造は帰ってからすぐ奥さんに許してもらって家族で上手くやってるよ。

その後若者の職人何人かを育てていて、その中でも熱心な19歳の江川卓也(えがわたくや)と世界大会を目指すと決めてきて、今度パン界の重鎮ベッカライホルツのオーナー大木シェフの所で修業をするそうだ。

さあ、今回はどうなるかな?

 

 

六本の紐

 

江川と修造は二人で世界大会に出ると約束をした。

修造はベッカライボーゲルネストの鳥井に世界大会に出ると約束した次の日、江川と二人でもう一度業界最大のパンやお菓子の展示会に行った。

そこで行われているコンテスト『パン職人選抜選考会』に出場している高い技術の職人が作ったパンを感心して眺めていると、大会の重鎮ベッカライホルツのオーナーシェフ大木が声をかけに来てくれたので、挨拶して江川を紹介した。

シェフお世話になります。彼がうちの若い子で江川っていいます。入ってまだ7ヶ月なんです」

「そう、よろしくな江川」

「こんにちは、よろしくお願いします」

「俺達いつシェフの所に行ったら良いですか?」

「そうだな、お前達次の休みはいつなんだよ」

「火曜日が休みです」

「そうか、じゃあ次の火曜日に来いよ」

「はい、お世話になります」と二人で大木に頭を下げた。

 


次の日の昼頃

パンロンドで作業中、修造が江川に声をかけた。

「江川、明日早番だろ?あれとあれ忘れないでやっといて。」

はい、あれとあれですね」毎日一緒に仕事している2人はもうちょっとした目線でも相手の考えてる事がわかる。

追加のあんぱんを成形しながら、それを聞いていた杉本が藤岡に「あれとあれってなんですかね?」と聞いた。

 

 

藤岡は、パイローラーという機械でクロワッサン用の生地を薄く伸ばして、運びやすい様に巻き、それを成形台の上に広げながら言った「俺達少しポジションが違うからわからないこともあるだろ?」

俺ずっと修造さんと組んでたらあんな風になるのかなあ」

どうかな。勘の問題かもね。じゃあ俺の言ってるあれって何か分かる?」

あれって、、、」

「そう!あれ取ってくれよ」藤岡はクロワッサンを成形しようとしている。ナイフは持っているので杉本の手元にある定規が欲しい。

えーと。。」全然分からない様だったが藤岡はわざと定規を見ない様にしていると杉本は自分の持っていた餡ベラを渡して「これですね!」と言った。

「やっぱ勘の問題だけじゃないかもね」

 


 

火曜日

今日は大木シェフの店に初めて練習に行く日だった。

修造と江川は東南駅の改札前で待ち合わせしていた。

「修造さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします」

江川は元気いっぱいに挨拶した。

「お前その服どこで売ってるの?」

修造は江川の服装を見て驚いた

色合いもデザインもちょっと他にはない。

「僕古着屋さんとか巡るの好きなんです。ちょっと変わったのがあったら買っちゃいます」

「へぇ〜」

失礼とは思ったが江川の服をしげしげ見ながら修造は思った。

こいつかなり個性的だな。

そう言えば通勤のときの格好も結構派手な服装が多かったな。

「俺なんて白いTシャツしか持ってないもんな」

「色んな服が似合うと思いますよ。今度僕が買ってきてあげましょうか?」

「えっっ!いや~遠慮しとくよ」

そんなやりとりをしながら善田駅の階段を降り、中央口から歩いて10分。大木シェフの店ベッカライホルツにたどり着いた。

ホルツの店の前には沢山の客が並んでいて、その横を通り過ぎて従業員用の裏口を探して戸を開けた。

「ようこそマイスター!」ホルツで働く者達が威勢よく声をかけてきた。

工場で働く従業員からは歓迎ムードが漂い、修行に来た修造から逆に色々学びたい者が多かった。

10人ほどの職人が二人を取り囲み皆修造の経歴や体験を聞きたがり、その話を食い入るように聞いていた。

ここにはやる気のある人しかいないんだ。

みんなが一流を目指す意識の高い人が集まってるんだな。僕のイメージしてたパン屋さんとは雰囲気が違うな。

江川は修造を取り囲む人達を見ながらそう思った。

そして少し気後れした。

ここからしたらパンロンドってアットホームだな。僕練習についていけるかしら。

そのうちに大木シェフが奥の事務所らしい所から現れ、皆素早く元の持ち場に戻って行った。

「2人ともよく来たな」

「さあ、じゃあ早速練習場と言うかパンの学び小屋と言うか、別室があるから行こうか」大木はその別室を指さした。

「更衣室を案内するから着替えたら来てくれよ」

「はい」

その別室は工場の奥の廊下から繋がっていてガラス戸や窓からから中の様子が見える。

白い壁の小さな建物の下半分がアルミ、上半分がガラスの扉を横にスライドさせて中に入ると、中には製パンに必要な一式が揃っている。

ここは向こうの工場で作りきれない別注のパンを焼いたりするところなんだよ」

パンロンドしか知らない江川は何もかもが珍しくてキョロキョロした。

パンロンドでは親方が開店当時大枚をはたいてフランスから取り寄せた5段窯とミキサーを使っているが、ここでは国産の最新鋭の機械が揃っている。

「カッコいい」

憧れ半分、緊張がその半分、残りは修造がいる安心感。

今日は生地の仕込みを見せて貰い二人とも別々に仕込みをして、バゲットを焼くところまで練習する。

規定の同じ重さ同じ長さに成形できるか、カットした断面は美しく気泡ができているかなど。

職人達はかわるがわる修造の成形を見ていた。

焼きあがりはどんなものかも見てみたい。

 

 

みな工場に戻っては、修造の作業について理想的だとか他のやり方とは違うとか口々に言い合ったが最終的にはあの人は凄いと言うことに落ち着いた。

一方の江川は初めて通しでやってみたので中々上手くは行かない。

一つ一つの工程を大木にアドバイスを受けながらやってみたが、まず長さがバラバラで内層も気泡が大きなところと目が詰まったところがあり、外観は少しいびつだった。

それを見た職人の何人かはまだまだこれから上手くなるんだねとか、お前より下手だとか上手いとか揶揄する者もいた。

大木は江川に「まだ9ヶ月あるからこれからだな」と言ってくれた。

「今日はありがとうございました」と言って次回の約束を取り付けて工場の人達に帰りますと挨拶した時、何人かは修造にしか挨拶しない事に江川は気がついていた。

帰りの電車の中で「みんな僕が下手くそだから見切ったのかな」

と思っていた時、修造に「今日は通しでやってみてどうだった?」と聞かれた「はい、凄い勉強になりました。家に帰って大木シェフの言葉を思い出してノートに書いて復習します」

「おっ!やる気あるじゃないか」

「えへへ」

江川は東南駅の階段を降りながら「修造さんってすごい人なんですね。みんなの尊敬の眼差しがすごかったです」と言った。

「そんなことないよ、みんな物珍しがってるだけだよ」

「僕も修造さん目指して頑張ります」

「そうだな、一緒に頑張ろう」

「はい」

「じゃあまた明日」と言って東南駅の前で別れた。

帰ってからノートを書いて江川はちょっと不安になった。

今日全然ダメだったな、シェフの言うことは理解出来たけど選考会もレベルが高そうだし、勢いで出ますとか言っちゃったけど大丈夫かな?

いや、修造さんがいるから大丈夫だよね。

ホルツの職人の何人かが自分に向けた厳しい目をしてたのを思い出す。

「今度行った時も修造さんから離れないようにしよう」


次の練習の日、駅前で待ち合わせしていると修造が自転車で来た。

「おはようございます修造さん」

「あのさ、江川。親方から連絡があって佐久山さんが具合悪いから代わってくれって連絡あったんだよ。悪いけどこのまま一人で行ってくれる?」

「え!僕一人で行くんですか?」

「そうなんだよ。頑張れよ」と言って修造はそのままパンロンドに行ってしまった。

江川はとりあえず電車に乗った。

「どうしよう、不安しかないや。僕無事に帰れるかな」

今日は大木シェフから離れないでおこう。

電車に揺られながら江川は自分の無事を祈った。

 


 

ベッカライホルツには工場に従業員が8人いた。

行列のできる人気店で絶え間なくお客さんがやってきて次々と飛ぶようにパンが売れて行く。

8人が必死になってパンを作ってもまだ足りないぐらいだ。

「江川さんこんにちは」何人かの気の良さそうな職人が挨拶してくれた。

「こんにちは」

名札に北山と書いてある江川と同じ歳ぐらいの職人が「あの、実は今日大木シェフは急な会議が入っていらっしゃないんです」と教えてくれた。

 

 

「えっそうなんですか?じゃあ僕帰ります」と言って帰ろうと半分踵(きびす)を返そうとした江川の肩を、名札に鷲羽(わしゅう)と書いてある一人の職人が掴んで「まあせっかく来たんだし、僕達と一緒にパンを作りましょうよ」と言って更衣室に江川をほり込んだ。

着替えたら出てきてくださいね」と言ってドアの前で待っている。

「逃げられないようにしてるのかな」江川は怖くなった。

そして工場の真ん中に立たされて一緒に成形をしだした。

忙しいから助かりますよ」丸めたパンと綿棒を渡されて何時間か延々と生地を伸ばし続けた。

パンロンドの何倍もの仕事量を皆てきぱきとこなしている。

 

みんな凄いな、動きが正確で素早いな。

「江川さん遅いですよ」

「早くして」

それがそのうち「早くしろよ」に変わってきた。

北山が「きつく言わないでよ可哀想でしょ。イライラしないで」と言った。

「ハン!」と鷲羽は言い放ち「こんな奴が世界大会!笑わせるなあ!舐めすぎでしょ」

「まだ9ヶ月あるんでしょう。分からないじゃない」

「分かるだろ!無理だよな?」と江川の顔を覗き込んで言った。

俺と勝負して負けたらここに2度と来ないでくれる?」

江川は顔を引きつらせながら「そんな、僕1人で決められません」

「そんな事も自分で決められないって事か?」

園部と名札に書いてある職人が江川と鷲羽に生地を渡した。

それは丸められた生地が何個もバットに並べられた菓子パン用の生地で、江川に1枚、鷲羽の前に1枚置かれた。

これを使って編み込みのパンをやって貰おう!」

「僕、何回かしかやった事ありません」

「仕方ないなあ。じゃあ俺が見本を見せてやるよ」

鷲羽が4つの生地を細長く伸ばしてそれを3つ編みならぬ4つ編みパンに成形した。つ3編みパンは細長いが、真ん中は太く、端は細い方が見栄えが良いが、全て同じ太さで成形する場合も多い。

4つ編みパンも色々な編み方があるが、鷲羽がやったのはこうだ。

 

 

まず、4本の生地を細長く同じ長さ、同じ太さに伸ばし、1番上で4本を留める。

4本のうち左の生地をその隣の生地の上に持って行く、右の生地を隣の生地の下にする、真ん中の生地は右のを左にする。するとまた新たに4本の生地が並んだので同じように動きを繰り返し、最後の端まで編んだら両方の先っちょを下に入れ込んで体裁を整える。

基本は必ず次の動きの為にクロスしたところの体裁を整えてから次の編み込みの動作をする。編み込みの最中常に中心軸を意識して編んでいくと美しさが保てる。

「こんな感じだよ」

鷲羽はいくつか成形して天板に並べてラックに挿した。

「よし!じゃあ成形を始めよう、まずは3つ編みから」

鷲羽は自身満々で成形を始めた。

江川も3本の細長い生地を並べて成形しだした。

出来上がった3つ編みのパンを二人で並べて見比べた。鷲羽は問題なかったが、江川のはどうにか体裁を保っていた。

「次は4つ編みパンだな」鷲羽は張り切って成形し出した。

江川も生地をなるべく同じ長さに伸ばした。途中毎回どっちの生地が次どこに編み込まれるのか分からなくなるが、なんとかどうにか成形を終えた。各自四個ずつ成形して皆見比べに来た。

「あー、、」と江川の成形を見て残念そうな声が上がるが鷲羽の手前、別に皆「こうしたらいいよ」と言ったアドバイス的な事は何も言わない。

江川の編み込みパンは網目が詰まってるところと伸びたところの差が目立ち、その為いびつな形だった。

「よし!決まった!江川さんは今日でさよならで次からは俺が修造さんと練習させて貰います」

「そんな事勝手に決められないわよ」北山とそばで見ていた篠山も一緒になって言ってくれたが、周りの先輩達は両者の成形を見比べてやむなしと言う顔をした。

それは前回の成形と今日の仕事ぶりを見ての総合的な評価だった。

鷲羽は江川に「お疲れ様でした」と言って、また肩に手をやり、更衣室に連れて行った。

 

そのあと江川はどうやって店を出て電車に乗ったのか分からない程ショックだった。

ぐうの音も出ない、と言うか無理矢理で自分勝手で一方的な勝利でも、本人が勝ったと言えば周りもそんな感じになる。

住んでいるワンルームマンション『東南マンション』の3階の部屋に帰り、小綺麗にしてある部屋の窓際のベッドにうつ伏せになった。

今日一日の事が何度か頭を巡る。

僕ってそんなに遅くて下手なのかな。

パンロンドで修造さんに面接して貰って採用して貰ってから、ずっとパン作りを習ってきたのに同い年ぐらいの鷲羽君にボロ負けした。

僕もうやめた方が良いのかな。

その方が修造さんの為なのかな。鷲羽君、仕事も早いし成形も綺麗だったな。

江川は枕に顔を埋めて「嫌だ」と言った。

 


 

次の日、誰が見てもしょんぼりしてる江川を見てパンロンドのみんなは驚いた。

「江川、昨日何があったの?」修造が聞いても「何もありません」と頑なに教えない。

倉庫に物を取りに来た時、藤岡も材料を取りに来て「どうしたんですか?」と聞いた。

僕コンテストに出られないんだ」と小声で言った。

「何故ですか?」

「僕、4つ編みパン対決で鷲羽君に負けちゃったんだ。それで鷲羽君が修造さんの助手をするって勝手に言い出して、僕にはもう来るなって。修造さんがいない時にそんなことになちゃってなんだか言いにくいんだ」

江川のやるせない言い方を聞いてよっぽどな事があったんだなと悟った。

「そんな事で負けた気持ちになってるんですか?そいつが言ってるからなんだって言うんですか」

藤岡は続けた「俺は江川さんに頑張って下さいねって言いましたよね、そしたら江川さんは頑張るって言いました」

「でもそれは、、」確かにその時はそう言ったが、何故だろう、軽い気持ちで言った自分がバカに見える。初めの気持ちが掻き消えそうだった。

「本当にそんな事で諦めて良いんですか?修造さんは江川さんとぴったり息を合わせようとしてるんじゃないですか?他のものが修造さんと一緒に選考会に出て、勝ったらその人が大会に出ても?その時江川さんはここにいて、今頃修造さん頑張ってるかなあとか言うつもりですか?」

江川はうわーっと叫びそうだった。

「嫌だ」

「じゃあ答えは簡単です。そいつをぶち負かして下さいよ。でないと俺も立候補しますよ」

「藤岡君」

藤岡君も出たかったんだ。

「ごめんね、僕やっぱりもう一度やるよ」

「はい」

 

 

「鷲羽君に勝つよ」

江川は帰りに粘土をいっぱい買って編み込みのパンの練習を始めた

誰よりも早くそして綺麗に

誰よりも早くそして綺麗に

と、呪文のように繰り返した。

次の日、藤岡から事情を聞いた親方が「おい、ちょっと困ってるんだって?」と言って江川に気の済むまで編み込みの練習をさせた。

「段々うまくなってきたじゃないか」

親方に優しくして貰って江川は初めて泣けてきた。

「はい」

「よし!俺がぶちまかしスペシャルを教えてやる」

親方がフッフッフッと笑った。

 

 

修造はそれを工場の奥で生地を作りながら見ていて「3つ編みパンで何かあったのか?」と言った。

「ホルツにも修造さんと組みたい奴がいるんですよ」とそばにいた藤岡に言われ「ええ?ホルツの職人が?一人で行った江川に何か仕掛けてきたのか?」「その様ですよ」

 

「江川」

「はい」

「次の火曜日ホルツに行くことになってるけど」

「その日僕も一緒に行きます」

「そりゃそうだろ、と言いたいところだが、お前何かあったんだろ?」

「はい、僕その日に鷲羽君と一緒に成形しようと思っていて、大木シェフに少し生地玉を頂きたいと連絡しようと思ってます」

「鷲羽?」

「はい」

「行って大丈夫なのか?」

「はい、僕行きます、行かないわけにはいきません」

ホルツに再び行くのは3日後、江川はそれまでの間家に帰っても出来るだけ沢山練習を続けた。3つ編みは楽にできるようになり、4つ編みを練習し出した。そして。。

 

とうとうホルツに行く日が来た。

江川は修造と東南駅前で待ち合わせて、珍しく黙ったままでホルツに着いた。

「おはようございます」修造と一緒に入ってきた江川を見て皆ざわざわしていた。

何人かは大木シェフの決めたことなんだからそりゃ来るよねと思っている様だったが、他の者は江川が意外とメンタルが強い事に驚いていた。特に鷲羽は。

2人は着替えて練習場に行き、今日もまたバゲットの練習をした。

通しで仕込みから焼成までを、前々回大木シェフの行った通りやってみた。

「こないだよりマシになったな」大木は江川を見て言った。

「ありがとうございます。大木シェフ、僕行ってきます」

「おう、頑張れよ」

「はい」大木は北山達から鷲羽の話を聞いていた。なので江川の為に生地を北山に用意させていた。

江川はドアを開けて工場の中の鷲羽を見た。そして後ろ手にドアを閉めて短い廊下を歩き鷲羽の前に立った。

「なんだよ」

「僕ともう一度勝負して下さい」

北山は江川と鷲羽の前にそれぞれ生地の入ったバットを置いた。

「また3つ編みパンですかぁ?」鷲羽はやや嫌味っぽい言い方をした。

「3つ編みとは限りませんよ」

そう言ってまずは3つ編みパンを成形して鷲羽の前に置いた。

前よりは落ち着いていて綺麗に成形できている。

「おっ!ちょっとマシになってるじゃないか」

そう言って鷲羽も成形をして江川の生地の横に置いた。

どちらも甲乙は付け難い。

次に江川が4つ編みパンを成形した。

前回とは全く違う綺麗なフォルムの4つ編みパンを見て驚いた。

鷲羽も負けずに美しい4つ編みパンを成形した。

園部は正直どちらか勝ってるか答えが出せないなと思っていた。

その時江川が「まだありますよ」と言って今度は5本で編み出した。

5つ編みはじっと見ていてもなかなかどうなってるのかわかりづらい。

 

 

「うっ」鷲羽がうめいた。しかし思い出し思い出しなんとか5つ編みを完成させて横に置いた。園部も流石に鷲羽の部が悪いと思いだした。

「僕まだやれます」江川は6本を使って素早く編み出した。

そして鷲羽の目の前に置いた。

「くっ!」鷲羽は悔しそうにしながら見よう見まねでやり出したが途中わからなくなって動きが止まった。

「僕の勝ちですね?」

仕方ない「ああ」と鷲羽は言わざるを得ない「俺の負けだ」

「ほんとですか?7本目は流石に分かりません」

江川はホッとした「じゃあ僕が修造さんと一緒に大会に出ますからね」

まだ一次予選も通過してないのに江川は大きな事を言ってると自分でも思っていた。

それを横開きのドアの向こうから大木と修造が「へぇ〜っ」と感心しながら見ていた。

 

 

「やるなあ江川Sechsstrangzopfじゃないか」ドアの向こうの修造に気付き、さっきまでの表情と違い江川は晴々とした笑顔を浮かべていた。

 

おわり

 

六編みパン=Sechsstrangzopf(セックシュトラングツオップフ)

 


2021年10月23日(土)

パンの小説の一覧を作りました

 

パンの小説の一覧を作りました。

ブログの表示が5つのお話までしか掲示されないので一覧をこちらに作りました。

よろしければ下にある一覧から好きな話を探して見てくださいね。

パンと愛の小説シリーズは様々なパンの世界について筆者が見たり聞いたりした事を元に、書いたり描いたりした挿し絵付き小説で、主にパン職人の修造という人物を通して見ていっています。

目力の強いパン職人の修造の話は今のところ6部まで出ています。結婚してパンマイスターになって世界大会に挑戦したり、もっともっといろんな事を体験して貰います。

江川と修造シリーズは修造が修行先のドイツから帰ってきて江川をパンロンドで面接したところから始まります。引きこもりで不登校だった江川は修造の弟子っこになり、やがて色々な経験を経てナイスなパン職人になっていきます。

イラスト付きでわかりやすく、電車の中ですぐ読める感じになっていますのでぜひお楽しみ下さい。どんどん更新していくのでたまに覗いて見てくださいね。

 

新作↓

江川と修造シリーズ フォーチュンクッキーラブ 杉本Heart thief

gloire.biz/all/4415

やっと職場に慣れてきた杉本。一緒に仕事している店員の風花に危険が迫る!その時杉本は、、、

 

江川と修造シリーズ 背の高い挑戦者 江川 Flapping to the futureはこちら

gloire.biz/all/4365

修造と江川の務めるパン屋パンロンドにNNテレビがやって来た!

みんな頑張って!その時修造は、、、

 

ハートフル短編小説 アルバイトの咲希ちゃんはこちら

gloire.biz/all/3705

東南駅と学校の間にあるパン屋のパンロンドでアルバイトをはじめた高校2年の咲希ちゃんでしたが、、、

 

江川と修造シリーズ 催事だよ!全員集合!江川Small progressはこちら

gloire.biz/all/4249

このお話は進め!パン王座決定戦!の続きです。催事を通じて少しずつ成長する若手の職人達のお話です。パンロンドにイケメンの仲間がやってきましたが実は、、、

 

江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!後編はこちら

gloire.biz/all/4129

パン王座決定戦!前編の続きです。 修造はNNテレビのパン王座決定戦で強敵のシェフと戦う事になりましたが。。

 

江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!前編はこちら

gloire.biz/all/4009

新人の杉本君の続きのお話です。親方が修造をパン王座決定戦に出てくれと言ってきました。その時修造は、、

 

 

江川と修造シリーズ 新人の杉本君Baker’s fightはこちら

gloire.biz/all/4056

江川To be smartの続きのお話です。パンロンドに新人の杉本君が入ってきましたが、、、

 

江川と修造シリーズ 江川To be smart はこちら

gloire.biz/all/3940

江川が15年前パンロンドの面接で修造と出会った時のお話です。

修造は一風変わった面接をします。。

 

製パンアンドロイドのリューべm3はこちら

gloire.biz/all/3877

30年後の未来、アンドロイドはとうとうパンも作ってくれる様になりました。利佳はアンドロイドと仕事をする決心をします、その理由とは。

 

パン職人の修造第1部 青春編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3032

パンロンドに就職した空手少年の修造は運命の人に出逢います。そして、、

 

パン職人の修造第2部 ドイツ編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3063

修造はパンの技術を得るためにドイツに向かいますが、、、

 

パン職人の修造第3部 世界大会編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3065

江川と出会った修造は2人で世界大会を目指します。

 

パン職人の修造第4部 山の上のパン屋編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3073

律子と2人で念願のパン屋を開きますが、、

 

パン職人の修造第5部 コーチ編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3088

江川の為に世界大会のコーチを引き受けますが、、

 

パン職人の修造第6部 再び世界大会編前半はこちら

http://www.gloire.biz/all/3100

世界大会の為にコーチとして江川や緑と色々と作戦を練りますが、、

 

サイドストーリー江川と修造シリーズ ペンショングロゼイユはこちら

http://www.gloire.biz/all/3748

世界大会前編の始めに東北のお祭りに行った後のサイドストーリーです。

世界大会のアイデアを練る為に江川と東北に行った帰り道、泊まったペンションで修造が会った夫婦は、、、

 

パン職人の修造第6部 再び世界大会編後編はこちら

http://www.gloire.biz/all/3596

世界大会が終わった後修造は、、

この後もまだまだお話は続きます。

 

このお話を書いたきっかけ。

昔々グロワールの近所にパンマイスターのお店があって、うちの先代が「マイスターのお店があるから行ってみ。」と言いました。私はその時はマイスターって聞いたことあるけど何なのか知りませんでした。

お店に入るとご夫婦がお二人で経営されていて、ショーケースがありました。当時(今も)無知だった私はどれがドイツパンかもわかりませんでしたが、記憶では日本の菓子パンもあった様に思います。

入り口の横に燦然と輝くマイスターの証が飾ってありました。今はもうぼやけた思い出ですが、今にして思えばなんて勿体無い事をしたのでしょう。もっと行っとけば良かった!お店はいつのまにか無くなっていました。

推測ですが戦時中にドイツに渡り紆余曲折あってマイスターの資格を取り日本に戻ってこられたのではないかと。そして日本にドイツのパンを広めるはずだったのに、当時はやはり菓子パンや食パンが主流で、しかも「白くてフワフワ」というワードがもっとも信頼されていた頃です。

推測ですが、色々悩まれたのではないかと思っています。あぁ〜今やったらパン好きの人達に紹介して記事を書いて貰うのに。そしてそれを読ませて貰うのに!

当時はSNSも無かったし、私も価値が分からずにいたと思うと口惜しいです????

そんな気持ちがくすぶっていてマイスターについて色々調べ、今では価値のある存在って十分わかっております。

修行は長く、様々なお辛い事、そして楽しいこともあったと思います。

パン職人の修造第2部ドイツ編にはそんな思いが込められています

世界大会については、審査、選考会、世界大会の順に勝ち進んでいくのですが、調べていくにつれ、色んな選手の方が色々な事を調べて作ってらっしゃるのがよくわかります。時間内にタルティーヌやクロワッサン、バゲット、スペシャリテ、芸術作品などをを作らなければいけません。とても技術を要し、過酷なものと推測します。

大会で修造が作ったパンは調べあげた末、誰とも被らないようなものを作ったつもりですがもしもモチーフが被った場合はご容赦下さい。その他の一般でも販売可能なパンに関してはこんなに沢山の種類やパンがあるんだとわかって貰えるようになるべく色んなパンを紹介することもあるかもしれません。

世界大会には選手と助手(コミ)の2人が出ます。そして会場ではブースの外からコーチが色々指導したりします。素晴らしいコーチと助手と選手の熱い思いが燦然と輝くのです。

今後も修造の話は続きます。

応援お願いします。

 

ここに出てくるお話はフィクションです。

実在する人物、団体とは一切関係ありません。

パンと愛の小説

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2021年10月22日(金)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ フォーチュンクッキーラブ 杉本Heart thief

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

フォーチュンクッキーラブ 杉本Heart thief

 

 

催事で頑張ってカレーパンを揚げた杉本は最近は親方に焼成を教わっていた。

成形後ホイロというパンを発酵させる機械の中から出てきたパンを焼く。

「タイマーが鳴ったら出すんじゃなくて、それは目安として焼成のパンの色をよく見てね」

「はい」

それを工場の奥から見ながら江川は「以前はあんなに反抗的だったのに杉本君すっかり変わりましたね。真面目になった感じでしょうか」

と先輩の修造に言った。

 

「だな」

修造は普段あまり話さない。

幼い頃は無口な修造と呼ばれていた様だ。しかし頭の中はもうすぐ行われる選考会へのチケットをゲットできる一次審査のことで頭がいっぱいだった。いつも集中すると他のことが目に入らない。その間何も話さない事が多くなる。

ところで江川と修造は世界大会を目標にして大木シェフに面倒見てもらえることになった。パンロンドの定休日に大木の都合が合えば来ても良いと言われている。

今日はパンロンドの近所の神社でお祭りがあるのでちょっとした余興の為に江川と2人でフォーチュンクッキーを作っていた。そして出来上がったフォーチュンクッキー用の薄いクッキー生地がのった天板を杉本に回した。

「杉本フォーチュンクッキーって知ってる?」と修造が聞いた。

あ!聞いたことあります!見たこと無いけど」

 

フォーチュンクッキーは中におみくじが入っている薄い小さいクッキーで、中の言葉は様々だ。格言や予言、恋占いなど。

アメリカのフォーチュンクッキーは粋なジョークが書いてあるものが多い。

「これだよ。瓦焼きみたいな薄いクッキーに占いやおまじないが書いてある紙を挟んで折るんだ。来たお客さんに配るから焦がさない様に軽く焼いてね」

「はい」

薄い生地を軽く焼いたあと直ぐに占いの書いてある紙を真ん中に挟んで容器のヘリで曲げる。

杉本は出来上がったフォーチュンクッキーをひとつ割ってみた。

中に細長い小さな紙が入っていて「恋する予感」と書いてある。

おー!恋する予感だって!誰かなあ?風花ちゃん?」と店で焼き菓子を包んでいた二つ歳上のパートの横山風花に言った

風花はすぐに

「違うと思う」とキッパリ言った。

「早く焼けたパンをトレーに入れて出してよね。何回言われたらわかるのよ」拒絶された上に厳しく言われて杉本は苦笑いして「はーい」と言われた通りに急いで品出しした。

焼成はパンを焼くのが仕事だが昔から「焼きが八割」と言われていて、失敗すると仕込みと成形の工程が無駄になる非常に大切なポジションだ。その焼き加減によって見た目は勿論中の水分量などが変わり食感に影響する。なので親方は杉本に温度やタイマーの設定を丁寧に教えていた。

杉本は高校を途中で辞めてボクシングジムに入ったが挫折してパンロンドに入った。

挫折したとはいえ、体力作りをしていただけあって力も強く持久力がある。

難点があるといえばガサツで軽率、この二つだろうか。

親方は自然に振る舞いながらパンを手荒く扱わない様に、良いタイミングを待たずに早急に焼かない様にコントロールしていた。

「風花ちゃんこれ、お客さんにひとつずつ渡してね」奥さんは焼けたフォーチュンクッキーを可愛いカゴに入れて、レジでパンを買ったお客さんに渡す様に言った。

フォーチュンクッキーを選んで受け取ったお客さん達は皆中を開けて「あ!夜道に注意だって!」とか「こっちは片想いが実るだって!」などおみくじクッキーの様々な文言を楽しんでいた。

風花は「奥さん、私もひとつ貰って良いですか?」と聞いた。

ええ良いわよ、なんて書いてあるの?」

 

「はい、盗難注意でした。私って色気ないからおみくじも色気なかったです」と笑って言った。

「色気なくなんてないわよ。こんなに可愛いのに。着物でも着てお祭りに行ってごらんよ。みんながついてくるかもよ」

奥さんの励ましの様な言葉を聞いて部屋の箪笥の中の秋浴衣を思い出した。

今日友達と久しぶりにお祭りに行くからお母さんに着せて貰おうかな。

風花は家に帰って母親に藍色の秋浴衣を着せて貰った。

浴衣より少し厚めの紺色の生地に桔梗が描いてある大人っぽい柄の着物に、淡い紅色の帯と髪留めをあしらった。黄色いバッグに白い足袋と赤い鼻緒の黒い下駄を履いて出かけた。

友達と神社の前で待ち合わせて四人で歩き、色々な屋台を見てお祭りを楽しんでいるうちにふと子供の頃の心に帰り少し楽しい。

お祭りの屋台の黄色い灯りが揺れている横をみんなで歩き、ヨーヨー釣りをした。

みんなでユラユラポンポンとヨーヨーを持ち歩いている時、仕事帰りに自転車を押してお祭りを見始めた杉本と藤岡に会う。

「あ!風花!」

いつもの自分に向けられる厳しい表情と違い、ゆったりとした笑顔で浴衣姿の風花を見て杉本はキュンとした。

杉本達は人混みの中押していた自転車を道の端に停めた。

が、風花は杉本を無視して「藤岡さんお疲れ様です」と挨拶した。

風花の友達も藤岡を取り囲んで「同じ職場なんですか?」とか「こんなイケメンのパン職人っているのね!」とか藤岡を質問攻めに合わせた。

何を聞かれても爽やかにしか答えない藤岡のソツのない言い方がちょっと羨ましい。

あーあ、、同じ人間なのになんでこうも違うんだ。

俺もなかなかのイケメンなのに。

そう思っていると「はい、これあげるわよ」と言って風花がヨーヨーを渡してきた」

 

「ヨーヨー、、久しぶりに見たな。大人になるとお祭りも中々来ないなあ」

「大人って誰の事よ」

「え?俺ですよ俺!」

その時辺りから屋台の焼き鳥の香ばしくて良い香りがしてきた。

「腹減ったな〜、焼き鳥食べようよ」

「良いわよ」

「藤岡さん、俺達あっちに行ってますね」

「うん」

と言いながら藤岡は風花の友達三人と反対側に歩き出した。

どうやら何かを見に行った様だ。

杉本はいい匂いのする焼き鳥を四本買った。

「ほらこれ」

「ありがとう」

二人は屋台と屋台の間の二メートルぐらいの隙間に立ち、祭りで行き交う人達を見ながら食べていた。

風花は着物を汚さない様にしながら片方の耳に髪の毛をかけて少し前のめりに焼き鳥を口に運んだ、その様子に少し見とれていたら

ちょっと口が開きっぱなしよ!」と叱られた。

「え!」

「もう、だらしないわねぇ!口元をキュッと結んで!」

「えへへ」と誤魔化しながら話を変えた。

「風花はなんでパンロンドに入ったの?」

「パンロンドって私が中学ぐらいの時にできて、それからは毎日パンロンドのパンを食べていたの」

「パンロンドって確か出来て十年目ぐらいだもんね」

「毎日沢山の人が店に来て、その人達はみんなパンロンドのパンを食べながら家族で話をしたり、急いで食べて仕事に行ったり、帰ってきて晩御飯の後でちょっと食べたりして、生活に溶け込んでる。」

「うん」

「そういう存在ってとても大切なんだわと思って」

それで入ったの?」

「そう、自分もそれを提供する側に立ちたかったの」

「しっかりしてるなあ、俺なんかパンロンドに連れて来られたんだ。だから全然やる気なかったけど、修造さんに鍛えられてちょっとだけわかってきたかな〜」

「修造さんって怖くない?目つきが鋭いわ」

「始めはめっちゃ怖かったけど、あの人はパンに対して真剣なだけなんだよ。言ってる事当たってるし」

「江川さんと修造さんって世界大会に出るんでしょう?」

「なんか飛び抜け過ぎてて俺はついていけないなあ」

「そんな事言ってないで!明日も頑張るのよ!あんたがあの二人の穴埋めをしなきゃ」

「無理だろそれ」

杉本が笑って誤魔化していると藤岡達が楽しそうに戻ってきた。

「風花見てこれ、藤岡さんが全部とったのよ!凄ーい!」見ると袋にパンパンのスーパーボールが入っていた。

「凄い」

藤岡は「ほら、これあげるよ」と言って杉本に持たせた。

帰り際、ヨーヨーと袋いっぱいのスーパーボールを持ち自転車の前カゴに入れながら「俺が満喫したみたいだな」と呟いた。

次の日

杉本は親方にバゲットのカットを習っていた。

カミソリ刃ホルダーの先に両刃のカミソリをつけて、よく切れる刃先でフランスパンをカットする。それを窯に入れて蓋を閉め、スチームのボタンを押すと、ブシューっと音を立てて蒸気が出て、生地全体が蒸気に包まれる。パン生地はカットしたところから上に横に広がり膨らんでやがて色づいていく。

窯から焼けたバゲットを取り出すとき外の空気が触れた外皮が縮んで割れてパリパリと音がする。

「この工程楽しいですね」

「このパリパリいう音は天使の拍手とか言うんだよ」

「へぇ〜」

「はい、バゲットあがりましたよ」

風花に叱られないうちに縦長のカゴにバゲットを入れて持っていった。

「はい、風花ちゃん」

一瞬目があったが、風花は黙って受け取り店の真ん中のテーブルに置いた。杉本はその背中を少し見つめてまた戻ってきた。

それを見ていた親方が思い出話を始めた。

「修造はね、今は奥さんの律子さんがパンロンドに入ってきた瞬間から夢中になっちゃってね。それを俺にバレてないと思ってたみたいだけどあいつずっと店の方見てんだよ。」

「ハハ、バレバレですね」

「付き合い出した頃なんて、修造が律子さんにベタベタで仕事が手につかなくてね、律子さんがとうとう仕事変わった程だったんだ」

「信じられない!あの修造さんが、、」

あいつ俺が律子ちゃんって呼んだら本気で腹立ててたから律子さんって呼んだりしてたな。」

「親方にヤキモチを?」

「ドイツに行ってる間律子を頼みますって頭下げられて、これでもし何かあったら俺は殺されると思ったね」

「無事でよかったですね!」

暴れる修造を想像するとゾッとする。

「ま、全ては出会い、出会いはチャンスって事だよ、な!」親方が出会い系アプリのキャッチコピーみたいな事を言った。


一方その頃、店の外から様子を伺ってる男がいた。その男は30代前半ぐらいで黒いスニーカー、青いジーンズ、白いTシャツに黒いブルゾン、紺色のキャップを真深に被っていた。

その男は目立たない様にパンロンドに入って来た。

いらっしゃいませ」

焼き立てのパンを店内に並べながら風花が言った。

そしてまたパンを並べ始めた。

丁度フランスパンの出来立てが並ぶ時間で、沢山の種類のパンをカゴに盛り、値札をつけていた。

その男はいつの間にか帰り、しばらく店でパンを並べるのに集中していた風花を見て奥さんが叫んだ「わ!風花ちゃん!背中どうしたの?!」と言った。

 

「え?!」風花は背中の事なので気が付かなかったが、ジュースのストッカーに写った自分の背中を見て「あっ!」と叫んだ。

制服の白いTシャツの右の肩甲骨あたりから左斜めに向かって十五センチほど切れている。

「いつのまに!引っ掛けたんでしょうか?」

「そうなのかしら?代わりの服を持ってくるわね」

奥さんが倉庫から新しいユニフォームを持ってきて「ほらこれ着替えてきて」と言った。

「はい、すみません。気をつけます」

風花がTシャツを着替えて「これ、どうましょう?」と聞いてきたので「私が縫って使うわよ」と言った時、奥から騒ぎを聞いていた修造と杉本が「見せて」と言ってその服を見た。

「さっき見た時は切れてなかったなあ」

「随分鋭利なものでスッと切れてますね」

「何かに引っかかったならこんな切れ方しませんよね?切り口がギザギザしますもん」

店にそんな切れ方するところがないもんな」

誰か変な人は入ってこなかった?」

「それが全然見てなくて」と風花が言うと、奥さんが「何人かお客様がいらっしゃったけどそんな怪しい人いたかしらね」と首を傾げた。

修造は風花に「お店っていうのは不特定多数の人が入ってくるんだ。こちらは何も知らなくても向こうは何かしら思って入ってくる時もある。ほとんどの人が普通にパンを買いに来ている、でも、中には敵意を持ってきたりする人もいる。それが露わになってる時はわかりやすいが、隠し持ってる時は中々わからない。笑顔でお迎えして挨拶する瞬間にどんな表情か見ておくと良いよ」と忠告した。

「わかりました」風花は目つきが鋭い修造が怖かったが、アドバイスはなる程なと思った。

たしかにお店にいるとどんな人が来店するかは顔を見るまでわからない。

とは言え敵意を隠し持ってる人なんて分からないかも。

修造は切り口を見ながら「これって誰かが切ったとすると、ナイフって切る時は刃の腹の部分で切るか突き刺すかになる。カッターなら先でこんな風にスッと力を入れずに切ることができる。多分カッターですよね」

「え!怖い」

「しばらく店に出ないで中で働かせて貰ったら?それで何もなければ良いし。気をつけるに越した事は無いよ」修造は杉本の方を向いた。

「念の為帰りは家まで送ってってやれよ」

風花が自分の事を怖がってると薄々気がついていた修造は杉本に言った。

「はい、無事に送り届けます!」杉本が張り切って言った。

そしてその帰り道

二人で歩きながら

杉本は風花に聞いた。

「何か身に覚えのある事は無いの?」

「カッターの事?いいえ全然無いわ。でもカッターで切られたとはまだ決まってないわよ。私全然わからなかったの」

「店でなんかおかしな事があったらすぐ呼んでよ」

「私今日は店に出なかったから明日もそうなると思う」

「その方が良いよ、風花が可愛いから狙われたのかも」

「そんなわけないわよ可愛くないもん。私何かしたかしら恨まれるような事」

杉本は可愛くないもんと言う風花の言葉に何言ってんだという表情を浮かべながら「やばいやつなのかな?まあ店と工場の間で俺を手伝ってくれたらいいよ」と言った。

「厚かましいわねホントに」

笑い合う二人を離れた所からつけてくる男に杉本は全然気が付かなかった。


風花はしばらくの間、店と工場の間で働いていたが店も平和だし、別段何も起こらなかったので奥さんに言った。「あの、多分あれは何かに引っ掛けただけかもしれません。もう大丈夫と思うので、前みたいにお店で品出しします」

「わかったわ、でも気をつけてね。何かあったらすぐ呼んでね」

はい」

風花は顔は怖いが心の優しい修造の言葉を思い出して、笑顔でお迎えしながらお客様の表情をよく見ていた。

たしかに色々な気分でパンを買いに来る人達がいるんだわ。

イライラしていて急いでる人もいるし、逆にゆったりと買い物して店員と話がしたい人もいる。そうだわ、そんなお客様には自分から話しかけよう。

お昼頃、風花は以前のようにフランスパンの焼き立てを並べていた。

色んな種類のパンをカゴに入れて値札をつけていく。

「いらっしゃいませ」

入ってきたお客さんの表情を見た時「あっ」と思った。紺色の帽子を目深に被って風花を一瞬見た。

年齢は三十ぐらいで身長は百七十センチぐらいの男だ。

風花はこの人かも知れない!と思ったがまだわからないのでわざと背中を向けて意識を背後に集中してみた。

するとそのお客さんはトレーとトングを持って店をゆっくりと一周してから段々風花の背後に近づいて来た。

なんだか背中がピリっとする。

後ろに立ったわ!

そう思った時

カチッ

とカッターの刃を出す時の音がした。

 

 

 

振り向くと風花に向かって刃の出たカッターを向けていた

キャー助けて!」

不思議なものでこんな時は練習しなくても高い声が出る。

声を聞いて杉本が飛び出してきた。

「なんだー!」男は杉本の声に驚いて逃げようとした。

奥から出てきた杉本に慌ててトングとトレーを投げつけてきた

「うわ」杉本がそれを避けた隙に男は店から飛び出して行った。

「待てーーっ!」

商店街を駅と反対の方向に走っていく男を追いかけて行くと、三十メートル程離れた所に停めてあった自転車に急いで乗って逃げ出した。

「準備してたのか?」

自転車はグレーともグリーンとも言えないくすんだ色合いで、荷台は黒い。

荷台はサドルの後ろに取り付けられた薄い板の様な形で、一番後ろに赤いライトが付いている。

杉本はその荷台の赤い丸を目掛けて商店街の中を倍の速さで走り出した。

 

 

男は買い物客を避けながらグングン進んでいく。

あっ右に曲がったぞ!

杉本も右への道に走って行った。

道は徐々に住宅街に入りどんどん幅が狭くなっていく。

その先には小川があってザラザラしたコンクリートの橋を越える時もう少しで荷台に手が届きそうになったが手がちょっと触れただけで杉本は失速した。

はあはあと肩で息をしながら橋の一番盛り上がった所に膝をつき、遠ざかる自転車が行く先を見ていた。

自転車はその先の古びたパーマ屋を左に曲がった。

杉本はしばらく息が上がりそのまま立てなかった。

「疲れた」と呟きながらトボトボと店に戻ると警察が来ていた。

お巡りさんにどんな感じだったとかどこで曲がったとか伝えた。

風花はお巡りさんと警察署との連絡の無線で「マルガイ」と呼ばれていて、これって事件なんだと思って怖くなった。

お巡りさんは二人で来ていて、事情をみんなに聞いた後「何かあったらすぐ110番か最寄りの警察署に電話してきて下さい」と言って帰った。

風花は杉本に「ごめんね、お巡りさんとの話を聞いてたわ。相当走って追いかけてくれたのね」

「もうちょっとだったんだよ」

杉本は悔しがった。


家に帰ってから風花は今日の事を母親に報告した。

「あんた狙われてるんじゃない?パンロンドにはもう行かない方が良いわよ」

母親は心配してそう言ったが風花は杉本の事が頭に浮かんだ。

「いいの私パンロンドが好きだし、守ってくれるわ。きっと」

それに自分を守るのは自分なんだし、明日からも気をつけて生きよう。

今日の事に限らずこれからも色んなことがあると思うし、気をつけた方が良いに決まってる。


次の日

パンロンドは定休日なので杉本は自転車に乗り、あの古びたパーマ屋を曲がってしばらく道なりに走ってみた。

右に左に道が広がっている。

うーんどっちだろう?とにかくあの自転車を探さなきゃ。

パーマ屋から西に伸びていく道の周辺を隈なく見ていく作戦で自転車を走らせた。

グレーの様なグリーンの様な車体で荷台が黒で先に赤いライトが目立つ物がないかじっくり見ていった。

ふぅ、疲れたな。初めの道から随分遠くへ来た。

コンビニで飲み物を買おうと駐輪スペースに自転車を停めた。

ふとコンビニの横の空きスペースを見た時「あっ」この自転車だ!

杉本は探していた自転車を見つけた。

緊張が走る。

コンビニの中を見回した。が、それらしき人物はいない。店内の客はおばあさんが一人、四十くらいの太った男が一人、女の人が一人、店員もパートの女性が二人だ。

「いないな」

あ、ひょっとしてこないだみたいに逃げるために自転車をここに停めてるのかも。

杉本は水を買い、それを飲みながらコンビニから少し離れた所で見張る事にした。コンビニの前の道は坂になっていて、上には住宅街がある。

その坂に少し登り、そこから見張る事にした。

もしあいつが来たらダッシュで捕まえにいく!

そう思ってじっと見ていた。

すると

「何見てんだよ。俺にも見せろよ」と聞き覚えのある声がした。

「あ!修造さん」修造が顔を並べて杉本の見ている方を見た。

 

 

「なんで?」

「俺の住んでるアパートすぐこの裏にあるんだよ。今から近所のスーパーに夕ご飯の材料を見にいくところ」

「そうだったんだ。修造さん、あの黒い荷台の自転車が風花を切りつけたやつの自転車です。俺捕まえようと思って。でないとまた風花が狙われる」

「ええ?よく見つけたなあ。分かったよ協力するよ。ここじゃ走って行きにくいからもっと近寄って挟み討ちにするぞ」

修造はコンビニの駐輪場の横の電信柱の影で携帯電話の画面を見るフリをして立っていた。

杉本はコンビニの中から自転車のよく見える雑誌コーナーの前に立ち見張っていた。

しばらく待ったが来ない。

杉本は修造にメッセージを送った。

『中々来ませんね』

『うん』

『焼成の仕事はどうだ』

『親方がいい感じに導いてくれているので大きな失敗はありません』

『ちょっとは上手くなってきてるな』

『そうですか!ヘヘヘ』

外でガチャンと音がした。

『来ました』

と打って杉本は店から飛び出した。男は杉本を見て素早く自転車に飛び乗りこぎだした。

「待て!」とっさに杉本はお祭りの時に入れっぱなしだった自転車の前カゴのスーパーボールを袋から出して走りながら次々に投げつけた。

そのうちのいくつかが自転車の前輪に乗り上げバランスを失ってグラグラしたすきに修造が走って行って自転車のハンドルを押さえた。

「捕まえたぞ」

コンビニ前の駐車場には派手な色合いのスーパーボールが散乱した。

そして二人で男が逃げない様に自転車から引き離し「お前だな!カッターで切りつけた奴は!」と言って男の腕を掴んだ。

男は急に杉本の手を振り払いポケットの中で握っていたカッターで切りつけてきた。

「あぶねえ!」避けた杉本に返す刀でもう一度切りつけた時、修造が男の足を右足で払った。本来なら足払いの後胸に一発正拳突きをお見舞いする所だがよく見るととても細くか弱い感じで、あばらを折ってはいけないのでやめた。

倒れた男から落ちたカッターを足で二メートルほど蹴り飛ばして手を後ろにねじりあげて「コンビニで紐を借りて警察に連絡して」と言った。するとそこへお巡りさんと女性が走ってきた「この男です!私のスカートをカッターで切った奴!この捕まってる方!」

お巡りさんが「十六時二十八分、銃刀法違反及び傷害容疑で逮捕する」と言って男に手錠をかけた。

男は後でやってきたパトカーに乗せられて行った。

その後、連絡を受けて自転車で来ていたお巡りさんに女性と杉本が事情を話した。

どうやらこの女性はカフェのスタッフで、コーヒーを運んでる時にそのスカートを店の中で犯人に切られたらしい。それを見ていたお客さんが教えてくれて、それでお巡りさんを呼んで一緒に探してたらここで見つかったそうだ。

「捕まって良かったなあ」

修造と杉本は顔を見合わせうなずいた。

 

 

3日後、店に私服の警察っぽい人が来て、親方と何か話していた。

杉本達は仕事をしながら気になってそれをチラチラ見ていた。

「親方、さっきの警察ですか?なんて言ってました?」と修造が聞いた。

「あのね。修造と杉本が捕まえた奴は、こないだの祭りに出てた焼き鳥の屋台で働いてた男でね、可愛い子をチェックしては服をカッターで傷つけて楽しむ変態野郎だったんだってさ。どうせすぐムショから出てくるだろうから、うちと風花の家には接近禁止命令を出してもらうよ」

「え!あの焼き鳥の屋台の?知らなかった!」

「怖いわね〜」と風花と奥さんもゾッとしていた。

修造が風花に「杉本が休みの日にあちこち探して自転車を探し当てたんだよ。こいつすげえなあ」と言った。ちょっと大袈裟で芝居がかっていた。

「そうなのね」

この時風花が初めて杉本を真っ直ぐ見たかもしれない、杉本は照れ臭そうな、嬉しそうな風花の顔を初めて見たからだ。

「ありがとう」

その時周りの誰もが杉本からズキューンという音がしてくるのを聞いた。

江川と藤岡が「ハート撃ち抜かれたね、ハハハ」と乾いた笑いを起こした。


ある日のお昼

「風花」

「何?」

「これ」

「フォーチュンクッキーじゃない。お店で配るの?」

「これ俺が家で練習で作ったおみくじクッキーだよ。どれか一つ選んで出た占いが必ず当たるから」と杉本がフフフと笑いながら渡した。

「あんたが作ったの?胡散臭いわ」と風花は笑って手に取らなかった。

「いいから一つ開けてみろって」

「わかったわよ。仕方ないわね」

風花は小さなカゴに十個ほど入った占いクッキーを一つ選んで開けてみた。

「何よこれ!」

【杉本が好きになるでしょう】

と書いてある!

「そんなわけないじゃない」と言ってもう一つ開けたらそれにも

【杉本が好きになるでしょう】

と書いてある

「ちょっと!」

風花は全部割ってみた。

どうやら全部に同じ言葉が書いてあるようだ。

それを一部始終見ていて「へへへーっバレたか」と笑った杉本に風花は顔を真っ赤にして背中を向けた。

「もうなってるわよ」

小さな声で呟いた。「え?」

「なんでもない、あ!いらっしゃいませ。ただいまブールが焼き立てでーす」

「おひとつですね、はい!」

 

風花は一際明るく言った。

おわり

 


2021年10月08日(金)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 背の高い挑戦者 江川Flapping to the future

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

背の高い挑戦者 江川 Flapping to the future

はじめに

このお話はフイクションです。実在する人物、団体とはなんら関係ありません。


 

今日は修造の休みの日。

アパートの部屋のグリーンのソファに寝転んで修造は大あくびをした。

「ふぁーーーっ」

「律子と緑は友達の誕生日会に行ってるし、久しぶりにゴロゴロしてテレビでも見るか。」

修造はテレビをつけた。

バラエティ番組が流れている。

ボーッと見ていると子供が三皿の料理を順番に一口ずつ食べている

ママの作った料理はどれでしょう?おいおい、毎日食べてるんだからわかるだろ?えー!それは一流シェフの作ったヤツだ、それはコンビニの!やばいあの子コンビニのを選んだぞ!それがママの料理って、、あーほら。ママが泣き出した。

俺だったらどうかなあ。律子の料理だからわかるだろ。

そんな事を考えながらウトウトしていた。

ひまだな~

そうだ、これから鳥井シェフの所に寄ろうかな。

ドイツから帰って一回挨拶に行ったきりだし。

そうしよう。


一方パンロンドでは社長の柚木(通称親方)にまたしてもNNテレビの四角ディレクターから電話が掛かって来ていた。

「はい、あー四角さん。その節はうちの職人達がお世話になりました。え?撮影?うちでですか?何するんですか?パン職人の一日?何ですか?それ」

電話の向こうで四角が答えた。

「パン屋さんにお邪魔して、パン職人さんが普段何をしてるのか撮影して視聴者の皆さんに知ってもらうコーナーです。夕方のニュース番組の中程で三十分やります」

「撮影はいつですか?」

「次の水曜日です。放送はその次の日です」

とにかくでりゃあ良いんですね?はい了解〜」

「それで、どなたか職人さんの奥さんに持ってきて欲しいものがあるんですが」

「なにそれ?」親方は四角の説明を聞いてニヤッとした。

楽しみだなあ」


修造は電車に乗って鳥井シェフの店ベッカライVogelnest(鳥の巣)に来ていた。

鳥井シェフの所に来るといつも美味しいドイツパンを御馳走してくれる。それが楽しみの一つでもあった。今日はミッシュブロートにBlauschimmelkäse(青かびチーズ)にイチジクとナッツがのったパンとチーズプレッツエルを出してもらった。どちらも修造の好物で美味すぎてもうここに住みたいぐらいだ。

「ご無沙汰してすみません」

「久しぶりだね修造。あれからどうしてるの?」

「はい、これからパンロンドの親方に恩返しした後、国へ帰ってパン屋を開業しようと思ってます。それで今は自分が抜けた後困らない様に後輩を育てています」

開業!そうなんだ!それは楽しみだな!じゃあ俺がパンの機械や材料の展示会に連れてってやるよ。来週の水曜空けといてくれよ」

鳥井に大きなパン関連の展示会に連れて行ってもらう事になった。

「どんなのだろう!噂では聞いてたけど行ったこと無かったから楽しみだなあ!」

修造は帰り道、パンロンドの柚木に電話した。

「もしもし親方ですか?あの来週の水曜、、」

「おっ!修造丁度良かった!来週の水曜うちにテレビが来るんだよ」

「えっ⁉︎」

パン職人の1日とかいう放送をやるんだってさ」

「あの〜その水曜なんですが、俺用ができてどうしても行かなきゃならなくて。収録は何時なんですか?」

「十時からって言ってたよ。用が済んだら絶対来てよ」

「わかりました」

と言いながら、テレビが嫌な修造は収録が終わった頃を狙って店に帰る計画を立てていた。


そして水曜当日、修造は律子に「今日展示会に行ってくるよ」と言った。

パンロンドにテレビが来るんでしょう?それはどうするの?」

パンロンドに戻ったらもう終わってるかもね」

そう言って修造は律子と行ってきますのハグをした。

いつもの通り律子からフローラルなトリートメントの香りがする。


東南駅から展示会場迄は電車で二十分だ。

駅を降りると展示会場に行くっぽい人が何人か歩いているのでその人達について行った。

修造と鳥井は展示会の入り口で待ち合わせていた。

大きな会場ですね」

「ここは業界一の展示会なんだよ。なんでもあるだろ?まずオーブンから見ていこうか。」鳥井が会場見取り図を見ながら言った。

「はい」

その会場は1日では回り切れないほどのパンやお菓子関連の機械屋、袋屋、資材屋、大型店用、小売店用などの様々なものがそれぞれ会社ごとに展示してあって、どれもこれも珍しくてワクワクするものだった。

鳥井があの会社はこうでこの会社はこうでと色々説明してくれていた。

その時

会場の1番奥ではコンテストが行われている最中だった。

パン職人選抜選考会と看板に大きく書いてあり、かなり大きなコンテストの様だ。

「あれは?」

「今は二十五歳以上のシェフが世界大会に出る為の選考会が行われているんだよ。その横では若手コンテストと言って二十一歳以下の若い職人が競い合ってるんだ」

見ると、四メートル毎に四つに仕切られたブースの中にはパン作りに必要なミキサー、オーブン、ドウコン、パイローラーなどの機械がそれぞれ備えつけてあり、その中では選手と助手の二人が力を合わせて作品を作っている。更にその横では同じように四人の若い職人がブース毎に分かれてコンテストに挑戦していた。

鳥井は続けた。「そして二つの優勝者同士が一緒に世界大会に出るんだ。シェフと助手としてね」

修造が興味ありげにしているのを鳥井は見ていた。

「ここに並んでるのは優秀な選手達の作った作品だよ。芸術的で立体的だろ?」

そこには見たことも無いような勢いのある彫刻の様なパン生地でできた作品が並べられていた。

選手達の作った作品を見るために沢山の人達が十重二十重に取り囲んでいる。

「凄いな。パンで出来てるとは思えない」

そこへコックコートを着た大柄な男が近づいて来た。

鳥井がそれに気がつき「修造こっちへ来いよ」と呼んで、大木というコンテストの重鎮を紹介してくれた。

「ベッカライホルツのオーナーの大木シェフがこの大会を取り仕切ってるんだよ。俺と大木シェフは昔同じ職場で働いてたんだ」

パンロンドの田所修造と言います」

「よう!テレビで見てたよ」大木は気さくに挨拶してくれた。

そして選手が組み立てている途中の技術の高い飾りパンを見せてくれた。

選考会に選ばれる為に一流選手が自分の持つ技術の全てを注いだ作品を作っている。

修造は選手の技術の高さに衝撃を受け、釘付けになった。

凄い、こんな高い技術のパン職人が集まってるんだ!

どうやって作ってるんだこの飾りパンは?

パンの世界は奥が深い、追っても追ってもキリがないんだ。

目をキラキラさせて見ている修造の肩を大木が大きな手で掴んで言った。

「おい!1年後の選考会にお前も出ろよ! 俺が練習見てやるよ!

「はい」

俺もこの大会に!

修造は急に腹の底から何か熱いものが込み上げてきた。

「まずは1次審査に通ることだ!」

「あの〜うちの若いのも連れてきて良いですか?」

「勿論だよ」

修造は実演している選手の前に行って前のめりに見ていた。

それを後ろで見ていた鳥井と大木にそのまた後ろから声をかけてきたニ人の男がいた。

二人共コックコートを着ている。どうやら大会の関係者の様だ。

一人はパン王座決定戦に出ていた佐久間シェフで、もう一人は背が高く白毛混じりの短髪の男だ。

「頼んだぞ大木、鳥井もここまで連れてきて貰ってすまん」」

背の高い男は大木達に声をかけた。

四人は心安い関係らしい。

「なんだよ、自分がコーチをしてやったらいいじゃないか」

大木はその男に呆れながら笑っていった。

 

「俺は他の子のコーチだからね」

そして修造を遠くから見ながら「俺は手抜きはしない。」とボソリと言った。


修造は一通り選手の作品を見た後会場を出た。

駅まで歩きながら「大木シェフって親切な方ですね」と鳥井に言った。

出来るだけ優秀な選手を育てて世界に勝たないとね。修造も出ると決めた以上は頑張れよ」

「はい。俺頑張ります」

修造の頭の中はもう自分の作る作品のことでいっぱいになっていた


「はい!みんな~!これ着て!」

その頃パンロンドでは、店の奥さんがみんなにお揃いの帽子を渡して新しいコックコートに着替えさせていた。

いつもTシャツの親方は着るのは嫌だと抵抗したが奥さんには逆らえない。

テレビが来るからみんな張り切ってね」

そろそろ時間なのに遅いですね」

「そうだな」

さっき電話があって前のロケが押してて遅れるそうよ」

今のうちに仕事片付けとこうよ」

みんなお揃いの帽子を被って仕事を片付けて待ち構えた。

杉本がワクワクして「テレビってどんなのかなあ〜」ピョンと跳ねた。

江川は「僕緊張するなあ。修造さんまだ帰ってこないの?」とガチガチになってきていた。

「ウフフ、大丈夫ですよ江川さん、リラックスしていきましょう」と藤岡が2人を見てニコニコしている。

そのうちにアシスタントディレクターが一人でやってきた。

「こんにちは、今日お世話になります。こちら本日のロケの台本ですのでお渡ししておきます」親方に台本を渡して「では後ほどよろしくお願いします」と言って去っていった。

親方は台本を開いて「なになに、、パン職人の一日。おいみんな!順番に特技を披露するみたいだぞ」

「何するんですか?」

えーと、、と全員が台本に食いついていた。

そして「あ、すぐあの人に連絡してあれ持ってきてもらわなくちゃ!」と親方が言った。

「ウフフ、楽しみですねこれ!」と江川がはしゃいだ。

「修造さん早く帰ってこないかなあ」


修造はわざとノロノロ帰っていた。

「もうそろそろ撮影終わったかなあ。店に戻ったら残った仕事があったら片付けて帰ろう」

その頃。パンロンドにやっとテレビ局の四角ディレクターとさっきのAD、カメラマンと音声の人が四人でやって来た。

その後でマウンテン山田が登場した。

江川が「あ!マウンテン山田さん!」と叫んだ。

「その節はどうも~今日はよろしくお願いします」

マウンテンはNNテレビのパン王座決定戦の時に審査員席に座っていたお笑い芸人だ。

「いや〜柚木社長!遅くなってすみません」四角が親方に話しかけた。

「早速撮影を始めたいと思います。まずはざっと一日の流れを社長からご説明して頂きたいと思います。マウンテン山田の質問に答えて、自由にお話し下さい。」

そしてみんなが緊張の面持ちの中、アシスタントディレクターが小型のマイクを付けていった。小さなマイクの先をコックコートの襟につけていく、そこから線を後ろに回してその先の本体は後ろからベルトに取り付けられた。

「タレントみたい」と杉本がワクワクして言った。

親方とマウンテンが二人でパン工房の入り口に立ち、カメラの方を向いた。ディレクターが無言で指を三、ニ、一と指示してカメラが回り出した。

「こんにちはー!マウンテン山田の1日何やってんの?のコーナーの時間がやってまいりました〜!柚木さん!初めまして!マウンテン山田でーす!」

「よろしくお願いします」

「早速ですが、パン屋さんって早起きのイメージがありますが、朝は何時から始まりますか?」

「そうですね、朝は交代制で四時から始めています。前はもっと早かったんですが、最近は遅くなりましたね」

「どんな事をするんですか?」

「奥では仕込み、そして真ん中の大きなテーブルで分割成形、そして店側の窯の所で焼成、そのあと店で販売の流れになります」

ところで社長はみんなから親方って呼ばれて親しまれてるらしいですね。何か由来はあるんですか?」

「ボクは昔から力持ちな事と、見た目もお相撲さんっぽいから親方ってあだ名だったんですよ」

「そうなんですね、では親方!どのぐらい力自慢か試して頂けますか?」

急にマウンテンがカメラに向かって「親方は力持ちでショー!」と言った。

後で編集して、お茶の間の視聴者にはわかりやすく画面に文字が出る事になっている。

「さあ!では親方にはこの粉袋を持ち上げて頂きましょう!」

藤岡と杉本が脚立に乗って粉袋を親方の右肩に乗せた。

「まずは右に二十五キロ、そしてもう片方の肩にも二十五キロ」

重っ!と親方は思ったが我慢して左肩にももう一つ乗っけた。

「すごーい親方!ひょっとしてもう一袋ずつ行けそうですね!」

う、ぐ、ぐぐ、、そうですね。。」

親方は内心持てる気がしなかったが仕方ない。

もう一袋を右に!明らかにバランスが悪い。

「では左も乗せましょう!」

「う、うおーっ」と雄叫びをあげて親方が満身の力で右肩に合計五十キロ、左肩に五十キロ乗せた。

「うわー!凄い!親方!まだいけますね!」

え?」

親方は声が出なくてあうあうと口を動かした後、歯を食いしばり、もう二十五キロずつ肩に乗せ、もし倒れて粉袋に穴が開くと勿体無いから耐えた。

「パン屋さんってこんなに力持ちなんですかあ?」とマウンテンが聞いたら周りのみんなが「んな訳ないない!」と言った。

やっと粉袋を下ろして貰って「はぁ〜っ」と床に手をついてぐったりした親方に、マウンテンが「大丈夫ですか?」と聞いた。

「気にしないで撮影を続けて下さい」と地面すれすれで四つん這いのまま言った。

「さあ!次は?」マウンテンはカンペを見た。

「ふんふん!はい!パン職人さんの日常!次はお二人で生地を分割して並べて頂きましょう!」

杉本がカッコつけてスケッパーで生地を分割している。

「普段と違いすぎるだろ」と言いながら藤岡が丸めて箱の中に並べていく。

なるほど~こうやって生地が丸まっていくんですね、もっと早く出来るんですか?」

「はいできますよ」

「凄い!お願いします」杉本は出来るだけ早く分割し始めた。

「さすが!凄い早いですね〜もっと早くできます?」

「はい!」

めちゃくちゃ早く分割し出した杉本に

「大きさがバラバラだよ」と藤岡が言った時、慌てすぎてスケッパーが親指の第一関節辺りににカン!と当たった。

「ウワオ!」杉本が叫んだ。

親指を押さえてる杉本にマウンテンが「大丈夫ですか?」と聞いた。

「大丈夫です。気にしないで撮影を続けて下さい」

藤岡は痛がる杉本の親指を調べた。

「良かった。骨折はしてないみたいだな、、ハハ」と苦笑いした。

マウンテンは「さあ次は?」とカンペを見た。

クイズ職人さんの知識〜!職人さんにパン屋さんならではの知識を披露して頂きましょう!では質問です」

マウンテンはADがスケッチブックに書いて見せたカンペを見ながら

「Roggenロッゲンとはなんの事でしょう?」と聞いた。

「ラ、ライ麦」

「さすが!正解です」江川はほっとした。

そしてゆるい問題が出る様に祈った。

「では次の問題は、小麦の粒の問題ですね!小麦の粒の表皮ってふすまって言うそうですね」

「はい」

それではその表皮の部分は小麦の粒の全体の何パーセントでしょう?」

え?えーとえーとふすまのパーセント、、たしかそんなに多くないんだ。。あー!わかった!十五パーセント!」

おー!さすがですね!それではこれが最後の問題です」

江川は緊張で頭がクラクラしてきた。修造に早く帰って来て欲しい。

「パン生地をこねる事をニーディングと言いますが、では生地の腰を出す為に台に叩きつける事をなんと言うでしょうか?」

「え?えーとえーと」ピーリングでもカーリングでもない、、ボーリングでもない、、

よく聞く言葉なので解っているのに、いざ答えるとなると江川は頭が真っ白になってしまった。

えーとえーと?江川は目を白黒させた。「アーリング、イーリング、ウーリング、、」アから順に思い出そうとしていた。

そこにやっと修造が帰ってきた。

店の奥のシューケースの陰で親方が寝転んでいる。「親方!何やってんですか?」

「おう、、修造おかえり、、」親方は力を使い果たして立てなくなっていた。

工場を覗くと「あ!まだやってるのか。でももう終盤かもしれないし。。」

そう思って撮影の真っ最中の江川を見た。

「もう一度聞きますよ〜あと一問ですよ~」と時間がかかったので撮り直すためにもう一度マウンテンが江川に問題を出した。

江川が顔面蒼白になり口をパクパクさせてあうあうとなってるので、修造がADのカンペを取り上げてマジックで答えを書いてみせた。

「あ!修造さん!」

江川は急に元気になり答えた。

「ビーディング!」

「さすが〜正解です!さあ、ここまでトントンときましたね。お次は最後の問題です。クイズ〜!私と仕事どっちが大事〜!」

「さあ、それではこちらの職人さんに目隠しをして頂きましょう」

「エッ?!」

修造はADに腕を掴まれて「こちらです」と言われて台の前に座らされ、アイマスクをさせられた。

何が始まるんだ?」

「さあ、それではこちらのクリームシチュー五皿の中から愛する奥様の手料理を当てて頂きます!」

修造の前に五皿のクリームシチューが置かれた。

マウンテンがクリームシチューの作り手を紹介した「一つは奥様の手料理です。そして名店【グリル篠沢】。コンビニのレトルト。スーパーの惣菜。そしてわざと奥様のお料理と味を似せた当番組のADが作ったものです」

「えっ!律子の料理が?もし外したら俺家に帰れないじゃないか」

修造はぞっとした。それに万が一間違えて律子を泣かせる訳にいかない。

何がなんでも当てなきゃ。

修造は集中してありとあらゆる感覚を解放した。

味覚に嗅覚、そして聴覚まで。アイマスクの中では目を爛々と輝かせていた。

 

律子のクリームシチューは可愛いハートの人参が入ってるんだ。

玉ねぎは大きめ、じゃがいもは普通かな?

そして仕上げに生クリームとバターを入れてる。当てるぞ絶対!

しかし決意に反してなかなか難しいものだった。

何せ味だけで決めるのは、、

「修造さん、アーンして下さい」江川は修造に一番手前のクリームシチューから順にスプーンですくって食べさせていった。

修造は心の中で真剣に味見した。それはこんな具合だった。

うーん、これが手作りな訳ないよな、レトルト特有の閉じ込められた味がする。これは違うな。

二番目は美味すぎる。プロの味だな。全ての具材が理想的な調和を生み出している。律子には悪いけどここまでの味は中々難しいだろう。

三番目はうーん、限りなく近い!これはキープだな。何となくハートの人参な気がする。

四番目はあれ?これもなんか正解っぽくないか?さっきのとどう違うんだろう?これもニンジンがどうやらハートっぽいぞ。3番目に食べたやつと似ているな。

残るは五番目、これは濃すぎないか?律子がわざと当てられないように濃くしたのでなければこれは違うな。。

「全部食べ終わりましたね!どうですか?田所シェフ!愛妻の料理はわかりましたか?」

「あの、、三番目と四番目をもう一度味見して良いですか?」

「おっ!パン王座決定戦で優勝した田所シェフが今度は三番と四番の二択に挑みます!僕その時審査員してたんですよ。」

「知ってますよ」修造はアイマスクをしたまま適当に答えた。マウンテンには悪いがそれどころではない。

律子はいつの間にかそっと修造の後ろに来ていた。両手を合わせて祈っていた。

修造なら絶対わかるよね。

修造、仕事と私どっちが大事なんて言わないわ。

だって両方大切にしなくちゃダメなんだもの。

それでこそ修造よ。

それにしてもADさんの作ったのってそんなに私のと味が似てるのね。。

いつも私が愛情込めて作ってるのにわからないものなのかしら?

外したらもうあなたの帰る家は無いからね。

律子はそんな風に思っていた。

修造はシチューを二種に絞り込んでもう一度味見した。

ハートの人参は両方に入っていてどちらも同じ大きさの人参だった。

ルーの感じもよく似てるんだな。うーん。

修造が悩んでいると辺りから律子の香りが修造に届いた。

律子そこにいるのか、近くに。」

俺が律子の事をわからないとでも思ってるのか?

修造は律子が作ってるところを思い出した。

そうなんだ!わかったよ。フライパンの味だ。

焼き目だよ!律子はいつも鉄のフライパンを使ってるんだ。

野菜の端が少し香ばしく焦げてる方!

「答えは3番だー!」修造は立ち上がってアイマスクを外した。

「正解です!田所シェフ!」マウンテンが叫んだ。

振り向くと律子がウルウルして抱きついて来た。

「修造ありがとう」

「律子俺やったよ」

 

抱き合う二人を見て「バ、、」

マウンテンはベタベタする夫婦を見て危うくバカップルと言いかけて口を閉じた。

馬鹿夫婦と言うとまた意味合いが違ってくる。

「いや~どうでしょうねベタベタして。これはほんまにごちそう様ですね、ウマウマウンテンですね~」と締めくくった。

これで全ての収録が終わった。

四角が「親方今日はご協力ありがとうございました。今から帰って編集します。明日の夕方のニュースを楽しみにしてて下さいね」

やっと復活した親方が言った。「はい、またね。ありがとう」

テレビ局の人達とと律子が帰って、明日の仕込みを始めた時、修造がユニフォームに着替えながら「あ!そうだった!」と走って来て作業中の江川に声をかけた。

「江川」

「はいなんですか?」

「世界大会に出よう。」

江川は世界大会と聞いて驚いた。

空手の世界大会?そして漫画に出てくる様な大きくていかつい空手家に自分がぺちゃんこにやられているところを想像した。

「せ、世界大会ですか?」足が震えた。

「な、何言ってるんですか?」ちょっと涙がでてきた。

「二年後に。」

「俺とお前は別々に選考会に出るんだ。それでどちらかが落ちたら二人では出られない。選ばれたらの話だけどな。」

「修造さんとぺ、、ペアで?」修造の後ろに隠れていたらひょっとしたら逃げ切れるかも知れないが捕まったら終わりだ。。。と想像して膝がガクガクする。

修造は江川を若手のコンクールに勝たせて、世界大会に助手として一緒に出ないかと持ち掛けた。二人で今から練習を重ねれば行けるかもしれないと思ったからだ。勿論修造が世界大会の代表選手に選ばれなければ無い話だ。

「僕、今から空手を習うんですか?ぼ、僕まだ死にたくないです。」世界大会に出る前にいかつい選手と戦って砕ける。そんな風に勘違いするぐらいパンの世界大会は江川にとって想像もできない遠い存在だった。

「何言ってるんだ、パンのだよ!」

「えっ!?パ、パンの?わかりました。修造さんが出るなら僕も出ます。」

藤岡はこのやりとりを聞きながら、もし俺や杉本を誘ってくれてたら江川さん許さないだろうなあと思っていた。

「江川さん、頑張って下さいね。」

「うん空手じゃなくて良かったよ。僕頑張るね。」江川から安堵の笑顔がこぼれた。

おわり


2021年09月17日(金)

ハートフル短編小説 アルバイトの咲希ちゃん

パンと愛のお話シリーズ

ハートフル短編小説 アルバイトの咲希ちゃん

1 今日からアルバイト

森岡咲希は東南高校の2年生になったばかりで、明るい性格の笑顔の可愛い女の子。東南駅から降りたら商店街を歩いてその先が高校だ。

「早希、今日一緒に帰ろうよ」学校の帰りに友達が声をかけてきた。

「ごめんね、今日から学校の帰りにパン屋さんでアルバイトを始めるの」

早希は緊張して心臓がドキドキした。

商店街の中にある可愛いピンクの看板のパン屋さんの名前は[パンロンド]学校と駅の間にあるから便利だ。

いつも前を通っていて、バイトしたいと思っていた早希はパンロンドのアルバイト募集のポスターを見つけて早速面接して貰ったのだ。

店内は食パンの棚や菓子パンの棚、調理パンの棚にパンがぎっしり乗っていてテンションが上がる。

お店にはみんなから親方って呼ばれてる柚木社長と、その奥さん、職人さんが何人か、パートさん、そして私と同じ年頃のアルバイトの人達が働いている。

「咲希ちゃん今日からよろしくね。お店の事はなんでも聞いてね」

「はい、奥さん。今日からよろしくお願いします」

「この子は常盤(ときわ)マリちゃんよ。同じ学年だけどここでは咲希ちゃんより少し先輩ね」

「咲希ちゃん、よろしくね、今日は一緒に仕事しようね」

「マリちゃんよろしくお願いします。仲間がいてよかった~」

早速咲希はマリに色々手順を教わった。咲希の仕事は棚にパンをを並べたり、レジで会計をしたり。パンの種類も沢山あって覚える事がいっぱいあった。

マリから教わった事をメモをして、帰ってからテストの前みたいに机の前で覚えるまで何度も見た。

 

2 イタリア料理ベッロの浪河さん

その日、咲希は学校の帰りにアルバイトに来ていた。

「アルバイトを始めてから3ヶ月。入ってきた頃よりちょっとマシになったかなあ私」咲希はパンの名前と値段を間違えない様になり商品の説明も出来る様になってきた。

出来る事が増え、毎日店に訪れるお客さんの顔も段々覚えてきた。

そこへ1人のお客さんが入って来た。

「すみません奥さん、頼んでたバゲットお願いします」

 

 

「あら、こんにちはベッロの浪河さん。咲希ちゃん、そこのバゲットをお願い」

「はい、お待たせしました。こちらです」

「こんにちは、新しいバイトの人?僕そこのイタリア料理店ベッロで働いてる浪河です」

「はい、咲希って言います。よろしくお願いします」

早希はレジを打ちながら挨拶した。すると「イケメンでしょ?」と奥さんが囁いてきた。

「ほんとですね奥さん」

確かにアイドルみたいな顔立ちの素敵な人。。

「奥さんこれ、キッチンカーマルシェのイベントなんです。ベッロも出ますので良かったらいらして下さい。この日バゲットを10本お願いできますか?」

「はいありがとうございます」

浪河はイベントのチラシを置いていった。

奥さんがチラシを見て言った。「次の日曜日、東南広場でキッチンカーが集まって自慢のお料理を出すイベントだって。行きたいけどうちも営業だから無理ね〜。残念だわ〜」

「私もキッチンカーマルシェって行ったことないです。どんなのでしょうね〜」


次の日曜日、咲希はパンロンドにアルバイトに来ていた。

日曜日はとても忙しく、電車に乗って遠くから来るお客さんもいた。パンロンドの自慢は【山の輝き】という山食パンと【とろとろクリームパン】、【カレーパンロンド】などの人気商品が飛ぶように売れ、咲希達は大忙しだった。

咲希は明るく「いらっしゃいませ~」とお客さんに挨拶してパンを並べたりレジを打ったりした。

時々「美味しいわね、ここのパン」と声をかけられるととても嬉しく「ありがとうございます」と笑顔がこぼれた。

「咲希ちゃん、バイトの帰りにキッチンカーマルシェに頼まれた追加のバゲットを持っていってくれない?」

「はい、奥さん。もう終わるので私持って行ってから帰ります」

咲希はバイトの帰りに東南公園に行き、キッチンカーが10台ほど並んでる中からベッロの浪河を探した。

「えーと」

「咲希ちゃんこっちだよ」

「こんにちは、忙しそうですね」見るとベッロの車にはお客さんの行列ができていた。

「1人なんですか?私手伝います」忙しそうな浪河に声をかけた。

「ホント?咲希ちゃん助かるよ」

咲希はもう一度パンロンドのバンダナとエプロンをした。

キッチンカ―の中は狭いが調理に必要なコンロやシンク、パンをカットする台もある。

「わ~!キッチンカ―の中ってこんな風になってるんですね~」

「そうなんだよ。結構充実してるだろ?」浪河は優しく笑った。

咲希は手袋をしてバゲットをパンナイフでカットしたり、浪河の出したボロネーゼとサラダを紙の持ち帰り用のパックに詰めてフオークとおしぼりをお客さんに渡していった。

「咲希ちゃん、これで売り切れで販売終了だからね」浪河はパックにパスタとサラダを詰めて渡した。

「はい、浪河さん」咲希はカットしたバゲットを一緒に添えて蓋を閉め、最後のお客さんに渡して明るく「ありがとうございました~」と言った。

「ありがとう咲希ちゃん凄く助かったよ。お礼に今度ベッロで僕がご馳走するよ。シェフにそう言っておくね。」

「えっ!いいんですか~!私、イタリア料理屋さんに行くの初めてなんです。」

「ほんと?気に入ってくれるといいけど、じゃあ明日学校の帰りにおいでよ」

「はい」咲希は最高ににっこりした。

咲希は次の日の夕方一人でベッロを訪れた。

ベッロはオーナーの長田シェフと調理人が2人と浪河が働いている。

お店は少し暗くてブラウンが基調の大人の雰囲気、シックな調度品が置いてある。10組ぐらいのお客さんが入れそうだ。

咲希は高級そうなテーブルに案内され、赤いビロードが背もたれの椅子に座った。

アンティパストのブルスケッタのパンは咲希ちゃんの店のバゲットを使ってるんだよ」前菜を出しながら浪河が説明した。

ブルーのガラスの皿に上品なサイズのモッツアレラチーズ、サーモン、バゲットにトマトがのったブルスケッタの三品が咲希の前に置かれた。

「全部おいし~!これガーリックとトマトの味が美味しいです。パンに合いますね」咲希はブルスケッタを手に取って食べながら言った。

トマトとニンニクのシンプルな組み合わせなのにこんなに美味しくなるんですね〜」

波河は美味しそうに食べている咲希を見てニコニコして言った。「昨日は咲希ちゃんに手伝って貰って助かったよ。あんなに一生懸命手伝ってくれて感謝してるよ」

浪河は特製のキノコのスープを持って来た。「これ僕が作ったんだよ、マッシュルームのポタージュに最後にバターと生クリームを使ってるんだ」

咲希は茶色い小型の器に入ったボタージュをスプーンですくって食べた。キノコの風味とバターの濃厚な味わいがなんとも美味しい。

「これも美味しいてす〜。浪河さんって天才じゃないですか?」

「そんな事ないよ。僕はここのシェフの味に惚れ込んで弟子にして貰ったんだ」

「素敵なお話です。」

「咲希ちゃんもパン屋さんで働いてる時楽しそうだね。」

「はい、私パン屋さんがとっても好きなんです。失敗する時もあるけど、パンを選んでる時ニコニコしてるお客様を見て、あ〜いいなぁ〜って思って」

「そっちの方が素敵な話だよ」浪河はニッコリ笑った。

咲希は、厨房で働く浪河を見て思った。「そっちの方が素敵よ」

ボロネーゼとティラミスまで出して貰い心づくしのお料理に感動した。初めて垣間見る大人の世界でもあった。

「お店の方にもこんなにして頂いて申し訳ないわ」

「浪河さん、こんなにご馳走になってしまってホントありがとうございます。また何かあったら私手伝いますから絶対言って下さいね」

「ありがとう、咲希ちゃん。また頼むね」社交辞令かもしれないが浪河はそう言ってにっこり笑い、咲希はみんなにお礼を言って浪河に出口まで送って貰って帰った。

 

3 浪河さん浪河さん

今日は食パンの注文が沢山あって朝から大忙しだった。咲希は食パンを袋に入れて段ボールに詰めたり、レジや品出しをして頑張っていた。

「もう、、」

あれ以来浪河が頭の真ん中にいて何をしても思い出す。

右のものを左にやっても、何かを袋に入れても、何かを運んでも、、、

まるで浪河の写真が目の前に張り付けられているみたいだった。

「はー」みんなに分からない様にため息をついた。

浪河さん素敵だったな、そう思っていると浪河が入って来た。

咲希はドキッとした。

「こんにちは奥さん、頼んでたバゲットを受け取りに来ました」

「こんにちは浪河さん」

「咲希ちゃんこんにちは」浪河にバゲットを渡した時、目が合って顔が真っ赤になった。

(浪河さんに見られたら最高に恥ずかしい。。)

咲希はトレーで顔を隠しながら「こないだはありがとうございました」と言った。

波河は咲希の方を見てにこっと笑って「こちらこそありがとう」と言いながらキッチンカ―マルシェのチラシを出した。「奥さんまた今度の日曜バゲットを20本お願いします」

「分かりました。日曜は忙しくて行けないけどごめんなさいね~」

「はい、大丈夫ですよ。お忙しいんですから気になさらないで下さい」

「これ、店の中に貼っておくわね」

「ありがとうございます」そういって咲希に手を振って店を出て行った。


次のキッチンカーマルシェのある日曜日、咲希は浪河に見られない様にそーーっと様子を伺った。

以前と同じように東南公園にはキッチンカ―が10台ほど並び、色々な料理やデザートが売られている。

浪河は1人で作って販売していて、お客さんの行列ができていた。

どんどん列が長くなっていく。

「どうしよう、恥ずかしい。でもこのまま帰れない」

早希は思い切って浪河に声をかけた。

「浪河さんこんにちは」

「あ!咲希ちゃん」

「私、手伝いに来ました!私前より慣れてきたと思います」

「バイトの帰りで忙しいんじゃないの?ごめんね咲希ちゃん」

「いえ、いいんです。この間ご馳走になったから今日はお礼はいいですからね」咲希はエプロンをしながら言った。

「2回もごめんね咲希ちゃん」浪河はフライパンにパスタとミートソースを合わせて温めて咲希に渡した。

咲希はもう慣れた手つきでバゲットをカットしていき、パックにパスタとサラダも盛り付けて、お客さんに渡していった。

 

紫のコックコートでビシッと決まっている浪河の横顔を見て、浪河さんやっぱカッコいい、と早希はまたキュンとした。

「手伝いに来て良かったです」

「咲希ちゃん、今日偶然じゃなくて心配して手伝いに来てくれたんだね。ありがとう」

咲希は顔が真っ赤になってしまった。

「咲希ちゃんっていつも一生懸命で明るくて好きだなあ」

「浪河さんっていくつなんですか?もうずっとイタリアンで働いてるんですか?」

「25だよ、僕から見たら咲希ちゃんは超若いよ。僕も時々学生に戻れたらなあ」

「学生の時楽しかったですか?」

「うん、テニス部だったんだよ。その後料理学校に行ってね、あの頃は料理人になりたかったんだから夢かなったんだ。それなのに昔に戻りたがるなんておかしいよね」

「うふふ」

「僕はもっとスキルアップして色んな事を覚えなくちゃと思ってるんだよ」

「波河さんなら絶対美味しいイタリアンのお店ができますよ、お料理超美味しかったですもの」

「ありがとう咲希ちゃん」

咲希は浪河の事が少しでも分かって嬉しかった。

もっと色んなことが知りたいな。

売り切れになって2人で片付け、浪河は車で店に帰って行った。それを見送った帰り道、早希は「好きだなあ」のところを何度も何度も思い出していた。

 

「咲希」

呼ぶ声に振り向くと、サッカー部の試合帰りの佐久間早太郎(さくまそうたろう)が並んでついて来ていた。

早太郎は1年の時大阪から引っ越して来た。咲希と同じクラスで席がななめ後ろの仲良しで、色が浅黒く歯が真っ白だ。

「どこ行くの?」

「帰るところ」

「今日試合やってん」

「そうなの」

こないだまでは試合応援に来てくれてたのに最近来ないやん?バイト忙しいの?」

「バイトも忙しいけど、今日はキッチンカーマルシェのお手伝いに行ってたの」

「へぇ!何するの?販売?楽しそうやなあ」

ベッロって言うイタリア料理のお店を手伝ってたの。楽しかったよ」

早太郎は咲希が前と違うと気がついた。

何やろうこの雰囲気。

ひょっとして好きな人でも出来たんやろか。

それって俺とちゃうんか、、

咲希と早太郎は言葉少なに駅まで歩いた。

駅は乗客で混み合っていて2人は挨拶の声も聞こえず咲希は一番線の、早太郎は二番線の電車に乗りそれぞれの家に帰った。

4 早すぎるさよなら

次の日のバイト中、マリちゃんが聞いてきた。

昨日浪河さんを手伝ったんでしょ?どうだった?」

「どうって、、」咲希は浪河さんと聞いただけで真っ赤になった。

「素敵だった!」2人でウフフと笑っていると、浪河がバゲットを買いに来た。

「こ、こんにちは浪河さん」

「こんにちは、こないだはありがとう」浪河は丁寧にお礼を言った。

そしてレジの後ろにいた奥さんに声をかけた。

こんにちは奥さん。僕、もうすぐ修行の為に福岡のイタリア料理屋さんに行く事になりました。前から打診していたんですが、急に向こうのシェフが職人に空きが出たから来てもいいって。さらにもっと勉強したいので、向こうに行ったらそのうち店を持てる様に修業して頑張ります」

それを聞いた咲希はショックでトングをカランと落としてしまった

奥さんはそれを見て「いつ出発するの?見送りに行ってもいいんでしょう?」と咲希に聞こえるようにやや大きめの声で新幹線の日時を聞いた。

マリちゃんが聞いた「修行って?今の店でもできるのになぜ遠くに行っちゃうんですかぁ?」

今度の店のシェフはまた違ったセンスの持ち主なんだ。僕はその人の技術を見て勉強したいんだ」

浪河の決意は固い様子だった。いつか店を持つなら色んなシェフの技術を学んでおきたい、浪河はそう思っていた。

咲希は去って行った浪河の後を立ちつくして見ていた。


月曜日の2時間目は古典の時間だった。先生が本を読み上げている間、咲希は波河の事しか考えていなかった。もうすぐ会えなくなるなんてショックが大き過ぎる。きっぱりした態度の浪河が悲しい。

早太郎は咲希の右斜め後ろの席から先生にばれない様にこっそりメモを渡してきた。

元気ないんちゃう?どうしたん?』

咲希もこっそりメモを書いて渡した。

波河さんって人が福岡に行ってしまうの。明日見送りに行く』

咲希は正直に早太郎に答えた。誰かに知って欲しい気持ちがあった。

『明日!部活ないから俺も一緒に行ったるわ。心配やし』

何が心配なのよ』

『それはまあええやん』

夕方、パンロンドに行く時、ベッロの前をわざとゆっくりゆっくり歩きながら店の中を覗いたが浪河はもういなかった。

明日会えなければ波河さんとはもう会えないんだ。咲希は胸が張り裂けそうになった。

咲希に気が付いたベッロの長田シェフが中から出てきた。

「咲希ちゃんこんにちは。波河はもうここにはいないんだよ。料理人にはよくある事なんだ。俺も若い時はあちこちで修行して自分の味を探したもんだよ」

残念だけど仕方ないね」

「仕方ない、、」早希は呟いた。、

仕方なくなんてない。

明日自分の気持ちを伝えなくちゃ。

浪河さんは私の事をどう思ってるんだろう。

福岡に行く事を私にでなくパン屋の奥さんに言った。

直接聞きたかった。

でも聞きたくなかった。

 

5 新幹線のバカ

次の日、波河は部屋の荷物を全て福岡の引越し先に送り、自分も部屋を出た。

電車の中で長田シェフにラインした。

『色々と教えて頂きありがとうございました。ベッロで教わった事は決して忘れません。更に技術を磨いてシェフに負けない様な料理人になります。』

電車に揺られていると、波河は咲希の顔が浮かんだがすぐに打ち消した。

「咲希ちゃんも元気でね」そう呟いた。

新幹線のホームで博多行きの新幹線のぞみを待ってると咲希がやって来た。

「浪河さん」

「あ、咲希ちゃん、見送りに来てくれてありがとう」

咲希はピンク色でフリルの沢山ついたブラウスを着ていた。それが浪河の目にはとても幼く見えた。

「私、浪河さんから直接福岡に行くって聞きたかったです。私浪河さんの事が好きです」

浪河は少し困った顔をした、傷つけない様に考えた。もし自分がこのままベッロで働いていたなら何度も会っているうちに好意を持っていたかも知れない。

バイト代貯めてお店に会いに行っても良いですか?」

その時ホームにのぞみが入って来た。ざわざわと多くの人が乗り降りする、浪河も新幹線の入り口に立った。

 

 

咲希がじっと見つめている。

「いつも一生懸命な咲希ちゃん」

波河は咲希に何か言いかけたがやめた。

そして後ろにいて咲希を心配そうに見つめる早太郎に気がつき「咲希ちゃん、後ろをみてごらん」と言った。

咲希が後ろを見た時、新幹線のドアが閉まった。

「波河さん」

浪河は閉まったドアの窓からにこっとして手を振った。

そしてそのまま新幹線はスピードを上げ、咲希を残して行ってしまった。

走り出した新幹線の通路をゆっくりと歩き波河は席に座った。

街中を過ぎ、新幹線が山間部に差し掛かってトンネルを通る時、窓に車内がはっきりと映る。

窓に映った自分の顔を見つめながら、「咲希ちゃんごめん」と呟いた。

そして明日への希望と不安の入り混じった自分に気がつき「もう戻らない」と握り拳に力を入れ、自分を奮起させた。

 

1人駅に残された咲希は涙が止まらなかった。「波河さんが行っちゃった」

咲希は生まれて初めてこんな辛い事が起こった。

 

6 海はただキラキラして

浪河を乗せた新幹線が行ってしまったホームを、泣きながらトボトボ歩く咲希の後を早太郎はついて行くしかなかった。

(どうするねん俺!なんとか咲希を元気づけなあかん。

こんな時どうしたらええねん。。そうや海や!港や!)

早太郎は咲希を電車に乗せて綺麗な景色の見える港に連れて行った。

「き、綺麗やな〜」

港にある公園には色々な種類の花が咲いていて、そこから見える海は静かでキラキラと太陽を反射して輝いている。

花壇と花壇の間にあるベンチに咲希を座らせた。

咲希は浪河との別れが急すぎて辛く、瞳から大粒の涙がぽたぽたと溢れ出ていた。

「咲希、元気出して。咲希が辛そうやと俺も辛いわ」

なんでも聞いたるからとりあえず口に出して言ったら気が楽になるで」

「私、、」

咲希は自分の心境について言いかけたがそれより涙の方が多くて喋れない。

話そうとするとそれが嗚咽に変わる。

それを見た早太郎は焦って知恵を絞って必死で考えた。

(そうや!こんな時は甘いものや!近くに親父の知り合いのパン屋がやってるカフェがあったな。)

「咲希、ちょっと待っててな」と言って急いで走ってカフェに入り、テイクアウトの可愛いパフェとコーヒーをトレーにのせて、今度は落とさない様に慎重に持ってきた。

カフェで沢山貰ってきたおしぼりと紙ナフキンで咲希の顔を拭いた。

「ほらこれ見て」

紙のトレーにパステルブルーのセロハンが敷いてあり、その上に小さなパンケーキとフルーツがのっている、そして白いアイスクリームはプードルの顔になっている。

「これ、可愛いなあ!」

咲希はパフェのあまりの可愛さに少し「ウフ」ととなった。そしてそのままひと口、ふた口と食べ出した。

(おっ!良かった!やっぱ甘いもんはええなあ!)

「美味いなこれ。可愛いし」

そして咲希を笑わせる為に思いつく限りの面白い話やモノマネをしてみせた。

サッカー部のコーチのモノマネや数学の先生のモノマネは早太郎の鉄板ネタだった。

咲希は凄く気落ちしていたが、早太郎のモノマネにとうとう少し笑ってしまった。

「ウフフ」

「早太郎ありがとう」

2人は爽やかな風の吹く港を歩いた後帰った。

 

7 頑張れ早太郎

咲希はしばらく元気が出なくてマリやパン屋の人達を心配させた。

元気出さなきゃ。私の事と仕事の事は別なんだから、パンを買うお客様には丁寧に接しよう。そう思い、マリが渡して来た新商品の乗ったトレーを元気よくお客様に紹介した。

「こちら新商品のフルーツサンドです!いかがでしょうか〜」

それを見て沢山のお客さんがフルーツサンドをトレーにのせた。

美味しそう」

「元気で良いね」とお客さんも声をかけてくれた。

元気に振る舞い素早く動いていると本当に元気が出てくる気がする。

閉店間際になり片付けていると、マリが咲希の腕をツンツン突いて「来たわよ」と言った。

最近サッカー部の帰りに早太郎がよく来る様になった。

「なによ来たわよって」

早太郎はわざとゆっくり店の中をまわってパンを見ている。

「咲希、バイトがんばってるな」

「そう?」頑張ってる方が気が紛れる。家にいて自分の部屋にいるとまだまだ浪河の笑顔を思い出して喪失感から涙が溢れる時があるからだ。

マリは「閉店はあと10分ですよ」とわざと言った。

ほんまか、ほな駅まで送ったるわ。危ないし」

「1人で帰れるもん」

「まあええやん」

パン屋から駅まで10分程、早太郎は咲希に今日起こった面白い事を色々話して見せた。

気落ちしていて、咲希は付き合いで笑う時もあるが本当に早太郎って面白い。特に物まねが上手くて笑ってしまう。

「早太郎は面白いから将来はお笑いの人になったら?人を楽しませるのが向いてるのかも」

「早希、俺はお前にだけ特別大サービスでネタを考えてんねん」

「え?」

「俺はお前の笑った顔がええねん」

その後は2人で黙って歩き、人々が行きかう東南駅に着いた。

早太郎は駅のホームの反対側から

「ほな明日なー!」と手を振った。

咲希は電車に揺られて、夜の街の灯りを見ていた。

早太郎ありがとう。でも私、そんな気持ちに全然なれない。

 

 

8 揺れる麦の穂と青空

次の日は学校の校外学習で咲希達は農業体験の小麦栽培コースに出かけた。

山合いを抜けると大きな小麦畑が広がっている。

小麦畑とはいってもまだ背は低く、写真で見るような真っ直ぐに伸びた青々とした小麦とは違う。

この畑は一年の内、冬は小麦栽培、そのあとは稲作に使われていると聞いた。「では班ごとに分かれて農家の方のお手伝いの為に麦踏みをお願いします、農家の方の説明をよく聞くように」先生が大きな声で言った。

「こんにちは皆さん、麦踏みは倒圧(とうあつ)と言ってまだ若い小麦を足で踏みつける作業の事で、株分かれを促進してより丈夫な麦に育てるのが目的です。皆さんお手伝いして下さって助かります。それでは手分けして、まだ背の低い麦を根元から踏んで行って下さい」

列になって並んでいる小麦はまだ背が全然低く、雑草と見分けが付かなかった。教えられた通りにまっすぐ並んでいる麦を踏んでいくうちに要領がわかって来た。まだ地面からそんなに背が高くなっていない麦の真ん中を足で踏んでいく。

 

咲希は無心になって麦踏を続けるうちになんだか心が軽くなって来た。

咲希に並んで早太郎が向かいの列で麦を踏み始め、色々話しかけてきた。「咲希、こうすると早くできるで」反復横跳びの要領で麦踏みを初めて「そこ!ちゃんとやりなさい!」と先生に注意された。

「テヘヘ」

先生には叱られちゃったけど、みんなと笑い合う早太郎って明るい良いキャラだなと咲希は思った

 

8 本当の事

学生達の為に、小麦農家のおじさんはピザを振る舞ってくれるそうで、みんな薪の燃える窯の周りに集合した。

「誰か具を乗せるのを手伝って下さい。」

「はーい!俺やります!」早太郎は手際良くトマトソースを塗り、玉ねぎを並べてチーズを乗せた。

「早太郎うまーい!」咲希はちょっと驚いた。早太郎を真似して他のクラスメイトも手伝い出した。

トッピングの終わったピザ生地を農家のおじさんはピールという木のスコップに乗せて奥の両脇で薪の燃える窯の真ん中に滑らせた。薄いピザ生地はみるみるうちに色が着いて美味しそうに焼けてくる。

おじさんがピザを窯から出すと早太郎がピザカッターでカットして振り分けた。

「はい」

「はい」

咲希も受け取った。

班のみんなと座って食べる焼き立てのピザは格別だった。

「ほんま自然はええなあ。癒されるわ〜」とピザを食べながら言う早太郎に同じ班の真部が「早太郎って進学しないで実家のパン屋さんを継ぐんでしょ?」と聞いた。

「俺、パンの専門学校に行こうか思てんねん」

「えっ早太郎の家ってパン屋さんなの?」

そうやねん。大阪からこっちに来てパン屋を開業してん。知らんかった?」「それなのにいつもパンを買いに来てくれてたの?」

「それは、、また別やん。学校の帰りやし、それに早希のとこのパン美味しいし。イキイキと可愛い店員さんもおるしな!」

「そうだったんだ。ねえ、今度からこっちに来なくてもいいよ。私が早太郎のパン屋さんに買いに行くね」

「えっ!ほんま?待ってるで」

「いつ来る?俺もその時お店におるわ」

その日1日早太郎の大きな声が小麦畑に響いた。

 

おわり

アルバイトの咲希ちゃん 読んで下さってありがとうございました。

早春に踏まれるほどに丈夫になる小麦の様に咲希ちゃんも心のたくましい女性になっていってくれるかも知れませんね。

麦踏の後、小麦は株分かれして、背が伸びすぎるのを防ぎ根の張りが良くなります。やがて青々とした小麦に育つのです。


2021年08月30日(月)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 催事だよ!全員集合! 江川 Small progress

パン職人の修造 江川と修造シリーズ

催事だよ!全員集合!江川Small progress

このお話は進め!パン王座決定戦!の続きです。催事を通じて少しずつ成長する若手の職人達のお話です。


NNテレビのパン王座決定戦で優勝したパンロンドは新商品の牛すじカレーパン「カレーパンロンド」が爆売れして連日大忙しの日々を送っていた。

店の奥の工場では田所修造がカレーをどんどん仕込み続けていた。

「杉本、玉ねぎ追加ね。」

「はい。」

杉本龍樹(たつき)は慣れない手つきで玉ねぎをカットしてフードプロセッサーに入れ続けていた。涙が滲み出る。

玉ねぎの後は分割丸め、その後はカレーを包む。

液を絡めてパン粉をつけてホイロヘ。

「これっていつまで続くんですかね〜。」

「弱音吐くなよ。」

「修造さん辛くないですか?俺は疲れてきました。」

経験の浅い杉本は段々仕事が身について来ていたが、まだ辛い時がある様だ。

「俺、修造さんについて行こうって決めてますけど、パン屋って大変で全然仕事が楽しくないです。」

修造はカレーを包みながら言った。「言われるがままにやってるとつまらないものだよ。お前はまだ仕事を自分のものにしてないんだろう。

今はまだ出来ないことが多くて、できない事をさせられてると錯覚してるだけだよ。」

「はい、させられてるって感じです。ここの先輩達とは違うんです。」

「先輩ができてる事をできないのは経験が足りないからってだけで、マックスの自分を知ればそれがそんなに大変じゃないってわかるんだよ。

ずっとマックスでいろって話じゃないんだ。一度自分の限界に挑戦してみたら、今やってる事がそれに比べてどのぐらいだってわかるだろ?

まだまだ頑張れるのか、もう限界ギリギリなのか。それを知る為にもう少し頑張ってみたらどうだ。」

修造は「無口な修造」と小さい頃から言われていて、普段あまり話さないが、こんな時は長い話をしたりする。

「生地の面倒をいい感じに見てやって、最高の状態の時に焼く、それが俺たちの仕事なんだ。」

修造はカレーパンの生地をポンポンと手のひらで弾ませて言った。

「でも〜」

「お前は今まで何かの限界に挑戦したことがあるか?」

「う〜ん。」

修造の問いかけには答えられなかった。

限界なんて言葉なかなか自分の生活の中になかったし。そんな一生懸命熱く生きるなんてカッコ悪いと思ってたし〜

俺、初めはパン屋で働くなんて簡単だと思ってて、漫画に出てくるパン屋さんみたいに手を動かしてたら生地が勝手にできると勘違いしてたもんな、と杉本は思った。

江川さんなんて修造さんに食らい付いて行ってるって感じだな。修造さんの成形の速さに追いつこうとしてるもん。

とそこへ丸太イベント会社の食品催事部門の蒲浦(かばうら)がやって来た。蒲浦は地味な紺色のスーツを着た、抜け目なさそうな目つきの男だ。親方にすり寄って来た。

「柚木社長!お久しぶりです。いや〜テレビ拝見しましたよ!美味しそうなパンで優勝してらっしゃいましたね。」

親方の柚木は成形の手を休めずに答えた。「どうも〜蒲浦さん。優勝したのは俺じゃなくて修造だよ。今日はどうしたの?」

「はい、実は今度うち企画の催事でパンフェスティバルを開催するんですが、ぜひパンロンドさんにも出店して頂きたいと思いまして。」

「うち今忙しいからね〜そんな余裕あるかなあ。」と言って他のメンバーを見た。

「うーん、もう少し従業員増やすか、仕込みのパートさんを探さないとちょっと大変そうかなぁ〜」

1ヶ月後港の近くの公園で催事があるんですが。現場でカレーパンを揚げて販売して頂きたいんですが。」蒲浦は畳み掛けて来た。

「ちょっと製造と相談してみますね。」

「はい、是非お願いします!引き受けてくれないと僕会社に帰れません!」

蒲浦のやつ大袈裟だなあと思いつつ親方は今の蒲浦との話を修造に説明した。

「ひと月後に催事ですか?現場に行かなくても良いんなら俺は頑張れます。」

あまり目立ちたくないタイプの修造は言った。

「それと今は工場で6人体制でやってるのでこれ以上人を増やすと入りきれないですね。ローテーションでやりますか?」

「そうだなあ。俺、そのうち2号店を出そうと思ってるんだ。今のうちに人を育てとこうよ。」と親方が言った。

「わかりました。催事の時はカレーパンを向こうで揚げるんですか?誰が行くんです?」と修造が言った。

「そりゃあ。。」

親方は杉本と江川を見た。

「えっ?」

江川卓也は驚いて言った「親方僕を見ないで下さい!修造さんが行くなら僕も行きます!」

修造は絶対行きたくないので言った。

「江川、こないだNNテレビで一緒にカレーパン揚げたろ?あんな感じだよ。」

それを聞いていた杉本が「江川さん、まだ日にちもあるし今から練習しましょうよ。」と言った。

「生地の面倒をいい感じに見てやって、最高の状態の時に揚げる。それが俺たちの仕事なんですよ。」

修造は驚いた!杉本は自分がさっき言われた言葉をそのまま使ったのだ。

さっき弱音吐いてたくせにとちょっと呆れたが「まあ、2人で頑張れるだろ。これも経験だよ。」と締めくくった。

何日かして、親方が面接した青年が採用になりパンロンドにやって来た。

「藤岡恭介(ふじおかきょうすけ)です。よろしくお願いします。僕レストランで働いていました。」

藤岡はシュッとしたイケメンで、手先が器用ですぐに仕込みの手順を覚えた。なんならもう杉本より早い。

親方はうちには個性的な面々が多いが藤岡って色々とスマートな奴だな〜と思っていた。

修造は藤岡に色々教えながら

「藤岡君って仕事覚えるの早いよね。」と言った。

「ありがとうございます。」藤岡はキリッとした表情で答えた。

「そろそろ慣れて来たので明日は一人で朝の早番をお願いします。こないだ教えた手順でやったら良いからね。わからなければここに書いてあるから。」と修造はメモを指さして言った。

「はい、了解です。」藤岡は爽やかに答えたが、密かに顔が引きつっていた。「一人で、、、」

次の朝4時、早番の藤岡から修造に電話がかかって来た。

「はい、もしもし?藤岡君どうしたの?え?怖い?何が?」修造には何の事かわからなかったがとりあえずパンロンドに急いで行った。

「修造さ〜ん!」と言って藤岡が腕に抱きついてきた。「なんだよ?」「怖かったんですよ〜!僕が一人で作業してたらそこのタッパがガラガラって崩れたんです!誰もいないのに!僕一人で作業なんて嫌です!」

なんなら半泣きの藤岡はビビりきって修造から離れない。修造はそのタッパが崩れたところに見に行って「きっと積み方が悪かったんだね。」と明るそうに言った。困ったなあ。確かに一人で作業してる時に物音がすると驚くけどここまでかなあ。怖がるから藤岡君だけ早番は無しでなんてみんなに言いにくいし。。

藤岡は次の朝のローテーションの日が迫って来たら段々表情が暗くなってきた。

杉本が積んでた計量用の缶に当たって崩してしまった。ガラガラガラカンカン、、と音がした。「キャア〜!」藤岡が怖がって叫んだ。「藤岡大丈夫だって!今のはただ缶が崩れただけだから。」となだめたものの、仕事のことならアドバイスできるが怖がりってどうしたらいいんだろう?

修造は親方にそっと事情を話して「とりあえず明日の朝は俺が出ますから。」と言った。

「そうなの?ごめんね修造。」

「大丈夫です。」


さて、杉本は江川に偉そうに言った手前、本当に練習して催事までにそこそこ上手くカレーパンを包んだり揚げたりが出来る様になってきた。

そしてとうとう催事当日。

パンロンドの奥さんは張り切ってカレーパンののぼりを作っていた。

「これ持って行ってね!いってらっしゃい〜!催事がんばってね〜。」

「パン王座決定戦で優勝!カレーパンロンドだって、奥さん商魂たくましいな~」江川は修造がいない催事が不安だったが杉本が張り切ってるのでちょっとだけ安心した。

「じゃあ行って来まーす。

車に催事に必要なものを詰め込んで江川と杉本は出かけた。

「いってらっしゃい!気をつけてね。」

お店の奥さんが見送った。

工場では朝から催事の準備をしていたので、今度は店の分のパンを急いで準備しないといけない。  

修造は藤岡と組んで仕事をしていった。

江川はまだ免許を取った所で初心者マークを車に貼り、慎重に運転していたが、カーナビの「もうすぐ左です」と言うのを一筋間違えて民家と民家の間の細い道に曲がってしまった。

「江川さん!今通り過ぎた道を曲がるんでしたね。」

「え!どうしょう!戻らなきゃ!」江川はパニクってどこかで方向転換して元の道に戻ることにしたが、慌てて右手の民家の柵にぶつかりそうになり、反対に行き過ぎて路肩の溝に左の前輪を突っ込んでしまった。

ガクン!

「うわー!どうしよう!修造さーん!」江川はそこにいない修造の名前を叫んだ。

外に出て2人で動かそうとしたが荷物を沢山積んだ配達用のバンは重くなかなか手強い「江川さん、俺が催事場に遅れるって連絡の電話するんで江川さんは店に電話して貰えますか?」 

 杉本が冷静で良かったと思いながら震える手で修造に電話した。

「もう着いたのか?準備できた?」

「それが僕、溝に車を突っ込んじゃって動かないんです。どうしましょう修造さん!」

「え!まだ着いてないのか?冷やしてある生地がじわじわ発酵してくるだろう?早く行かなくちゃ!」

「助けて下さい!すぐ来て下さいよう。」

修造は電話を切って親方に説明した「あいつまだ免許取り立てなのに一緒に行かなかった俺にも責任があります。今からもう一台の車で現場に行って荷物を催事場に運びます。もう始まってしまうので。」

「わかったよ。ここは任せて気をつけて行っておいで。藤岡君も一緒に行ってきて。」

「わかりました。」

2人は教えられた現場に到着した。江川と杉本は並んで修造を待っている所だった。「2人とも怪我はないか?」「はい。でも催事に間に合いません。」

「杉本、牽引ロープを持ってきたから、こっちの車で引っ張るんで江川と3人で溝から車を浮かせてくれよ。」

「はい。」杉本は車にロープを縛り合図した。

修造はバックして前の車をゆっくりと引いていった。3人がかりで車を傷つけないように何度か動かして溝から浮かせた。

「やったー!」

「車は?」

「大丈夫そうです!」

「よし!急いで全員で行って準備するぞ!」

「はい!」

 2台の車は催事場に着いた。

蒲浦が慌てて来て修造に「いや〜無事で良かったですね!準備お願いします。」と言った。

「蒲浦さん、すみません遅れて。」

荷物を運びながら他の店を見ると結構沢山の人が並んでパンを買っている。

「出遅れたな。とりあえず持ってきた生地をなんとかしないと。失敗するとカレーが破裂するからな。」

公園には合計30軒ほどのパン屋がいて、各ブースに設置されたテーブルに店の自慢のパンを並べて販売を始めていた。サンドイッチ専門店、焼きそばパン専門店、ベーグルやメロンパンの専門店など目移りする。

「どれも旨そう。」杉本があちこち見ながら言った。

レンタルしたプロパンが先に到着していたのでフライヤーのセットを藤岡が、江川が店構えのセットを、修造と杉本はカレーパンを包み出した。成形した生地にシートを被せて発酵させ良い感じの時に揚げていく。

「藤岡、江川と一緒に呼び込みしてどんどん売って行ってくれよ。」

「はい。」

藤岡はニコニコと、江川はキュルンと笑顔を振り撒き人を集めた。

「杉本、両面を同じ色に揚げろよ。火力に注意して。」

「はい。」

杉本は揚げ色を揃えるのに集中した。

170℃の油にカレーパンを入れるとブクブクと泡が出てきて、パンの裏面がまず膨らんでいく。すぐに裏返して表面も膨らませる。白いパン生地はだんだん狐色になり裏返してまた狐色に揚げる。

包むのが下手だと生地の中でカレーが偏り勝手にクルンと裏返ったり傾いて、同じ所だけ色がつき過ぎちゃったりするが、今日は修造が包んでるので揚げやすい。

「よし!全部綺麗に揚げるぞ!」

江川はほっとしていた。

車も無事動いたし、修造さんもいてくれて良かった〜。

それに藤本さんって結構完璧だよな。そつがないというか。杉本君も凄い真剣、と言うか怖い顔して揚げてる。一生懸命なんだな。

僕もお釣りの計算を間違えないようにしなきゃ。

4人は力を合わせてどんどんカレーパンの販売を進めて行った。

そこへ修造に親方から電話がかかってきた。「はい、ええ、最初焦りましたが順調です。生地ばもう全部成形しちゃいました。あとは揚げるだけです。」「そう?手が空いたから追加の生地と材料を持っていくよ。」「わかりました。」

しばらくして親方がやってきた。「親方、これ全部成形してどんどん揚げていきますね。」

「はーい、よろしく〜。」

親方は生地を修造に渡して、後ろから一歩下がってテキパキ指示してカレーパンを販売していく修造を見ながらちょっと感動していた。みんな上手くまとまって仕事してるな。頼もしいぜ修造。俺は今日のこの、みんなが和気あいあいとしてる所を忘れないぞ!

修造はそのうち独立するだろう。残念だけどお前はうちでずっといてる器じゃないんだ。感謝の印に俺はどんなわがままでも聞いてやるからな。

「修造、俺戻るからね。あとよろしくね〜。」「はい。」

親方が帰ったあと、「みんな、交代で休憩に行って来て。」と修造が声をかけた。

江川は色んな店を見て回った。

隣はあんぱん屋さんかあ。あんぱんしか売ってないのかな?

その次はサンドイッチ屋さんか〜可愛い花みたいなフルーツサンドイッチもあるし、惣菜をサンドしたガッツリしたものもあるな〜

次はバターにこだわったクロワッサンのお店か。フランス産のバターを使ってるのかあ。

そして次はメロンパンのお店、メロンパン各種、そしてベーグル屋さん。20種類あるのかあ。こんなに沢山焼いて挟んで袋に入れて持ってくるの大変だったろうな。

僕こんなに沢山のパンの種類を見たの初めてだ。

江川は色んな店から沢山買って袋いっぱい持って帰ってきた。

勿論隣のあんぱんも買った。

「江川、どうすんの?そんなに沢山。」

「テヘ、ついつい買っちゃっいました。みんな一緒に食べてよ。」

色んな店のこだわりのパンを分けて味見して、「色んな店があるんですね〜。」とみんな口々に言った。

「そうなんだ、このベーグルの店は国産小麦とオーガニックに拘(こだわ)っていて女性の心を鷲掴みにしてる。そしてこのフルーツサンドも流行りの先駆けとなった店のものなんだ。ここのクロワッサンはエッジの効いたシャープなラインが素晴らしい!」修造が熱く語り出した!

「そしてこれを食べてごらん。」

修造はあんぱんを江川に味見させた。

「あ、これ!想像と全然違います。自分の思ってたあんぱんのはるかに想像を超えた美味しさです。」

「だろ?これはどんな拘りがあるのか試しに隣で聞いてきてごらん。」

え?あのおじさん怖そう。だけど美味しかったなこのあんぱん。

江川は恐る恐る隣に近寄って行った。

「あの〜、おじさんはここのオーナーの人ですか?」

「あー隣の子だね?そうだよ。」

「このあんぱん、すごく美味しかったです。どんな所に拘ってるんですか?」

「これはね十勝産の小豆から作ってる極上餡(あん)なんだよ。うちのあんパンはね、豆本来の甘味を存分に堪能できる餡が包んであるんだ。豆の選別は重要だし、渋きりで渋をよく取ったり、味がさっぱりとしてキレがいい様にザラメを使ったり。生地は国産小麦に米粉を少し配合して柔らかさを出してあるんだ。全部の工程に拘ってこのあんぱんができているんだよ。」

「それにこれ、そんなに大きくないのにずっしりしてるだろ?」

「はい。」

「薄皮に包んで餡子を堪能できるようにしてるけど、大きかったら食べるの辛いだろ?」

「はい。」

「ところが俺はそう思って作ってるけど、みんながみんなそうじゃない。世の中にはあんぱんひとつ取ってみてもそれはそれは沢山種類や作り方があるんだ。その店のシェフの拘りがあるのさ。」

「ここに来てるお店はみんなそうやって拘りがあるんですね。」

「そうなんだよ。催事は初めてかい?」「はい。」

「そのうちこの業界の色んなことを見たり体験したりするようになるよ。」

「ありがとうございました。」

すごく良い人だったな、それにあんなに真面目にあんぱんだけを作ってるんだ。

僕もこれから色んなパンに挑戦して最後には自分のパン作りを見つけるのかな。

何かわかった感じになって江川が戻ってきたので修造が「どうだった?」と聞いた。

「僕多分ずっとパンを作ると思います。最後の自分のパン作りを自分で見てみたいので。」

「いいね、俺も見てみたいよ。」

すると杉本が「最後の自分の自分でってどういう意味ですかあ?」と聞いてきた。

「自分が行き着くパン作りって何かって事だよ杉本。」

「気の長い話だなあ。」

そう言いながら杉本はずっとカレーパンを揚げ続けた。

意地になって両面を同じ綺麗な揚げ色にするのに集中した。

港に近い公園は時々涼やかな風が吹き、絶えずイベントにお客さんが訪れ続けた。

パンロンドのカレーパンを買った人達は揚げたてのカレーパンをハフハフと言いながらスパイシーな味わいを楽しんでいる。

「衣がカリカリだわ。」

「カレーが美味しい。」などお客さんが喜んで食べてくれている。

それを見て修造がちょっと嬉しそうに『したり顔』をしている。

催事も終盤に差し掛かり、他の店も売り切れたり品数が減る店が多くなってきた。

「あと少しで売り切れです。」と江川が報告してきた。

「頑張ったね。」修造がみんなに言った。

杉本が「俺、全部自分一人でちゃんと揚げる事ができました。途中意地になっちゃったけど、楽しかったです。」

「そうか、良かった。達成感あったな!」「はい!」

「俺達は片付けて車に運んで行こう。」「はい。」

修造と杉本は台車に荷物を乗せて運んでいった。

その時、販売中の藤岡に「おい。」と声をかけてきた男達3人が現れた。

横にいた江川は3人を観察した。3人とも同じような170cmぐらいの背丈で黒髪を短くしていてそんなに派手な出立ちではない。どちらかと言えば地味でまあまあダサい。

真ん中の黒いブルゾンの男が話しかけてきた。「藤岡!久しぶりだな。お前が店を辞めてから働いてるパン屋が出てるって言うから見にきたんだよ。」

藤岡は黙っていた。

「へぇー!パンロンドって言うんだ!」3人はにやにやしながらのぼりを見て「後で話があるから公園に来いよ!」そう言って去って行った。

「ねえ、何?今の。」江川が聞いてきた。

藤岡は一気に表情が暗くなった。

「さっきのは前の職場の同僚だったんですが、俺がみんなより先に色々と仕事を任されるようになって給料も上がった頃からギクシャクし出して、ある時ひと晩真っ暗な倉庫に閉じ込められたんです。」

「え〜!ひどい!」

「それから暗いのとか物音とかすごく怖くなってしまって。」

「それで前のとこ辞めたんだ。」いつの間にか戻ってきた修造がそれを聞いて言った。

「修造さん!元の職場の人達が藤岡君に後で公園に来いって言ってました!」

「へぇ。じゃあさっさと片付けて会いに行こうよ。」修造と杉本が2人でやる気を出してきた。

「藤岡君、俺達車に荷物を全部仕舞いに行ってくるから蒲浦さんが来たらもう帰るって言っといて。」

「はい。」

藤岡は3人が行ってしまった後、急いで蒲浦を探して「パンロンドです。もう片付けたので帰ります。ありがとうございました。」と言って公園へ走って行った。

「みんなの気持ちは嬉しいけどこれは俺の問題なんだ。」

藤岡は真っ暗な道を公園に向かって走って行った。

公園の真ん中にはそこだけ明るい照明のついた時計のついている柱があり、3人はその下に立っていた。

藤岡は息を切らして「話ってなんだよ。」と言った。

「お前なんで急に辞めたんだよ。俺達に挨拶もしないで。」

「俺を1晩閉じ込めといてよく言うな。俺が倉庫にいるってわかってて鍵をしたんだろ?電気も消して!

「さあな、なんの事だか。」

「閉じ込められたんなら中から呼べば良かったろ?」

「よく言うよ!そのまま帰っただろ!仕事でも毎日の様に嫌がらせしてただろ?忘れたとは言わせないぞ。」

「俺達はお前のものわかりの良い1を聞けば10を知るみたいなところがイラついて腹立つんだよ。出来杉君!」

そう言って2人が藤岡を羽交締めにしてもう一人が前に立った。

「うわ!」殴られる!

そう思った時、藤岡の前に立った男の頭に丸めたエプロンが当たってバサッと落ちた。

驚いて見るとパンロンドの3人が走ってくる。

「こらー!やめろ!」

「なんだお前ら!」

藤岡が2人の手を振り払い3対3.5で向かい合って立った。0.5は修造の後ろに隠れている江川だ。

「お前ら、嫌がらせなんて陰険で小さい奴らだ!悔しかったら藤岡を仕事で抜けば良かったんだろ。人の事をうらやんでる暇があったら自分がもっといい仕事してみろ!」

修造の話を聞いて藤岡も続けた。「あのままお前達と同じ所で働いて。同じようになるのが嫌だったんだ。」

「なに!」

さっきのやつがまた藤岡の胸ぐらを掴んで首に力を入れてきたので、その手首を掴んで「おい!藤岡を離せよ!そいつはパンロンドの藤岡だ。もうお前達とは関係ない!2度と俺達に関わるなよ!」と修造が怒鳴りつけた。

そして調子に乗って杉本がファイテイングポーズをとって近寄り一人と揉み合いになった。

その時、ズザーンと音がした。

一瞬修造達に気を取られた真ん中の奴に藤岡が一本背負いを決めた。

倒れた男から藤岡が一歩下がった。

突然のことで地面に倒れた男を囲んでみんなポカーンとしている。

江川が気を利かせて「あの〜パンロンドって偶然すごい腕っ節の人達が集まってるんですよ。怪我人が出ないうちにもうお帰り下さい。騒ぎになったらあなた達も損ですよ。」

と言って倒れた男を起こして「さあさあ。」と3人を促して帰した。

それを見てみんな「江川が1番度胸あるかも。」と思っていた。

3人を見送りながら「おれ、学生の時柔道やってました。今度怖いことがあったらそれが霊でも一本背負い決めてやります。それに。」

藤岡は真っ暗い道を見て「おれ、さっきあの道を必死で走ってたら怖さを忘れてました。俺には仲間もできたし。孤独でもない。もう怖いものはありません。」

「俺、パンロンドの藤岡なんで。」

「そうだな。」

2人は顔を見合わせてフフと笑った。

 

おわり

 

 

 


2021年08月27日(金)

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!後編

 

パン職人の修造 江川と修造シリーズ 進め!パン王座決定戦!後編

前回のあらすじ

江川と修造はNNテレビのパン王座決定戦の2回戦で4軒のパン屋でそれぞれ1品ずつ出し合い、NNパーク広場で300人のお客さんが選ぶ人気投票で1位に選ばれる為に奮闘中だった。修造が用意したのは牛すじカレーパンだったが果たして。。。


 

さて、300人のお客さんは行きたいパン屋のパンから食べて行き、4種類のパンの中から1番と思うものに投票していった。今のところ佐久間チームが圧倒的に人気だった。

そろそろ終盤、パンロンド田所チームのブースでは修造が丁寧にカレーパンを揚げ続けていた。

修造のカレーパンは衣がカリッとカレーはトロトロとスパイシーで牛スジがトロリプリンとして最高だった。

お腹一杯の人達まで牛すじカレーパンを完食し、その足で投票に行った。

口の中は他のパンは消え、スパイシーで頭とお腹が一杯だった。

全ての人が投票を終えて300人分の投票用紙は各店舗別に掲示板に貼られていった

司会の安藤良昌(あんどうよしまさ)が出てきた。

「さあ!お待ちかねの集計です。いったいどの店が何枚あるのでしょうか?決勝戦に進むのはどの店なのか!」

係のお姉さん達が集計をした紙を安藤に渡した。

「さあ!それでは第4位は!62票!ブーランジェリータカユキ!那須田チーム残念でしたがまた次回頑張って頂きたいと思います!クロワッサンサンド美味しかったです!そして第3位は!67票!北麦パンです!佐々木チーム残念でした!クロックムッシュ僕も頂きましたが本当に美味しかったです。」

「さあ!では1位の発表ですー!」

安藤は2位は言わずに1位を言った。

「1位は102票!佐久間チーム!」

と同時にドーン!と音がなった。そのあと音楽が鳴り、安藤が更に大きな声で言った。

「おめでとうございます!決勝戦に進むのは!佐久間チームと田所チームです~~!」

「ふ~!僕たちのチームって69票でしたね、4位から盛り返したとは言え佐々木チームと2票しか変わらなかったな~」江川がとりあえずほっとして言った。

「ギリギリだったね。」

佐久間チームには全然及ばなかったが、修造にしてみれば人が集中せず分散したことで、無理に急いで揚げたりせず自分のペースでいいカレーパンを揚げることができた。

販売のお姉さん達に「ありがとう。」と言った。お姉さん達は修造に言われた通り、「カレーが熱いから注意して下さいね。」と一人一人に言っていた。

勝敗に関係なく熱々を提供して、火傷しない様にフーフーして食べる楽しさをお客さんに味わって欲しかったからだ。

このカレーパン、パンロンドでも販売しよう。

放送が終わったら大量に仕込むぞ。

そうだ、カレーパンロンドって名付ける!

修造はそう決めていた。

佐々木シェフと那須田シェフに挨拶して、お互いに「また会いましょう!」と言って控室に戻った。

そこへディレクターの四角が佐久間シェフとやってきた。

「いや〜お疲れ様でした。次の決勝ですが、スタジオでパンを作って頂き、5人の有名人が審査して優勝を競って貰います!優勝賞金は100万円!テーマはパンのフルコース対決です!フルコースに見立てて4品のパンを5人分作って頂きます。フルコースと言ってもどんな形でも構いませんし、自由な発想の方が面白いのでそこら辺はよろしくお願いします。時間の都合でパンはお店で焼いて来て下さい。スタジオでは盛り付けからやって貰います。」

クタクタの修造も佐久間シェフも内心『まだやるのかよ』と顔を見合わせた。次の収録の前にまた何を出すか考えなければいけない。

「収録は次の火曜日、NNテレビのスタジオですのでよろしくお願いします。資材は全てこちらで用意します。材料費もこちら持ちですので。」

やれやれ、次は審査員5人が相手か。

何を出すかな、、審査員は多分パンの世界の人と、文化人、調理師学校の校長、タレント、なんかかな。

さて、佐久間シェフは何を出してくるだろう。

「修造さん!優勝賞金100万って何に使います?」

片付けながら江川はまだ優勝してもないのに聞いてきたが修造は「う~ん」と生返事をした。もはや頭の中は決勝の4品でいっぱいだったからだ。


修造は家に帰って黙って部屋に入って来た。

「修造おかえりなさい。お疲れ様~。」律子が台所からでてきた。

「どうだった今日。」

「佐久間チームと決勝に出る事になったよ。」修造はソファに座ってふ~っと息を吐きながらもたれた。律子は隣に座ってネットでブーランジェリーサクマについて調べた。ホテルのベーカリー部門でブーランジェをしてから開業。店の評価は4.9。過去にパンのグランプリも受賞している。人気の品も沢山有る様だ。

修造はその画面をじっと見ながら、強敵だな。今日も圧勝だったよ。向こうからしたら俺たち雑魚(ざこ)かっただろうな。と思っていた。

律子は考え事に入り込む修造の手の平に自分の手を置いて「修造なら大丈夫よ。」と言った。

律子、ありがとう。俺絶対勝つよ。大きな手でそっと律子の手を握り返した。


修造は仕事中もずっとフルコースについて考え続けた。

ミキサーが回ってるのを見ながらこんな風に考えていた。

フルコース対決か、、

前菜はさっぱりと、、

ロッゲンブロートでエビや生ハムのタルティーヌはどうだろう。サワードゥのタルティーヌの上でオードブルを再現みたいな、、それともバゲットでブルスケッタ調とどっちがいいだろう。何種類か小さいものを展開してもいい。

律子の実家の近くで一緒に行った信州の農家のトマトが驚くほど美味かった。トマトってこんなに美味しかったかと思ったけど帰ってから冷蔵庫のトマトを食べたら味が全然違うんだ。

あれはやっぱ新鮮さなんだな。トマトの旨み。

朝採れのトマトを律子の妹のその子ちゃんに持ってきてもらうか、、ついでに他の野菜も!

オードブルで口をさっぱりさせて食欲増進しといて。

次は本来ならスープが来てから魚料理か?

メインの前にくどくなくてオードブルよりは食べ応えがあってパンに挟むもので、、

そうだ!ドイツにいた時エーベルトと北ドイツに行って魚の燻製料理を食べたっけ。

たしかKieler Sprottenキーラー・シュプロッテン(ニシンの薫製)って言ったな。

燻製の香りが美味しいニシンを軽いバインミーみたいにするのはどうだろう。カイザーにレバーペーストを塗って野菜のマリネとニシンの燻製のレモンソース添え、その上にパクチーか?

燻製の香りと旨みの後、爽やかな香りがする様にしよう。

次はメインの肉料理。

肉といっても色々あるけどさっぱり系の次はガツンといきたい。

肉料理はチャバッタみたいにしっかりしてるけど噛みやすいものがいい。肉の噛みごたえに負けず、肉の味の邪魔をしないものがいいかな。それともパンの味を強くしといて中身を食べやすい肉料理にするか。サワードゥで酸味がある方が肉が旨く感じるだろうか。。

肉はどうするか。。

ドイツ風牛肉の煮込み料理は美味い。ビール煮込みは炭酸で肉が柔らかくなるのと味が深まり苦味と旨みが残るところだ。しかもアルコールは飛ばすので酔っ払う心配もない。コーヒーかチョコを隠し味に使うか?

最後はデザート。

何にしようかなあ〜

パンを使うんだからアイスは溶けたらフニャフニャになっちゃうし、、硬く立てた生クリームとフルーツを使うか、洋酒を使うか。そうだ!サヴァランはどうだろう?などと考えていた。

ずっと心配そうに観察していた江川だったが、急にすっきりしてきた修造の表情を見て「親方!何を出すか決まったようですよ!」と報告してきた。「へー楽しみだな~。」2人でワクワクして修造を見た。

「親方!江川と決勝戦の練習をしたいので買い物に行ってきて良いですか?」

「勿論だよ。色々決まったの?頑張ってね。」

「はい!絶対勝ちますよ!」

修造は時間の許す限り江川と練習して時間内にキッチリ仕上げる様にした。

そしていよいよ決勝前日

「江川、これ明日忘れ物の無いように用意してね。」と持ち物の書いた紙を渡した。

「はい!」


さて決勝の火曜日がやってきた。

修造と江川はNNテレビのスタジオに様々な厳選した食糧と午前中作って来たパンを持ってきた。

「その子ちゃんに持ってきて貰った超新鮮野菜もあるし、あとは段取通り進めるだけだ。」

スタジオでは審査員の席が5つ、その前にパンロンドとブーランジェリーサクマのキッチンブースが並んで2つある。

その後ろには大画面のデイスプレイが置いてあって色んなものが大写しにされる。

江川と修造は調理の為の準備を始めた。

「きっちり決めて最高のパフオーマンスを見せるぞ!」

「はい!」

観客席ではどんどん人が増えてやがて満員になった。

 

ざわざわする中、審査員5人が着席して、司会の安藤良昌も出てきた。緊張が込み上げてくる。

安藤がカメラに向かって話し始めた。

「さあ!始まりました!パン王座決定戦。いよいよ決勝戦になりました。ここで審査員席の皆さんの紹介をしたいと思います。まず1番右が赤いドレスの印象的な女優の桐田美月(きりたみつき)さん、お隣が文化人の有田川ジョージさん、原料理学校校長の原隆(はらたかし)校長、アイドルの羽山裕香(はやまゆうか)さん、そしてお笑い芸人のマウンテン山田さんの5人です!」

モニターには5人が順に大写しになった。

「決勝戦は関東のパンロンド田所チームと関西のブーランジェリーサクマ佐久間チームの対決です。決勝のお題は『パンのフルコース』!合図の音と共に2チームが調理を開始します!審査員の皆さん5人で4品に点数をつけて貰い優勝者を決定して頂きます!結果は最後に発表になります!試食の順は人気投票で1位の佐久間チームのパンを先に行いまーす。」

「それでははーじーめーーー!」

プアーーン!と音が鳴り2チームはそれぞれ1品目の前菜を作り出した。

3種類のパンにそれぞれ違う具材をのせながら「まさかまた被ってないだろうなあ。」と修造と佐久間シェフはお互いに作ってるものをみて驚いた。佐久間シェフも3種類のパンのオードブルを作ってる!

江川も横目で見ながら「この人達気が合うのかも、、」と思っていた。

佐久間シェフは修造を見た。「ドイツで5年修業してきたそうだが、しょせん私の実力には及ばないんじゃないのか。ちびっ子が助手みたいだし。悪いが決勝でも私が勝つよ。」

2チームのパンがそれぞれ5人の審査員の前に並べられた。

「さあ!それでは一品目のパンを審査して頂きましょう!試食はじーめー!」

佐久間シェフは、バルケット(舟形)のミニパイを使ったアミューズを作った。トッピングはパプリカとズッキーニ、レンコンとヒジキのサラダ、海老と玉子の3種だった。

修造の前菜は3種のタルティーヌを出した。トッピングはカブと柚子と生ハムをのせたサワードゥのカンパーニュ、干柿とクリームチーズのロッゲンブロート、トマトのブルスケッタ。

「美味しい取り合わせを考えました。」と修造が、

「うちのカフェでも人気の取り合わせです。」と佐久間シェフが説明した。

司会の安藤が赤いドレスの桐田を指しながら「では女優の桐田美月さん、感想はいかがでしたか?」と声を張って言った。

「はい、こちらの生ハムのパンや柿のパンはフルーティーで美味しかったです、パンとの取り合わせも素晴らしいです。このブルスケッタのトマトも美味しいですね。」

「田所シェフ、説明をお願いします。」

「はい。トマトは長野県の標高が高いところでできたんですが、朝晩の気温の差が激しい所で育ったトマトは昼太陽の光を浴びて光合成で貯めた糖分が夜消費されにくいのでとても甘いんです。ブルスケッタにはサクッとしたクラスト(皮)のバゲットを使いました。パンは3種類とも小麦の香りが引き立つ様に石臼挽きの全粒粉を配合しています。」

「素材を生かした美味しさでしたね。」桐田と安藤のコメントを聞いて江川は祈るような気持だった。「どうかパンロンドのボタンを押してくれてますように!」

「それでは2品目のパンを審査して頂きましょう!試食はじ~め~!」」

佐久間シェフはシャンピニオンというキノコの形のフランスパンを使ったアンチョビとジャガイモのファルシ(詰め物)を。修造はニシンの燻製バインミーを出した。

またしても魚料理が被っている!

5人が試食をしてる間、真ん中に座っている原料理学校の原校長は食べながら分析していた。「ニシンの燻製は皮と骨を取り薄くカットしてレモンハーブソースで和えてある。乾燥したニシンがレモンソースを吸ってソフトになっていて、燻製の香りが香ばしく、ニシンの油をレモンとパクチーの爽やかさが良い感じに中和してくれる。そしてサクッとしたカイザーゼンメルの胡麻の風味が噛む事に口の中に広がる。」

うんうんとうなづいてるのを見て江川はほっとしていた。「校長先生うちを選んでくれないかな~」

「さあ!それでは審査をお願いします!」

全員が自分の前の2つのボタンから美味しいと思う方を押した。

「皆さん押しましたか?それではお笑い芸人のマウンテン山田さん、感想をお願いします。」

「はい、僕正直甲乙つけがたかったんですわ〜。どっちもめっちゃ美味しかったです。キノコの形のパンの詰め物もおしゃれやし、ニシンもサッパリしてて美味しかったなあ!うまうマウンテンですわほんま。」

江川は「マウンテン山田さん、どっちのボタンを押すかな。。」とハラハラした。

その時、女優の桐田美月は感動していた。

パンの審査ってどんなのかと思ってたらレベル高いわ。あの目力の強いシェフのパン、美味しかったわあ。次も楽しみ。ウフフ。。」

江川はあと2品の準備をする為に材料を手元に寄せた。「あっっ!!!」

「修造さん!大変です!あの機械がありません!」

「えっ!ちゃんと用意できるように紙を渡したろ?」

「確かに用意して車に積んだのを覚えています!」

2人は自分達のテーブルの周りをよく探した。

「無い。」江川が半泣きになってきた。「どうしましょう修造さん。」

その時安藤が叫んだ。「お次はもう3品目ですね!何が出てくるのか楽しみです!それでは作って頂きましょう!」

画面に修造と佐久間が交互に大映しになった。

「江川、俺が盛り付けをしてる間に四角さんに事情を話して一緒に探して来てくれよ。広いから迷うなよ。」

「分かりました。」江川はべそをかきながら四角の所に走っていった。

四角は安藤に合図してこっそりと引き延ばしのサインを送った。

四角と江川は走って駐車場へ行ったが車の中を隅々まで探したのに無い!

「どうしよう!あれがないとデザートの味が変わっちゃう!」

「どんな入れ物だったんですか?」

「30センチほどの茶色いダンボールに入ってるんです。パンロンドってマジックで書きました。」

「この車からスタジオまでの間に落としたかも知れない。他のスタッフも呼んで手分けして探しましょう。」そういって道々キョロキョロと探した。

江川が通路の椅子の陰やごみ箱まで探していると「あら?あなたパンロンドの人よね?」と声をかけてきた人がいた。

「え?」

「私、1回戦で会ったBBベーグルの田中よ。今日は料理番組に出てたの。何を探してるの?」江川はあちこち探しながら事情を説明した。

「私も探してあげる。」江川の表情を見てただ事じゃないのを察して田中が言った。


一方スタジオでは、修造の3品目は牛肉のビール煮込みのチャバッタ、佐久間シェフは全粒粉の食パンを使ったトンカツのサンドイッチだった。

「はい!それでは先に佐久間シェフのトンカツサンドをどうぞ!佐久間シェフ、こちらはお店でも人気なのでしょうか?」

「はい、こちらは当店ではとても人気の品です。分厚いトンカツを低温でじっくり揚げています。出来立てが何よりのご馳走です。ソースには赤ワインとリンゴを使っています。」

それを聞いてマウンテン山田が「なるほどね〜!揚げたて最高!」と言った。

時間を引き延ばすように言われた安藤はゆっくりと言った。「それでは食べながら田所シェフの説明をお聞き下さい!」

「はい、ライサワー種でスペルト小麦を使った長時間熟成の生地を使いました。パンにはバターを塗り、オニオンソテーの上に牛肉のビール煮込みと、ガーリックとジャガイモを細かくさいの目切りにして炒めた軽いポテトサラダをのせて紫キャベツとタイムの小さな葉を散らしました。パンと具材のマッチングを楽しんで頂きたいです。」

すかさず桐田が感想を述べた。「パンがもっちりしてとても良い香りだわ。具材の全てをパンが引き立ててくれていますね。」

「ありがとうございます。」

「修造シェフ。ライサワー種ってなんですかね?ここで皆さんにちょっと説明して頂きましょう。」時間稼ぎに安藤が聞いた。

「はい、ライサワー種はライ麦と水からおこした種の事です。ドイツは痩せた寒冷地が多く、,昔から小麦の代わりにライ麦を多く育てていました。なのでドイツパンはライ麦の比率が多いパンが多いのです。そのライ麦を使ったライサワー種は酵母の中の美味しい菌の割合が概ね乳酸菌:8、酢酸菌:2の割合が理想的と言われています。つまり風味豊かで美味しい酸味って事です。それは作り手の好みによって変わります。とても風味が良いので香りを楽しんでみて下さい。」

そう言って修造は審査員にライ麦パンを渡して行った。まろやかな酸味と風味で、生地はしっとりとしている。

みんなへぇ〜という感じでパンを噛み締めた。

修造にしてはちょっと口数が多かったが内心いい時間稼ぎになったと思っていた。「江川どうしてるのかなあ。」

その時、佐久間チームの助手が佐久間シェフにささやいた。「え?アイスクリームが固まらない?」佐久間シェフはアイスクリーマーを覗いてみるとまだ液体のままグルグル回っている、上手く温度が下がってない様だ。「どうしましょう?次もうデザートを出さないといけないのに。」ちょっとだけ固まりかけたアイスをみてうろたえた。「もう少し待ってみよう。」

「さあ!それでは3品目の審査はいかに?」

審査のボタンを押しながらマウンテン山田は2チームの異変を見て「あの人らどないなってんねん。左のチームは助手が泣きながらディレクターとおらんようになったし。もう一方のチームは顔面蒼白やで。」と呟いた。

佐久間シェフは焦った。「次はこっちの番だ。隣はまだ何も作ってないぞ!」先に修造にデザートを出させてアイスが出来るのを待とうと思ったがそれも出来ない。

安藤が慎重な面持ちで言った「さあ、泣いても笑っても次が最後です。4品目を作って頂きましょう!」

佐久間シェフはわざとのろのろと作った。そして少しゆるいアイスをスプーンですくって添えて出したが、スタジオの熱気で徐々に溶けていく!額から汗が噴き出した。

江川は機械がなくなった責任を感じてスタジオ前の長い廊下で膝をがっくりついていた。

「僕がもっとちゃんと見ていればこんなことにならなかったのに。修造さんごめんなさい。」また半泣きになっていると田中が走ってきた。

「江川く~ん!これじゃない?」

「あ!それです!」箱の中身を見た!


佐久間シェフは冷や汗を拭きつつデザートの説明をしていた。「オレンジを使ったパネトーネにシナモンたっぷりのりんごとアイスを添えました。」.残念だがアイスと言うよりは冷たいバニラソースになったがそれはそれで美味しい。

文化人枠の有田川ジョージが「オレンジの爽やかな生地とりんごのスパイスの味がソースに染みて美味しいですね。」と感想を述べた。

修造の番が来た。「江川どうなったかな。もし帰って来なければこのまま出すしかないか。」水色のふちの可愛い皿にパンを並べ始めた。

「修造さん!」

「おっ江川!間に合ったな!」修造は箱の中身を出してすぐにコンセントに刺した。起動して暖めるまでに3分かかる。

「わたあめメーカーだったのか。。」江川を追いかけてきた四角と田中は呟いた。

修造のデザートは、ブリオッシュにサクランボのリキュール『キルシュヴァッサー』を染み込ませたサヴァランで、その上に生クリームを加えたカスタードを絞り、表面をバーナーで焼いてアイシングクッキーで作った王冠を添えた。

あとはあれを乗せるだけだ。

「もう少し待って下さいね。」

と、その間にわたあめメーカーが温まり、修造は真ん中の窪みに赤い飴を入れた。

「江川、のせたらすぐにお出しして。」

「はい。」

そのうちに赤い色の甘いわたがフワフワと出てきてそれを箸で巻いて小さなわたあめをつくり皿に乗せ、その上にラスベリーを砕いたものを少し振りかけた。

江川は全員に順にお皿を配り「お早目にお召し上がり下さい。」と言った。

バーナーで温めたカスタードの上でじわっとわたあめが溶けていく。計算通りになって修造は悦にいった。

「さあ!それではこれが最後になります。パンロンド、田所チームのデザートを召し上がって頂きましょう!」

食べながらアイドルの羽山裕香が「うわ〜っ赤いワタアメが可愛くって美味しいですぅ〜」と言ったので被せて桐田が感想を述べた。

「しっとりしたパンとわたあめの甘酸っぱさとそれをマイルドにするカスタードの味が一体化してとてもバランスがいいと思います。」

「ありがとうございます。ラズベリーでキャンデイーを作り、それをわたあめにしました。」修造は頭を下げた。

桐田美月は王冠の小さなクッキーを食べながら「これで王座は決まりね。」と呟いた。

江川はほっとして、後ろで見ている田中にグッとこぶしを握って見せたので、田中も小さくガッツポーズをした。「江川君かわいい~。」

さっき箱を探していた時、江川が下ばかり探したので、背が高い上にハイヒールの田中は上を探していた。

台車に道具を沢山積んで運ぶ時に、1番上に乗せていた箱の上の隙間に廊下の木の枝が刺さりそのまそのまま引っかかっていたのだ。


全員が4品の試食を終え審査は点数発表だけになった。

司会の安藤が真ん中に出てきて特別声を張って言った。「さあそれでは最後の審査と参りましょう!皆さんどちらが美味しかったでしょうか?ボタンを押して下さい。」

桐田さん、いかがでしたか?」

「はい、悩みましたがどれも美味しかったのでその分も含め付けさせて貰いました。」

急にスタジオが暗くなり安藤と2チームにだけライトが照らされた。

「さあ!わたくしの元に審査結果の書かれた紙が届きました。5人の審査はどうだったのでしょうか。パン王座に輝くのはどちらのチームでしょう!!?」

デレレレレレ、、、と小さくドラムロールが鳴りだした。

江川は心臓がドキドキした。額から汗が垂れる。

「1品目パンロンド2点!ブーランジェリーサクマ3点!」

大画面に2と3が大きく出た。「サクマさんがまず1品目をゲットしました。さあ!次は?」

「2品目パンロンド2点!ブーランジェリーサクマ3点!」

ジャーン!と音が鳴り画面に4と6が映し出された。

江川は修造を見て背中に冷や汗が垂れた。

「うわ!ちょっとワナワナしてめっちゃ悔しそうなのに顔に出してない。こわ〜!」

修造は反省と悔しさで血圧が上がってぶっ倒れそうだったがグッと耐えた。

「さあ、まだまだ分かりません!さて次は?」

「3品目パンロンド3点!ブーランジェリーサクマ2点!」

画面には7と8が出た!

「次でとっちかが優勝か引き分けだ!どうなるぅ〜?!」

さあ!4品目は!?

デレレレレレレ!!ドン!

「パンロンド!4点!優勝は田所チームです!11対9点でパン王座決定戦はパンロンドの勝ち〜!佐久間シェフもありがとうございました~!」

バーンと音楽が鳴って金色の紙が降りライトが当たった。

安藤が「おめでとうございます〜」と言って修造にトロフィーと賞金を渡した。

「やったー!やりましたよ修造さん!」

「ありがとうな、江川。」

修造は泣いてる江川にトロフイーを持たせて、手持無沙汰になったので仕方なくどこかしらを向いていた。

2人が大写しになったままテレビはカットになった。

優勝して喜ぶところだが、修造の頭の中はさっき作ったパンの成功と失敗を反芻していた。「前菜とカイザーのどこがいけなかったんだ、、」

そこへ桐田が挨拶に来た。「修造シェフ、とっても素晴らしかったわ。またお会いしましょうね。」

「あ、はいどうも。」考え事中に話しかけてきた桐田に修造は生返事をした。

控室に戻ると佐久間シェフがいた。「田所シェフ、優勝おめでとう、よく勉強してるね。こちらも色々学ばせて貰ったよ。」

「佐久間シェフ、俺たち似たもの同士なんですかね?カレーパンと前菜は驚きました。それとフルコースの流れも一緒でしたね。」

佐久間シェフも同じ事を考えてたらしくうなずいて微笑んでいた。


世話になった人達にお礼を言って、帰り道の車の中で「修造さん、桐田さんって綺麗でしたね〜。僕あんな近くで芸能人見たの初めてです。」

「きりたって誰だ?」

「えー、、信じられない。あんな美人を。。修造さんって頭の中パンでできてるんじゃないんですか?」

「だとしたら美味いな!絶対!」修造はフンと笑って言った。

だがふっと表情が変わり「江川、、俺はドイツに行く時律子から条件を出されたんだ。絶対女の人と目を合わさなきゃ行ってもいいってな。」

「ええ~!?」

「俺が眼で女の人を落とすって思ってるのかもしれないがそんな事あるわけないんだよ。」

江川は律子の厳しい言いつけに背筋がぞっとしながら「そんな事できるんですかぁ?ていうかやったんですか?」と聞いた。

「そうだよ。律子と緑のところに帰るのが大前提だから、もし俺が裏切ったら律子の鋭い勘で一発で見抜かれる。そしたら俺は帰る所がなかった。」

「ひえ〜厳しい!」

「俺にとっては女性は律子しか考えられない。と同時にパンの修行に行きたいって気持ちも通してしまったんだ。律子との約束を守るのが自分の見せられる最大の誠意だった。だから自信を持って律子のところに現れる事ができたんだ。今もそれは変わらない。江川。俺は律子とは本当に相性が良いんだ。律子以外は考えられないんだ。」

 

 

急にのろけだした!「はあ。。」

「今日は早く帰ろう。」

「はあ?」

「一回だけちゃんと目を見て話をした事があったな。告られた事があって、流石に目を逸らしたままじゃいけないからと思ってね。そしたらえげつない美人だったよ。でももうどんな人だったか忘れたな〜」

「概ね約束を守ったって事ですね。僕が表彰してあげますよ。約束を守ったで賞!」

「嬉しいね。」

2人は疲れていたが爽快な気分でふふふっと笑った。

「さあ、もうすぐパンロンドだ。放送が終わったら忙しいぞ!」

「はい!」

 

おわり


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