パン職人の修造 江川と修造シリーズ 満点星揺れて
ここは笹目駅から少し離れたリーベンアンドブロート
その工房で江川は修造の例の謎のドイツの歌のハナウタを久しぶりに聴いた。
グーググーグーグーと聞こえてくる。
大坂がパンを焼きながら「これなんの音かなあ」と言っている。
修造は紙に模様をカッターで切り抜いて大きなパンに乗せて粉を振った。そしてステンシルで絵を描きオーブンに入れた。
ああ〜
大地!
もう一歳だ!早いなあ。
ずっとずっと可愛いままだ!
「江川、オトータンって呼んでくれるんだよ!」
江川が「もう一歳なんですね〜」と感慨深げに言った。
「感激だよ!最近あまり会えなかったからこれが焼けたら持っていこうと思って」
「僕その間頑張るから行ってきて下さい」
「ありがとう江川」
「大地ちゃんの一升パンですか?」
「そうなんだよ大坂」と言って修造はオーブンを覗いた。久しぶりにニコニコしている。
大坂と森田は2人でパンを焼きながら話し合った。
「結婚かあ、俺はいつか結婚とかする気がしないなあ」森田が言うと「俺なんてしばらく彼女もいないのに」大坂が答えた。
「身近な女性は?」
「いないよ全然」
「前の所は社内恋愛禁止だったよ」西森が思い出して言った。
「社内恋愛ってどうなるの?」
「上司に呼び出されて色々聞かれて1人移動になってたよ」
「えっそうなの?一店舗しかないと移動もできないね」
「気をつけよ、というか今は恋愛とかする人も少ないんじゃない?」
「そうかなあ」
立花が「はいこれ、話に花が咲きすぎよ」と注意してきた。
「すいません」と西森と大坂は頭をペコっと下げて立花が渡してきたナスと鶏のタルティーヌを受け取ってオーブンに入れた。
黙ったまま作業して大坂は思った『立花さん素敵だなあ、いやいや社内恋愛はいけないらしいし。立花さんと付き合ったらどんな感じかな。やっぱ俺頼りないから叱られたりするのかな。こら!いけないぞ!なんてな』大坂は馬鹿みたいに1人顔を赤らめた。
「ただいま、ほら見て律子」
家に帰った修造はお帰りなさいのハグをして、ケーキと一升パンを律子に見せた。
「すごいデザインね、ケーキも可愛いし、力作ね」
「だろ、早速大地に一升パンを背負わせてみよう。大地こっちに来て」修造は大地に向かって手を広げた。
「オトータン」大地はヨチヨチと修造の所に来た「パン」「そう、パンだよ」
そう言っていかついデザインの一升パンを座ってる大地にそっと背負わせてみた。初めて重いものを背負ったので泣くかなと思ったが、顔を真っ赤にして、机に捕まって立ち上がった「うわー大地すごい力持ちだね」とはしゃいでいる。
長女の緑(みどり)はそんな両親の様子を写メして江川に送ってやった。
ピロリロリロピロリーン
「あ!メールが来た?修造さんかな?」とメールを開いた江川は笑顔になった「緑ちゃんからだ。ウフフフ、ねえ見て愛莉ちゃん」
店で作業中の小手川パン粉、本名瀬戸川愛莉に修造の写真を見せた。
「えっ、あの渋い修造さんが家ではこんな笑顔になるのぉ」
「そうなんだ、家族の事になると表情がガラリと変わるんだ」江川はイベントの帰りに必ず妻の事や子供の事をのろける修造を思い出して言った。
「修造さんってどんな場面でも全力なのね」
「今度娘さんの緑ちゃんと空手の試合にでるらしいよ。ヌンチャクの型とか言うのを2人でやるんだって」
「ヌンチャクって何?」
「えーと、二つの棒が紐で繋がった武器?」
「ふーんそんな物が武器になるのね」二つの棒を紐で繋げる?ヌンチャクを見たこともないパン粉にはそれがどんな形なのか想像つかなかった。
ーーーー
その頃
パンロンドでは
「なあ杉本」
「なんですかあ藤岡さーん」
「この漢字知ってる?」とスマホの画面を見せた。躑躅と書いてある。
「なんて読むんですかあ?」
「ツツジだよ」
「へぇ〜むずいっすねぇ」
「手に書いたら覚えられるんじゃない?こういうの得意でしょ?」
藤岡は見本としてホワイトボードに躑躅と書いた。それを杉本が手の甲に書く。
その藤岡を見て、由梨は誰にもわからない様に小さなため息をついた。
藤岡はとうとう修造の店で探していた立花を見つけたが、あれからその事について何も言わない。
チラッと藤岡を見たが、普段と変わらない様に仕事をしている。
どうなったのかな、もう2人は再会したんだろうか、それともまだ何もないままなのかしら。
この半月程気になって仕方ない。
「あの」
「なに?由梨」
最近動画を撮りに行ってないんじゃありませんか?」
「うん、そういえばそうだね」
もう撮る必要が無くなったからだわ。修造さんの店にいてるあの立花さんを見つけたから。
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リーブロにて
夕方
帰り際、最近では自分から誰にも話さない和鍵に大坂は声をかけた。
「やるならやるでみな同じ向きを見いてた方が仕事しやすいんだ。1人だけ流れと逆に行くのは疲れるだろ。江川さんに負けた以上上手くやっていかないと。初めは愛想笑いでもいつか本気で笑える日が来るって!な!明日から生まれ変わろう!」
明日に向かって拳を振り上げる、声が元々大きい大坂の事を心の中で『ウザ』と思ったが、確かに言われた通りだし、ここではもうそうする以外に無いのはわかっている。
和鍵は江川が仕事しやすい様に型やカップにアルミホイルを引いたりして前日準備を昼の分までやってから帰った。
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東南商店街にある由梨の両親が経営している着物屋『花装(はなそう)』では、明日の浴衣イベントに参加する為に準備で大忙しだった。
東南駅からは随分離れた大きな街の南会館という所で着物屋が集まって行う『夏の大浴衣市』があるのだ。
由梨もこの日はパンロンドを休んで、浴衣を着て手伝いに行く事になっている。
父親と由梨は車に着物やら小物やら展示用のグッズを沢山乗せて前日準備に出かけた。
「あ、ここはリーベンアンドブロートの近くだわ」父親の運転する車は笹目駅の横を通り過ぎ、三つ先の駅を曲がったすぐの所に着いた。
着物を展示しながら由梨は立花の事で頭がいっぱいになった。
こんなにクヨクヨするのならいっそ立花さんに会いに行こうか、それとも藤岡に聞こうかと迷う。
次の日、由梨は浴衣に着替えて親子三人で会場に向かった。
両親は傷ついた由梨の事をとても心配していたので、最近の沈んだ由梨の事が気になっていた。
会場では由梨の浴衣姿を見て同じ物が欲しいと言う客や、帯について色々聞いてくる客の対応に追われていて、しばらくは藤岡の事が頭から離れていた。
忙しい中、客に丁寧に説明して浴衣の種類や履き物まで見て貰った。
「由梨、後は私達でやるから帰って良いわよ。駅はわかるわね?」母親が声をかけた
撤収作業を終えて会場から帰ると夜遅くなるので、明日仕事の由梨を心配して少しでも早く返そうと思ったのだ。
「電車で」
急に笹目駅の事が頭をよぎる。
由梨は電車に乗ったが、三つ目の駅で降りてバスに乗った。
少し歩くと修造の店だ。
「来てしまった」
強い日差しの中、日傘を差して店へのアプローチを歩く。
それをパン粉が見つけて江川に言った「ねぇ、あの人パンロンドの人かな?」
「あっ由梨ちゃん」と言って江川が走って出迎えた。
「わあ、由梨ちゃん綺麗、素敵な浴衣だね」そう言われてまるで勝負服で来た様で恥ずかしい。
「浴衣イベントの帰りなんです。あの、立花さんはいますか?」
「えっ?知り合いなの?ちょっと待っててね、呼んでくるから」
江川は走っていって立花を呼んできた。
全く初対面の浴衣の女の子を見て驚いていた。
「はい、立花ですが何か御用ですか?」
「あの、私藤岡恭介さんと同じ店で働いている者です」
「えっ」
急に藤岡の名前が出てきて立花は驚いてベンチに座り込んだ。
浴衣姿の女の子が藤岡の名前を出してきた事も不思議でならない。
「どういう事か説明して貰えますか?」
「藤岡さんは立花さんを探してパン屋さんを一軒一軒訪ねていました。その事はご存知でしたか?」
「いいえ、知らなかった。あなたはその事を知ってるのね」
「はい、だからって私達何もありません。藤岡さんはここで立花さんを見かけてから様子がおかしかった、でもその後藤岡さんが何を考えていたのかはわかりません」
「だからここに来たのね」
「長い間パン屋さんを見て回るのは大変だったと思います。それがあの人の気持ちです、もしご存知無かったのなら言わなくちゃいけないと思って、その事を伝えたくて来ました」
「貴方はそれで良いの?」
立花は由梨の気持ちを汲み取って質問した。
よくはない、よくはないが
このままにして良いのかもわからない。
由梨が困っていると立花が「わかったわ、一度藤岡くんと話してみるわね」と微笑んだ。
由梨から見た立花は凛とした立ち居振る舞いの素敵な大人の女性だった。
帰り道百日紅(さるすべり)の花の咲く駅への道を歩きながら「私は何をしてるのか」と情けなく思う。
そこへ車が追いかけて来てクラクションを鳴らした。
「由梨ちゃん」
「江川さん」
「由梨ちゃんが浴衣で来たって言ったら修造さんが送っていってあげてって」
「すみません」
「僕も久しぶりにパンロンドに行こうっと」
江川は由梨を乗せて、車を東南商店街に向かって走らせた。
「みんな元気にしてる?」
「はい、藤岡さんが杉本さんに難読漢字を沢山教えてました。この間は躑躅って言う難しい漢字を」
「へぇ、会いたいなあ杉本君や藤岡君」「修造さんのお店はどうですか?とてもお客さんが多いですね』
『そうなんだ凄く流行ってる。車で来る人が多いよ。駐車場が広くて便利みたい」
「パン粉ちゃんがいましたね」
「そうなんだ、僕達仲良しになってリーブロを手伝っってくれてるんだ」
「段々パンロンドの人達の知らない生活になっていってるんですね」
「そう、色々あるけど乗り越えて行けると思うよ」
と、そこで車はパンロンドの前に着いた。
「親方ー!」江川が親方のところに飛んで行った。
「お!江川!元気そうで良かった安心したよ」
「はい、少し痩せたけど段々体重が戻って来ました。今はパンの味見し過ぎかな」とお腹をポンポンと叩いた。
由梨は江川の後ろに立っていて、あははと笑うみんなの向こうにいる藤岡と目があった。由梨にアイコンタクトを送っている気がする。
何故江川と帰って来たのか、一人でリーブロに行ったのか、そして立花に会ったのか?そう思っているのではないだろうか。
心の中で藤岡に
『私、立花さんと会って来ました。勝手にごめんなさい』と詫びた。
「江川さん、ここまで送って貰ってありがとうございました。私片付けがあるので帰ります」江川と皆に会釈して花装に戻った。
それを見送った藤岡は「一度立花さんと話をしないといけないな」と呟いた。
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その日の夕方、誰もいない駐車場で修造はヌンチャクの練習をしていた。
もうすぐ試合なのにあまり練習してないので焦る。
それを見て大坂が飛んで走って来た。
「修造さん、俺も昔空手やってたんです」
「そうなの?」
修造達は急に組み手を始めた。
蹴りを肘で受け止めたり、突きを鉄槌で落として防いだりしてるのを見て、パン粉と安芸川は「ケンカ?ではないですよね?楽しそうに見えます。あははって笑ってますよね」「痛そう」「戦ってる」など遠巻きに見ていた。
パン粉が置いてあるヌンチャクを見つけて「これがヌンチャクなの?想像と全然違ってた」と笑いながら江川に言った「愛莉ちゃん、これを使った演武もあるんだよ」
段々みんなが集まって来て「趣味や特技があるって良いわね、楽しそう」と眺めていた。
大坂はウズウズして「俺にもヌンチャク教えて下さい」と申し出た。
リーベンアンドブロートLeben und Brot通称リーブロは生活とパンという意味で、修造がパンと生活は離すことができないとして付けた名前だ。
初めはどうなるかと思ったが、徐々に落ち着きを見せ始めてきた。
こうして修造の人生にとって新しく近しくなった大坂と空手を楽しむ日が来たのが不思議で、そして温かい気持ちになれるものになった。そしてそれはやっと平穏を取り戻しつつある江川の笑顔のおかげでもある。
今自分の周りを取り囲む、ニコニコとしたり、あきれた顔の皆んなに感謝している。
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さて
藤岡は立花にやっと連絡をとった。
二人は仕事終わりに笹目駅の近くのカフェで待ち合わせた。
遅れて来た藤岡はニコッと笑って
「久しぶりですね、ご無沙汰してましたがお元気でしたか?」と挨拶した。
藤岡は相手に対して理想の言葉をつい言ってしまう習慣があった。
「久しぶりね藤岡君。貴方がパン職人になってるなんて知らなかったわ。修造さんの後輩だったのね」
「今はとても良い雰囲気の職場にいます。先輩にも仲間にも恵まれていますよ」
「修造さんのお店も開店当時に比べて落ち着いて来たわ。仕事しやすいわよ」
「修造さんも始め悩んでたので、軌道に乗り始めて良かったですね」
立花はコーヒーカップに砂糖を入れてクルクルかき混ぜていたが手を止めた。
「この間、パンロンドの花嶋さんが突然やって来たわ。こうやってまた藤岡君と会えるのも花嶋さんのおかげね」
「やっぱり、由梨に会ったんですね」
「ええ、多分凄く勇気がいったと思うわ。貴方が私を探してパン屋さんを一軒一軒訪ねていた事も教えてくれた」
「由梨が」
「ええ。なんでも話せる仲なのね」
「そうですね、由梨には何故かなんでも話してしまうんです」
「心が通じあってるのね」
「そうですよ、俺たちみたいにこんな表面上の腹の探り合いみたいな話しなんてしない。こうやってあった以上貴方は俺に本当の事を言わなくちゃいけない。何故俺に連絡先も知らせずに消える様に去ったんですか」急に藤岡は真相の真ん中に向かってハンドルを切った。
「私を恨んでるのね」
「途中そんな時期もありました。でもそれだけじゃない、俺が転職してパン職人になったキッカケは情報を集めて貴方を探しやすいと思ったからです」
「そうなのね」
立花はまたスプーンでクルクル混ぜていたがやがて切り出した。
「あの時は私達とても忙しかったわね、どんどん人が入れ替わる中二人で乗り切ろうとした」
「俺は信頼し切っていた」
そう言いながら別に恨み言を言う為にこんな話ししてるわけではないと思う。
自分はひょっとしてその事を聞く為に探していたのか、会いたいから探していたのなら自分が勝手にやってただけじゃないか。
「すみません」
「言われて当然よ。信頼を踏み躙ったわ。あの時私は医者に療養を勧められていたの。でも気を遣って何も言わなかったから逆に嫌な思いさせたのよね」
それなら寄り添いたかった。そう言いかけたがやめた。
「俺はあなたの事が好きでした。打ち明けるつもりだったその日に辞めると言われた。俺はすんなり手放した事を凄く後悔して探し求めて彷徨った」
ああ
だから直ぐに連絡しなかったんだ。久しぶりに会ったのにその相手を責める様な事を言ってしまう。これなら表面上の会話の方がましだったと、言った矢先に藤岡は後悔した。
一方の立花にもどうしても言えない、言いたくない事がある。
療養ではなく腫瘍を取る為の手術だった。胸の下から10センチほどの傷が残り、初めは赤く腫れていた。それがとてもコンプレックスだったが、最近になって傷の周りの凹凸もなくなり薄くなってきた。
「時間が必要だったの」
「療養の為ですか?パン屋さんにはいつから勤めてたんですか?」
「一年前よ。その後修造さんのお店に来たの。江川君が面接してくれたわ」
「そうだったんですね、長い事会わないうちに俺にもいろんな事がありました」
そう言いながら由梨の顔が浮かぶ。
俺と由梨は出会うべくして出会ったのかもしれない。
俺があの橋を歩いていたのも
泣いてる由梨を見つけたのも。
俺は彼女を傷つける奴が許せなかったんだ。
なんとか彼女を守らなくちゃ
困難な様に見えたけどあいつはあっさり手をついて謝った。
それ以降いつも俺のそばにいて
もう俺と由梨の間には絆ができている。
「あの子、河に飛び込もうか迷って泣いていたんです。悪いやつに根拠のない噂をばら撒かれて傷ついていた」
「あの時の俺は由梨を取り囲む様々な問題から俺が守らなくちゃと思った。そして由梨は俺の後を追ってきたんです。今は俺が守って貰ってる。そんな気がします」
「そうなのね」
聞いている立花の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。
「私達は長い事合わなかった間にお互いに色々な事があったのよね」
「そうですね。俺、パン屋さんを沢山見たので勉強になりました。まだまだ続けて行こうと思います。立花さんも元気で、良い職人さんを目指して下さい。修造さんがオーナーの店ってちょっと羨ましいけど、パンロンドの親方もいい人なんでこれからも頑張れそうです」
そのあと暫く二人はお互いの顔を見つめあっていたが「元気で」藤岡はそう言って立ち上がった。
店から出て行った藤岡を見送り、一人座ったままで残りのコーヒーを飲みながらさっきの涙が溢れてくる。
それを店の外から覗き込んだり引っ込んだりする大坂の姿があった。
仕事の帰りに駅の近くで食事をして帰ろうと思って店内を覗いたら二人がいたという訳だった。
うわ
俺見ちゃった
立花さんが泣いてるとこ。
どうしよう。
なんだよあの超絶イケメンは。
何を話してたんだろう。
お似合いだったのに、超絶イケメンが帰って急に泣き出したじゃないか。
どうする?
声をかけるか、いやいやかけない方が良いのか。
なんで俺がドキドキしてるんだ。
そう思ってると立花が出てきた。
「あ」
「こ、こんばんは」
「こんばんは」見られたくない所を見られた感じで立花は足早に立ち去ろうとした。
今は人と話したい気分ではない。
「送って行きますよ」大坂が付いてくる。
「一人で帰れます」
「だって」
立花は大坂を無視して歩き出した。
だって心配なんですよ。
こんな時しっかりしてる先輩が儚くて頼りなげだとか言ったら『私の事バカにしてるの?』なんて言われるのかな?
「家は近いんですか?」
大坂は遠くから声をかけた。
立花はちょっと後ろを振り向いてまた前を向いた。
繁華街から住宅街に入る。
「あまり長い事後ろから付いて行ったらストーカーみたいだなと思ってはいます」
「そんな風には思ってないわよ」
「そりゃ良かった」
「私は大丈夫よ、大坂君」
「大丈夫は大丈夫じゃないサインじゃない?」
「そうね、私は嘘つきで本当の事を言わなかったばかりに今こうして一人で歩いてるの」
「さっきの超絶イケメンの事ですか?」
大坂は早く歩いて横に並んだ。
「私は自分の好きな人に心を許してなかった。だから最後にあんな表面上の挨拶をされたのよ」
涙が追いついて来たかの様に頬を伝った。
自分を納得させる為に言ってるんだと大坂には感じた。
傷ついてるんだな。
大人になる程複雑で素直になれない事ばかりだ。
何か言いたいが大坂の恋愛能力ではこれが限界だ。
二人はしばらく黙って歩いた。
8時頃か
開いている家の窓からテレビの音が聞こえた。
昼間は暑かったが、夜になり涼しい風が吹いて立花の前髪を揺らす。
まつ毛を潤す涙も少し乾いてくる。
街灯のオレンジ色の灯りが二人の影を作る。
「馬鹿なもうすぐ私の住んでるマンションなの。ここ、江川さんのマンションの近くなのよ。時々パン粉ちゃんも来てるみたい」
「へぇ、二人は付き合ってるんですか?」
「さあ、そこまで立ち入った質問をした事ないわ。男と女が一緒に歩いたからって別に付き合ってる訳じゃないんだし」
そう言って立花は数歩離れた。
「おやすみ大坂君」
「あ、はい。おやすみなさい。また明日」
立花は頷いて角を曲がって行った。
流石にマンションまで追いかけるのは気が引ける。
「ところでここどこなんだ。俺は地図アプリ見るのが苦手なんだよ」
スマホを見て駅の方に歩いてるのに駅から遠ざかる。
ーーーー
次の日のパンロンドでの作業中
「ねぇ大坂君」
「なんですか江川さん」
「昨日ベランダで洗濯物を干してたらね、スマホを見ながらウロウロしてる大坂君みたいな人がいたんだ」
「え」
それを聞いていた作業中の立花は大坂を見た。
あの後道に迷ったとは言いにくい。
「ちょっと散歩していまして」
「散歩には見えなかったな、必死な感じだったよね。ねぇ何してたの?」
立花の視線と江川の追求を避ける為に「あっもうパンが焼けますので」と丁度ブザーの鳴り出したオーブンの所に飛んで行った。
その夜
修造は大坂にヌンチャクを二つ持ってきて渡した。
二人駐車場で稽古をする。
「猫足立ちでヌンチャクの構えをこう持つと敵は次に上から攻撃してくるか下から攻撃してくるかわからない」
「こうですか」
「そうそう」
手取り足取り教えてもらいながら聞いた。
「あの、修造さん」
「ん?」
「リーブロって社内恋愛禁止なんですか?」と聞いたが、別にまだ『恋愛』にもなっていないのにこんな質問自体厚かましい。
修造はニタっと笑った。
「社内恋愛?フフフフフフ」
修造は勿論そんな事は言えた義理ではない。
18の頃、パンロンドで初めて自分の横を通った瞬間から律子しか見ていなかったので。
「勧めはしないけど控えめにね、ぐらいしか言えないな。誰かと付き合ってるの?」
「いえ全然、森田が言うには厳しい店もあるらしくて」
「確かに周りの人は気を使う事もあるかもね」
「そうですよね」
「俺もそうだったな、律子に一目惚れしたんだ。いいよ結婚は、二つ年上の賢い妻、可愛い子供」聞きもしてないのに急に修造は惚気出した。
「そうだ大坂、俺とうとう今度の祝日娘と試合に出るんだ。序盤でヌンチャク演武、それと個人の型に出る。休んでごめんね」
「いえ、頑張って下さい」
ーーーー
空手の試合がある日は火曜日だった。
試合には田所家とパンロンドが休みなので由梨達四人組が応援に来ていた。
「頑張って〜緑、修造ーっ」大地を抱っこして律子は応援を続けていた。
「修造さーんファイトーっ」
杉本と風花、由梨も声を張り上げた。
藤岡は黙ったままみんなの様子を動画に撮っていた。
皆2階席から1階の会場を見ている。
その直ぐ後ろで黒い帽子を目深に被った女がひっそりと試合の様子をじっと見ていた。
いや、詳しくはオペラグラスで修造だけを見ていた。
そんな事は全く知らない修造と緑は試合で勝ち進み、次が親子演武の決勝戦だった。
「次の親子は息がピッタリ手強そうだな」修造が向かいのコーナーで試合開始の合図を待っている親子を観察した。修造親子と同じ年頃だ。勝ち上がって来るだけあって動きも正確で所作が決まってる。「お父さん、私、足が震えそう。緊張してきちゃった」
流石に決勝戦ともなるとピリッとする。
修造はしゃがんで緑の目線で話した。
「緑、自分を信じて、今まで練習してきた1番の動きを思い出せば良いよ。それを心の中に留めておいて身体をいつもの様に動かせば大丈夫。一緒に楽しもう。お父さんは緑と空手ができて嬉しいよ」
「うん、お父さん」
二人はうふふと笑い合った。
「そうだ、勝つおまじないを教えてあげよう。名前を呼ばれたら背筋を伸ばして片手をまっすぐ上げて大きな声で返事するんだ。そうするとその勢いで綺麗な動きができるからね」
すると自分達の名前が呼ばれた。
二人は同時に手を高く上げて大きな声で「はい」と言って審判の前に立った。
父親として、テンポが狂わない様緑をリードして、同じ動きでヌンチャク演武を終えた。
15時頃
全ての試合が終わり、大会の成績発表が行われた。
小さい子供達から順に優勝、準優勝などのカップや盾が配られる。
緑と修造も親子ヌンチャクの試合で優勝して大きなカップとメダルを貰った。
応援団から盛大な拍手が送られた。
「大地、オトータンは個人型でも優勝したのよ。凄いね〜」
律子は一階から手を振る二人に手を振りかえした。
大地が眠ってしまったので、田所家四人は車で先に帰る事になった。
「みんな今日は応援ありがとう」
「修造さんカッコよかったっす」
「気をつけて帰って下さい」
修造を見送り四人は帰り道を歩き出したが、風花が気を使って言った「ねぇ龍樹、私達だけで買い物に行かない?」
「え?何を買うの?」
「それは後で考えるからぁ、じゃあ由梨ちゃん達、またお店でね」
風花は由梨達に手を振って、杉本を引っ張って駅に向かった。
由梨は何度も気を遣ってくれる風花に心の中で感謝の手を合わせ、二人を見送ってから藤岡と歩き出した。
二人ともしばらく話さずに黙って歩いていたが、由梨が「あの、私勝手に立花さんに会いに行ってすみませんでした」と切り出した。
「うん、その後こちらからリーブロに連絡して会って来たよ。話してる間に自分の気持ちを確かめられたかな」
「え」
それは立花への気持ちを確認したのか。
それともどっちの意味なのか。
「あの、以前」
「うん」
「自分が辛かった事や今の自分の気持ちもちゃんと言えるよ」って藤岡さんは私に言ってくれました。もし辛かったらそう言って欲しい。気持ちをちゃんと言ってください。どんな言葉でも良い。真実が知りたいです」
「俺の実家の庭には満天星躑躅(どうだんつつじ)があるんだ」
「どうだんつつじ?」
突然花の話をし始めた藤岡の表情をじっと見ていた。
「そう、初夏に白い花が沢山咲き誇って揺れているが、秋になると葉が燃え盛る様に真っ赤になる」
由梨は満点星躑躅の様だ。たおやかに揺れていると思えば情熱的な一面もある。
「この木が好きでね、『私の思いを受けて』と言う花言葉もある。秋になると真っ赤になるから満点星紅葉(どうだんもみじ)とも呼ばれている」
そう言ったあと、由梨を見て微笑んだ。
「由梨ありがとう。心配かけたけど、もう終わった事だったんだ。探し求めていた人に会うのが怖かった。そして立花さんに結果的に嫌な思いをさせてしまった」
だけどその後、心の中にできていた固い砂の塊が時間が経つにつれて段々パラパラと解れて無くなっていった。
あれ以降
俺の中で
何かが変わった
新しい俺に
小麦と水が出会って自己融解を起こす。
由梨と俺の心が溶け合って
「由梨、俺は行きたいパン屋さんがあるんだ。久しぶりに動画を撮りに行くよ。内容も少しリニューアルしようと思ってる。前よりパンの事を詳しく説明したりしょうかな」
「はい」
「リーベンアンドブロートと少し雰囲気が似ててね。テラスがあってそこから湖が見えるんだ。確かそこにもあったんだよ満天星躑躅が。見せてあげたいけど今は丁度葉が青々してるだけだな」藤岡は笑って言った。
「私も行きます」
「遠いよ少し」
「大丈夫です」
「わかった。じゃあ朝から行こうか」
「はい」
ーーーー
早朝
一車両だけの電車は長閑な風景の中を走っていく。車内には二人と、後は何人かの乗客だけだった。
時々二人で何か話して
また沈黙になるけれど
心が通い合っている気がする。
駅から動画を撮って歩きながら
道標や景色を撮る。
湖が見えて来た。
その向こうにパン屋がある。
「素敵」
「雰囲気良いよね湖のほとりのパン屋」
いつもの様に表から外観を撮った後、許可を取ってから買ったパンをテラスで藤岡が撮影して、由梨はパンの角度や暗い時はライトを当てたり光彩を考えたりした。
撮影が終わった後、テラスから綺麗な水面が見える。キラキラと輝く水面をベンチに座って2人で見ていた。
「見飽きないですね、湖に空や向こうの景色が映ってる」
「由梨」
「はい」
「あれが満点星躑躅なんだ」指差した先を見た。
由梨は近くに寄って見てみた。
以前藤岡の言った通り、この季節には青々と葉が茂っている。
これがそうだと言われないと分からない。
「この葉が秋になると真っ赤になるんだよ。そして初夏には小さな可愛い花が沢山咲くんだ」
由梨が葉の先が少し赤くなっていている、もうすぐ秋なんだわと近寄った時、足元の段差で体が傾いた。
「危ない」
藤岡は由梨の手を取って体勢を整え手を繋いだまま歩き出した。
由梨は驚いたが、藤岡に手を引かれて、そのまま二人で歩き出した。
湖面は静かで鴨が数羽泳いでいる。
二人は暫くそれを見ながら、日差しを避けて木陰に移動した。
「俺には本当に大切なものができたんだ。いつかオートリーズについて説明したね」
「はい。水と小麦が出会って初めてグルテンができる話」
「小麦粉に水を加えると、グルテニンとグリアジンが絡み合ってグルテンができる」
「当たり前の事の様だけど、お互いが必要な素敵な出来事です」
藤岡は急に笑い出した。
その笑顔は最近の苦虫を噛み潰したような表情とは違い、すっきりとしている。
「ごめん、何の話をしてるんだ俺は。俺には由梨が必要だって言いたかったんだよ」
「え」
「俺は由梨が好きなんだ」
藤岡は由梨の肩に手を置いて顔を覗き込んだ。その瞳の中には迷いが消えている様に見える。
私はいつの間にか静かに愛されていたんだわ。
由梨は微笑んでまた二人で歩き出した。
愛したいとか愛されたいとか古いですか?
二人で一緒にいるのなら
お互いに守ったり守られたりしたい。
一緒に歩きたい。
大切な人と一緒に。
満点星揺れて おわり
パン屋日和に続きます。