東日本大震災から1年と8ヶ月経ちました。
テレビで見た津波の映像の驚きは今も忘れません。
地震当時私はよくテレビやツイッターをチェックしていました。
そんな時パンラボの池田浩明さんというライターの人が、パンを通じて被災地に支援しているのを知り、
何か協力できるかDMを送ったのです。
うちのお店は大阪にありしかも小さな店ですので、池田さんは考えて60人の方が避難している陸前高田の米崎町にある自然休養村を紹介して頂きました。
1番初めにミニパンセットを60人分送らせてもらったのですが、その日は自然休養村の避難してらっしゃる方が仮設に移るので、ここでのみんなで過ごす夜は今日が最後だねという夜にパンが丁度のタイミングで届き、会にちょっとした花を添えることが出来たのでした。
そのすぐ後、避難所の方からお手紙を頂き、その手紙には震災時の必死の思いで逃げた様子、その後親戚に身を寄せた遠慮の気持ち、これからへの不安が切々と書いてありました。
もう1通は、休養村の避難所の代表の菊池さんという女性からのお手紙で、現状について色々と教えて下さいました。それから何回かパンや手紙のやり取りがあり、東海新報という新聞にグロワールの事を紹介して下さったこともありました。
私は菊池さんという女性の温厚なお人柄に親愛の情を抱いていて、遠いからとか仕事があるとかで1度も行かないのは不義理だと思い、よく地図を調べたり時刻表を調べたりしていました。
そのうち池田さんからお電話があり、「東北のパンのイベントがあります」というお話だったので、店長の許可を取って東北行きの新幹線に乗ったのです。
大阪から東京へ3時間、東京から一関まで2時間半、そこから気仙沼まで1時間半かかりました。
駅では菊池さんのお兄様と旦那様が迎えに来てくださいました。
気仙沼から米崎までの道のりで初めて見たのは津波に打ち上げられた船でした。
その時はまだ気が付きませんでしたが、草原だと思っていたところは、全て津波の被害に合われた家々の瓦礫が全て撤去された後だったのです。
私は陸前高田に4件しかないという民宿のひとつ、むさしに案内して頂きました。
何故4件しかないというと、海際のホテルなどの宿泊施設は流されてしまったからで、 むさしも8月まで避難所に使われていたそうです。
むさしは外観は普通の民家ですが、玄関や居間の囲炉裏や調度は小奇麗で品がよく、どれも埃などかかっていなく部屋も掃除が行き届いていて、お風呂も綺麗なお湯がたっぷりと張ってありました。
民宿の人も凄くいい人そうなお父さんとお母さんと娘さんという感じでした。
6時にお迎えに来て頂き、米崎町の菊池さんのお宅に向かいました。
道々菊池さんのお兄様のお宅や工場が津波にのまれたお話、逃げる時のお話、元はここにどんなお店や家があった、誰が住んでいたというお話を聞きました。
もうあたりは真っ暗で遠くは見えなかったのですが、そこには確かに元家の土台があちこちにあり、それが車のライトにうつし出される風景が延々と続いていました。
車を降りた時、降るような星空でした。大阪では絶対見えない満天の星空が広がっていました。
「ネオンが無くなったからね」
というお兄様の言葉で初めてそうなんだと気づきました。
そこでは早くお会いしたかった菊池さんが待っていてくださいました。
手を握り合い言葉を交わせてとても嬉しかった。
菊池さんのお宅ではたいそう歓迎して頂き20人程の大人の方が集まって下さっていました。
可愛らしいお孫さんもいて、わきあいあいとした雰囲気でした。
1月にお世話になったりんご農家の和野果樹園のご夫婦と初めてお話させて頂きました。
その後は女性会の方とお話できたのですが、その中に以前お手紙を下さった方がいらっしゃってお話をさせて貰えました。
高齢のお母様の手を引っ張って命からがら高台へ逃げ助かったが、お家は流されてしまい、お母様も親戚のお家で遠慮をしながら過ごしていたので、早く仮設に入りたいと願っていたけど、先日お宅を新築なさって
親孝行が出来たとおっしゃっていました。
仮設に入られてからは皆中々集まれなかったけど、久しぶりにみんなで集まって話が弾んでおられましたが、やはり瓦礫の中から写真が返ってきたけど見覚えの無いものもあるというお話や、服屋さんが無くてあっても種類が選べないお話、何々は津波に持っていかれたというお話など津波のお話が多く、日常なんだなぁと思いました。
女性同士で集まりお話をしていたのですが、その中に鈴木建具店の奥さんがいらっしゃいました。
奥さんもお店も工場も全てを津波で無くした方のお1人で、3.11の地震の後、家から出てみると向こうの方に津波が見えたので、車に乗って急いで逃げてると3人の走って逃げる人がいたので車の横の扉を自動で開けて乗って貰い、急いで逃げて助かったそうです。
その後は宮城にある工場の一角を間借りしてお仕事をされ、冬はストーブ1台で本当に寒い中震えながら仕事されたのですが、機械が流されたので中古の機械を手に入れたのですが、今までの仕事の5分の1の能力しかなく、それでも1日も休まず仕事されたかいあって家と工場を新築されて今はお孫さんと暮らしてるそうです。
地震当時、陸前高田の総人口は約24000人、現在の生存確認数が約22000人。
今ここに集まっているのは当然助かった方だけが集まっているわけですし、運よくすぐ逃げれる条件の場所に居た方、渋滞に巻き込まれず車で逃げれた、そばに高台があって必死で登ったら助かった方がほとんどです。
しかし仮設に入っている訳ですから家も工場も車も店も流されてしまい、何もかも無くなった、それなのに私に微笑みかけて優しい言葉をかけて下さる。
徐々に言葉少なになった私を見てか、菊池さんが民宿まで送って下さいました。
むさしに帰ってからも、建具屋さんのお話がずっと耳に残っていました。
次の日は朝食の時土建屋の人達が沢山朝早く発って行ったのですが、その人達は解体作業の為に来た埼玉の土建屋さんだそうで。長期で泊まって作業をしているそうです。
(民宿むさしさんの玄関の調度品)
私は朝食後待ち合わせの時間までむさしの下の道を降りて見に行きましたが
途中から取り壊された土台だけの所が多くなっていきました。
海のほうではブルドーザーがもう動いていました、
さっきの人達かもしれません。建設中の家もありました。
戻ると菊池さんがお迎えに来てくださっていて、むさしを後にしました。
昨日は夜で暗かったのでわかりませんでしたが
高田に近づくにつれ町は段々被害の範囲が広大になっていきました。
陸前高田の町は海際の平地のところはことごとく津波が襲い
土を盛って家の土台を嵩上げしてる所やギリギリ小高い田畑や家までは
全てがもうすでに瓦礫が取り去ってあって後には野原の様に雑草に覆われていました。
車は川に沿って走り、気仙沼中学の横を通りました。
4階まで津波が学校の中を通り裏側には波が運んで来た様々な物が突き出ていました。
その先には小学校があり、体育館は車が流れついて燃え真っ黒になっていました。
川沿いに虹のライブラリーという仮設の図書館がありました。
そこは川から見て小高いところにあり、私は下からその建物を撮りました。
足元に食器のかけらが集めてあり真ん中には何故だか陸前高田の文字の入った食器のかけらがあり、 それが全ての象徴の様にも思えました。
川沿いは延々と被害が続いていて、ここら辺は床下浸水という地域に差し掛かり、もう海とは全然関係のない山間部でしたが、川が強い波を運んで来た爪あとがあちこちに残っていました。
山道を少し入った所に八木澤商店の新店舗がありました。
八木澤商店は文化4年創業(創業約200年)の老舗で醤油、味噌、たれ、つゆ等を扱っていて、津波で店と工場が流されてしまいましたが、一関に工場が新しくでき、店も最近できたそうです。
新しいお店は雰囲気もよく和やかで、もし旅先でこんなお店に入ったらきっとお土産を沢山買ってしまうんだろうなと思わせるような素敵なお店でした。
こちらの醤油や味噌を頂いて食べた事がありますが、味噌はほんとに自然な深みのある優しい味で、醤油はどこを捜しても嫌味のない澄んだ味がして料理に使うととてもいい味を出してくれる商品でした。
私達は八木澤商店を後にしてもう一度陸前高田の中心地に戻りました。
また再び川沿いに被害が続き、それは海に向かって広くひろがっていました。
part1終わり part2へ続く