パンと愛のお話 江川と修造シリーズ
短編小説 ペンショングロゼイユ
このお話は「パン職人修造の第6部再び世界大会へ 前編」の、世界大会に出場する選手の江川拓也とそのコーチの田所修造の2人が大会の10ヶ月前に、出典作品のテーマである「祭」の芸術作品の案を考える為に、東北まで祭りを見に行った帰りの束の間の出来事です。
江川と修造は2人で東北と江川の店Leben und Brotとの通過地点にあるペンショングロゼイユ(赤スグリ)に泊まっていた。
ペンションは山間にあり静かな所で、洋館風の建物は古めかしいが雰囲気がとても良い。
周囲には花や果実のなった木もあり、手入れが行き届いていて眺めが癒される。
修造は昨晩、秋に出場するパンの世界大会の「パンで作る芸術作品」の原案を色々考えて眠れない夜を過ごした。
「おはようございます修造さん、大丈夫ですか?あんまり眠れませんでしたか?」
「うん」
無口な修造はあまり自分から話さないので、何か聞き出すのは容易ではなかったが、長い付き合いの修造の事なので江川は雰囲気で察するのが上手かった。
朝食の時間になり2人は1階の食堂へ移動した。自分達の他には客は夫婦らしいペアが2組しかいない。
江川はキョロキョロして、客室は8部屋中宿泊客は3組か。近所で有名な祭りをやっている時期なので宿泊客の多い時期のはずなのに。。と思っていた。
江川が運ばれてきた朝食を食べて驚いた。
うわ、目玉焼き焼き過ぎ、なんかありきたりなメニューだし、この丸パン、すごいイースト臭がする。寝坊したから間に合わせる為にイースト多めにしたのかな?それともわかってなくてやってるんだろうか?
修造さん、全然食べてないし。
江川はどんな人が作ってるのか厨房を見たその時。
「もうあなたとはやってられないわよ!」と怒鳴り声が聞こえた。
そして長い髪を後ろで束ねた細い背の高い女性がエプロンを外しながら厨房から出てきてそのまま外へ出て行った。
「うわ、喧嘩でしょうか?怒鳴ったのは今の厨房から出てきた女の人っぽいですね。」
様子を見ていた修造が立ち上がって、厨房に1人で立っている男の人に言った。「おい!早く追いかけて行け!何があったか知らないが謝ってこい!」
急に身長が180センチある、体格のいい修造に声をかけられ、驚いた男は慌てて出て行った。
「あの、あと2組が朝食を待ってますがどうしましょう?」
「え?」
見ると他の客はまだ何も食べてない様だった。
「あの調子じゃ2人ともいつ帰ってくるか分からないですよね~。」
江川が修造に促す様に言った。
「仕方ないな。」
修造は厨房に入ってさっきのメニューは無視してあるもので調理し出した。
食パンにハムと玉ねぎと粒マスタードを挟んだ砂糖抜きのフレンチトーストを焼いた後にチーズを乗せて、同じお皿に野菜、果物を美しく盛りつけた。
デザートはローテグリュッツェ(ベリーのフルーツソース)を作り、アイスに添えてコーヒーと出した。
2組の客は「うーん美味しい!」と感激して食べていたので、「修造さん僕もあれが良かったです。」と悔しがっていたら、さっきの男性が追いかけた女性と戻ってきた。
「先程はお騒がせしました。僕たち夫婦は2人でこのペンションを営んでいます。僕は初田紀夫、こちらは妻の美和子です。」
「お料理をして下さったんですか?」
紀夫は他の客のお皿を見て言った。
皿の上の料理はよほど美味しかったのか、何が乗っていたのかわからないぐらい綺麗に食べられていた。
江川は「いつ戻ってくるか分からなかったから調理場に入らせて貰いましたよ。」と、説明と言うか調理場に勝手に入った言い訳をした。
「すみません、ありがとうございました。コーヒーお出ししますのでおかけ下さい。」と美和子が頭を下げた。
そして4人で座って紀夫と美和子から話を聞いた。
修造が黙ったまま座っているので、江川が切り出した。「さっきのは仲直りしましたか?夫婦喧嘩は犬も食わぬって言いますものね。僕たちが口出す事じゃ無いですし〜。」
「私はこのペンションが心から好きで、建物の手入れも庭の草花の世話も手間を惜しみませんが、この人は本当にやる気が無いんです。初めは楽しそうに仕事してたのに、最近の手を抜いた朝食を見てると腹が立ってきて、、それで怒鳴ってしまったんです。全て1人でやるのは大変なので主人ももう少しやる気を出してほしくて。」
江川は「あの〜、僕からは言いにくいですが、あまり美味しい朝食では無かったですよ。愛がないと言うか、やっつけ仕事と言うか。」と言った。
「何でやる気が出ないんですか。」修造が聞いた。
「僕は料理があまり得意で無いんです。簡単なやり方ならできるかと思って。それで7日分の料理を曜日ごとに出していて、その方が楽なので。」
楽と聞いて修造の顔色が変わったのを江川は見逃さなかった。
「仕事に楽したいとかないだろ。食べる人の顔を思い浮かべてみろ、それが自分の作ったものでできた笑顔ならお前も嬉しいんじゃないのか。」
「そうなんですが、、」
修造はこの男の意識から変えないと成り立たない話だと思った。
「数ある店の中からこのペンションを選んで来て貰ったお客さんに感謝の気持ちはないのか。」
そして紀夫を厨房に連れて行った。
美和子が心配そうに見てるので、
江川は「大丈夫ですよ。あの人はドイツでパンの修行をして来たパンマイスターなんです。何が考えがあるんじゃ無いですか?」
「美和子さんは何故ご主人と結婚されたんですか?」
「私達は同じ会社で働いていて、同じ年に入社した同期なんです。付き合いだして将来は2人で何かやりたいねって言ってて、このペンションが売りに出されてたので相談して引き継ぐ事にしたんです。以前のここのご主人はこの方です。」
美和子はファイルを取り出した。
ファイルには書類と写真が挟んであって、写真には赤い実の沢山なった背が低い木の前に60歳ぐらいの夫婦が立っていた。
「この夫婦が以前のオーナーです。このペンションの名前は以前は『ディ パンジオン ローテヨハネスレーベン』(ドイツ語でペンション赤スグリ)と言ったんですが、私たちの代になった時、ペンショングロゼイユに変えたんです。赤いスグリの事をグロゼイユともいうので。ペンションの前に何本か赤スグリがあって季節には小さな実が沢山できて真っ赤になるんです。この庭が気に入ってここを引き継ぐ事にしたんです。前のオーナーは奥様を亡くされてからがっくりきてペンションを売りに出されたんですって。」
江川は「そうなんですね、今厨房にいる修造さんも奥様を亡くされて、それはそれは気落ちされていました。大切なものを無くすと辛いですね。」
「江川さんはご結婚はまだ?」
「はい、まだなんです。」
修造さんと亡くなった律子さんは僕の理想の夫婦だったんだ。
生活とパンと言う意味のパン屋Leben und Brot(リーベンアンドブロート)を修造さんが立ち上げた時、いつも2人の心が通い合ってたのを見ていて羨ましかった。
誰かと付き合ってるうちにあんな風になるのかと思ってたけど。。未だにそんな人と巡り会えてない。
2人は僕の理想だったとすると僕は理想が高すぎるって事になるな。
あんな目を見ただけで分かり合える仲なんて中々無いよ。僕もあんな風になりたい。
一方厨房では、修造は紀夫からまず興味を引き出さないとと考えていた。
しかしやる気のないやつから興味ってどうやったら引き出せるんだ。。
そうだ今日のパンの工程から見てみるか。
そして紀夫に「今日のパン作りの手順から教えて下さい。正直にね。」と言った。
紀夫は紙に今日のパンの配合と工程を時系列で書いた。
紀夫の文字は、まるで揺れた所で書いた様なガタガタの読み辛い字だった。
「発酵時間が短いな。それを補う為かイーストを増やして、高温のホイロで無理矢理発酵させたな。」
「はい、その通りです。」紀夫は正直に言った。
「作り始める時間が短くて無理矢理やった感じです。」
「手抜き、楽、それってその時は良くても続けると信用を失うよ。他人の信用って中々得られないじゃないですか。」
「はい、それもその通りです。」
紀夫の言い方は開き直ってる様にも聞こえた。
修造は前日に生地を作ってじっくり冷蔵庫で発酵させるレシピを書いて貼ったものの、これって実際にやってみないとなあ。でも明日は金曜日で麻弥の店の日だから今日中に帰らないと、、
「俺は今、そこに座ってる江川の店に在籍してるんですが、今度来て実際にこのやり方をやってみませんか?」とレシピを指差しながら聞いた。「パン屋さんなんですか?行けたら行きます。」紀夫は曖昧な返事をした。
「行けたら?今本気でやらないと、さっきみたいに愛想つかして奥さんが去って行ったらどうするんですか。このペンションも奥さんも失って初めて気がつく事になるんじゃないですか?」
「料理もパンも手間暇かけないと美味しいものは作れないんだ。」
料理はどうなんだ、さっきこいつ料理が得意じゃないとか言ってたな。
そういえば冷蔵庫は出来合いのものばかりだったな。
「紀夫さん、あんたこのままでいいんですか?本当はこの仕事やりたかなかったんですか?」
「ずっと妻と2人で一緒にペンション経営をしていたかったです。」
「していたかった?」
紀夫は近くにあった包丁を持って修造に見せた。
右手の付け根から伝わって。刃先が微かだが小刻みに震えている。
「ずっとじゃないんですが段々ひどくなってきて。身体を動かすと手が震えるんです。」
「奥さんは知ってるんですか?」
「いえ、言ってません。」
「医者は本態性振戦(ほんたいせいしんせん)と言ってます。」
「初めて聞きましたが、、?」
「手、首、腕など人によって症状は様々なんですが、震えが出るんです。最近薬を飲み始めた所です。酷くなると手術になるそうですが怖くて。」
「そうだったんですね、知らなかったとは言えキツめに言っちゃってすみません。」
紀夫は修造を見た目はいかついのに心の優しい人だと思った。
「俺の亡くなった妻も初めは気にもしてなかった。何ともないって言ってたんです。どんどん悪化してそれが原因で亡くなった。止めようと思っても弱って、、細くなって、、もっと気をつけていれば良かったと後悔しかない。」
「大切なものは守らないといけないですよ。」
修造は江川を外に呼び出して事情を話した。
「え?手が震える?実際どうするんですかね?奥さんが作って旦那さんがサポートするとかが良いんじゃないですか?それか療養の為に旦那さんは休んで誰かを雇うとか?」
「そうだなあ。そうなっていくかもな。」2人が話してると1人のおじさんが庭を見て回っていた。絡まった蔦(つた)を取ったり雑草を抜いたりしている。
江川はそのおじさんを見て気が付いた。
「あ!あなたは前のオーナーさんですよね?僕さっき写真見たばかりです。」
「ここのお客さんですか?そうなんですよ。ついつい気になってしまって、時々庭の手入れをしています。」
「修造さん、こちらは以前ここのオーナーだったんですが、奥さんを亡くされてからここを売りに出されたそうなんです。」
「神田清と言います。」
「僕は江川拓也、こちらは田所修造さんです。僕たち2人ともパン職人なんですよ。」
「パン職人。。私もここでよくパンを焼いたもんです。懐かしいなぁ。妻と2人で食事の用意やお客さんのお世話をしていました。妻はこの赤すぐりの木を気に入ってましてね。夏頃になると赤い実が一面に広がっていました。」
「神田さんは今はもうお仕事はされてないんですか?」
「そうですね、思い出と共に生きてるようなものです。仕事をしてませんので結構暇ができて、たまにここに来ています。」
「ここの料理やパンは何がお勧めだったんですか?」
「若い頃ドイツに少しだけ修行に行っていて、その時に覚えたものを出してました。」
「ここで立ち話も何ですから中で話しましょう。」神田を建物の中に入れて座らせた。
「俺と神田さんは境遇が似ています。」修造は神田にシンパシィを感じていた。
江川が「修造さんも以前ドイツで修行されてたんですよ。奥さんが亡くなられて今はお店はやっておられませんが。」と言った。
聞いてるうちに修造は段々落ち込んできた。律子の事を思い出す言葉が多いせいだ。
表情を曇らせて窓の外を見出したので、内心余計な事を言ったと思いながらも江川は「以前はどんなパンや料理が人気だったんですか?」と神田に聞いた。
「ブロートヒェン(小型パン)やブレッツェル、カイザーゼンメルは人気でした。ミッシュブロートをサンドイッチにして出したりしてました。料理はグラーシュ(トマトベースの肉料理)、シュニッツェル(トンカツ)が人気でした。」
「うわ!うまそうだなあ〜」
修造が向き直って「地元のものは何か使ってましたか?」と聞いた。
「はい、この辺はりんご農家が多いので季節には使っていました。アプフェルシュトウルーデル(りんごのお菓子)やフェアサンケナーアプフェルクーヘン(沈んだりんごのお菓子)を食後に出してましたね。」
掃除をしながら聞いていた美和子が「凄い!うちもそんな料理やデザートが出せたらもっと賑わうと思います。」
修造たちは紀夫を見た。
江川は(紀夫さん奥さんに病気の事言わないのかなあ〜。僕から言うのはお節介がすぎるし、、)と思った。
紀夫は黙って立っている。
「俺はりんご農家が見たいんですが、案内して貰えませんか?紀夫さんも行きましょう。」
紀夫は修造を見た。
何かまだ言いたい事があるんだろうか?
自分だってこのままではいけないのはわかってるんですよ修造さん。
「わかりました。行きます。」
修造、江川、神田、紀夫の4人は近くにあるりんご農家を訪れた。
「僕、りんご農家来たの初めてです修造さん。」
「俺もだよ。南にはない空気感だなあ。」
温度が低い冬場のせいもあって、空気は冷たく、澄んだりんごの木の香りが肺に入って来て心地よい。
修造と江川が始めてみたりんご農家のリンゴは、絵や写真で見るりんごの木のイメージとは違っていた。りんごの木一本一本はそんなに大きくなく、脚立に乗れば上まで手が届くように手入れされていて、わい下(わいか)と言って枝が下を向いていて、実が沢山なって収穫しやすい形になっている。そんなりんごの木が綺麗に整列した景色が広がっている。
神田の紹介してくれたりんごの農家の澤口さんが説明した。「今は紅玉の季節は終わっていてここになってるのはジョナなんです。甘味や食感が人気ですよ。紅玉とゴールデンデリシャスを交配して作られたものなんです。」
澤口さんが懐かしそうに言った。「神田さんのりんごのケーキ、また食べてみたいです。ケーキ屋さんとかしないんですか?」
「もう新しく開業する元気はないですよ。妻もいないし。作ってみたい気持ちはありますが。」
修造はジョナを指して「神田さんこれ、ペンションで何か作って貰えませんか?良いですか?紀夫さん」と言った。
「はい、勿論。」2人が同時に返事をした。
農家のおじさんにりんごを少し分けて貰い、近所のケーキ屋に立ち寄りアーモンドの粉末を譲って貰った。
修造達はペンションに戻り、修造と紀夫、神田が厨房に入った。
入りきれなかった江川は美和子と席に座ってりんご畑でのいきさつを説明した。
「今から神田さんが美味しいものを作ってくれるそうですよ。」
「そうなんですか。」
「美和子さんはご主人に変わって欲しいですか?以前はどうだったんですか?」
「そうですね、初めはもっとやる気だけはありました。さっき主人も言ってましたが、やり方がわからないのかもしれません。どなたか教えて下さればと思って料理教室に行ってくれるように頼んだんですが、行かないって、、」
「あ〜、、あの〜奥さんその事なんですが。。旦那さんは病気だそうですよ。さっき修造さんから聞きました。手が震えるそうなんですが気がついてませんでしたか?」
「え?そういえば最近良く物を落とします。それに朝起きるのも辛そうでした。でも全然知りませんでした。何故教えてくれなかったのかしら。」
江川は修造に聞いた事を美和子に伝えた。
「心配かけたくなかったのかもしれませんね〜」
「それであんなに変わってしまったんだわ。何にも興味がないのかと思っていました。私紀夫に謝らなくちゃ。」
2人は厨房を見た。
一方厨房では、神田がりんごのトルテを作ろうとしていた。さっきケーキ屋で手に入れたアーモンドプードル(粉末)とシナモンを効かせた生地を作って冷蔵庫で冷やした。
修造は「トルテの台ができたらひとつくださいよ。」と言って冷凍庫の赤スグリを出してきた。
「これでおれもリンツァートルテを作りますよ。」
神田は懐かしそうに「リンツァートルテもよく作りました。トルテに赤スグリのジャムを作って塗るんです。」
「そうですね。」
紀夫はそんな2人を見ながら、なんて楽しそうに作るんだ。自分はこんな気持ちで何かをつくった事があるだろうかと自問した。
「自分にも何か手伝わせて下さい。」
「大丈夫ですか?じゃあグロゼイユ(赤スグリ)でジャムを、それとりんごでコンポートを作って下さい。ゆっくりで良いですよ。疲れたらいけないですからね。」
修造は配合を紙に書いて紀夫が見やすいところに貼った。紀夫が困らないように時々説明して、自分も神田とトルテ作りをしていた。
「できたらすぐ冷まして下さい。」
紀夫は言われた通りにジャムとコンポートをバットに広げて冷蔵庫で冷やした。
修造は形に敷いたトルテの生地を紀夫に渡した。
「今度は冷めたものを各々のトルテに広げて。」
「はい。」
「この生地を格子状に置いていって下さい。」修造は細長くカットした生地を渡そうとした。
「手が、、」紀夫の意思に反して手が小刻みに震えている。
神田もそれに気がついた。
「病気なんですか?」
「ええ、まぁ。」
「大変じゃないですか、、」
「俺がやりますよ。」修造は生地をトルテの上に貼り、周囲にも生地を張り付けてアーモンド散らばせてトルテをオーブンに入れた。
焼けるのを待つ間、修造と一緒に片付けをしながら神田が聞いてきた。
「手が震え出したのはいつからですか?」
「半年ぐらい前から徐々になんです。」
「何故奥さんに言わないんですか?」と修造が聞いた。
「自分は今、あまり妻との関係が良くないんです。失うのが早まるだけかなと考えていました。でもちゃんと話をしなかったから悪化してしまったんだなと今日悟りました。妻との関係もペンションの経営も。」
「修造さんの言ってくれた言葉が全て刺さりました。心配してくれてありがとう。」
修造は黙ったまま焼けたトルテをオーブンから出した。
あたりはトルテの良い香りが立ち込めた。
修造達は出来上がったトルテをカットして美和子の所に運んできた。
「奥さん食べてみて下さい。」
2つともフルーツの甘酸っぱさとアーモンドクリームの優しい甘さが口に広がり癒される。
「どちらも美味しいです。」
「これをこのペンションの名物にしたらいい。夏の赤スグリの季節、そして冬のりんごの季節と分けるんです。」
紀夫はびっくりした。
「自分がつくるんですか?」
「いや、作るのは神田さんです。」
えっ!とみんな驚いて修造と神田を代わるがわる見た。
「神田さん、あなたここで調理をしないですか?このペンショングロゼイユの脆弱な部分を補ってあげて下さい。」
神田はしばらく考えた、懐かしいこの場所で、亡くなった妻との思い出の場所でもう一度。。
修造は紀夫と美和子にも「どうですか?」と聞いた。
「あなた、病気なのに何故隠したりしたの?私に1番に言わなくちゃいけない事なのに。」
「すぐ直ると思っていたんだよ。」
「それに美和子が頑張ってるのを見て、申し訳なくてどうしても言い出せなかったんだよ。」紀夫は美和子を見つめて言った。
そして修造に言った。
「うちとしても勿論神田さんに来て欲しいけど、うちは今そんなに人を雇う収益が無いんですよ。」
「そうじゃないんだよ。俺は金の事を言うのは好きじゃないが、神田さんが入る事で余裕ができる、夫婦2人でのもてなしに人が集まって来る、忙しくなる、それでお給料が払える。そう言う事だろう。」
美和子は「本当にそうだわ。私も紀夫も大切な事を見失っていました。ギスギスしておもてなしの心を見失っていました。神田さん、我々と一緒にペンショングロゼイユで働いて頂けますか?」
神田は建物の中を見回した。
「妻を思い出して辛かった時期もありましたが、懐かしい思い出の方が多い。またここで働きますよ。」と言った。
修造は朝作ったフルーツソースのあまりを冷蔵庫から出して持ってきた。
「それともう一つ、これも赤スグリで作ったローテグリュッツェというフルーツソースなんですが、甘酸っぱくてアイスにもヨーグルトにも合いますから夏になったらこれも出せば良いですよ。」と配合を書いて渡した。
そして
「神田さん、2人はこれから頑張って行くでしょう。前のオーナーだし、色々気になるでしょうがあまり口出ししないようにね。」とこっそり言った。
「わかりました。」神田が笑って言った。
「約束ですよ。」
以前のようでは無いけど、過去は戻ってこないけど、また新しく始めないといけないんだな。
俺はもう一度会いたい、全然諦めがつかないんだ。
修造はマガジンラックのある雑誌を広げてしばらく眺めてから閉じた。
「そろそろ行くか江川。」
「はい、荷物取ってきますね。」
美和子が「修造さん、色々お心遣いありがとうございました。今日の事は忘れません。神田さんも協力してくれる事になりましたし、これから紀夫と2人で治療にも力を入れていきます。」
修造は黙ってうなずいた。
そして外に出てスマホを開いた修造は「うっ!」と呻いた。
麻弥から100件ぐらいLINEが来ている。
どこにいるの?修造
早く帰ってきて修造
寂しい修造
愛してる修造
「うわ、凄いですね麻弥さん。」
「江川、俺はもう麻弥に逆らわないようにしたんだよ。全てを受け入れてやりたいようにさせてやるんだ。はいはいはいってな。」
「佐山も怖いし。。麻弥は俺が隠れても地の果てまで追いかけて来そうだし。」
「ツッカベッカライマヤって凄い店ですね~。」
江川は修造を見つめた。
全てを受け入れる事にしたんだ。懐が深いな修造さん。
愛にも色々ありますからね。
「逃げたら困りますよ。世界大会もあるんですから。」
「わかったよ、さあ、行こうか江川。」
「はい、交代で運転ですよ。」
「まだ少し時間があるから民芸館を見て帰ろう。」
車で立ち去る2人を見送りながら美和子は考えていた。あの修造って人、どこかで見た事ある、、
と考えて思い出した。
あ!
さっき修造さんが見ていたパン好きの聖地2に載ってるあの人だわ。
全然雰囲気が違うから分からなかった。
過去は戻らず思い出が時に人を苦しめる。だけど明日はやってきてまた新しく始まる事ばかり。
ペンショングロゼイユの中では3人が夕食の献立を考える話し合いを始めた。
おわり