パン職人の修造 第5部 puppet and stalker
修造はある時大量に材料を買い込み、パンを焼き、全て袋に入れて近所のおばさん達に配った。
「あの、、、しばらく留守にするのでお墓を交代で見て欲しいんですけど」
おばさん達は動けるようになった修造を見てほっとした。「わかってるよ。気をつけて行っておいで」
鞄の中に律子の位牌と道着を入れ、修造は出かけた。
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久しぶりのLeben und Brotは花が咲き乱れ、お客さんがテラスに座りパンを楽しんで食べていた。
店内も賑わっている。
修造はハッとした。律子とそっくりになってきた緑が工場から焼き立てのパンをカゴに盛って運んでいる。
以前は忙しいながらも生き生きと楽しかった。今の自分はまるで燃えかすの様だ。
テラスにいたパン好きのお客さんが修造に気がついた。「あの、、修造シェフですよね?私とっても憧れてました。Grüne Erdeは今日はお休みですか?」
修造は言葉に詰まった。何一つ決められなくなっていたからだ。
「この何ヶ月かは休んでるんです」とだけ答えた。
思ったより自分は不甲斐無くなっている。
そう思って店に入るのをやめ、通りに振り向いた時
「修造」
と、またあの声が聞こえた。
「私に会いに来てくれたの?」
「いや、あのぅ、、」
ラメ入りの茶色いスーツを着た麻弥に手を引かれてドイツ菓子の店「コンディトライ マヤ」に連れていかれる。
木と漆喰のドイツ風の建物で外観も可愛らしい。オレンジ色の壁で、出窓には赤いゼラニウムが咲いていた。
高級そうなショーケースと小さなカフェ部分がある店の中で麻弥にコーヒーとフルヒテシュニッテンをご馳走になりながら懐かしさが込み上げてきた。
「ノアやエーベルトおじさんは元気なのかなあ」家族を連れて会いに行くと言った約束は果たせなかった。
「ノアは元気よ。こないだ会いに行ったの」
今や麻弥はやり手の女社長だった。百貨店での店も何箇所か展開していて、通販も季節によってはとても忙しいらしい。
2人はしばらくドイツの話をした。ドイツのお菓子はその時の記憶を蘇らせて、何故だかいくらでも話をしてしまった。と言っても話をするのは殆ど麻弥だったが。
「ねぇ修造、あなたLeben und Brotで働いてよ。休みの時なんかに私がお菓子を教えてあげる」
実際、事態は麻弥の思惑通りになっていく。
麻弥は江川に連絡した。迎えに来た江川は修造をLeben und Brotに引っ張って行った。
そして「僕、今度緑ちゃんと一緒に選考会に出ようと思ってるんです」と意気揚々と声高らかに宣言した。
「その先は世界大会です!」
「だから修造さんは僕たちのコーチをしなきゃならないんです!」
「ねっ!」
その時驚く元気のなかった修造は聞いた「緑、若手コンクールに出るつもりなの?」
「そうよお父さん。私、お父さんの出た大会に私も出たいの。だからお願い。私達のコーチになって!」
しばらく緑のところに厄介になる事になった。
「自分には思い出が多すぎるんだ」
布団の中で独り言を言った。
様々な出来事が後悔となって巨大な待ち針の様に修造の心を刺した。
隣に眠っているパン職人の緑。
大きくなったな、あんなに小さかったのに。
これから技術を身につけさせて、大会に出ても江川の足を引っ張らせない様に自分もシャンとしなくては。
修造は緑に毎日丁寧な生地作りについて教えた。技巧ばかりではなく栄養や味覚に拘った。
寝る前に、遠く離れてしまった大地に毎晩メールをしたが、流石は修造の子だ、あまり返事はしてこない。
時々「わかった」とか「うん」とか返ってくるだけで様子は全くわからなかった。
「高校入試はこちらで受けるかい?お父さんが部屋を借りておくよ」
すると何日か経ってからやっと「うん」と返事が返ってきた。
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修造はLeave und Brot のエグゼクティブコーチとして就任することになった。エグゼクティブなどと言うと大そうだが大会の為のコーチの役と、江川を練習に専念させる為に自分が江川の代わりの仕事をするという感じだった。
そして麻弥もまた契約書を用意していた。「休日は私の所でお菓子を作って欲しいの」
どうせこの辺にしばらく住むんだ、あまり一人の時間を持たず仕事をしていた方が気が紛れる。と思い世界大会が終わるまでの約束でサインした。
麻弥はすぐさま修造の動きやすい様に場所を作り、自分が不在の時は大切にする様に皆に伝えた。
マネージャーの佐山は「こんなボサボサのしょぼくれたオッサンを何故ボスは大切にするんだろう?」と思っていたが、修造の仕事を見て考えがすぐに変わった。
伝統の製法に基づき美しいパンやお菓子を次々に作っていく修造。
佐山は「マイスター」と修造の背中を見て呟いた。
修造の作るブレッツェルは全ての見た目が同じで細いところはカリッと、太いところはもっちりとしていて、振りかけた岩塩もパラパラと落ちる塩の量まで計算されていた。まさにブレッツェルど真ん中の美しいものだった。麻弥はそれを見て感動して、修造の来る金曜日に準えて「金曜日のブレッツェル」として販売しだした。
修造、素敵だわ。修造が仕事してるところをもう一度こんなに近くで見られるなんて。こんな事が起こるなんて。
ドイツの修業から帰ってきてあなたをテレビで見た時は驚いたわ。
そして迷いに迷ってLeben und Brotの近くにお店を開いた。
その途端あなたは山の上のパン屋に去って行ってしまった。
私は何度かGrüne Erdeに行ったわ。あなたは私に全く気が付かなくて、新聞に載った修造の事で奥さんと楽しそうに話をしてたわね。
帰り道私は山の中腹で羨ましくて悔しくて涙が溢れて運転できなくなったわ。
その時期に小井沼伸治が出したパン好きの聖地Ⅱも見たわ。
あなたの充実した姿が映っていた。
それから何年かして、あなたが1人で山で暮らしてると聞いて、いてもたってもいられなくてGrüne Erdeに行ってしまったの。
絶対修造を手に入れたいの、この手でしっかりと捕まえたい。
修造はそんな麻弥の気持ちを全く知らないままここまで過ごしてきた。
麻弥が仕事終わりに白いアスパラガスを料理して出した。「シュパーゲルよ。旬の季節には食べたわね。懐かしいわ」
修造は麻弥に大地の為に部屋を借りる事を話すと「え? 私と住むんじゃないのね?」とピッタリ横に座り笑って言ってきた。
麻弥はよく修造を誘惑しようとしたが、冗談めいたふざけた言い方がほとんどだった。
修造は、麻弥は元同僚だし良い奴だが『こう言うところ』が苦手だと思っていた。本心かどうかわからないし、からかってる様にも見えるのでいつも気が付かないフリをしていた。
修造は女の人にモテた。独り身になった修造を明らかに狙ってるファンもいたが、失礼ながら全く心が動かない。
いつもさりげなくその場から立ち去る様にしていた。
修造はあの日冷たくなった律子を抱いて一晩を過ごしてるうちに、心から愛とか恋とか以外にも、人として抜け落ちたものが多くあった。
笑顔はなく無口で仕事に厳しい修造を職人たちは恐れた。
江川はLeben und Brotの裏の空き地に練習に専念する為の施設を設けた。新しくできた研修室には、大会を意識した最新の設備が整えられていた。自分が大会に出た時の機械の配置を思い出して業者に頼んだのだ。
修造はそこで2人に指導したり、新入社員に講習会を開いた。
江川は「今の修造さんは責任感だけで構築されてる気がするな。それもこれも緑ちゃんの為か」と思っていた。
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製パンの作業中、修造は緑を見つめる青年に気がついた。
西畑という入社1年目の若者だ。
「おい西畑、ちょっと研修室に来い」
「はいっ」
修造は西畑にヘルンヒェンの作り方を何度か教えた「1000個作ってそのうちダメな10個を俺のところに持って来い」
経験の浅い西畑は震え上がったが、毎日修造に10個持って行っては「なんだこれは?」と言われて何度も作り直した。緑はそのうちの成功したパンをお店で販売した。
何度かして「もういい、次はブレッツェルにするから」
そう言われてブレッツェルについて色々教わり、また1000個作ってそのうちのダメな10個を修造に見せた。
修造は「この研修費用は全部お前の給料じゃなくて店からなんだから、ゆめゆめ無駄にするなよ」と厳しく言った「できるまで作ってこい」
西畑は言われた通りに毎日特訓をして、できるようになるとまた次のパンが待っていた。半年もすると習得したパンの数が格段に増えた。
緑に「腕が上がったわね」と言われ西畑は顔が赤くなるのが自分でも分かった。
修造が10個と言ったのは特別な意味はない、西畑の技術を身につけさせる為にギリギリの限界に挑戦させたのだ。
緑は「お父さんのやり方は今時は古いのよ。修行とか特訓なんて、西畑さんだから良かった様なものの。。やりすぎると訴えられるわよ。呼び捨てじゃなくて〇〇さん、よ!」と言ったが修造は聞き入れなかった。
ついて来れなければそれまでだろう。
西畑にロッゲンブロートの作り方を見せてやりながら、この仕事は辛いか聞いてみた。
「僕、初め全然わからなかった事ばかりでしたが、毎日修造さんにパン作りを教えて貰えるなんて光栄です。僕もいつかパン屋をやりたいし、修造さんは僕の目標です」
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修造は講習会やセミナーなどに西畑をつきあわせ、色んなところに連れて行く様になった。
そして緑を見つめる西畑を、昔々工場から律子を見つめていた自分と重ね合わせていた。
ある時、修造は可愛らしい飾りパンを西畑に教えた。
ピンクの薔薇の花と緑のリーフを施してGrün(緑)と文字が入っている。
なかなかいい出来だ。
「緑にプレゼントしてこいよ。俺が手伝ったって言うなよ」
「あの、緑さん。」
「これを修造さんから教わりました。内緒にする様に言われましたが、何故こんな事になったかって言うと。。」
「?」
「僕の気持ちを修造さんがご存知だったんです。僕が緑さんを好きだって事を」
「えっ、、西畑さん」
「僕と付き合って貰えませんか?」
「修造さんは子供の頃から僕の憧れの人だったんです。家にあった『パン好きの聖地』って本を穴が開くほど読みました。あの女の子が緑さんだったんだなって、、僕ここに就職して、緑さんに出会えて本当に良かったです」
「ありがとう西畑さん」
「私、お父さんとお母さんが本当に仲良かったのを見て育ったの、だから私もあのぐらいお互いに大切にできる人と付き合いたいの」
「修造さんと亡くなったお母さんの様になれるかどうかはわからないけど、僕は僕で緑さんを大切にします」
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麻弥の店のマネージャー佐山は嫌味っぽく修造に言った。
「修造さん、あなたはご存知ないかもですが、ボスはずいぶん熱心にあなたの事を追いかけてる気がします。それにどんどん綺麗になっていってる。あなたが来るまでのボスはクールな方だったのにここ最近は金曜日には必ずいて、ドイツ系の食材を取り寄せては料理したりしてますよね、それって何故かわかります?」
「何故って、、」
なんと言えばいいのだろう、気も付かなかった。自分はずいぶん麻弥に甘えていた。
契約期間が過ぎれば山に帰ろう。
そしてその後は、、
心の弱った修造には先の予想など到底考えられない事だった。
「麻弥にはすまない事をしてる」
「そうでしょう、そう思うんならそろそろちゃんとしてあげたらどうです」
佐山の言った言葉の意味はぼんやりと耳に入って来る他人事の様で修造には届いていなかった。
いつもの様に職人に技術指導をしていた時。「修造さ〜ん」江川が泣き言を言ってきた。「選考会の飾りパンがなんかイマイチ決め手にかけるんですよ〜」
選考会と大会に出す飾りパンは違う。もし大会に進めなかったら、本戦に用意してたアイデアとテクニックを出せば良かったと後悔するだろう。ジレンマのある事にならない為にも真剣に考える様に言った。
日本らしいテーマの物を2人で考えた。全く今までにない最も素晴らしいものを作るのは至難の業だったが、抜け道を見つけて王道に変化させて圧倒的な技術で勝たなければならない。
数年前に世界大会で協力してくれた江川の為にも以前の自分よりも更に上を目指さなくてはと、修造は無理やり決意を新たにしようとした。
緑にはヴィエノワズリーやタルティーヌについて考える様に言い、過去の写真や資料を徹底的に調べさせて今まで無いものを作る様に指導した。「テクニックを磨くのと同時に食べる人の健康や食感や味、何か自分が心動かされる事について研究するんだよ」
江川と緑は1次予選を突破し、パン職人選抜選考会まであと4か月になった。
西畑は遅くまで緑の練習に付き合っていた。
緑に必要なものを揃えたり片付けを手伝いながら寄り添い続けた。
「緑さんのパンは繊細ですよ、とてもフォルムが美しいです。江川さんとも修造さんとも違う個性があります」
「ありがとう、まだ失敗する所があるからそこを直さなきゃね」
「お父さんは世界大会で優勝したからプレッシャーがあって、みんなより練習しないとね。でも時々怖くなるの、コンテストで負けたらどうしようって」
「はい」西畑は優しいまなざしで緑の言葉を聞いていた。
「お母さんが亡くなってお父さんは心労でやせ細ってしまった。私は江川さんにお父さんを元気づける為に世界大会に出ようって誘われた時、本当にそれってお父さんが前の様にやる気出す事なのかもって考えて、身の程も知らずに出ることにしたの」
「大丈夫です!」
「僕がずっと緑さんを支えて行きます。だから一緒に頑張りましょう!」緑を抱きしめた。
「大会が終わったら僕と結婚して下さい」緑は影日向無く大切にしてくれる西畑に暖かい愛情を抱いていた。
「優勝したら」
「いえ、しなくても。。こんなこと言ったらお父さんに叱られちゃいますね」
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「お義兄さん久しぶりね」
律子の妹の園子(そのこ)が訪ねてきた。
「実はお姉ちゃんのお墓をうちの実家のお墓に移そうと思ってるの。お父さんもお母さんも年を取って遠出ができなくなって来たし、近くの方が寂しくないでしょう? 山の上は遠くて中々来れないから」
そう言われて黙って聞いていたがしばらくたって「わかった」と返事した。
2人で山の上のパン屋に行き、自然にさらされて段々雑草に覆われてきた建物を修造がぼんやり見ている。
その子はそれを見て、以前のお兄さんとは全然違うわ生気ってものが無くなってる、と驚いていた。
墓は近所のおばさん達が綺麗にしてくれていた。「修造、まだまだ痩せたままじゃないか。心配してたんだよ」おばさん達は皆修造に声をかけに来た。
「みんな良い人ばかりね」
「俺1人だと多分誰とも話さなかったよ。俺は変わり者だからね。律子がいたから上手くやってこれた」
「義兄さん、本当にお姉ちゃんを大切にしてくれてたのね。お姉ちゃんも幸せだったと思うよ」
律子が幸せだったという言葉を心の中で否定した。自分のせいで律子は亡くなったと言う気持ちが押し寄せる波の様に何度も何度も心に被さる。
山の上のお墓から業者が律子の遺骨を運んだ。
長野の墓に納骨を済ませ、修造は魂をお墓に入れるお経をぼんやり聞いていた。
「これで通える様になったわね」と修造の方を見たが以前とは全く違う兄の姿になんと言ったらいいのか言葉に困る。
「お義兄さん、少しは元気出してよ。 お姉ちゃんが亡くなって凄く気落ちしてたから気の毒だった。本当に痩せてしまったわ」
「俺は本当にダメな奴なんだよ」
「だけど色々な事があって段々心の隙間が少し埋まってきた気がするよ。緑が世界大会に出るんだ、今はそれに掛かりきりにしてる」
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そんな時
山の上のパン屋の跡を引き継ぎたいという若夫婦が連絡してきた。
修造は山に戻って2人と対面する。
「初めまして修造さん、麹谷正人(こうじだにまさと)と言います。僕たち夫婦は農家をしていて、家でパンも焼き始めたんです。それで山の上のパン屋が閉めてると聞いて是非ここで焼かせて貰えないかとご連絡したんです」
「ここで」
修造はボロ雑巾をきつく絞る様にギリギリと胸が締め付けられ座り込んだ。
律子や子供達との思い出だらけの家だが、若い人達がまた新しく地域に根付くのは良い事だ。
暗い気持ちの中、そんな前向きな気持ちが無いわけでも無かった。
「本気なんですか?ここでパン屋を?」
「はい、貸して頂けると助かります」
朽ち果てていく家屋を見て、意気揚々と未来を見つめる若者を見た。
「いいだろう」
修造はこの若夫婦に家を貸すことにした。
家の隅々まで説明して、屋根の雨漏りを直し、機械や窯のメンテナンスをした。
何日間か麹谷につきっきりで窯の使い方を説明した。
言い出すとキリが無いような気がするが、仕入れの連絡先や薪の保管方法、裏庭の栗の木の事など伝え、わからない事があればすぐに答える約束をした。
その後、空手の師範に会いに行き、律子が亡くなった時お世話になったと挨拶した。
「まあ飲めよ」師範の家でお酒を飲みながら話をした。
思えばこうやって師範と杯を交わしたのは初めての事だった。
「師範の事は父親代わりに思って慕っていました。空手が無ければ今の自分はありません」
「修造、今まで世話になった人達の分を若いものに返してやればいいよ。今のお前をみて満足しているよ。辛い事があったらがっくりきたっていい。お前はきっと乗り越えていくよ」
家の引き渡しの時がきた。
荷物を全て送り家の鍵を渡した。
修造は山の上からの景色を見ながら「律子、緑も大地もしっかりしてきたよ。俺も子供たちの為に頑張るよ」と声をかけた。
その声は誰にも聞こえず山の風がさらっていった。
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パン職人選抜選考会は巨大な建物の中で行われるパンとお菓子の展示会の建物の奥で開催される。
「江川頑張れよ!」
「はい! 今まで教えてきて貰った事を全て活かします」
ブースの中でパン作りに専念する江川を見守るしかなかった。落ち着いて、冷静に、素早く動け!
会場で大木シェフと会う。
「なんかさ、色々大変だったんだって? 過去のことってさ、どうにもならない事が沢山あるからね。先を見て歩くしかないよ」沢山の職人を束ねているシェフの言葉は説得力があった。
修造は世話になった大木に深々と頭を下げた。
若手シェフのコンテストでは緑はテンポ良く、タイムテーブルを見ながらミスなく進めていった。若鳥が巣立つ瞬間の飾りパンは一際映えていた。
江川も緑も無事選考会を勝ち進む事ができた。
程なくして世界大会のテーマは「祭」だと知らせが届いた。
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ある寒い金曜日
外は暗く雪が降っていた。
世話になっている麻弥の店の為にヘクセンハウスを組立てアイシングを施して店先に飾った。中にライトが仕込んであってスイッチを押すと聖堂の窓が光る。
「綺麗ね。ヘフリンガーの近くにあった大聖堂だわ」
電気を消して店を閉めた麻弥は修造の横に座りドイツの大聖堂をモチーフにしたヘクセンハウスの明かりを見てしみじみと言った。
「ドイツで修業してた頃はお金が無くてジャガイモのスープばかり食べてたわ。パンの端や失敗したパンを持って帰ってスープに漬けて食べてたの。若さと夢があった」
「そうだね、俺もそうだったな」
「同じ店で働く真剣で熱い修造をずっと気にしていたわ」
麻弥はいつもの軽い調子とは違う真面目な口調で言った。
「ねぇ、私達いつか結婚するんでしょう?」
「麻弥、それって本気で言ってるの?」
「ええそうよ、私が先に修造と会いたかった。私が先に修造を見つければ良かったのよ」
麻弥は修造の手を強く握りながら言った。
「麻弥」
亡くなった妻を不幸にしていたとしか思っていなかった修造は、また麻弥に二の舞を踏ますのはいけない事だと言った。
「すまない麻弥」
すると麻弥は立ち上がって
「そんな事で修造を諦めたりしないわ。私はこれからも修造とパンやお菓子を作って楽しく暮らすの! 修造は私から逃れられないわよ!」麻弥は修造の手首を手錠の様にきつく握った。
聞くと執念深いストーカーの様な怖い発言だが、そうでは無く、麻弥はただただ長きに渡って修造を愛していただけだった。
「麻弥、君って人は、、」
修造は麻弥の尽きない愛に根負けした。
こんな腑抜けの様な自分の事を長きに渡って思い続けてくれた麻弥に義務感の様な気持ちが芽生えてきた。
「あなたは私のものにならなくちゃダメ!」
麻弥は圧倒的な力で、心の弱った修造を支配した。
黙ったまま首を「うん」と動かした。
おわり
あとがき
江川は自分が世界大会にアシスタントとして出た年齢と同じ緑とまた世界を目指そうとします。そして修造に再び熱く燃えさせようとも。修造リスペクトの江川の思惑は上手く行くのでしょうか?
修造が麻弥のお菓子の店で食べたフルヒテシュニッテンはフルーツのお菓子で、シュニッテンは切り菓子の事です。味覚はその当時の事を鮮明に甦らせ、ドイツに居た時の事を懐かしく思ったのでしょう。
そして麻弥はドイツで修造を大好きだった愛の炎が燃えさかります。ずっと堂々と生きてきて、はっきりとした性格の様に見える麻弥。
絶対手に入らない修造の心を芝居じみた態度で振り向かせ様としますが、果たしてその愛はいつか報われるのでしょうか。